第51話 レコード・ブレイカー
インターハイ団体戦、最終日。
陽一朗の欠場というアクシデントに見舞われながらも、光陵テニス部は準決勝を無敗で突破して、決勝戦へと駒を進めた。
つぎの対戦相手は、今大会の優勝最有力候補と言われる城西外語大学付属高校だ。
「みんなも知っての通り、城西大付属は、関西ではトップクラスの語学の名門校よ。
国際社会に貢献する人材の育成と、実践に即した外国語の習得を教育目標に掲げていて、古くから交換留学生制度を導入しているの」
控え室では、滝澤が年代物のファイルと最新式のタブレットを小脇に抱え、嬉々とした様子で話していた。
頭脳明晰で気配り上手な彼は、通常、打ち合わせの際には極力無駄を省いて話をするのだが、悲願の優勝を前にして熱が入るのか。やけに饒舌だ。
今日も昨日と変わらず猛暑日で、気温は三十五度を超えている。
運よく準決勝は最小限の体力で切り抜けられたとは言え、このあと大一番を控える身としては、あまり余計なことに時間を割きたくないというのがレギュラー陣みんなの本音であった。
「あのさ、滝澤。前置きは良いからさ、要点だけチャッチャと教えてくれよ」
藤原がうんざりした様子で文句をつけるが、滝澤はそれを軽く受け流すと、ここからが本題というように声のトーンを落として言った。
「悪いけど、今回はその前置きから始めなきゃ見えないの」
「見えないって、何が?」
「敵の正体。貴方たちが相手にするのは、高校生であって、高校生じゃないの」
「どういうことだ?」
「城西大付属がインターハイ優勝の最多記録を更新中なのは、知っているわよね?」
「ああ、去年の優勝校だしな」
「だけど、なかなか実態が掴めなかった。
向こうが掴ませなかった、というのもあるけど。理由はそれだけじゃない。
あそこは部長、副部長を除いて、レギュラー陣がしょっちゅう入れ替わっている。それもエース格の選手がね。
おかしいと思わない? インターハイの常連校なら、大抵、チームの柱となる選手が一人はいるものよ」
「うちみたいに、じつは部長が真のエース、って場合もあるだろ?」
「あら、うちのエースはシンゴ、貴方でしょ?」
「まあ、表向きはな」
藤原が含みのある言い方でとなりの唐沢を見やったが、唐沢に応じる気配がないと分かると、すぐに視線を戻した。
「で、部長の線はないとして、エースがしょっちゅう入れ替わるっつうのは、どういうことだ?
つか、そもそも奴等はどうやって調達してんだ? いくら強豪校で選手層が厚くたって、エース格の選手がそう何人もいるとは思えねえし、よそから引っ張ってくるにしても、限界があるだろ?」
「そこなのよ。
選手の引き抜きには限界がある。でも、海外に目を向ければ、どうかしら?
城西大付属は西海岸に姉妹校があるのよ。ね、坊や?」
「えっ? ああ……はい」
以前、透がアメリカに住んでいた頃、滝澤に頼まれてBMIという学校を調査したことがあった。滝澤はその時の話をしているのだろう。
「おい、滝澤! たしか真嶋がアメリカにいる時も、メールでやり取りしてたよな?
