第8話 試練

 まさか、この短期間でここまで力をつけるとは――。
 試合終了と同時に、コートの周りのそこ此処から光陵テニス部員の“細長い溜め息”が漏れ聞こえた。
 放課後、ダブルスのフォーメーション練習の成果を見るために行なわれた練習試合で、組んだばかりの唐沢・真嶋ペアが滝澤・荒木ペアに僅差であるが、勝利した。
 滝澤、荒木と言えば、中等部では伊東兄弟と並んで光陵テニス部のダブルスを支えた二人である。
 この方々から聞こえる “細長い溜め息”は、敗北した彼等の手前、あからさまに賛美の声を上げるのは憚られるが、新生ペアの、特に透の適応能力の高さを称えずにはいられない。そんなジレンマに陥った部員達の心の声が堪らず漏れ出たものだった。
 「やるじゃねえか、トオル! お前、マジでダブルスの経験ねえのかよ?」
 千葉が試合直後のコートに駆け込み、透にがばっと抱きついた。親分肌の彼には先輩に対する気遣いよりも弟分の快挙の方が大事と見えて、同学年からの「バカ!」「アホ!」「空気を読め!」といった限りなく罵倒に近い制止もどこ吹く風で、透の頭を嬉しそうに小突いている。
 「いや、まだまだッスよ。唐沢先輩にもかなり助けてもらったし」
 「いっちょ前に謙遜なんかしてんじゃねえよ。本当はダブルスでも案外イケるとか、思ってんだろ?」
 「からかわないでくださいよ。マジで、俺、ダブルス組の先輩達に付いていくのに必死なんスから」
 これが謙遜ならどんなに良いか。透はすっかり有頂天になっている親バカならぬ先輩バカの千葉を、恨めしげな目で睨めつけた。
 パートナーの唐沢には迷惑をかけられない。彼の足を引っ張らないようにと、それだけを考えてボールを追いかけた。
 守備範囲を限界まで広げ、際どいコースは全て自分が処理するつもりで走り回り、文字通り「必死になって」プレーをした結果、気がつけば向こうが負けていた。
 この実感のない勝利に一番驚いているのは、他ならぬ透自身である。

 コート脇では、滝澤が後輩二人のじゃれ合う姿を唐沢と共に眺めていた。
 「海斗の読み通りね。今のペースなら、地区予選でも充分通用するんじゃないかしら?」
 「ああ、地区予選まではな」
 「あら……」
 今回の試合は唐沢の意向で行なわれたもので、練習の成果は十二分に見られたはずなのに、同意と思われた短い返事には険のような小さな棘が感じられる。
 不審に思った滝澤がコートに投げかけていた視線を隣へ移すと、案の定、細い眉根が皺にならない程度に寄っている。これは普段の唐沢をよく知る者の基準では、明らかに機嫌が悪いと断じて良いレベルであった。
 「あれだけの結果を見せられても、まだ不満?」
 「あれだけの結果だからこそ、不満なんだ」
 「どういうこと?」
 「問題点を分からせる前に、ゲームセットだ。まったく……」
 唐沢が長い前髪に「ふうっ」と息を吹きかけ、腕組みをした。彼が真剣に考え事をする時に取る独自のポーズである。
 よほどの難題でない限り、切れ者の彼が考えをまとめるのにわざわざ時間を割くことはない。事の重大さを悟った滝澤は、これ以上の発言は控え、黙って成り行きを見守った。
 唐沢の吐息で吹き上げられた前髪がふわりと空を舞う。癖のない素直な髪質だが、その長さと細さのせいか、全部が揃って降りてくるまでには多少の時間を要する。
 一本、また一本。ぱらぱらと順に居場所を求め、ようやくいつもの瞳を覆うかどうかの不安定な位置で落ち着いた。
 通常ならば聡明な彼から次の指示が出されても良い頃合いだが、今回は迷いがあるようで、なかなか口を開かない。
 唐沢をここまで悩ませる問題点とは何なのか。
 滝澤が意思決定したであろう表情を覗き込もうとした矢先、重苦しい溜め息が一つ。続いて、その理由を裏付ける内容の指示が下された。
 「滝澤、悪いが伊東兄弟を呼んで来てくれないか?
