第6話 再会

 いつもながら、ここは特別な匂いがする。図書室の匂いとはまた違う。グラウンドからの砂埃と建物内部の埃とが入り混じったパサパサした匂い。
 奈緒は体育倉庫の内側から扉を閉めると、中の空気を胸一杯に吸い込んだ。
 埃っぽさが気にならないのは慣れもあるのだろう。三年間、通い続けた場所である。学園中のどこよりも体に馴染んでいる。
 通い慣れたこの場所に、もうすぐ彼が来る。何時何分と指定したわけではないが、月曜日の昼休みは今しかない。
 彼に会える。会える距離にいる。そう思うだけで、胸の辺りが苦しくなった。愛しい人を思い浮かべた時のキュンとした痛みではなくて、全力疾走した後の息苦しさによく似ている。
 「大丈夫」
 大きく息を吐いてから、手の中の携帯電話をオーバーワーク気味の胸に押し当ててみる。電話機特有のひんやりとした冷たさを期待したにもかかわらず、伝わってくるのは、今は必要のない温もりだ。
 携帯電話が人肌以上の熱を帯びている。一昨日の夜から何かにつけて着信履歴の画面を眺めていたのだから無理もない。
 こんな当たり前のことに今ごろ気付くなんて。やはり、どうかしている。
 あの夜の出来事も、夢かもしれない。彼の帰国を切望するあまり、妄想を現実と勘違いした可能性は大いにある。
 自分自身が信じられなくなって、今一度、携帯電話の着信履歴を調べてみる。
 真嶋透 ―― 動かぬ証拠に安堵するのは一瞬で、すぐにまた違う不安が頭をもたげる。
 アメリカでのテニス留学を終えて帰国した天才テニスプレイヤー。プロへ転向する成田の代わりに日高コーチが呼び寄せた光陵テニス部期待の秘密兵器。
 今朝からやたらと耳にする噂話はどれも、奈緒の知っている彼とはかけ離れたものだった。
 「大丈夫、きっと会える」
 そう自分に言い聞かせ、いつものように外の景色を仰ぎ見た。

 体育倉庫の天井には、ちょうどスケッチブックを開いたぐらいの大きさの採光用の天窓があり、そこから覗く桜の小枝が季節の移り変わりを教えてくれる。
 奈緒は、そのキャンパスのような天窓をぼんやりと眺めるのが好きだった。
 倉庫の奥に雑然と積まれた跳び箱の一つに寄りかかると、緩い傾斜に沿って頭も体も上向きになる。リクライニングシートほどの心地良さはないが、季節を愛でるには充分だ。
 頭の上には春が来ていた。透との出会いから数えて四度目の春が。
 薄紅色の花びらが舞い降りる天窓を眺めながら、奈緒は少しずつ背中を下に滑らせ、倉庫の床に腰を下ろした。スカートなので膝は立てなかったが、その昔、彼がここで同じポーズを取っていた。
 あれは確か、新緑の季節だったと思う。天窓を通して降りてきた木漏れ日がレースのカーテンのように揺れていたのを覚えている。
 体育や部活動で使用する用具を出し入れするだけの、老朽化も激しい体育倉庫だが、ここは奈緒にとって特別な場所だった。
 たった四ヶ月しか在籍しなかった転校生は忘れ去られるのも早く、彼が去った翌週には他のクラスメートが奈緒の隣の席に座り、夏休み明けには「真嶋透」の文字は完全にクラスから消えていた。
 ロッカーのネームプレートも、「もう少し真面目に取り組みましょう」と注意書きの入った美術の展示作品も、図書室の貸し出しカードに至るまで、全て処分されていた。
 彼の残像が薄れるたびに、奈緒は体育倉庫に忍び込み、その存在を確かめた。彼と過ごした思い出の場所で、彼との思い出に触れることで、幻になりそうな記憶を繋ぎ止めた。
 日々、目まぐるしく変化する外の世界と違って、ここは少しも変わらない。月に一度、野球部とサッカー部が交代で“掃除の振り”をするだけで、埃までもが昔のままだった。