まさか、お前……」
「そんな怖い顔しないの。何かのついでに見てきてちょうだいって、お願いしただけよ」
「つったって、要はスパイだろ?」
藤原が呆れたように言ってから、透の顔をまじまじと見つめた。その目には立場の弱い後輩に対する哀れみとともに、非難の色が垣間見える。
とっさに透は配られた資料を読む振りをして、目を伏せた。
たしかに藤原のいう通り、スパイ目的で他校に潜入するなど正気の沙汰とは思えない。いまなら多少の分別もあるのだが、当時はもっと物騒な話が日常のいたるところに転がっていたために、感覚が麻痺していたのかもしれない。
滝澤が仕切り直しとばかりに「コホン」と咳払いをしてから、話を続けた。
「城西大付属のテニス部員は、約半数が留学生なの。チームのエースも、ここ数年は外国人の名前が続いている」
「国内じゃおおっぴらに出来ねえから、海外から身体能力の高けえ外国人を引っ張ってきてんのか?」
「ええ。頻繁にレギュラーの入れ替えを行なうのも、一人の選手に注目が集まらないようにするためね。
下手に騒がれて、素性が知れたら、この胡散臭い留学生制度に疑問を持つ人間が必ず現れる。それを恐れているのよ」
「……ってことは、俺等の対戦相手も外国人か?」
「ダブルスに一人とシングルスに一人、留学生が交じっている。
それだけじゃないわ。貴方たちのデータも、専門の情報部員が集めて分析しているはずよ。
あそこはインターハイ優勝のための専門家が、情報収集部門、解析部門、指導部門に分かれて存在するの」
「マジかよ!?」
高校生の部活動とは思えぬ徹底ぶりに、さすがの藤原も動揺を隠せない。
やはりインターハイの常連校ともなれば、サポート体制も万全だ。行き当たりばったりの素人集団とはわけが違う。
控え室全体が重苦しい空気に包まれた。
「チーム内で留学生は『レコード・ブレイカー』と呼ばれているそうだ」
唐沢だけは事前に滝澤から事情を知らされていたのか、落ち着いた口調で補足を入れた。
レコード・ブレイカー ―― レコード ブレイクが記録更新だから、レコード・ブレイカーは、さしずめ記録更新請負人といったところか。
インターハイの大会規定では、定められた在籍日数と各地区の大会委員長の許可さえあれば、留学生の出場は公に認められている。
とは言え、「レコード・ブレイカー」という特異な響きに、透はなにか釈然としない思いを抱いた。
それと同時に、先ほどから頭の片隅に渦巻いていた謎が明らかになった。
「そうか、思い出した! あいつ、あの時の……!」
先ほど、この控え室に入る前に、透に声をかけてきた二人のアメリカ人がいた。
一人は特徴的な鼻の形から、以前潜入調査したBMIのテニス部コーチ・バーナインだと分かった。
正確には、思い出したのは名前ではなく、ヒステリックな『魔女のババア』という呼び名であったが――。
「久しぶりね、ミスター・マジマ。ここで会えると思って待っていたの」
意味ありげな笑みを浮かべる彼女の傍らで、透をじっと見つめる大柄な選手がいたが、その時はあまり気にしなかった。
ところがバーナインが「面白い子を紹介する」と言って話を振った途端、彼は鬼のような形相で透に詰め寄った。
「貴様がマジマか!?」
「そうだけど、お前は?」
「俺はティム・オズボーン。貴様が再起不能にしたサム・オズボーンの弟だ」
「再起不能って、どういう……? その前に、オズボーンって誰?」
「まさか、覚えていないのか!?」
対戦前に挑発的な態度で揺さぶりをかけてくる選手はいるが、彼の場合は少し違った。透を見据える眼は血走り、いまにも襲いかかってきそうな勢いだ。
おそらくこの時、バーナインの制止が少しでも遅れていれば、彼はインターハイの会場で暴力沙汰を起こしたとして、出場停止になっていたに違いない。
異様な殺気を放つオズボーンを、バーナインは他の選手に命じて取り押さえると、彼とは正反対の冷やかな口調で言った。
「貴方がストリートコートで対戦したプレイヤーの中に、サム・オズボーンという選手がいたはずよ」
「さあな。あそこじゃ挑戦者の名前なんていちいち聞かねえし、聞いたとしても覚えちゃいねえよ」
「でも、サムは覚えていた。いいえ、忘れようにも忘れられなかったの。
なぜなら、貴方との対戦が彼のプロになれる最初で最後のチャンスだったから。