 それから真嶋には、三十分後にもう一試合するから準備をしておけ、と伝えてくれ」

 唐沢からの伝言を告げられ、透は絶句した。
 つい今しがた激戦を制したばかりの体でもう一戦。しかも部内最強ペアが相手となると、さすがに堪えるものがある。
 バリュエーションならまだしも、平日の練習ではろくな準備もしていない。次も唐沢の期待に添うような結果を出せるか、甚だ不安である。
 しかし、今は目の前に出された課題を一つずつこなしていくしかない。
 心配そうに見つめる滝澤に「分かりました」と返事をすると、透はコート脇に設置されている休憩所のベンチでストレッチを開始した。
 これだけレベルの高い試合が続けば、ケガや故障を誘発する恐れもある。唐沢から与えられた三十分は、体のメンテナンスを行なう為の時間である。
 ベンチに腰を下ろし、筋肉や関節に痛みがないかを確認しながら、ゆっくりと体の各部を伸ばす。特に散々走らされた両脚は、念入りに解しておかなければならない。
 この作業の傍らで、透はもう一つの課題であるダブルスの解説書にも手を伸ばした。十六冊あるうち、いま手にしているのが最後の一冊だ。
 一週間以内の期限を、三日で終わらせた。
 できるだけ早く課題を片付けて、唐沢のお守りが要らないくらいに強くなる。自分のせいで迷惑をかけているチームの為にも、早く一人前にならなければ。
 より早く。より強く。今はそれしか考えられないし、考えたくもなかった。
 「頑張るのも良いけどよ。最初から突っ走ると息切れすんぞ?」
 「ケンタ先輩……」
 ストレッチをしながら読書という器用な休憩時間を過ごす透の頭に、千葉がコーラの冷たいボトルを押し付けた。
 「邪魔して良いか?」
 都合を聞きながらも、千葉は返事を待たずして隣に座ってくる。この程度の図々しさは二人の間では許容範囲であり、手土産代わりの飲み物が先輩の好みであることも、また然りである。
 はっきり言って、透は炭酸飲料が好きではない。喉元ではじける、あのパチパチとした感触が苦手で避けているのだが、二本のボトルのうちの一本を差し出されれば受け取らざるを得なかった。
 透は申し訳程度に会釈をすると、ちびちびと飲み進めた。案の定、炭酸特有の刺激が喉を詰まらせる。
 遠慮がちに咳き込む透の隣で、千葉がボトルを逆さにして、これが正統な飲み方だと言わんばかりに豪快に飲み干した。
 「ブハ〜ッ! うめえ! 汗をかいた後のコーラは最高だよな?」
 「ええ、まあ……」
 「先輩達はスポドリにしろって言うんだけどよ、この爽快感は他にはねえかんな」
 そう言って、彼は立て続けにゲップを三回、テンポよく出してみせた。
 「やっぱ男は黙ってコーラだろ」
 「あの、ケンタ先輩? 俺に何か用事があるんじゃないですか?」
 「邪魔して良いか」と声をかけてきたわりには、なかなか本題を切り出そうとしない千葉に、透は訝しげな顔を向けた。
 「何だよ、邪魔だって言いてえのか? 最初にちゃんと断っただろ? 『邪魔して良いか』って?」
 「いえ、別にそんなことないッスよ。ただ……」
 「何だ?」
 「何となく様子をうかがっているみたいで、先輩らしくないっていうか……」
 「タ〜コ! らしくねえのは、お前の方だ。辛気臭せえ顔しやがって」
 「そりゃ、必死ですから」
 「だから、らしくねえんだよ。
 俺の知っているお前は、そんな辛気臭せえ顔してコートに立つ奴じゃなかった。どんなに練習がきつくても、試合で追い込まれても、どっかでその状況を楽しんでいる。清々しいまでのテニスバカだ。
 ところが、今のお前は何だ? さっきだって、試合に勝っても笑いもしねえし。ムカつくほど平然としていただろ?」
 確かに千葉の言う通りである。今の透にテニスを楽しむ余裕はない。ただ強くなることしか考えず、それ以外の感情は邪魔になるとさえ思っている。
