番外編 ハルキの受難

 その日は二月にしてはうららかな上天気であった。太陽まで浮かれているのかと疑いたくなるほどに。
 そもそも、なぜこんな日がクリスマスと同等の立場であるかのように「St.」と銘打ち、もてはやされているのか。
 中学一年生にしていまだ初恋の経験すらない遥希には、皆目見当もつかなかった。
 同級生の中には「年に一度の男の真価が問われる日」などと息巻く輩もいるが、女子から気まぐれに渡されるチョコレートの数が、日々の努力によってもたらされる勝利より誇らしいとは思えない。
 学校中が妙にそわそわしている今日は二月十四日。遥希がもっとも存在意義の理解できないバレンタインであった。
 それ故、はじめは分からなかった。テニス部の早朝練習の直後、いきなり部室の前で渡されたチョコレートの意味が――。

 「なんで、俺?」
 開口一番、遥希が彼女に向けた台詞は、これだった。
 しかし相手が二年生のマネージャー・柏木樹里であることから考えて、この質問はあながち的外れとも言えない。
 なぜなら樹里が好意を寄せる相手はすでに引退した元副部長の唐沢海斗であり、逆に好意を寄せられているのは現部長の千葉健太で、絵に描いたような見事な三角関係に部外者が入れる余地などどこにもないからだ。
 では、この「St.Valentine's Day」と印字された高級感あふれる包みは何なのか。
 先の質問に、樹里が当然とばかりに家庭の事情を口にした。
 「私、いまから急用で病院へ行かなくちゃならないの。弟が学校でケガしちゃってね。
 お母さんも出かけているから、私が行くしかないのよ」
 「で、なんで俺?」
 「午後練に出られないからに決まっているでしょ」
 「だから、なんで……」
 遥希は根気強く同じ質問を繰り返したが、明確な意思を示す態度とは裏腹に、樹里から返ってくる答えはどれも話の核心から大きく逸れていた。
 マネージャーとは言え、彼女も一応先輩だ。同級生であれば遠慮なく真意を問いただせるものを、相手が先輩となると、言葉も態度も控えなければならなかった。
 一向に解決の糸口の見えない説明を聞きながら、遥希はかつてのライバルを思い浮かべていた。
 去年の春に越してきて、夏には渡米すると言って、たった四ヶ月で去っていった。最近、ふとした拍子に彼のことを思い出す。
 開けっ広げで図々しい物言いに腹を立てたことは数知れず、相性は最悪だと思っていたのだが、他人にも自分にも嘘のない生き方を羨ましいとも思っていた。自分も彼のように生きられたら、窮屈な毎日も少しは違って見えるかと。
 いまのこの状況も、彼なら物怖じせずに「これって高そうに見えるけど、義理チョコですよね?」と問いかけて、さっさと疑問を解決しているに違いない。
 「あの、樹里先輩? これって……」
 言いかけたところへ、二年生の中西が通りかかった。
 普段から無口な中西は、遥希の手元を見るや、不倫現場を目撃したかのように息を呑み、瞠目したまま無言で立ち去った。
 「ち、違います、中西先輩。これは……!」
 とっさに遥希は包み紙を後ろ手に隠して弁明を試みるも、無情にもその試みは、通常の倍の速さで閉められた部室の扉によって阻まれた。
 しかも余計なことに気を取られているうちに、樹里は「ハルキ君から渡して!」と言い残し、校門前に待たせてあったタクシーに乗り込み、去っていった。
 「渡して? 誰に?」
 走り去るタクシーから、かろうじて「メールで伝えた」との手がかりはもらえたが、恐らくメールの相手はチョコレートの受取人であって、遥希の可能性は万に一つもないだろう。
 まさか自分がバレンタインにチョコレートをもらうとは。
 そして人生初のチョコレートが本命でも義理でもなく、自分以外の誰かのために用意された預かり物とは。
 要するに、遥希はパシリに使われたのだ。
 「まったく、こういう役回りは……」
 尖った口先から漏れ出る溜め息を、慌てて押し込める。あとに続く言葉を、いまから登校してくる級友たちに聞かれたくなくて。