家が貧しく、学校もろくに行けなかったサムにとって、あの試合は人生をかけた大事な一戦だった。それを貴方がメチャクチャにしたのよ。
彼は貴方との対戦をこう話していたわ。
『真剣勝負で敗北したなら諦めもつくが、マジマは最初から人をコケにすることしか考えていなかった。俺はヤンキーどもの酒の肴にされたんだ』とね」
いきなり身に覚えのない恨み言を聞かされても、答えのしようがない。また、かりに覚えていたとしても、この様子ではこちらの言い分など聞き入れてはもらえまい。
かつて世間からゴミ溜め扱いされたジャックストリート・コートにも、「テニスプレイヤーとしての誇りを持て」と説く男がいた。
挑戦者一人ひとりについての記憶はなくとも、そこで行われた試合については、一度たりとも手抜きはなかったと断言できる。
だが、それはあの時、あそこにいたメンバーしか知り得ない事実である。
「貴方に敗れてプロへの夢を絶たれたサムは、いまじゃ抜け殻同然の生活を送っているわ。
ここにいるティムは、そのサムの弟よ。本当に覚えていない?」
「そう言われてもなぁ。
悪りぃ。俺、自分が負けた相手ならフルネームで覚えてんだけど、負かした相手は覚えてねえよ」
「トオル? まさかお前、その台詞、弟の前で言ったのか?」
事情を聞き終えた唐沢が、露骨に顔をしかめた。
「ええ、まあ……」
「まったく、しょうがない奴だな。
お前に恨みを持つ人間を、これ以上、怒らせてどうする? つぎのダブルスは、そのオズボーンと対戦するんだぞ」
「お言葉ですけど、唐沢先輩に比べたら……」
「俺がどうした?」
「いえ、べつに」
前々から感じていたことだが、唐沢に恨みを持つ人間は多い。インターハイまでの道のりを共にして、透は改めてその数の多さに驚かされた。
そもそも唐沢は、見た目からして詐欺なのだ。人を陥れるように出来ている。
体育会系にあるまじき色白で、体も華奢だ。帰宅部だと言ったとしても、疑う者は皆無だろう。
おまけに外面だけは良いので、最初は誰しも油断する。こんなヘラヘラした優男に負けるわけがない、と。
ところが、いざ試合になると、その印象はがらりと変わる。
細身の体から繰り出されるトリッキーな技の数々と、隙のない戦術。とくに頭脳戦で勝負を挑んだ相手には、軍師の本領を発揮して「策士、策に溺れる」の見本のような展開で返り討ちにするために、試合終了後、対戦相手から「ナイスゲーム」と言って握手を求められたケースは、透の知る限り、一度もない。
そんな唐沢と比べれば、オズボーンとのいざこざなど些細なことだと思うが、さすがに本人を前にして「先輩に比べたら、俺なんか可愛いモンですよ」とは言いづらい。
口ごもる透を見て、唐沢も思うところがあったのか。彼はつと視線を逸らすと、話をもとに戻した。
「とにかく、これでハッキリした。『レコード・ブレイカー』は、オズボーンのようなセミプロレベルの選手と見て間違いない」
「いや、プロを目指していたのは兄貴のほうで……」
言いかけた透の目の前で、唐沢が手元の資料の選手データのページを開いて見せた。
「奴の経歴をよく見てみろ。
一応、BMIからの留学生扱いになっているが、そこに在籍したのはたった六ヶ月。形ばかりの学生だ。
そして、今回コーチとして同行しているバーナインには、プロの養成所に顔の利く姉がいる。
しかも、ティム・オズボーンの兄はバーナインの姉のもとでプロを目指していた。
これは単なる偶然か?」
「もしかして、弟のティムとバーナインの姉貴も繋がっていると?」
「そう考えるのが妥当だろう。
俺が城西大付属の監督なら、実力未知数の留学生に手間暇かけるより、確実に優勝が狙える選手を連れてくる」
「つまり、城西大付属はプロの養成所から練習生をスカウトして、一旦BMIに在籍させてから、留学生として日本に連れてきている、ってことですか?」
「BMIが学生の肩書きを手に入れるための中継地点だとしたら、そうなるな。
デビュー前のプロの卵なら、実力は折り紙付きだし、日本での知名度はほとんどないから、大会運営側もチェックが甘くなる。
レコード・ブレイカーとして潜り込ませるにはもってこいの人材だ」
「やっべ! 俺、とんでもない奴、怒らせたかも!」
遅ればせながら慌てふためく透のとなりで、遥希が不満げに呟いた。
「なんか、面白くないッス」
「バ〜カ! いまの話、聞いてなかったのかよ?
相手はプロの卵なんだぞ? 成田先輩と同じぐらい強えんだぞ?