 「トオル? お前、何かあっただろ? ナッチのことか?」
 この先輩に隠し事をしても無駄である。透は読みかけの冊子を閉じると、帰国以来、自分ひとりの胸に留めていた想いを打ち明けた。
 「向こうでかなり荒れた生活を送っていたんです。警察沙汰にならなかっただけで、何人もの人を傷つけているし。
 俺のいたストリートコートは、賭博、強盗、傷害、なんでもアリで、街の皆からはゴミ溜めって呼ばれていました。
 最初のうちは俺も出入りするのに抵抗があったけど、三年も経てば当たり前になってきて……」
 平穏無事な日々に戻った今だからこそ、アメリカでの生活がいかに荒んだものであったか、よく分かる。
 己が夢を叶えるための砦としていたあの場所は、それぞれ事情はあるにせよ、世の中の仕組みからドロップアウトした者達の溜まり場だ。自分達が自由を手にする為に余計な制約を取り払った結果、警察も安易に介入できない程の無法地帯となったのだ。
 「俺はそのストリートコートでリーダーをやっていました。ヤンキー同士の縄張り争いなんて日常茶飯事で、喧嘩の合間に練習するような毎日で。
 それでもテニスを続けていられるだけで幸せだったし、帰国したら何もかも元通りになると思っていました。
 俺の考えが甘かったんです。同じ場所に戻って来たって、時間まで戻せるわけがないのに」
 「けどよ、向こうで酷い生活を送っていたとしても、もう過去の話だろ?」
 「いくら過去でも、事実は事実です。どんなに環境を変えても、事実は変わりません。
 彼女に気持ちを伝えるつもりで帰国したんですけど、やっぱり俺……一緒にいても迷惑かけるし、傷つけるかもしれないし。いえ、きっと彼女を傷つけます」
 話をしながら、透はこれが自身の下した結論だと自覚した。
 宮越の一件は単なる切っ掛けに過ぎず、本当は奈緒と話をしている時から、少しずつ感じていた。
 彼女は変わらずにいてくれたのに、自分は変わらずにいることが出来なかった。彼女に釣り合う男になるどころか、人に言えないような過去まで背負っている。
 全ては己の弱さが招いた結果である。こんな自分に彼女の隣に立つ資格などあろうはずがない。
 「アホか、お前は!」
 千葉がコーラのボトルで、透の頭をスコンと叩いた。中身は空だが、底の硬い部分が直撃したせいか、ペットボトルのわりには痛かった。
 「ナッチがどんな想いでお前の帰りを待っていたか、知ってんのか?
 この三年間ずっと、毎日、毎日、フェンスの外からコートの中を覗いて、いねえって分かってんのに、一面ずつ見て歩いてさ。
 朝練も、午後練も。雨の日なんか、部室まで確かめに来るんだぜ。
 帰るかどうかも知れねえ奴を、こんな風に待っていてくれる彼女なんて、今時いねえだろ?」
 「だから、余計に言えなかったんです。俺には他に彼女がいたから」
 清算したはずのモニカとの恋も、今となっては裏切り行為に思えてくる。
 三年前に贈った安物のストラップを、いまだに宝物として持っていてくれた。レモンティーが好みであることも覚えていてくれた。
 本来なら喜ぶべき会話の一つ一つが、一途な奈緒の想いを知るたびに、罪悪感に姿を変えた。
 「マジで?」
 「はい、短い間でしたけど」
 過ちとは言い切れなかった。あの時は、本気でモニカと生きていこうと決心したのだ。自らリストバンドを外したことが何よりの証拠である。
 錯乱状態の中で、自分を裏切り、奈緒を裏切り、結果的にモニカまで裏切った。ただの過ちと言い切るにはあまりに罪深く、過去と割り切るには生々しい爪痕がまだ心の奥に残っている。
 「それぐらい許してくれんじゃねえのか? ナッチと正式に付き合っていた訳じゃないんだし、浮気とは言えねえじゃん?
