番外編 軍師と勝負師

 とても色の白い軟弱そうな少年だった。
 ジャージの皺が縦に波打つほどの細い体と、ココア色した茶髪も含め、藤原慎悟が抱くイメージ通りのテニス部員。
 つまりは己の肉体を鍛えるよりもルックスばかりを気にする体育会系の風上にも風下にも置いてはならぬ人種であり、科学部などのインテリ文化系部員に次いで話の合わないタイプであった。
 「テニス部員が陸上部の俺に何の用?」
 自然と口調にも警戒心が表れる。
 実際、皆目見当もつかなかった。
 藤原の卓越した身体能力を見込んでよその部の上級生がスカウトしに来ることはままあるが、それは本気で自分たちのチームを強くしたいと願う志の高い連中の話であって、目の前の少年からはそうした意欲の欠片も見られない。
 「うん、あのね。怒らないで聞いて欲しいんだけど……」
 おずおずと話し出す口調には志どころか覇気もなく、だからこの後に続く無遠慮な台詞が彼のものとは思えず、何度も聞き返す羽目になったのだ。
 「君、テニス部に入らない?」
 「えっ?」
 「硬式テニス部」
 「は?」
 「もしかして、頭悪いの? 筋肉バカってヤツ?
 ゴメン。だったら、いいや。今の話は聞かなかったことにして」
 「おい、ちょっと待てよ! バカって何だよ!?」
 確かに藤原の成績はトップクラスとは言えないまでも、文武両道に恥じない範囲に収めている。初対面の軟弱男にバカ呼ばわりされる筋合いはない。
 そもそも誘っておいてすぐに撤回するなど、失礼極まりない行為である。
 「おい! 待てってば!」
 何事もなかったかのように去ろうとする少年の肩を、藤原は強引に引き止めた。
 「話の途中で止めんなよ。俺、そういうの、すっげえ気になんだよ!」
 白いジャージの上から掴んだ肩は想像通りのか細さで、筋力と男の価値とが比例する体育会系において互いの優劣を一瞬で知らしめる「勝負あった」の場面のはずだった。ところが――。
 「だから?」と言って振り向いた彼の肩は、藤原が伸ばした指の数センチ先にある。触れたと同時にかわされたのだ。
 「だから、その……事情ぐらい話していけよ」
 いつの間にか入れ替わった上下関係に理不尽さを抱きつつも、藤原は質問を重ねた。
 「お前、テニス部だろ? 先輩に言われて、俺のこと誘いに来たんじゃねえのかよ?」 
 「う〜ん、ちょっと違うかな」
 「だったら、何だよ!? つか、誰だよ?」
 「唐沢海斗。テニス部一年。事と次第によっては、もうすぐ辞めさせられちゃうけどね」
 これが後に光陵テニス部をインターハイまで導く両雄の、偶然にして謀られた出会いであった。

 唐沢という名は光陵学園に入学して四ヶ月足らずの藤原でも、何度か耳にしたことがある。
 徹底した実力主義でテニス部の内部改革を行なったと噂の凄腕部長が、確か唐沢だ。目の前に立つ一年生は部長の弟に違いない。
 話し方から体格まで、瞬時に周りの者を圧する兄とは対照的だが、横一直線に筆を入れたような切れ長の目元だけは血の繋がりを感じさせる。
 彼が部長の弟だとすれば、兄貴に言われて来たのか。
 鮮やかな撤収振りから見ても本人の意思ではないようだが、だからと言って「もうすぐ辞めさせられる」弟にスカウトを頼む部長がいるとも思えない。
 数々の疑問が渦巻くものの、下手にこちらから質問をすれば先程のように相手のペースに乗せられる。
 小学生の頃から短距離レースで鍛えられた嗅覚が、唐沢から発せられる特異な匂いを察知して、警報を鳴らしている。難敵のみに発動する勝負師の勘というヤツだ。
 急に言葉少なになった藤原を不審に思ったのか。今度は唐沢が質問する側に回った。
 「藤原君って、呼んで良いかな?」
 「ああ」
 「ずっと陸上やっていたの?」
 「そうだけど?」
 「球技は?」
 「体育以外でやったことねえよ」
 「だったら、俺と勝負しない?」
 藤原は「え」の形になりかけた唇を慌てて引き結んだ。ふたたび「筋肉バカ」のレッテルを貼られるのは御免である。
 ところが続けざまに出された唐沢からの提案に、堪らず驚きの声が漏れる。
 何故なら、テニス部だからこそ通用するような優男が陸上部期待のルーキーに向かって抜けぬけとこんな台詞を吐いたのだ。
 「心配しなくて良いよ。君の得意な陸上競技で勝負するからさ」