 授業中も、昼休みに入ってからも、遥希は机の中に受取人不明のチョコレートを隠し持っていた。
 あのあと、何度も樹里に連絡を入れたが、携帯電話の電源を切られたようで、彼女からの返事は来なかった。
 誰のものだか分らぬチョコレートを下手に持ち歩くのは危険である。もう少し、もう少しと返事を待っているうちに、昼休みになっていた。
 送り主がマネージャーであることと、チョコレートを託された経緯から察するに、相手はテニス部の誰かに違いない。
 この場合、部長の千葉への義理チョコの線が濃厚だが、三角関係の一端にいる人間に安易に渡せるはずもなく、万が一、傷つけるような結果に終わったらと思うと、つい二の足を踏んでしまう。
 しかしグズグズしている暇はない。昼休み中にどうにかしなければ、こんな厄介なものを抱えて午後の練習に出ようものなら、先輩たちから何を言われるか分からない。
 仕方なく遥希は三年生の藤原のクラスへ向かった。
 藤原とはとくに懇意にしているわけではない。
 ただ、三角関係の外にいて、下手に騒ぎ立てすることなく、この手の問題に気軽に答えてくれそうな先輩が他にはいなかった。
 「ケンタの線はねえから、成田じゃねえの?」
 用心深い遥希とは対照的に、藤原の下した結論は実に短絡的なものだった。
 「普通、マネージャーが義理チョコを渡す相手と言えば、部長だろ?
 けど、質より量のケンタに高級チョコはあり得ねえ。だから、元部長の成田で決まりだな」
 自信ありげに答える藤原を前にして、遥希はつくづく羨ましい性格だと思った。
 彼の思考は常に「右でなければ左」であり、「白でなければ黒」なのだ。
 そこに斜めであるとか、中間色があるとは夢にも思わない。
 その考えは彼のプレースタイルにも反映されており、打ったら出る、出たら攻めるの速攻型で、それで負けたとしても「力及ばず」と割り切れるタイプの選手である。

 大雑把な消去法によって出された結論を鵜呑みにするつもりはなかったが、これといった手立てもなく、結局、遥希は直接成田に尋ねることにした。
 ところがチョコレートの話題を口にした途端、成田の顔つきが変わった。
 どんな困難に直面しようと決して動じず、冷静に事を進める先輩が、瞼と唇を同時に瞬かせている。
 自分にも部員にも厳しい成田のことだ。「お前には他にやるべきことがあるだろう」と一喝したいに違いない。
 実際、遥希もそう思っていた。
 バレンタインなんか、くだらない。たかがチョコレートに一喜一憂する奴等の気が知れないと。
 「すみません、成田先輩。いまの話は忘れてください」
 ばつの悪くなった遥希が短い謝罪を残して去ろうとすると、背後から腕を掴まれた。
 「こんな日に、そんな顔してウロウロしてたら、いろいろと構いたくなるじゃない?」
 「滝澤先輩!?」
 面倒な先輩に捕まったものだ。成田とのやり取りを聞きつけて、となりのクラスの滝澤が頼みもしないのに首を突っ込んできたのである。
 部内きっての情報通が、この手の話題を放置しておくはずがない。
 滝澤は成田に「この子、借りるわよ」と断りを入れたが、遥希本人には何の断りもなく、人ひとりを抱えているとは思えぬ身軽さで、屋上へと続く階段を上っていった。
 細身の彼のどこにこんな力があるのか。
 滝澤に引きずられながら、遥希はかつてのライバルも同じように捕まっていたのを思い出し、「なるほど、そういうことか」と得心した。
 当時は捕まるほうがマヌケだと思っていたが、実際にやられてみるとよく分かる。
 滝澤は長身を活かして、遥希を背後から肘ごと引っ張り上げているために、捕らえられた側は抗おうにも踏ん張ることさえ叶わず、必然的に同行せざるを得ない状況に追い込まれてしまうのだ。
 しっかりとロックされた肘が利き腕であることも、偶然ではないだろう。