 たぶん、セーフだ。セーフ! ナッチなら、そう言ってくれる。肝心なのは今だから」
 どうにか二人の仲を取り持とうとする千葉の好意は嬉しいが、透が奈緒を遠ざける理由は他にもある。
 「いえ、これで良いんです。ペアを組んでいる唐沢先輩のためにも、迷惑をかけている皆のためにも、今は強くなることだけ考えないと」
 「本当にそれで良いのかよ?」
 「俺、約束したんです。唐沢先輩とインハイ行くって。だから……」
 「昔っからお前は、言い出したら聞かねえからな」
 半ば呆れ顔で前置きしてから、千葉が真顔になった。
 「お前の気持ちは分かった。もう何も言わねえよ。
 だけど、これだけは約束してくれ。
 何かあったら、真っ先に俺に相談すること。絶対に独りで抱え込むなよ?」
 「ありがとうございます、ケンタ先輩」
 透は親身になってくれる先輩を安心させたくて、無理に笑顔を作って見せた。上手く出来なかったかもしれないが、気持ちは伝わったらしく、千葉も笑顔で応えてくれた。
 「一応、これでも副部長だからな。つっても、今のところ雑用と苦情しか来ねえけど。
 だから、その……なんだ。お前だけでも頼りにしてくれたら嬉しいじゃん?」
 「はい。先輩に話を聞いてもらったおかげで楽になりました。
 じゃあ、俺、そろそろ行きますね。コーラご馳走様でした」
 「トオル、俺はいつでもお前の味方だかんな! 忘れんなよ!」
 コートに向かう透の背後から、千葉の力のこもった声が響いてくる。軽く手を挙げて応えたが、透の意識はすでにコートの中にあった。
 少しでも早く。誰よりも強く。そのせいか、後から千葉が漏らした本音までは気付く余裕もなかった。
 「だから、痛い嘘、吐いてんじゃねえよ」


 唐沢から練習試合の説明を受けた伊東兄弟は、二人して顔を見合わせた。
 「明魁と当たったつもりで掛かってこい」
 試合に際して二人に下された指示は、実に簡易なものだった。いつもなら課題とするフォーメーションまで細かく指図する部長が、一体、どうした事だろう。
 「なあ、太一? 結局、俺達は何をどうすれば良いわけ?」
 乱暴に掻き上げられた金髪の下から、陽一朗の見事な膨れっ面が現れた。自分の理解を超える問題に直面すると、すぐに弟はこの顔で太一朗に意見を求めてくる。
 「たぶん『本番だと思って試合に臨め』って事じゃないかな?」
 「じゃあ、本気出せば良いってこと?」
 「そういうことだと思うけど……」
 弟の陽一朗よりもいくらか思慮深い太一朗は、指示の内容そのものよりも、こんな指示を下した唐沢の真意を計り兼ねていた。
 この練習試合は、透にダブルスの基本を教えるためのメニューだと聞いている。それを本気でかかれと指示するからには、何か特別な意図があるはずだ。
 自分達が本番さながらにプレーをするということは、相手の弱点を容赦なく攻め立てるということで、つまりそれは、出来上がったばかりの唐沢・真嶋ペアの最も崩しやすい部分 ―― ダブルス経験の乏しい透を集中攻撃することに他ならない。
 「なぜ……?」
 太一朗は自分で導き出した結論に戸惑いを隠せなかった。仮にも透の指導を自ら買って出た唐沢が、そんな無茶な指示を出すとは思えない。ここはひとまず様子を見るのが得策か。
 ところがコートに入る直前、唐沢が太一朗に鋭い視線を投げてよこした。
 切れ者と恐れられる部長のことだ。こちらの考えも見抜いているのだろう。
 彼は太一朗が視線に気づいたと見るや、厳しい目付きのままで深く頷いた。
 悲しいかな、入部当初から唐沢とは師弟関係にあるだけに、黙っていても意思の疎通が出来るし、またその事を互いが知っている。あの威嚇にも似た表情(かお)は「手を抜くんじゃない」とのお達しだ。
 こうなっては仕方がない。あまり気の進まぬ役目だが、部長命令だと思ってやるしかない。
 大いに罪の意識を感じつつも、太一朗は前衛が動きやすいようにセンター寄りにサーブを放った。

 弟の陽一朗とは、中等部の頃から数えて四年以上もペアを組んでいる。大まかな打ち合わせさえしていれば、互いがどのタイミングで何をするつもりなのかは分かっている。
 単純な弟は「本気でやれ」と言われれば、容赦なく攻撃を仕掛けるに違いない。彼は太一朗のように思慮深くはないが、その反面、割り切りの良いタイプである。
 ゲーム開始早々、陽一朗が透にターゲットを絞って餌をばら撒いた。