 訳が分からなかった。唐沢が自分に近づいてきた目的。勧誘しようとして急に撤回した理由。そして不利な勝負をわざわざ吹っかけてくる意図も。
 ただ即答で断ろうとしなかったのは、勝負師の勘が正常に働いているか、否か。今後の参考までに見届けたいと思ったからである。
 しばらく間を置いてから、藤原は自分なりに出した結論をストレートにぶつけた。
 「お前、陸上ナメてんのか?」
 「いいや。かなり分の悪い勝負になると思っているよ」
 「だったら、どうして?」
 「その代わり条件がある。まったく勝ち目のない勝負で、一つで良い。俺が君に勝ったら、言うことを聞いてくれる?」
 「テニス部に入れってことか?」
 「うん、まあね。だって君が今まで苦労して磨き上げた能力を、部外者の俺達に預けてくれと言っているわけだから、それぐらいのリスクを背負わなくちゃ失礼でしょ? 君にも、陸上部の人達にも?」
 一応、話の筋は通っている。
 唐沢がスカウトする側に必要な最低限の礼儀をわきまえていることも、藤原の秀でた身体能力のみならず、そこに至るまでの努力を買ってくれていることも、意外ではあるが得心のいくものだった。
 人より速く走れる能力は、天賦の才だけで維持できる安易な代物ではない。
 「五番勝負でどうかな? 五種目とも君が決めて良いよ」
 一思案した頃合を見計らって、唐沢が遠慮がちに話を進めた。
 「本当に良いのかよ? 先に断っておくけど、俺は勝負事に関して容赦はないぜ?」
 「分かっているよ。だから君に決めたんだ」
 「だったら遠慮なく。まずは幅跳び、高飛び、中距離はそうだな、1500メートル」
 「あとは?」
 「ハードルと最後は短距離100メートルでどうだ?」
 先の言葉通り、容赦なく並べられた陸上部員専用の豪華メニューに、さすがの唐沢も怖気づくかと顔色を窺うと、彼はにこやかな笑みを浮かべて、こう答えた。
 「君って、本当に陸上が好きなんだね。羨ましいよ」
 「えっ?」と聞き返そうとして、どうにか踏み止まった。但し、今度は低能扱いされるからではなく、にこやかに思われた笑みの中に、ほんの少し気になる影が見えたから。
 「羨ましい」とは、どういう意味なのか。
 初めて会った時に感じた二人の温度差が、体育会系特有の気合とか根性の有無ではなく、もっと別次元の、それも深刻な事情が絡んでいるような気がしてならなかった。

 唐沢との勝負は予想に反して手間取った。
 夕方から始めて、双方の部活動に支障の出ないよう休憩時間の合間を縫って行なうために、四種目を終える頃にはすっかり日の暮れる時間になっていた。
 無論、テニス部、陸上部ともに、帰り支度を始めている。
 「なあ、唐沢? もう、この辺にしておけば?」
 自分がリクエストしたメニューとは言え、この時すでに藤原の中で勝負に対する興味は失せていた。
 現役陸上部員と優男では実力の差があり過ぎて、簡単に決着がついてしまうのだ。
 しかも最終種目は藤原のもっとも得意とする短距離走だ。やる前から結果は見えている。
 しかし、ひたすら連敗を続ける唐沢は、頑として首を縦には振らなかった。短距離走は自分の得意種目であることも、グラウンド整備が終了していることも伝えたが、彼の意思は変わらない。
 「なんでだよ? お前にだって、結果は分かってんだろ?」
 予てよりの疑問が、藤原の口からついて出た。
 つまらない勝負に時間を割いたとしても、何の得にもならない。スカウトを命ぜられた唐沢にとっても、際どい勝負にのみ価値を見出す藤原にとっても。
 日没を知らせる薄紫の残照が、人気のないグラウンドとそこに立つ二人を同時に染めていく。
 だが、藤原の目には唐沢のほうが色白の分だけトーンダウンして見えた。
 「ゴメンね、藤原君。でも、もう逃げたくないんだ。勝負からも、自分からも」
 紫がかった横顔には、先程と同じ笑みが浮かんでいた。笑っていても泣いているようなひどく物悲しい笑みが。
 「あのさ、良かったら事情を話してくれよ。テニス部に入るつもりはねえけど、何か力になれるかもしんねえし」
 根っからの体育会系気質の上に、『寅さん』ファンの祖父の影響で江戸っ子気質も備わる藤原は、お節介と知りつつもこの状況を見過ごすことが出来なかった。
 「実を言うとね、これが最後の勝負になるかもしれないんだ。テニス部員としての。
 だから逃げたくない」
 「どういうことなんだ? さっきも『もうすぐ辞めさせられる』とか言っていたけど?」
 唐沢の話によると、彼は大事な大会で勝手に試合放棄した罰として、一度は部長から退部を言い渡されたが、彼の親友とコーチが先輩たちとの間に入って取り成した結果、皆に迷惑をかけた償いにテニス部に有益となるような土産 ――恐らく藤原のことだと思うが―― を連れてくるよう命ぜられたという。
 「テニス部ってさ、随分やくざな世界だな? 俺が思っていたのと違う」
 「うん。正直、俺もちょっと苦手なんだ。先輩達、みんな怖くって」
 「確かに、お前みたいに気の弱そうな奴にはキツいだろうな」
 「たぶん、この勝負が最後になると思う。だから勝ち負けに関係なく、逃げたくないんだ」
 「ようし、分かった! だったら、最後の勝負はお前の好きな種目にしろよ」
 何故この時、こんな譲歩をしたのか、藤原にも分からない。強いて言うなら、勝負の世界に身を置く者の仁義だろうか。
 最後ぐらい味あわせてやりたい。互角の勝負でこそ得られる上質な興奮を。もうすぐテニス部を追い出されるであろう彼にも知っておいて欲しかった。
 困惑顔の唐沢に向かって、藤原は尚も続けた。
 「勘違いするな。負けてやろうなんて思っちゃいない。だから種目は球技以外。
 これならイーブンだろ?」
 「本当に良いの?」
 「男に二言はねえよ。それに俺も最初から勝つと分かっている勝負じゃつまんねえし」
 「じゃあ」と言って唐沢が提案してきた種目は、熱い勝負を好む勝負師には地味に思えたが、常日頃から体を鍛えることを趣味とするアスリートの自尊心を上手い具合にくすぐるものだった。
 反復横跳び。しかも測定時間はいつもより長めの五分間――。