 扉の向こうが俄かに騒がしくなった。昼食を終えた生徒達が残り少ない自由時間を有意義に過ごそうと、グラウンドに駆け込んできたのだろう。
 胸元の携帯電話を見やると、十二時半だった。昼休みは半分過ぎている。
 時間が経つにつれ不安が膨らむが、奈緒には着信履歴の他にもう一つ、確かな希望があった。
 今朝、奈緒が「おはよう」を言う前に、珍しく遥希から声をかけてきた。
 よほど嫌な事でもあったのか。彼は奈緒の背後から前傾姿勢でつかつかと歩み寄り、への字に結んだ唇を無理やり開いて、
 「あいつ、帰って来たから」
と小声で呟くと、一度も目を合わせることなく去っていった。
 「ありがとう、ハルキ君!」
 足早に遠ざかる背中に向かって叫んでみたものの、返事はなかった。
 透が渡米して以来、遥希とはお決まりの会話をするようになった。
 「あいつから連絡あった?」
 「ううん、まだ」
 口調も台詞も毎回同じで、話の内容もどうとでも取れる漠然としたものだが、奈緒には「あいつ」が誰を指すのか、分かっていた。学年が上がって、クラスが変わり、級友達が忘れていく中で、この短い会話が心の支えであった。
 今朝のふて腐れた遥希の顔を思い出し、胸に渦巻く不安が消えていく。
 これは夢ではない。クールな遥希をあそこまで不機嫌にさせる人物は、この世の中で一人しかいないから。
 「大丈夫。トオルに会える」
 携帯電話を開くと、奈緒はもう一度、着信履歴のボタンを押した。


 〈渡したいものがある。昼休みに、うちのクラスまで取りに来い〉
 唐沢からのメールを受けて、透は三階の三年生の教室へと向かった。
 奈緒との約束を忘れたわけではないが、テニス部員である以上、部長からの呼び出しには最優先で応じなければならない。
 それに先に用事を片付けてからの方が、彼女とも落ち着いて話が出来る。一昨日のように追い立てられて話すのは、二度とご免である。
 三年二組の教室に着くと、唐沢が大量の本の束を抱えて待っていた。
 十五、六冊はあるだろうか。いずれもテニスに関する教本のようで、背表紙には「ダブルス」の文字がずらりと並んでいる。
 「遅い! 一階から三階まで上がるのに何時間かかっているんだ? 俺の時間を無駄にするな、と言っただろう?」
 開口一番、唐沢から文句が飛び出した。
 無理もない。ここへ来るまでに少なくとも三十分はかかっている。正確には、自分の席から教室を出るまでにその多くを費やした。
 無論、透のクラスはそれほど広くない。だが、昼休みに入った途端、級友達が怒涛のごとく押し寄せた為に、外へ出ようにも出られなかったのだ。

 基本的に中高一貫のモデル校である光陵学園では、高等部の学生の八割が中等部からの持ち上がりだが、残りの二割は厳しい高校受験を突破してきた天才達である。
 有名私立並みの倍率を誇る中学受験を潜り抜けてきた「持ち上がり組」が世にいう秀才だとすれば、それよりも更に狭き門を突破してきた高校からの「受験組み」は、秀才の上を行く天才だ。
 但し、透の場合は中学時代に在籍していた経緯と、日高からの口添えもあって、形ばかりの編入試験で高等部への入学を許可された。つまり学園内では平々凡々の頭脳である。
 それにもかかわらず、なぜか自己紹介を始める前から頭脳明晰な帰国子女が編入してきたという噂が出回っており、新しいクラスメート達は勝手に透をスーパー・スターに仕立て上げた。しかも日高遥希を一瞬で打ち負かした天才テニスプレイヤーなどと、事実とはかけ離れたデマまで飛んでおり、もはや個人の力では修正できない程の盛り上がりを見せていた。
 透の存在など忘れていたであろう元級友達は、昔からの馴染みのように話しかけ、一度も面識のない同級生らしき生徒達は無遠慮な質問を浴びせかけ、他のクラスからも野次馬が殺到した。
 岐阜から転校して来た時は、無視されるか、馬鹿にされるかのどちらかで、少しでも集団と異なる行動を取ろうものなら、クラス中から白い目を向けられた。
 ところが海外に住んでいたというだけで、岐阜よりもっと酷い生活を送っていたのに、馬鹿にする者もいなければ、蔑む者もいない。自分のところに集まる視線には、なぜか尊敬の念が込められている。
 謂れのない人気者扱いに透は戸惑うことしかできず、続々と押し寄せる夢見心地な生徒達の勝手な思い込みを律儀に訂正しているうちに、昼休みの半分が過ぎたのだ。

