第5話 決心 

 光陵テニス部では、中等部、高等部にかかわらず、バリュエーションの翌日は部内ミーティングが慣例となっている。
 通常は、コーチ、部長、副部長の首脳陣が先に集まり、大会出場選手や今後の方針等を決めてから、その内容を全体ミーティングで部員達に通達する。無論、そこで部員の側から首脳陣の下した決定に対して異を唱えることも、質疑を行なうことも可能であり、とりわけ練習メニューに関しては全員で意見を出しながら固めていくことの方が多かった。
 要するに、首脳陣による事前ミーティングは、全体ミーティングを円滑に進めるための打ち合わせ的な意味合いが強く、それ故、参加者も直接部の運営に携わる三者か、多い時でも顧問の恩田と参謀役の滝澤を含めた五者に限定されている。
 ところが、今回はその事前ミーティングに三年生全員が出席するよう緊急招集がかけられた。これは副部長・唐沢のたっての希望であった。

 「海斗? 言いたい事は分かるが、現実的に考えて無理だろ、それ?」
 あまりに突飛な提案に、藤原が即座に異を唱え、こうした論争必至の場面では、大抵、仲裁役に回るはずの滝澤も露骨に顔をしかめた。
 「確かに坊やの実力は認めるけど、僕も承諾しかねるわ。個人にかかる負担が大きいし、最悪の場合、潰れるわよ、彼」
 ある程度予想はしていたが、三年生の意見は唐沢の提案を真っ向から否定するものばかりであった。
 「成田、お前はどう思う?」
 案の定、唐沢が意見を求めてきた。
 「じきに退部する人間がここで意見すべきではないと思うが?」
 「お前が俺達の立場なら、どうするか。それを聞きたい。
 従来通りのやり方で、中途半端なところで敗退するか。あるいは、危険を冒してでも、上を目指すのか。
 成田、お前ならどっちを選ぶ?」
 唐沢とは中等部の頃からインターハイを目指して共に苦難の道を歩んできた。彼の意図するところは手に取るように分かる。
 それを承知の上で、成田はあえて質問を質問で返した。
 「その前に、一つ確認したい。滝澤の言う通り、お前のやり方では真嶋への負担が大きい。
 あいつはまだ一年だ。俺達と違って、来年も、再来年も、インターハイを狙えるチャンスがある。
 団体戦とは言え、真嶋一人に代償を払わせるのは俺達の本意じゃないし、お前もそうだろう。万が一に備えて、何か善後策は考えているのか?」
 「真嶋は……あいつは潰れない」
 「何故、そう言い切れる?」
 「俺の勘だ」
 会議室全体が異様な空気に包まれた。膨大な量の情報をもとに緻密な戦略を練り上げる軍師が断じて口にするはずのない「勘」を根拠に挙げられ、皆は困惑を隠しきれない様子である。
 だが、成田は他とは違う見方をしていた。勘ほど当てにならないものはない、と自ら戒めのごとく公言し、誰よりも不確定要素を毛嫌いする男が堂々と「勘だ」と言い切るからには、それなりの理由があるに違いない。

 前々から成田は、唐沢と真嶋には不思議な共通点を感じていた。
 それぞれ持って生まれた性格や能力、考え方から行動まで、著しく異なる二人だが、彼等の中には“密かに息づくもの”が垣間見える。
 人によっては、それを「才能」と呼ぶかもしれないが、正直なところ、成田にも漠然としか分からない。その正体が何なのか。
 ただ一つ言えることは、それは表立って見えずとも、彼等の体内で息づいている。水も光も空気も届かぬところで、静かに呼吸をしている。
 唐沢の場合はその“密かに息づくもの”を自らの意思で封印しており、真嶋の場合は、まだ本人に自覚がないようだ。