 前衛と後衛の隙間を探し出し、そこに彼を誘導するようにボールを落として、拾わせる。そして散々振り回した後で、トドメとばかりに得意のボレーでピシャリと決める。
 粘りに粘った挙句、手出しのしようのない鮮やかなボレーでポイントを取られれば、精神的も肉体的にもダメージは大きい。それを相手の限界が来るまで繰り返す。
 要するに、両輪で走行すべきダブルスの片輪を消耗させて潰すのだ。
 ダブルスにおいて、パートナーが潰されるほど怖いものはない。動きの止まったパートナーの存在は、ゼロを通り越してマイナス要素となるからだ。
 動きの鈍いパートナーを攻撃されれば失点がかさんでいく。仮に残りの選手がカバーに入ったとしても、二対一の勝負では分が悪い。
 いずれの道を選択しようと、片輪となったペアに勝機はなく、自滅の一途を辿るしかない。だからこそ、ダブルスは互いの役割分担を頭に入れて、常に両輪が機能するよう計算して動かなければならない。
 この基本的な心得を伊東兄弟に分かりやすく指導してくれたのが、いまネットを挟んで対戦している唐沢だ。
 ところが、彼にはパートナーをフォローする気が見られない。マニュアル通りの決められたポジションを陣取り、フォローどころか、通常よりも明らかに狭い範囲でガードを固め、残りの空いたスペースは放置である。
 このままでは、透は確実に潰れてしまう。太一朗の不安は、ゲームを重ねるごとに募っていった。
 「『ウ吉』の奴、思ったよりしつこいなぁ。どうする、太一? もうちょっとペースアップしてみる?」
 兄の心配をよそに、負けず嫌いの弟は粘りを見せる透に負けじと、闘志を燃やしている。
 現在ゲームカウントは「2−4」で、自分達が2ゲーム分リードしている。もしも相手が本当に明魁学園の選手なら、点差を広げるチャンスであり、太一朗も異存はない。だが、しかし――。
 反対側のコートでは、透が健気にも両足のスタンスを広くして立っていた。息が上がり、顔もまともに上げられない状態では、踏ん張るようにして構えるしか体を支える術がないのだろう。激しく上下する両肩が彼の疲労の度合いを物語っている。
 四年間、ダブルス一筋の熟練ペアを相手に実質一人で戦っているのだから、こうなるのも無理はない。むしろ、ここまで持ち堪えているのが不思議なくらいだ。
 「いや、このままでも……」
 自滅するだろうと言いかけて、太一朗は再び鋭い視線を感じて口ごもった。唐沢が試合前と同じように、睨みを利かせている。
 まるでイジメに加担しているような罪悪感が太一朗を襲った。放っておいても自滅するであろう後輩に、追い討ちをかけるような真似はしたくない。
 だが、唐沢はここにいる誰よりもダブルスを熟知している。自分達が光陵テニス部のダブルスの要と呼ばれるまでに成長したのも、彼の指導の賜物だ。
 唐沢にはきっと何か深い考えがあるはずだ。この信頼だけを頼りに、太一朗は弟にペースアップのサインを出した。

 最後の2ゲームの内容を、透は覚えていなかった。限界に近づいた体と、朦朧とする意識の中で、自分の動きが空回りしている。それだけは自覚があったが、どういう過程を辿って失点したかは分からない。
 必死に喰らいついているのに、ことごとく空回りする屈辱を久しぶりに味わった。あれは遥希とだったか。京極とだったか。ジャンとだったか。
 今までに強いと感じた選手の顔が次々と浮かんでは消えていく。そして気付いた時には、悪夢のような練習試合は終わっていた。
 試合終了と同時に、唐沢が険しい表情で歩み寄ってきた。
 「真嶋、今の試合の敗因は何だ?」
 「すみませんでした。こんな結果になって……俺のせいです」
 「謝罪は必要ない。俺が聞きたいのは、敗北に繋がった具体的な原因だ」
 「俺の対処が甘くて、動きも悪くて、特に平行陣になった時に後手に回ることが多くて、それから……」
 噴出す汗を拭うことなく、透は考えられる敗因を一つひとつ挙げていった。
 「もっとロブも上手く使えれば良かったんですけど、陽一先輩に捕まってからは振り回されてばかりで、体力もなくて。あとは……」
 「もう良い、分かった」
 途切れ途切れの自己分析を最後まで聞かずに、唐沢が背を向けた。
 「答えが分かるまで、お前は練習に来なくて良い」
 一瞬にして、コート全体が静かになった。他の部員達も一斉に動きを止めて、無慈悲な命を下した唐沢を凝視した。
 「ちょ、ちょっと待ってください、唐沢先輩!