 「か、唐沢……お前、はめ……はめただろ?」
 五分後、無残な結果とともにテニスコートに転がっていたのは、体力自慢の藤原のほうだった。
 自分を勧誘しに来た経緯を知って情の移った藤原は、唐沢の「グラウンド整備の後だからテニスコートに場所を変えよう」との提案にも、「履き慣れたテニスシューズに履き替えたい」との要求にも、何の疑いもなく頷いた。
 光陵学園中等部のテニスコートは「クレー」と呼ばれる土を固めて造られたコートだが、プロの試合で見るような手入れの行き届いた赤土のそれとは違い、年中グラウンドからの砂埃が通過する非常に滑りやすい場所だった。
 クレーコート専用のブレーキングの利くシューズに履き替えた唐沢と、軽量重視で横方向に踏ん張りの利かないシューズを履いたままの藤原。
 おまけにテニス部員は筋力トレーニングのみならず、普段からサイドステップでの移動を基本として動いており、仮に測定時間を通常の五倍に延ばしたとしても、他のスポーツ選手と比べてペースダウンする率は極めて低い。
 この勝負、唐沢が「場所を変えよう」と提案し、藤原がそれを受け入れた時点で、すでに勝敗が決していたのである。

 「君が本物の勝負師で良かった」
 表情の乏しかった唐沢から、初めて感情らしきものが見えた。腹立たしいまでの笑みである。
 「最初から計算ずくだったのか?」
 「うん、まあね。でも、無理にとは言わない。やる気のない部員は練習の邪魔になるだけだから。ついでに筋肉バカもね。
 ただ俺がどんな戦い方をするのか、君に見てもらいたくて。その上で、改めてスカウトしようと思っていた。
 藤原君、俺たちと一緒に頂点目指さない?」
 「頂点って、お前等もしかしてインハイ目指してんのか?」
 「うん、それも優勝を。だから、そのためにも君が必要なんだ」
 「その前に一つ聞きたい。何で俺なんだ? テニスなら他にも経験者がいるだろ?」
 「テニスの技術は入部してからでも身につけられる。うちにはプロのコーチもいるし。
 俺が求めているのは選手としての資質。君のようなギリギリの勝負でこそ嬉々として能力を発揮する本物の勝負師が欲しかった」
 「それなら、お前で充分だ」
 「いいや、俺は勝負師じゃない。君のように勝負の質にこだわりはないからね」
 「じゃあ、お前のこだわりは?」
 「俺のこだわりは勝利のみ。どうやって勝つかは二の次だから」

 翌日、潔くテニス部に入部届けを出しに行った藤原は、そこで唐沢の着ていた白いジャージがレギュラーのみに許される名誉あるユニフォームであることと、中でも彼は一年生にしてすでに軍師と称されるほどの切れ者であることを聞かされ、初めて謀の真相を知るのであった。
 「負ける勝負は挑まない」が軍師・唐沢の信条で、彼に勧誘を命じたという“やくざな先輩達”は、すでに引退した三年生を含め、どこにもいなかった。