 しかし、それは封じられているにせよ、見過ごされているにせよ、彼等の中で着実に育まれており、何かを切っ掛けに環境が一転したら、水も光も空気も存分に吸収できる豊かな土壌に解き放たれたら、とんでもないものに化けそうな予感がする。
 昨日の試合で、成田はその予感が近い将来、現実になると確信した。真嶋の中に“密かに息づくもの”の片鱗を見たからだ。彼がアングルボレーを放った、あの瞬間に。
 あれは確かに片鱗だった。未熟な自分では全貌が見て取れないほど大きな何かの片鱗だ。
 唐沢もそれを察知したに違いない。己が内に秘めたるものと同じものを、彼の中に見たはずだ。だからこそ、この無謀な計画を、勘を頼りに進める気になったのだ。
 周りが静かになるのを待ってから、成田は先の問いに答えた。
 「真嶋を絶対に潰さないと約束するなら、俺は海斗の意見を支持する」

 ここで、コーチの日高が珍しく口を開いた。
 毎回、部の方針を決める会議では、彼は当事者である部員達に一任し、自身はサポート役に徹している。仮に、そこで消極的な結論が出たとしても、彼は部員達が打ち出した方針を尊重し、その間、手ぬるい指導で済ます。
 やる気のない部員の尻を叩いてまで強引な指導はしない。その点は、外部コーチとして思うところがあるのだろう。他の部の熱血教師が行なうそれとは一線を引いている。
 そんな日高の稀有な発言に、皆の視線が集まった。
 「お前達、こんな言葉を知っているか?
 ハイリスク、ハイリターン。大きな危険を冒すほど、見返りも大きくなる。裏を返せば、リスクなしで得られる成果はない」
 それは暗に唐沢の援護の為に発せられたようだが、この手の言い回しを物事の機微に疎い藤原が正確に理解した試しはない。
 「ですが、コーチ? わざわざ危険を冒さなくても、今のままでも勝てますよ?
 ダブルスに伊東兄弟、シングルスに俺と海斗と、あと一人。真嶋かハルキを補欠に入れれば、充分じゃないですか?」
 「シンゴ? 勝てるというのは、どこまでの話だ?」
 「それは……」
 「お前達の今年の目標はなんだ? インターハイ初戦敗退か?」
 「だから『ハイリスク、ハイリターン』ですか?」
 「そうだ。だから唐沢はあえてリスクの高い選択肢を提示している。
 問題は、そのリスクを抱える覚悟がお前等にあるのか。そこまでして行く価値があるのか。
 無理強いはしない。あとは自分達で決めろ」
 中高通して、日高が自身の意見を部員に押し付けたことはない。この生徒の自主性を重んじる校風そのままのスタイルに慣れている面々だが、さすがに今回は思案に余るのか。互いが互いを見合わせたまま時間が過ぎていった。
 成田は誰とも目が合わぬよう腕組みと共に俯いて、長い時間をやり過ごした。
 心残りがあるからと言って、最後まで率いることの出来ないテニス部に無茶はさせられない。もしも彼等が手堅い方法を取るというのなら、受け入れる覚悟もある。
 親友の願いを叶えるために、皆に働きかけてくれている唐沢には申し訳ないが、いや、だからこそ。ここで潰えてくれれば、これ以上、彼が傷つくことはない。
 皆の心情を察して、成田も気持ちが萎えかけた時だった。
 「海斗、お前の勘ってヤツ、信用できんのか?」
 先程まで頑なに反対意見を出していた藤原が、まず切り出した。
 「現段階では、信じてくれとしか言いようがない」
 「本気なんだな?」
 「ああ」
 「よし、決めた! 俺はお前の勘に賭けてみる。
 どうせ確実な道なんてねえんだろ? だったら、ハイリスクってヤツの方が俺達らしいっつうか、面白そうだ」
 彼の笑顔につられるようにして、他の三年生も次々と賛意を示した。
 それを確認してから、改めて日高が唐沢の方へ向き直った。
 「成田の抜けたチームを引っ張っていくには、相応のリーダーが必要だと思うが?」