 滝澤に引きずられる格好で屋上まで上がると、そこは朝よりもっと浮かれた陽気になっていた。
 明らかに誰かに呼び出されたと丸分かりの挙動不審な男子生徒や、扉が開くたびに意味不明な悲鳴を上げる女子集団。
 くだらない行事に労を費やす連中をバカにするつもりはない。興味の対象も、情熱の在り処も、人それぞれなのだから。
 ただ間違っても自分は彼等と交わることはない、と断言できる。チョコレートごときに振り回されるのは御免である。
 遥希はいま一度、抵抗を試みた。
 すると、ロックされていたはずの肘は難なく外れ、同時に前を歩いていた滝澤が「余計なお世話だったかしら」と言って振り返った。
 「さっきの様子じゃ、海斗のところへ直行すると思ってね。かなり切羽詰まっているように見えたから」
 「いくら何でも、そんな無神経なことはしませんよ。アイツじゃあるまいし」
 「アイツ?」
 「いえ、何でもありません」
 これ以上、余計な詮索をされては堪らない。遥希は右肘がまだ痛むふりをして、そっと滝澤から背を向けた。
 「今日は、一年のうちで海斗がもっとも不機嫌になる日」
 遥希の背後から物憂げな溜め息が聞こえた。
 理論派の先輩とはおよそ似つかわしくない溜め息が気になって視線を戻すと、滝澤はフェンスに体をもたせかけ、上空のどこともつかないうららかな日差しに目を細めていた。
 「彼、相手が女子だから我慢して受け取っているけど、男には容赦がないの。
 知っているでしょう? 海斗に鼻の骨を折られた部員の話。
 あれでも丸くなったのよ。むかしは匂いを嗅いだだけで頭痛がするって、その場でゴミ箱にポイだったのが、いまはとりあえず受け取ったふりはするもの。
 ま、ポイする先がゴミ箱から成田に変わっただけ、とも言うけどね」
 「成田先輩に?」
 「まったく、あの二人はどうしてこう真逆をいくのかしらね。片や甘い物には目がなくて、片やアレルギーかと思うほど毛嫌いしていて。
 だけど、どういうわけか、気が合うのよね」
 はじめて聞かされる事実に、遥希は戸惑いを隠せなかった。
 唐沢にチョコレートを渡そうとしなかったのは、差出人が樹里だからであって、決して先輩の嗜好を知っていたわけではない。
 唐沢が甘いものを苦手とすることも、成田が甘いものに目がないことも、いまのいままで知らなかった。
 先ほど成田の態度が落ち着きなく見えたのも、葛藤ゆえの反応だ。
 後輩の手前、受取人不明のチョコレートに手を出して良いものか。己の欲求と先輩の面子との間で揺れていたのである。
 何やら胸の奥から不快な感情が湧きあがる。尊敬する成田までもがバレンタインを楽しんでいたなんて。
 急に無口になった遥希の顔を、滝澤がわざとらしく覗き込む。
 「あら、成田がスイーツ男子って知らなかった? もう一人の坊やは知っていたのに」
 「もう一人の坊や?」
 「ええと、何て名前だったかしら。素直で、明るくて、からかい甲斐のある坊や。
 確か、ハルキと同じクラスじゃなかった?」
 「さあ? そんな奴、忘れました」