 「お待たせして、すみません。ちょっと野暮用で」
 「まあ、良い。時間がないから本題から話す。
 真嶋、今日から一週間以内にこれを読破しろ」
 「これって……これ、全部ですか?」
 「何か問題があるか?」
 「いいえ」と、否定はしたが、大いに問題がある。一週間以内に読破するとなると、この量では最低でも一日に二冊のペースで読み進めなければならない。
 束の中には洋書も交じっている。透の語学力はネイティブ・アメリカンの中でも特別口の悪いヤンキーを言い負かすことが出来るほど高いものだが、それはあくまでも日常会話に限定されており、さらに詳しく言えば、裏通りでしか高い評価を受けないもので、読み書きに関しては学校の授業に付いていくのがやっとのレベルである。
 しかし自分から「早く一人前にしてくれ」と頭を下げた手前、今さら膨大な読書量に怯むわけにはいかない。拷問の道具にしか見えない本の束を、透は黙って受け取った。
 「良いか、真嶋? その本はダブルスの戦術を中心に書かれている。実践経験の乏しいお前でも理解できるよう、ケースごとに具体例を挙げて解説されているものを拾ってあるから、しっかり読んで頭に叩き込め。
 これから俺達は運命共同体だ。お前が潰れれば、俺も潰れる。良くも悪くも独りじゃないという事を忘れるな」
 「はい」
 「それから、もう一つ。パートナーの俺には、何でも正直に話すこと。特に体調に関しては、絶対に隠すなよ?」
 「はい」
 唐沢からの一言ひと言が、大きなプレッシャーとなって圧し掛かる。
 運命共同体 ―― 自分が潰れれば、パートナーも潰れる。そこがシングルスと違って、ダブルスの辛いところだ。
 決してシングルスが気楽だと言うのではない。ただダブルスの場合、メリットもデメリットも倍となって現れる。コンビネーション次第では、二人の能力が倍にも二乗にもなる醍醐味がある代わりに、一人が足を引っ張れば、そのダメージも倍となって降りかかる。
 現状では、自分は唐沢のお荷物でしかない。不出来な後輩を教育し直そうとダブルスに転向した先輩の為にも、死んでも強くなる覚悟で精進しなければならない。
 本の重みがずしりと腕に伝わった。ここは読み書きが苦手だなどと、悠長なことを言っていられる場合ではない。

 「唐沢部長! 俺、頑張ります!」
 「ああ、その事なんだが……」
 唐沢がいつになく言い辛そうに切り出した。
 「お前は、今までの呼び方で良い」
 「と、いうと?」
 「部長と呼ばれるのは、何て言うか……疲れる」
 「疲れるって、そういう問題なんッスか? って言うか、そんなに嫌なんですか?」
 「当たり前だ。俺は優等生の陰に隠れて、お前みたいな操縦しやすい後輩をカモにして、荒稼ぎする方が性に合っている。そもそも日陰の人間がスポットライトを浴びること自体、道理に反している訳だから、当然と言えば当然なんだが……思った以上にアレルギー反応がひどくてな。
 やっぱり表舞台に立つ奴というのは、心身ともに健全じゃないと。お前もそう思うだろ?」
 「はあ……」
 ここまで大胆に己の悪事を肯定し、性格の悪さを自然の摂理のように言われては、どう答えて良いのか分からない。せめて「後輩をカモにして」の部分だけでも悪びれてくれれば、少しは救いがあるものを、憚ることなく「性に合っている」と断言するのだから手の打ちようがない。
 ひょっとしたら、光陵テニス部始まって以来の不良部長が誕生するかもしれない。
 「まあ、成り行きでも引き受けたのは俺だから、他の奴等は諦めるとして……」
 透の心配をよそに、唐沢は「部長」と呼ばれることが如何に不快であるかを話し続けた。
 「試合中に真嶋から部長と呼ばれたら、たぶん……」
 「たぶん?」
 「キレる」
 「キレるって、そんなぁ」
 過去に一度だけ、透はキレた唐沢を目撃したことがある。
 確かあの時は、高等部の教師達を相手に理不尽な啖呵を切って大騒ぎになった。日頃から口の悪さを自負する透ですら、あそこまでの暴言は口にしない。試合中に唐沢があの状態になるなど、想像するだけで背筋が凍る。
 とんでもない先輩とペアを組んでしまったと、後悔し始めた矢先。
 「試合の時だけで良い。戻らせてくれないか?」
 もう少しで聞き逃してしまうほどの早口だったが、唐沢の口調と、ふいと横を向いた仕草から、それが彼の本音であると気が付いた。
 色々と口実をつけてはいるが、唐沢自身も部長の立場にプレッシャーを感じている。だからこそ、せめて試合中は一人のテニスプレイヤーに戻って、ボールを追うことだけに専念したいのだ。
 「分かりました。部……じゃなくて、唐沢先輩。俺は今まで通り呼ばせていただきます」
 笑顔で答えると、透はその足で体育倉庫へ向かった。
 プレッシャーを感じていたのは自分だけではない。倉庫へ向かう道すがら、透は唐沢が置かれている立場の厳しさを、改めて痛感した。
 いくら補充人員を入れて頭数を揃えたとは言え、実質、成田の抜けた穴を埋めているのは唐沢だ。部長を引き受け、ダブルスでは素人と変わらない後輩を指導しながら、不安定なテニス部をインターハイまで引っ張っていこうとしている。
 恐らく傍から見るよりも、何倍もの重圧が彼の両肩にかかっているのだろう。先輩の為にも、チームの為にも、もっと、もっと強くならなくては。
 運命共同体。その言葉の重みが、本の重みと重なった。