面白いとか、そういう問題じゃ……」
「だから、面白くないって言ってんの!
だって、そいつ等、部外者じゃん。
球拾いも、コート整備も、パシリもやったことないんだぜ。
先輩のわけの分かんない趣味に付き合わされたり、性質の悪い賭け事に巻き込まれたり、わがままなOBに合宿の間じゅう振り回されたり……。そういう経験、一度もないんだぜ。
そんな連中においしいとこだけ持っていかれて、お前、悔しくないのかよ?」
怒りのポイントが若干ズレているようにも思うが、遥希にとっては部活の苦労も知らない連中に栄えあるインターハイの優勝をさらわれることが、何より我慢がならないようである。
「ハルキのいう通りだ」
藤原がしたり顔で頷きながら、遥希の肩を抱き寄せた。
「インハイは俺たち普通の高校生が汗水流して戦うところだかんな。プロの試合なら、よそでやれってな!」
かく言う藤原も、後輩に理不尽な思いをさせている一人のはずだが、なにをどう勘違いしたのか、「よく言った!」とばかりに遥希の頭をゴシゴシと撫でている。
日増しにレベルアップするインターハイ。それに合わせて、より能力の高い選手を求めて画策する大人たち。
金を使い、人を雇って、優勝のためにと、海外から外国人選手を呼び寄せる。これがあるべき姿と言えるのか。
「なんか、俺もムカついてきたんですけど!」
見解の相違はあっても、思いは同じだ。苦労してここまで来たのに、部外者が半数を占めるチームに優勝をさらわれて、悔しくないわけがない。
遥希に触発されて、いつもの負けん気を取り戻した透であったが、すかさず唐沢が厳しい現実を突きつける。
「相手はプロの卵だ。それに外国人との体格差もある。
お前等、本気で勝てると思っているのか?」
せっかく活気づいた控え室が、水を打ったように静かになった。
だが、それも一瞬のことだった。
「お前だって、本当はやる気満々のくせに」
藤原の鋭いツッコミに、唐沢の口の端がわずかに緩む。
「わざわざ海外から来てくれたんだ。手土産ぐらい持たせてやらなきゃ、悪いだろ」
打ち合わせが終了し、透が控え室の扉を開けると、双子の伊東兄弟が立っていた。
昨日の一件を謝罪するつもりで、唐沢が部屋から出てくるのを待っていたのだろう。真面目な太一朗はもちろん、お調子者の陽一朗までもが神妙な面持ちだ。
二人は唐沢と目が合うなり、頭を下げた。
「部長、昨日は申し訳ありませんでした!」
「ほんとに、ほんとに、ごめんなさい!」
「バカ、陽一! こういう時は『申し訳ありませんでした』だろ?」
「だって、なんか、よそよそしいじゃん」
「良いんだよ、それで。謝りに来てんだから!」
お辞儀の角度は見事に九十度で揃っているが、謝罪の台詞までは打ち合せていなかったようで、二人とも頭を下げたまま、小声で揉めている。
「具合はどうだ?」
唐沢が肩にかけていたテニスバッグを一旦置いて、陽一朗のところへ歩いていった。
「はい! 全然大丈夫です!