 動揺を悟られまいと仏頂面を続ける遥希の傍らで、滝澤はおもむろに携帯電話を取り出した。
 但し、まだ用事が済んだわけではないと、小まめに行き来する視線が伝えている。
 一体、この先輩は何がしたいのか。
 生まれて初めて親友と思える相手に出会えた。性格はまるで違うのに、大事な部分は繋がっているような。
 だがそれは遥希の勝手な思い込みであって、向こうはとっくに忘れているかもしれないし、彼の性格ならアメリカでも多くの友人に囲まれ、毎日を楽しく過ごしているだろう。
 自分だけが親友だと思っているなんて、恥ずかしすぎる。
 だから、日を追うごとに、ランクを一つずつ下げていった。
 心許せる親友から、単なるチームメイトへ。単なるチームメイトから、一学期だけのクラスメイト、そして居たかもしれない転校生へ。他の同級生たちが皆そうしているように。
 この一連の複雑な想いを、となりにいる先輩は是が非でも言わせようとしているのか。
 警戒心を露にする遥希とは対照的に、メールを打ち終えた滝澤は先ほどと同じポーズで、同じ色の溜め息を吐いた。
 「バレンタインって素敵よね」
 「は?」
 「秘めた想いをチョコレートに託す。製菓会社のキャンペーンが発端だったとしても、便乗したくなるじゃない?」
 「さあ、俺は食い物に頼るつもりはないんで分かりません。言いたいことは、自分の口で伝えますから」
 「口に出来ないから託すのよ。甘いだけじゃないチョコレートにね。
 そういう想い、ハルキにはないの?」
 となりから艶めかしい視線が送られてくるたびに、二重の苦痛を味わった。
 そのうち先輩の巧みな誘導尋問に引っかかり、自爆するのではないかという不安と、ひょっとして自分も彼の射程範囲に入っているのではないかという恐怖と。
 同じテニス部の先輩だから我慢して話を合わせているものの、プライベートの付き合いなら真っ先に縁を切りたいタイプである。
 「まったく……」
 今朝、胸に仕舞いこんだはずの台詞がふたたび甦る。
 ――こういう役回りは、アイツのはずなのに。

 謎かけのような発展性のない会話と、浮かれた陽気にもいい加減辟易した頃、双子の伊東兄弟が扉の隙間からひょっこり顔を覗かせた。
 「チョコ、みっけ!」
 弟の陽一朗が遥希を見るなり指を差し、続いて兄の太一朗がほんの数メートルの短い距離にもかかわらず、全速力で駆けてきた。
 「ハルキ、コーチが探していたぞ。マネのチョコがなかなか来ないって」
 「これ、コーチのだったんですか?」
 「もしかして、聞いてなかったのか?」
 「ええ、まあ」
 「むかしから樹里はそそっかしいところがあるからな。とにかく急ごう」
 太一朗の慌てようから見て、父はすこぶる機嫌が悪いらしい。
 コーチとしては冷静、且つ、シビアな判断を下す日高だが、一旦コートを離れると、理性よりも感情で動くことのほうが断然多い。
 それが、いまだに父が公立校の外部委託コーチという割に合わない仕事を引き受けている所以でもあるのだが――。
 伊東兄弟に急かされ、屋上をあとにしようとする遥希に、滝澤が特大級のウィンクを投げてよこした。
 「あの坊や、海斗を目標にするって言ってたわ。ライバルより強くなるためには、その上を目指さなきゃって」
 「知ってます」と言いかけて、遥希は慌てて口元を押さえた。太一朗が滝澤に向かって一礼する姿が見えたのだ。
 先ほど滝澤がメールでやり取りをしていた相手は、太一朗だ。大方、「屋上で足止めしてくれ」とでも頼まれたに違いない。
 早い話が、遥希は滝澤に遊ばれていたのだ。迎えが来るまでの間の暇つぶしとして。
 「だから、こういう役回りは……」
 言いかけた言葉を喉元に押し込めると、遥希は屋上の扉に手をかけた。
 開け放たれた扉から流れ出す冷気に驚いて、自分のいた場所はこんなにも暖かかったのか、と振り返る。
 相変わらず挙動不審な男子生徒と、扉の開閉音に反応して「ワーワー、キャーキャー」と騒ぎ立てる女子集団と、意味深な笑みを浮かべて手を振る滝澤と。
 どれも興味がないと訴えたくて、真冬の空を仰ぎ見た。
 浮かれた陽気に晒された鼻先を、ほんのりと甘い香りが掠めていった。