 中等部と高等部の境にある体育倉庫の前まで来て、透は歩を止めた。
 三年もの間、ずっと会いたいと願い続けた彼女が、この扉の向こう側で待っている。一刻も早くと気持ちは急いているはずなのに、足が前に進まない。
 彼女は、昔のままの彼女だろうか。あの頃と同じように、今も自分に笑いかけてくれるだろうか。
 体育倉庫は昔と変わらず同じ場所に建っているが、木製の扉は記憶にあるそれよりも汚らしく見える。三年間、雨風にさらされたせいで泥がこびり付き、おまけに生徒達が手足を使って開閉するらしく、下の方にも損傷が目立つ。
 扉にかけようとした手が止まる。
 彼女が昔のままでいてくれたとして、自分はどうなのか。
 アメリカでの生活は、決して褒められたものではなかった。一つひとつの損傷は小さくとも、三年ぶりに会う彼女には酷く汚れて映るだろう。もしも彼女を失望させてしまったら――。
 気弱になったところへ、授業開始五分前の予鈴が鳴った。
 「マジかよ」
 唐沢との話に時間をかけ過ぎたのか。その前の級友達からの質問攻めが原因か。
 いずれにせよ、会えたとしても、ゆっくり話せる時間はない。いっそ忘れたことにしてしまおうか。そうすれば、余計な痛手を負わずに済むかもしれない。
 躊躇する透の目の前で体育倉庫の扉が開き、中から誰かが飛び出してきた。
 「うわっ!」
 本を抱えたままの体勢では上手くかわすことが出来ず、その人物との正面衝突は避けられなくなった。
 「危ない!」
 バランスを崩した拍子に、本の束が崩れ落ちた。ほとんどがソフトカバーだが、中には木片ほどの硬さもある。当たり所が悪ければ、骨にヒビが入るかもしれない。
 落下する本の衝撃からその人物を守ろうと、透は両腕を伸ばした。
 とっさの事で意識したつもりもないが、頭のどこかで分かっていた。飛び出してきた相手が、先輩から借りた本よりも、我が身よりも、大切な人だということを。
 だから相手の顔を確かめずとも、こんな聞き方になったのだ。
 「悪りぃ、奈緒。ケガ、なかったか?」

 この光景は見覚えがある。ちょうど今頃の季節、透が光陵学園に転校してきた初日に河原で彼女とぶつかった。思えば、あれが最初の出会いであった。
 三年ぶりに見る彼女の姿は、あの時と同じであった。華奢な体も、驚いたときに丸く見開く瞳も、恥ずかしそうに俯く仕草も。
 まるでそこだけ時間が止まっていたかのように、透の記憶どおりの彼女が腕の中に収まっている。自分の腕の中に、すっぽりと――。
 「わっ、悪りぃ……」
 彼女がその表情に至った理由を悟った透は、急いで腕の力を緩めると、三歩ほど後ずさりをして距離を取った。
 異性に対してほとんど興味のなかった三年前とは違って、少しは女性の恥じらいというものも理解している。中等部と高等部、両方の生徒が行き交う敷地の中で、昼間から男子生徒に抱き締められれば、内気な彼女でなくとも赤面するに決まっている。
 動揺を隠そうとして、透は手当たり次第に本を拾い集めた。すかさず奈緒も地面に屈み込む。
 「い、良いよ。すぐに終わるから……」
 彼女が手伝おうとしてくれるのを、透はほぼ横取りに近い形で制した。
 「たくさんあるけど、大丈夫?」
 「良いって、良いって……」
 手を伸ばせば触れ合う距離にいるのに、顔を上げることが出来なかった。彼女と目を合わせることが怖くて、俯いたままで作業を続けた。
 「前にもこんな事があったよね?」
 「そうだっけ?」
 「初めてトオルと会った時。河原のところで」
 「そ、そうか?」
 あの頃は、異性を抱き締めることに意味などなかった。河原に落ちかけた子犬を助ける程度のことだった。
 「何だかトオル、別人みたい」
 「俺……変わったか?」
 「うん、すごく大人に見える。制服のせいかな?」
 「ああ、制服……」
 「学ランも良かったけど、ブレザーも似合っているよ」
 「学ランの方が楽だった。ネ、ネクタイが面倒でさ……」
 会話がスムーズに進まない。
 こんなはずではなかった。彼女に会ったら、今度こそ心のままに想いの丈を伝えようと決めたのに。
 継ぎはぎだらけの会話が宙に浮いていた。その原因は自分にあるのだろうが、昔のように考えなしに話すことが出来なかった。
 追い打ちをかけるように、午後の授業開始を知らせるチャイムが鳴った。二人の間を何人もの生徒達がすり抜けていく。
 高等部へ向かう生徒達が友達と話しながら悠々と歩くのに対し、中等部の生徒達は慌てて校舎に駆け込む者がほとんどだ。まだ幼さの残る学ラン姿の中学生が眩しく見えた。