 「ええ、分かっています。陣頭指揮は俺が執ります」
 「しんどい役目だぞ?」
 「汚れ役は慣れていますから」
 「ふん、分かった。尻拭いはしてやる。但し、あいつ等の尻を叩くほうは任せたぞ?」
 「ありがとうございます」

 全体ミーティングの開始直前、下級生達が入室してくる騒ぎに紛れて、成田は隣に座る唐沢に短く礼を述べた。
 「海斗、ありがとう」
 「何が?」
 「うん……いろいろ……」
 中学一年生で初めてダブルスを組んだ相手が唐沢だった。以来、二人の間では、どんな些細な問題でも曖昧にしない、というルールがある。
 たとえそれが相手に対する苦言であっても、一つ一つクリアにすることで「最強コンビ」と称されるほどの強い絆を培ってきた。
 ところが今だけは、適切な言葉が見つからない。
 本当に色々な事に ―― プロへの道を選んだ自分の代わりに部長を引き受け、無謀と知りながら、戦力の落ちたテニス部をインターハイまで引っ張っていこうとしている。これら全ての行動に対して、成田は感謝の気持ちを込めたつもりだが、伝えた後から「ありがとう」の一言で済ませてはいけない気がした。
 「ごめん、海斗。上手く言えない。もっと、ちゃんと……。いや、謝罪の方が相応しいな」
 「いいや、どっちも必要ないさ。強いて言えば『ありがとう』のほうが嬉しいけど。
 でも、その言葉は俺がお前に優勝の報告をする時まで取っておいてくれないか?」
 「分かった」
 短い会話だが、充分だった。どれだけ深く感謝しているかも、その気持ちをどう受け止めているかも、少ないやり取りを通して分かり合える。
 そしてもう一つ。まだ誰も気付いていないが、成田には分かっていた。この友達思いの心優しき親友が本気を出した時、勝利の為には手段を選ばぬ非情な将と化すことを。

 会議室に入るなり、透は張りつくような視線を感じた。それも複数の先輩達から、じっと見られている気がする。入部したての頃の好奇の目ではなく、気の毒な人間を哀れむような、そんな湿った視線である。
 しかし、その視線の意味を問いただす前に、壇上に上がった成田から思いも寄らない告知がなされた。
 「今日、この会議の終了をもって、俺はテニス部を退部する」
 部員達の驚きと動揺が、小波のごとくざわざわと音を立てて広がった。もちろん、透にも予想外の展開だ。
 養成所への返事を済ませてから渡米までの間、当然、成田は部活動を続けるものと思っていた。責任感の強い彼のことだから、地区予選に出場せずとも、ぎりぎりまでテニス部に残って部員達を見守ってくれると信じていた。それなのに早々に退部するとは、何か考えがあっての事なのか。
 皆を代表して、千葉が手を挙げた。
 「部長が出発するのは六月ですよね? まだ二ヶ月もあるのに、どうしてですか? 理由を聞かせてください」
 「その質問には、俺が答える」
 成田の代わりに、唐沢が席を立った。
 「途中で戦線離脱すると分かっている者を、部に引き留めておくのは無意味だからだ」
 「無意味って、そんな……」
 千葉の顔から血の気が引くのを、少し離れた透の席からも見て取れた。
 昨日まで部長としてチームを引っ張り、テニス部のために誰よりも尽力してきた仲間を、身も蓋もない言い方でばっさり斬り捨てた。しかも、それを平然とやってのけた人物は、成田が心から信頼してきた副部長の唐沢だ。
 ざわついていた会議室が、凍りついたように静かになった。驚きよりも、恐怖から来る沈黙が部屋の中を占めていた。
 「今日から成田に代わって、俺が部長を引き継ぐ。誰が反対意見のある者はいるか?」