あっ、でも、試合に出たいとか、そうゆうことじゃなくて……」
陽一朗は上目づかいで唐沢を見やると、小声で「まだ痛みます?」と言いながら、頬の辺りを指差した。
先ほどから平身低頭の太一朗に反して、陽一朗の言動はいまひとつ真剣味に欠けるといおうか、反省の色がないようにも思うが、あえてそうしているのかもしれない。
陽一朗の中では、いまだ割り切れぬ思いがあるはずだ。昨日の唐沢の落ち込みようからして、そのことは想像に難くない。
それでも決勝戦が始まるこのタイミングでレギュラー陣の集まる控え室にやって来たということは、彼にも己の感情を押し殺してでも伝えたい特別な想いがあるのだろう。
唐沢もそこのところは分かっているのか、おちゃらけた態度を咎めもせずに、幼い弟に接するようにトレードマークの金髪頭を撫でている。
「大丈夫だ。お前が気にすることはない」
「ほんとに、ほんとに?」
「ああ、心配するな。
必ず優勝を持って帰るから。来年、お前たちが二連覇のゴールを切れるように」
それまでテンポの良かった会話が途切れた。
おそらく、陽一朗が予期したものとは違う答えが返ってきたのだろう。彼は大きく口を開け、茶目っ気たっぷりの笑顔を用意していたのだが、唐沢の最後の台詞を聞いた途端、顔を伏せ、そのまま電池が切れたように動かなくなった。
唐沢もしばらく黙って、太一朗と陽一朗、二人の姿を見つめていた。時間の無駄を嫌う彼にしては珍しく、何も語らず、ただじっと。
透には、唐沢が二人にかける言葉を探しているかに見えた。
中学の頃からダブルスの要として手塩にかけて育てた後輩二人が、なんの因果か、雁首揃えて頭を下げている。
晴れの舞台を前にして欠場を余儀なくされた伊東兄弟もさぞ無念だろうが、その決断を下した唐沢も、言葉では言い尽くせない複雑な想いがあるはずだ。
ところが唐沢は、なぜか突然思い立ったようにテニスバッグを担ぎ上げると、何も言わずにその場を後にした。
透も慌てて後を追う。
せめて自分だけでも声をかけるべきかと迷ったが、一礼して立ち去った。
陽一朗の金色の毛先が、床につくかどうかのスレスレのところで不規則に揺れているのが見えたのだ。
他の皆もそれに気づいたようで、遥希は「ちぃ〜っす!」と言って二人の前を通り過ぎ、藤原はいつものごとく、それぞれの尻に一発ずつ蹴りを喰らわしてから出ていった。
控え室のある管理棟から外に出ると、ふたたび蒸し風呂のような暑さが待っていた。
透は思わず、真夏の太陽を睨めつけた。
午前の準決勝もかなりの暑さであったが、そこからさらに二、三度上がっているのではなかろうか。体にまとわりつく空気が、体温より高い気がしてならない。
しかも、歩みを進めるごとに暑さが増してくる。いや、この場合、暑さというより、熱さというべきか。
決勝戦といえども、プロの試合で見るようなセンターコートは存在しない。十面ずつ二列に並んだコートの中のひとつで、他の試合とまったく変わらぬ条件で行われる。
ただ、他と違うのは観客数の多さである。
決勝まで勝ち残った両チームの応援団が、それぞれベースライン後方、選手をもっとも近くで見られる席を陣取り、その周りをいくつもの集団が群がり、半円状の広がりを見せている。
半円の直径にあたる部分は、正面のコートを中心に五面分もの長さに及び、それでも収まりきれずに、眺めの良い場所を探して立ち見をしている者もいる。
観客の中にはインターハイを取材しにきた新聞記者やカメラマン、大会関係者もいるのだろうが、大半はすでに敗退した他校の生徒だ。
自分たちの屍を超えて頂点に立つのは誰なのか。地区予選から数えて約四ヶ月。長い戦いの結末を知るために、各都道府県の代表チームが成り行きを見守っているのである。
透が試合会場に足を踏み入れると、前を歩いていた唐沢が小声で耳打ちをした。
「オズボーンのとなりにいるのが部長の高梨だ。あっちもなかなかの曲者だから、気をつけろ」
コートの中では、すでに城西大付属の選手二人がラケットを手にして待っていた。
兄の仇とばかりに透を睨みつけるオズボーンのとなりで、唐沢と同じような体格の日本人が、これまた唐沢と同じような笑みを浮かべて立っている。
唐沢がそう言うからには、かなりの曲者と見て間違いないのだろうが、とりたてて特徴のない高梨からは、胡散臭さよりも、むしろ物静かな印象を受ける。