 俺が未熟なのは認めます。これからは先輩の足を引っ張らないように、もっと頑張ります。だから……」
 「言ったはずだ。俺に『がんばりました』は通用しないと。コートに戻りたければ結果を出せ」
 「でも、練習に出ないで結果を出すなんて……」
 「分かったら、さっさと出て行け。練習の邪魔だ」

 敗北したとは言え、あまりの物言いに周りの部員達からは不満の声が上がった。但し、あくまでも部長に聞こえない程度の小声であるが。
 不穏な空気の中で、太一朗はまだ唐沢の真意を探っていた。
 こうなる事は、彼にも予測できたはずである。と言うより、彼の指示のもと、なるべくしてなった結果である。
 「部長、これで本当に良かったんですか?」
 居たたまれなくなって、太一朗はネットの向こう側にいる唐沢に詰め寄った。視界の端では、体を引きずるようにしてコートから出て行く後輩の姿が見える。
 「これが部長の意図したことですか!?」
 ダブルスの師と仰ぐ先輩を相手に、抗議めいた口調になっているのが自分でも分かった。だが、声を荒らげずにはいられなかった。
 「ああ、完璧だ。太一、ご苦労さん」
 拍子抜けするほど冷静な唐沢の態度から、全て計算尽くだと判断した太一朗は、試合前から抱えていた疑問を投げかけた。
 「どうして、あんな指示を? 経験の浅い真嶋を潰すような真似を?」
 「文句なら副部長に言え」
 「いえ、文句じゃなくて……これは真嶋にとって必要な試合だったんですか? 潰す目的じゃなく?」
 「さあな」
 「さあなって、そんな!」
 「何度も言わせるな。クレーム処理は副部長の担当だ。
 それから太一。もしも答えが分かっても、絶対に他の連中には漏らすなよ」
 先程よりも凄みの利いた目で睨みつけると、唐沢はざわつく部員達を静めることなく、さっさと練習に戻っていった。
 「大丈夫だ、太一」
 唐沢への信頼と不安の間で揺らぐ太一朗に、声をかけてきたのは千葉だった。
 「あの人のことだから、何か考えがあるはずだ」
 「俺だって、部長を信じたいさ。信じたいけど、あんなやり方で真嶋が育つとは思えない。
 練習に来なくて良いなんて。もしも戻って来なかったら、どうするつもりだ?」
 「なあ、太一? 俺は、ダブルスの事は分かんねえけどさ。部長に関しては、お前より知ってんぜ」
 「なにを?」
 「昔から、あの人が勝負を賭けた馬は負けたことがねえんだよ」
 「今はギャンブルの話をしている場合じゃないだろ? 少しは真嶋の気持ちも考えてみろよ」
 「鈍い奴だな。だから帰って来るって。あいつも必ず。
 俺はトオルに賭けた部長を信じる」
 千葉は自信満々で話しているが、太一朗は不安を拭い去ることが出来なかった。
 ダブルス経験の長い自分でさえ判然としない答えを、果たして経験の浅い透が自力で見つけることなど出来るのか。
 よろよろとした足取りで部室へ向かう後輩の後ろ姿が、夕日のせいか、太一朗の目には満身創痍で戦線離脱を余儀なくされた哀れな落伍者にしか見えなかった。






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