番外編 緋色咲く頃

 遠い記憶の紅色が、視界のそれと重なった。
 テニススクールの駐車場脇にひっそり佇む紅の花。
 たしか、寒緋桜といっただろうか。当時、小学生の加曾利には赤い花との認識しかなかったが。
 他の桜より一足早く春を告げるこの花は、決して咲き乱れることはない。二月の寒空の下、こうべを垂れるように冷たい地面に向かって花弁を開く。
 だが、その奥ゆかしい佇まいとは対照的に、花の色は毒々しい紅色で。それが幼心に強烈な印象を残したのかもしれない。
 色づき始めた桜花を見ながら、加曾利は左肩に手を当てた。
 半年前、中学最後の大会直前に肉離れを起こし、リハビリを終えた今も違和感を覚えることがある。
 それが心因性のものであろうことは、何となくだが分かっている。医者のいう完治と、アスリートにとっての完治は別次元のものだから――。

 小学校の卒業と同時に父親の転勤で東京から福岡へ。
 転校先の中学校では、初めのうちこそ余所者扱いを受けたが、テニス部に入部してからは、周囲の見る目も変わっていった。
 私立ならともかく、公立中学のテニス部に経験者はごくわずかで、ましてプロのコーチから指導を受けていた者など一人もいなかった。
 理論と言い、技術と言い、フォームひとつを取ってみても、加曾利の基本を押さえたテニスは顧問不在の素人集団の中では際立って見えたのだ。
 一年生にしてテニス部のエースとなった加曾利は、県内では負け知らずの記録を打ち立て、その活躍はチーム全体を地元の強豪校へと押し上げていった。
 大会で勝ち星を挙げるたびに、加曾利は基本の大切さを痛感させられた。
 攻めるにせよ、守るにせよ、基本のショットを基本通りに使いこなせて、はじめて戦術が意味を持つ。
 そして、この大事な基本を加曾利に叩き込んでくれのが、小学四年生の頃から通い続けたテニススクールのコーチ、日高玄だった。

 「相変わらず、センスねえの」
 駐車場を通り抜け、十段ほどの階段を上がっていくと、正面玄関の自動扉の真上に『日高テニススクール』と書かれた看板が否応なしに目に入る。
 カタカナやローマ字表記で、短くもインパクトのある校名が主流の昨今、いまだ「俺の城」と言わんばかりに自身の名前を掲げているのは、いかがなものか。
 しかも、もっともセンスを問われるロゴが、若草色の丸文字に日高の「日」の字の真ん中に黄色いテニスボールをあしらった、昭和の匂いがぷんぷんするベタなデザインだ。
 「こんなんで、よく潰れねえな」
 加曾利が看板を見ながら悪態をついたのと、知らずのうちに自動扉が開いたのと、酒焼けと思しき濁声が耳に飛び込んできたのは、ほぼ同時であった。
 「よう、大輔! 来たか」
 自動扉のセンサーが反応する前から、ガラス越しに元教え子の姿を認めていたのだろう。日高が受付のカウンターから身を乗り出すようにして声をかけてきた。
 「少し見ない間にデカくなりやがって。いくつになった?」
 「中三ッス」
 「バ〜カ! お前の齢を忘れるわけねえだろうが。
 身長だ、身長!」
 「180チョイ、超えたとこッスね」
 「どうだ、久しぶりの里帰りは?
 ああ、そうか。里帰りとは言わんか。こっちの家は引き払っているからな」
 「ええ。でも、ここは相変わらずなんで、ホッとしましたよ」
 矢継ぎ早の質問に戸惑いながらも、加曾利は込み上げる笑いを抑えることができなかった。三年前に退会したスクール生に、ここまで関心を示してくれるコーチはそういない。
 「悪かったな。どうせ進歩がねえ、と言いてえんだろ?」
 加曾利のニヤけ顔を、日高は別の意味に捉えたらしく、大仰に凄んでみせたが、すぐに思い直したように、真面目な顔に戻って尋ねた。
 「で、出来はどうだったんだ? うちの坊主どもが入れるぐらいだから、お前なら楽勝だろ?」
 潜めた声は、他の客への配慮か。あるいは、元教え子の凡庸さを慮ってのことなのか。
 いずれにしても、いかつい顔に似合わぬ細やかな気遣いが嬉しくもあり、また切なくもあった。
 加曾利は心の内を気取られないよう、あえて素っ気ない返事を返した。
 「さあ、こればっかりは水物なんで。それに、高等部は中等部以上に狭き門だって聞いているし」
 「なあに、いざとなりゃ、俺がスポーツ特待生で引っ張ってやる」
 「光陵にそんな制度ないっしょ?」
 「お前の代から作りゃ良いじゃねえか。
 高校でも続けるつもりなんだろ、テニス?」
 「ええ、まあ……」