 この状況で反対意見と聞かれても、まともに口を開ける者などいなかった。壇上の唐沢も部員達の間を漂う異様な沈黙が賛意とは別物であることぐらい気付いているのだろうが、彼は構わず話を進めた。
 「意見がないなら、承認と受け取る。
 最初に断っておくが、俺達が今年目標とするのはインターハイ優勝だ。その為に必要な事をこれから発表するから、各自よく聞いておけ。
 まず、副部長は千葉健太。それから地区予選の団体戦出場メンバーは、ダブルスに俺と真嶋……」
 「俺ッスか!?」
 透と千葉が同時に声を上げた。だが千葉の方が席も壇上に近く、リアクションも椅子をひっくり返した上での棒立ちと目立っていた為に、唐沢の視線はそっちに流れた。
 「唐沢先輩……じゃなくて、部長? どうして、二年の俺が副部長なんですか?」
 千葉が透に向かって「悪りぃ」と片手で合図をしてから、自身の用件を押し進めた。
 今まで、部長、副部長は最高学年の三年生から選出されてきた。特に規定はなくとも、三学年のまとめ役、しかも個性の強いテニス部を統括するには、歳も経験も上の者が好ましい。それを唐沢は二年生の千葉に託そうとしているのだから、棒立ちになるのも無理はない。
 「他に該当者がいないから、お前になった。成田が抜けて、俺がダブルスに回ることによって、他の三年とレギュラー陣に大きな負担がかかる。残りの一、二年の中で一番暇なのがケンタ、お前だ」
 「暇って……俺は暇だから選ばれたんですか?」
 「副部長の適性は、暇な奴以外の何ものでもない。
 当分の間、伊東兄弟には次の予選の準備をしながら、俺と一緒に真嶋の教育係に専念してもらう。中西とハルキには、地区予選のシングルスを任せる。
 残りは、お前しかいないだろ? 分かったな?」
 昨日まで副部長を務めていた人間から、ここまでハッキリ断言されれば返す言葉はない。しばらく思案していた千葉だが、何か思い当たる節があったのか。急に納得したように「分かりました」と頷き、着席した。
 千葉の同意を得ると、唐沢はさっさと次の議題に移った。
 「シングルスの出場選手は、シンゴ、中西、ハルキの三名だ。だが残りのレギュラー陣も伊東兄弟同様、次の予選を想定して各自準備を進めておくように。
 インターハイで優勝を目指す限りは、今より練習もきつくなる。俺に『がんばりました』は通用しない。認めて欲しければ、結果を出せ。
 このやり方に付いていけないと思った奴は、今すぐ辞めて良い。計算外は却って迷惑だ。
 提案、意見は、すべて副部長を通せ。但し、愚痴や不満の類は一切受け付けない。発展性のない話を持ちかけて、俺の時間を無駄にするな。以上だ」
 今までで最速と思われる早口で一気に捲し立てた唐沢を、他の部員達は異質なものを見るような目で眺めていた。
 厳格な部長の補佐役を務め、人当たりの良いスマイルで部員との間を取り持ってくれた、あの温厚な副部長の姿はどこにもない。むしろ先代の部長よりも容赦がない。
 チームの要の成田が抜けて、ただでさえ不安定な状況下で、部員達の心の支えとなるべき唐沢は無慈悲な部長に豹変し、女房役の副部長は二年生の千葉が務めるという。しかも新部長が地区予選に向けて打ち出した方針は、自身がダブルスに転向するというもので、シングルスの層の厚さで成り立つテニス部はさらに戦力を削がれることになる。こんなやり方で、本当に予選を突破できるのか。
 全員が不安を抱えて沈黙する中、遅ればせながら透は我が身に降りかかった問題を解決しようと手を挙げた。
 「あの……俺の質問、良いッスか?」

 透にとっては、唐沢が豹変したことよりも、千葉が副部長に命じられたことよりも、自分がダブルスに指名されたことの方がよほど大きな問題だった。