 「時間、なくなっちゃったね」
 「ごめんな。俺が遅れたから」
 「そんなことない。すぐまた会えるし。もう日本とアメリカじゃないから」
 「そうだな。六組と八組なら近いか」
 「そうだよ。近いよ」
 グラウンドにいた生徒達は全員引き上げ、外に残っているのは二人だけになった。
 授業開始を待つばかりの校内は、桜の花びらが揺れる音まで聞こえてきそうな静けさだ。静か過ぎて、とてもこのギクシャクした関係を修復できるような雰囲気ではない。
 「俺たちも、そろそろ……」
 「うん」
 「行かないと」
 「うん」
 「ヤバい……よな?」
 わずかに上げた語尾に、彼女が首を傾げたかに見えた。
 見間違いに決まっている。真面目な彼女が、自分と同じことを考えるはずがない。きっと髪にかかった花びらを振り払おうとしたに違いない。
 念の為に、もう一度。
 「ヤバい、よな?」
 「五限だけなら……ヤバくないかも……」
 「本当に……?」
 その問いかけと同時に、透は彼女の手を引いていた。
 返事を聞く間も惜しかった。これから山ほど時間があるかもしれないが、もう待てなかった。
 「行こう、奈緒!」

 開け放した教室の窓から、授業を始める教師達の声が風に乗って聞こえてくる。その声に背を向けて、透は奈緒を連れて体育倉庫に入った。
 天窓から差し込む光と、埃っぽい匂いと。懐かしい場所は、懐かしいままで、二人を迎えてくれた。
 「ああ、この匂い。すげえ懐かしい!」
 「覚えてる?」
 「ああ、あの時と同じ匂いだ」
 「お帰り、トオル」
 「ただいま、奈緒」
 三年の時を経て最初に漏れ出た心からの言葉は、思いのほか平凡だった。感動的な要素は一つもなく、日常生活の中で何気なく交わされる「ただいま」と「お帰り」であったが、それが二人の時間を巻き戻すには一番大切なことだった。
 「トオル? もしかして体育倉庫の場所、分からなかった?」
 「いいや。実は唐沢先輩に呼び出されて、その前にもクラスの連中に捕まったりして、遅くなったんだ。悪かったな」
 「それなら良いの。高等部って中等部より広いし、建物も立派になっちゃって。私はよく迷子になるから」
 「ああ、俺も思った。公立のわりに豪華だよな。
 高等部のテニスコートなんて、屋根付きの休憩所があるんだぜ。あと自販機も!」
 「そう言えば、高等部は購買部にレモンティーが置いてあるの。前みたいに探さなくて良いんだよ」
 「へえ、カフェオレは?」
 「カフェオレもあるよ。覚えていてくれたの?」
 「まあ、一応な。そう言やさ、アメリカってコーヒーばっかでさ。そんで自販機の数が少ねえから、紅茶を探すのにメチャメチャ苦労して……」
 昔と同じ他愛のない会話がいつまでも続いた。体育倉庫の跳び箱を背にして、透は片膝を抱えて座り込み、その隣で奈緒が話を聞いている。
 全てあの頃のまま、何も変わらない。離れ離れに過ごした三年間が、互いの笑顔を通じて泡のように消えていく。
 これで元通りになる。過ぎた時間は簡単に取り戻せると、そう信じていた。ここに新たな訪問者が現れるまでは――。






 BACK  NEXT