 果たして今のこの状況を、テニスを続けていると言って良いものか。
 左肩がまた疼き出す。
 テニスプレイヤーとして順風満帆に思えた中学生活の歯車が狂い始めたのは、加曾利が中学三年生に進級したばかりの春。新卒採用の体育教師がテニス部顧問として来てからだ。
 福岡県内でも有名なテニスの名門校を卒業し、インカレ出場経験もあるとの触れ込みの若い体育教師は、たしかにテニスの腕前は申し分なかったが、指導の面では疑問が多かった。
 彼は、ああしろ、こうしろと、それらしい物言いはしても、その言動は部活の先輩の助言の域を出なかった。
 指導と指摘は別物だ。問題点を挙げつらねるだけでは、指導とは呼べない。生徒の能力を伸ばしてこそ、指導と言えるのだ。
 その点、日高はじつに多くの練習法を知っており、それらを生徒の“伸び時”に合わせて提供するので、生徒は無理なくステップアップできる。
 「口で言って上達するぐらいなら、コーチは要らない」とは日高が若いコーチを指導する際にいつも口にする持論である。
 選手としてプロの世界も経験し、引退後はコーチングの技術を学ぶために海外に渡り、厳しいコーチテストをクリアしてからテニススクールを開業したという、まさにその道のプロと比較しては気の毒な気もするが、体育教師もプロはプロ。
 コーチ面してコートに入るなら、せめてYou Tubeよりは見応えのある指導をしろよ、と思ってしまう。
 加曾利のこうした思いは口にせずとも相手に伝わるようで、顧問との仲は次第に険悪なものとなっていった。
 とくに加曾利が攻撃の要としていたバックハンドに関しては、両者、真っ向から意見が対立し、それが最悪の事態を招くきっかけとなった。
 小学生からテニスを始めた加曾利は、中学校に上がってもバックハンドを両手で打っていた。
 無論、プロでも両手打ちの選手はいるし、むしろ男子イコール片手打ちの考えは時代遅れの観があった。
 何より、加曾利のバックハンドは日高から直々に教わった「日高プロ直伝のバックハンド」であり、その分、思い入れも強かった。
 試合の結果が思わしくないと、決まって顧問はしたり顔でこう言った。
 「そろそろ片手打ちに移行する時期じゃないのか。
 たしかにダブルハンドはパワーも出るし、強力な武器となり得るショットだが、せっかくなら、その長いリーチを活かして戦うほうが、お前のスタイルには合っている」
 「だけど、俺は今までこれでやってきましたから」
 「今までは、今までだ。先々のことを考えると、一撃必殺のショットより、まずはプレーの安定性を重視すべきだ。
 インカレ経験者の俺が言うんだから間違いない」
 顧問の言い分にも一理あると分かっていたが、加曾利はそれまでのやり方を変えようとはしなかった。
 二言目には「インカレ出場」を振りかざす顧問の言いなりになるのは癪に障ったし、当時は他にも問題を抱えていた。
 加曾利の場合、中学三年生になってから急激に身長が伸びたため、成長速度に平衡感覚がついていけず、練習中も自分の体に振り回されることがままあった。
 ラケットの軌道が限られている両手打ちと比べ、片手打ちはテイクバックからフォロースルーまで振り幅があるだけ、バランス感覚も必要とされる。自分の手足に振り回されているようでは、片手打ちへの移行など、とてもじゃないが出来はしない。
 だからと言って、そりの合わない相手に悩みを打ち明ける気にもなれず。
 追いつめられた加曾利は、両手バックハンドを誰にも文句のつけようのない強力なショットにすべく、ハードなトレーニングを続けた結果、左肩に肉離れを起こした。
 しかも重症度はレベル3。完治に三カ月を要する重度のものだった。