 「なんで、俺が唐沢先輩……あ、唐沢部長とダブルスなんですか?」
 「俺では不満か?」
 「いえ、そうじゃなくて……俺、ダブルスはどうも苦手で……」
 「そんな事は分かっている。だから俺がお前とペアを組むと言っている」
 「パートナー云々の話ではなくてですね、どうして俺がダブルスに選出されたのか理解できません。他にも適任の先輩達がいるじゃないですか?」
 他の部員達も同じ疑問を持っているらしく、ほぼ全員が唐沢の答えを待っていた。
 「真嶋をダブルスに選んだ理由か? 簡単なことだ」
 それに続いて唐沢の口から飛び出した台詞は、再び全部員を凍りつかせた。
 「お前が使い物にならないからだ。
 今のままでは危なっかしくて、とてもじゃないが一人で試合に出せる状態じゃない。だから俺がお前のお守り役としてペアを組んで、一から教育し直すことにした」
 「ちょっと待ってください! 確かに俺は未熟かもしれませんが、シングルスに出せないってどういう事ですか!?」
 「言葉通りの意味だ」
 顔色一つ変えずに答える唐沢から、副部長の頃の温厚さはない。
 「昨日は成長したって、褒めてくれたじゃないですか?」
 今まで自身の中にそれほど高いプライドが存在するとは思わなかった。だが、次々と浴びせられる屈辱的な言葉に、透は声を荒らげずにはいられなかった。
 部内四位の遥希に勝利してレギュラー入りを果たしたというのに、それでも使い物にならず、お守り役が必要とは。昨日の勝利は何だったのか。シングルスの出場枠から外れたことよりも、目標とする先輩に認めてもらえないことの方が悔しかった。
 「俺、納得できません。分かるように説明してください!」
 「確かに昨日は『成長した』と言った。だが、『強くなった』と言った覚えはない。
 もう一度言うが、お前はこのままじゃ使い物にならない。その証拠に、今から俺と試合をして勝つ自信はあるか?」
 「いや、それは……」
 「では、シンゴなら勝てるか?」
 「いえ、それも……難しいかと……」
 「お前が昨日の試合で勝利したのは、対戦相手がハルキだからだ。相手の癖や性格を熟知して、そこから試合の流れをある程度予測できたから、先手を打てたに過ぎない。
 もっとハッキリ言えば、ハルキと同レベルで手の内を知らない相手なら、間違いなく負けている。何故なら、お前には対戦相手や試合の流れを見て戦術を組むという、最も基本的な意識も知識もないからだ。
 今までは度胸の良さと運だけで勝てたかもしれないが、行き当たりバッタリの偶然で勝ち抜けるほどインターハイは甘くない」
 容赦なく突かれる欠点はどれも正しく、それを聞きながら透は先ほど自分に向けられた湿った視線の訳を理解した。昨日まで成田の代わりと皆の期待を集めていたホープが、今朝にはお守り役が必要な問題児に転落したからだ。
 帰国前、父・龍之介から言われた言葉がふと脳裏をよぎる。
 「捨て身でかからねえと、足をすくわれる。本当に大事なものなど、まだお前は何一つ手にしちゃいない」
 父の忠告通り、透は今、己の未熟さを全部員の前で晒されている。昨日の試合で少なからずつけた自信は、新部長の手でこっぱ微塵に粉砕されたのだ。
 「ナンバー4を下せる力があっても、俺はまだ使い物にならないと?」
 「ああ、そうだ」
 「部長がダブルスに転向するのは、俺のせいですか?」
 「その通りだ。この三年間、お前なりに努力してきたんだろうが、他のレギュラーと比べて非常にバランスが悪い。だから、俺が本戦までにお前をシングルスで使えるよう育てなきゃならない。
 その間、残りのレギュラー陣には迷惑をかけるが、他に方法がない。