強いて特徴を挙げれば、狐のような細い目か。開いているのか、瞑っているのか、分からぬほどの細さである。
「まさか、高梨さんもプロの卵とか?」
「いや、実力は俺たちと大差ない。
ただ、あいつが厄介なのはサポートの上手さだ。パートナーの力を最大限に引き出して、巧みに戦術の中に組み込んでくる。
どんなパートナーとも見事に調和して、勝利へと導く能力を称して、関西では『マエストロ』と呼ばれている」
「『レコード・ブレイカー』とペアを組むには、うってつけってことですね」
「ああ、それだけ高い洞察力の持ち主だから、お前も言動には充分注意しろよ」
「分かりました」
唐沢から助言を受けながらも、透はオズボーンのことが気になって仕方がなかった。
身じろぎもせずに透を睨みつける視線には、兄の人生を台無しにされた恨みつらみが込められている。
意図したことではないにせよ、一人のテニスプレイヤーを再起不能にしたのは、紛れもない事実である。
あの頃は、やっと見つけた自分の居場所を守るのに必死で、それで人を傷つけたとしても、罪の意識はほとんどなかった。弱い奴が悪いのだと。
当時のツケがこんな形で回ってくるとは、思いもしなかった。
オズボーンの態度はその後も変わらず、それどころか、ひどくなる一方で、試合前の挨拶では、審判が日本人であるのを良いことに、彼は堂々と英語で暴言を吐いてきた。
「素人のクソぬるいトーナメントには辟易していたが、おかげで最高の舞台が整った。
マジマ、この大勢の猿どもの前でお前をぶちのめしてやるから、覚悟しろ!」
透は一言も返せなかった。
これを因果応報というのか。あの頃の血なまぐさい記憶の数々が、頭の中を行き来する。
するとそこへ、唐沢がにこやかな笑顔で割って入った。
「オズボーン君と言ったかな?
たしかに、お兄さんのことは気の毒に思う。だけど、そういうのを逆恨みって言わない?
神聖なインターハイの決勝戦で、個人的な恨みを持ち込むのは、お互いのために良くないんじゃないかな。
ねえ、高梨君? 悪いけど、通訳してくれない? 俺、英語苦手なんだよね」
透は驚いた顔を見せまいと、とっさに俯いた。
自分の記憶が確かであれば、唐沢は原文でテニスの解説書を読みこなすほど、語学は達者だ。他人の力を借りずとも、この程度の訳なら自力で出来るはず。
現に彼は高梨の話を漏らさず聞いて、適当な訳だと分かると、妙に甲高い声でこう言った。
「やだなぁ、高梨君。意地悪しないで、ちゃんと訳してくれよ。
俺まで誤解されて、『ぶちのめす』なんて言われたら怖いから」
これを聞いて慌てたのは審判だ。
「オズボーン君? コート内での暴言は、外国語であってもペナルティーになるからね。以後、気をつけるように。
高梨君も、分かっていたのなら注意しなさい」
「はい、すみませんでした。緊張していて、聞き逃してしまいました。
本当にごめんなさい」
唐沢にまんまとしてやられたというのに、高梨は悔しそうな素振りは一切見せず、従順な生徒を演じている。
そして唐沢は唐沢で、
「あ、いや、俺はそんなつもりで言ったんじゃ……。まいったな」
と言いながら、わざとらしく頭を掻いている。
「どうか、彼等を責めないであげてください。
オズボーン君も試合前で気が立っていたんだろうし、うちの部員にもよくあることです。俺たちは全然気にしていませんから。
それより、高梨君? オズボーン君はまだ日本語に慣れていないのかな?
もし彼が俺たちの会話を気にしているようなら、遠慮しないで通訳してあげてよね。
通訳って、何だっけ?
たしか……interpret? それともtranslateだっけ?
アハハ、まずいなぁ。俺、受験生なのに分からないや」
嫌味なまでに好青年を演じる唐沢と――。
「ありがとう、唐沢君。いろいろと気づかってくれて。
さすが噂に名高い光陵テニス部の部長だね。僕も同じ部を預かる者として、見習わなくっちゃ」
どこまでも謙虚な姿勢を貫く高梨と――。
二人のおかげで、透の罪の意識は薄れていった。彼等の腹黒さに比べれば、オズボーンとの一件など、さほどの罪とは思えない。
それに過去の因縁はどうであれ、いまは目の前の試合に集中しなければ。
唐沢がにこやかな笑顔になる時は、ギャンブルのカモを見つけた時と、もう一つ。対戦相手に巧妙な罠を仕掛けた時だから。
インターハイ団体戦決勝戦、第一試合。決戦の幕は、早くも切って落とされた。