 日高が、加曾利の肩に手をやる仕草を見て取って、いかつい顔を歪ませた。
 「まだ痛むのか?
 受験の息抜きになればと思って声をかけたんだが、無理はするな。どうせ試打会なんて、付き合いでやっているようなもんだから」
 今日、加曾利がここ日高テニススクールを訪れたのは、某スポーツメーカーが主催するラケットの試打会に参加するためだった。
 本来はコーチ陣やスクール生を対象とした内輪の催し物だが、加曾利も日高の計らいで特別に参加させてもらえることになったのだ。
 当然のことながら、日高の意図は新製品を売りつけるのが目的ではなく、中学最後の大会を欠場という不本意な形で終えた元教え子の近況を案じてのことであり、「受験の息抜き」も口実であることは言うまでもない。
 「コーチ、やったのは半年も前ッスよ。とっくに完治してますよ」
 加曾利は首を振り振り言ってから、左肩を大きく回して見せた。
 「そうか」と頷きながらも、納得には至らないのか。日高が加曾利の上半身の動きを見つめている。
 プロの観察眼を持つ彼が核心に触れる前に、さっさとこの話題を終わらせなければ。
 加曾利は慌てて言い足した。
 「しばらくコートを離れていたから、体がなまってんじゃないかと思っただけで。ほんと、今日は肩慣らしのつもりで来たんスよ。
 俺も来春から光陵生になるかもしんないし、いままで怠けた分、そろそろペース上げて行かないと」
 その瞬間、なぜか寒緋桜の紅色が加曾利の脳裏を掠めていった。


 日高テニススクールは屋外に四面、屋内に六面のテニスコートとトレーニングジムを有する巨大な施設であった。
 プロの選手も経験してきた日高の目にはまだ不足があるようだが、個人経営でここまで充実した設備のスクールは、都内はもちろん、近郊でもないだろう。
 もっとも加曾利がそのありがたみを実感したのは、退会後、公立中学のテニス部の厳しい現実を知ってからだが。
 着替えを済ませた加曾利は、試打会の会場となる屋内コートに向かう途中で歩を止めた。
 更衣室からコートに繋がる長い廊下の中ほどに、スポーツドリンクの自動販売機が設置されているのだが、その側面がベコリと凹んでいる。
 あれは加曾利が小学五年生の頃だったか。レッスン前の待ち時間に友達とふざけていたら、勢い余って自動販売機に片足がぶつかった。
 断じて飛び蹴りではなかったはずである。いくらやんちゃ盛りとは言え、友達にふざけて飛び蹴りを喰らわせるほど悪童ではない。たぶん。
 事の真偽はともかく、自動販売機の側面には中華鍋がピタリと収まるほどの凹みがついてしまい、慌てた加曾利は何を思ったか、そこに油性マジックで「DAISUKE 参上!」と書いたのだ。
 小学生なりに、習いたてのローマ字でストリートアート風の装飾を施せば、上手く誤魔化せると考えたのかもしれないが、どう贔屓目に見ても墓穴を掘ったとしか思えない。
 ――これ、絶対わざと残してやがんな。
 幼い頃の思い出とするには、あまりにもイタい傷跡。加曾利はそこにそっと触れてから、コートの中へと入っていった。