 このやり方に付いていく自信がないなら、今すぐ辞めろ。さっきも言ったが、計算外は迷惑だ。どうする、真嶋?」

 会議中にもかかわらず、成田は部屋の外に目を向けた。
 部長の責務から解放されて、他の部員達と同じ目線で見ているせいか。真嶋が不憫に思えてならなかった。
 窓の外にはとりたてて気分を和らげるものはなく、校舎の壁のみがそびえ立つ灰色だらけの景色であったが、二人のやり取りを傍観者として見続けるよりはマシだった。
 本音を隠して見事に悪役を演じる親友と、必死の努力を「使い物にならない」とけなされ、悔しさに耐える後輩と。自分のせいで、彼等にしなくても良い苦労をさせているかと思うと、我が身を裂かれるより辛かった。
 成田の目から見て、今の真嶋は地区予選のシングルスなら問題なく任せられるレベルである。三十六時間のフライトの後で遥希を下したのだから、一年生にしては申し分のない実力だ。
 もしも今回の留学話がなければ、真嶋を遥希と交代でシングルスに出場させていただろう。予選を勝ち抜いていく中で、先輩達のプレーを手本にしながら、彼が三年生になる頃までに、じっくり育てていけば良かった。
 しかし状況は変わった。エースを欠いたテニス部をインターハイまで連れていく為には、数ヶ月のうちに、それと同レベルの選手を急いで育てなければならない。
 唐沢はそのターゲットとして、真嶋を選んだ。自らダブルスのペアを組むという方法で、必要となる知識と技術の全てを帰国したばかりの一年生に叩き込もうと言うのである。
 反対する三年生を説き伏せ、悪役を演じ、真嶋と最も近しい千葉にフォローを託した上で、いま最初の選択を迫っている。これから始まる過酷な試練に立ち向かう覚悟があるのかを。

 「必死こいて日本まで戻って来て……なんで……」
 いつもは威勢の良い後輩の声が、悔しさに震えている。やはり荷が重かった。
 後悔と自責の念から、成田が思わず席を立った、その時。
 「なんで部長に『辞めろ』なんて言われなきゃならないんですか!?」
 予想外の反応に振り返ると、真嶋が唐沢を憤然と睨みつけていた。確かに声は悔しさで震えているが、その表情は成田が想像したような脱落者のそれではなかった。
 「昨日約束したじゃないッスか! 一緒に頂点見に行こうって、約束したじゃないッスか!」
 悪役を演じ切るつもりでいた唐沢も、咄嗟のことに言葉が出ない様子である。
 「俺は皆のお荷物になる為に戻って来たわけじゃありません。予選とか、インターハイとか関係なく、超高速で使い物になるようにしてください! お願いします!」
 そう言って真嶋が頭を下げた瞬間。ほんの一瞬、唐沢が成田をちらりと見やった。
 澄ましたように細めた切れ長の目元と、不自然な緩み方をする口元と。彼が賭け事に勝利した時に見せる誇らしげな笑顔がそこにあった。
 本当は嬉しくて仕方がないくせに、当然だというポーズを取りたくて表情を抑えた結果、すまし顔に反して、口の端だけが上向きに緩んでしまうのだ。
 この五年間、何度も目にした顔である。成田には、あの笑顔の意味がよく分かる。
 「真嶋は……あいつは潰れない」
 唐沢の言った通りである。
 「あとは新部長に任せた。長い間……」
 途中まで言いかけて、成田は続きを変えた。
 このメンバーならきっと遣り遂げる。だから感謝の言葉はその後で。
 「長い間、世話になった」
 そう言い残して、成田は会議室を後にした。背後で、畳み掛けるように唐沢の怒鳴り声が響く。
 「良いか? 今年の目標は、インターハイ出場じゃない。インターハイへ行って、そこで優勝することだ。
 頂点は一つしかない。それを肝に銘じて、全員、覚悟してかかれ。分かったな!」






 BACK  NEXT