 屋内コートは全部で六面。真ん中の通路を挟んで三面ずつ分かれており、それぞれが防球ネットのカーテンで仕切られている。
 この見晴らしの良い造りはオーナーである日高のこだわりで、彼がレッスン中でも、フロントで仕事をしていても、館内の様子が一目で分かるよう工夫されている。
 天井はフロア三階分を吹き抜けにしてあるので、ロブを打ってもぶつかることはなく、もちろん、ナイター用の照明も完備されている。
 コートのサーフェスは、幅広い年代の生徒がいることを考慮して、足腰に負担の少ないカーペットコートを使用している。
 各コートの脇にはベンチがあって、その向こう側には開放感のある大きな窓。壁は白で統一されており、カーペットコートのスカイブルーがよく映える。
 じつはこのスカイブルーも日高のこだわりで、生徒がレッスン中は日々の雑事を忘れ、無心でテニスに取り組める色をチョイスしたという。
 コートに立つと、改めて思う。ここはやはり日高の城なのだ。彼の指導者としての情熱が、そこここに溢れている。
 午後の淡い日差しが降り注ぐコートを見ながら、加曾利は誰ともなしに呟いた。
 「ほんと、変わんねえなぁ」

 試打会は、メーカー側が日高の意向を汲んだのか、フリー練習に近いスタイルで、スクール生が三つのレーンに分けられたコートの中で、それぞれ思い思いのラケットを手にして打っていた。
 加曾利も自分のラケットと同じ重さで手頃なものを選び、日高とラリーを始めた。
 受験勉強で多少寝不足ではあるものの、体調は悪くない。肩の痛みも消えていた。
 ところが、どうしたことか。加曾利のショットはことごとく本来のコースを外れ、となりのレーンを目掛けて飛んでいく。
 それを日高が素早くネットに詰め寄り、元のコースに戻してくれるので事なきを得ているが、ラリーの相手が日高でなければ、いまごろ加曾利は両隣からクレームを受けて、追い出されているに違いない。
 決して三分の一に区切られたスペースが狭いわけではない。テニス部の練習では、いつもこの幅でやっている。
 やはり、まだケガの後遺症が残っているのか。あるいは、不慣れなラケットのせいなのか。
 いや、違う。単純に振り遅れているのだ。
 ボールがバックに回ると、ほんの一瞬、迷いが生じる。一瞬の遅れがインパクトのズレとなって、そのままいつもの調子で振り抜けば、ボールは左へ飛んでいき、帳尻を合わせようと小さく振れば、打ち損じて右へと飛んでいく。
 テニスをしていて、これほど恥ずかしいと思ったことはない。
 日高には成長した姿を見せるつもりでいたのに。これではテニスを始めたばかりの初心者と変わらない。
 十分ほど打ち合ったところで、日高がラリーを中断させた。
 頃合いからして、順番待ちの生徒に場所を譲ったとも取れるが、果たしてそれだけか。

 ウォーミングアップにも満たない短いラリーで、加曾利は首筋を濡らすほどの汗をかいていた。
 それをタオルで拭っていると、日高がいかつい顔を綻ばせながら、歩み寄ってきた。
 「相変わらず素直なテニスをするな、大輔は」
 「は? どこが?」
 日高はかつての教え子とラリーをするうちに、むかしの出来事を思い出したと見えて、困惑する加曾利に構わず、上機嫌で話を始めた。
 「なあ、大輔。覚えているか? 
 むかし、お前のクラスでヒールの話をしたことがあっただろ?
 俺が冗談で『プロの選手には、小指の下にもう一本、六本目の指が生えている』と言ったら、真っ先にお前が俺の手ひらを見にきたんだ」
 たしかに、その時のことは覚えている。
 日高のジュニア向けのレッスンは、子供でも理解しやすいよう、さまざまな角度からアプローチをかけてくる。
 ヒールの話もそのひとつで、生徒にボレーの感覚 ――小指とその付け根でグリップを支える感覚―― をより具体的にイメージさせるため、六本目の指が生えてくるなどと、大層な作り話をしたのだ。
 但しこれには続きがあって、加曾利と始めとする男子生徒は興味津々で日高の手のひらを見にきたが、賢い女子にはドン引きされて、レッスンが終了したあとも、日高は「グロい」、「キモい」、「ダサい」と、年頃の娘を持つお父さんのような罵声を浴びていた。
 「俺が素直だなんて、うちの顧問が聞いたら、腰抜かすぜ」
 懐かしい思い出話に水を差す気はなかったが、幸せだった頃の記憶が呼び水となったのか。気づけば、不満が漏れていた。
 すかさず、日高が意外そうな目を向ける。
 久しぶりの再会で、愚痴を聞かせることもあるまいに ―― 加曾利は半ば後悔しながらも、日高の視線に促され、ぼそぼそと話し始めた。
 「新しく来た顧問がさ、まるで素人でさ。てんで使い物になんねえの。
 おまけに、俺ばっか目の敵にしてさ。打ち方を変えろとか。いままでのやり方じゃ通用しないとか。
 誰のおかげで、いままでやって来れたと思ってんだか。
 うちのテニス部に顧問がつくようになったのだって、ぶっちゃけ、俺のおかげだぜ?」
 「その顧問、若いのか?」
 「うん、新米体育教師」
 「テニスのキャリアは?」
 「そこそこね。何かって言うと、『俺はインカレ経験者だ』って自慢しているし」
 「だったら、そんなに的外れなことは言わんだろ。
 たしかに、ジュニアの転換期は見極めが難しい。心身ともに変化の大きい時期だから、俺たちプロでもいまだに手探りで進めている。
 それに、その顧問のいう通り、中学、高校と上がるにつれて、プレースタイルを変えていかなきゃ勝てなくなるのも事実だ。
 若い教師なら多少やり方が乱暴かもしれんが、俺には大輔が憎くて言っているようには思えんが……」
 「なんだよ、それ!?」
 思わず、非難めいた言葉が加曾利の口からついて出た。
 日高だけは分かってくれると思っていたのに。なぜ、彼は会ったこともない新米教師の肩を持つのか。
 だが、悲しいかな、思いの丈を全てぶちまけられるほど子供ではない。
 自動販売機の凹みを作った頃とは違う。最初の一言は抑えきれなかったとしても。
 気まずい沈黙が二人の間を行き来する。
 さすがの日高も、声をかけるか。続きを待つべきか。タイミングを計り兼ねているようだ。
 加曾利は加曾利で、慌ててつぎに続く言葉を探してみるが、不満を露にした台詞が繕えるはずもなく。結局、汗で濡れた黒髪を掻きあげる振りをして、日高から背を向けた。

 しばらくの間、日高は何か言いたそうにしていたが、他の生徒からラリーに付き合って欲しいと頼まれ、その場を離れた。
 加曾利はひとりベンチに座り、日高が生徒たちと楽しげに打ち合う様を眺めていた。
 もう自分だけのコーチではない。端から加曾利の専属コーチではないのだが、日高の熱意がそんな幻想を抱かせる。
 「どこが素直だよ……」
 独り言が、自嘲の笑みに変わる。
 今回、光陵学園を受験することは、家族と担任、そして恩師の日高以外、知らせていなかった。
 チームメイトは全員、加曾利が地元の高校に進学するものと思っている。
 父親の転勤さえなければと、いまさら詮無いことを思ってしまう。
 本当は加曾利もここのスクール生の多くがそうしているように、光陵学園に入学するつもりであった。
 そこには憧れの先輩もいるし、子供の頃から指導してくれたコーチもいる。公立にしては恵まれた環境で、テニスコートも男女合わせて十二面もあるという。
 それなのに、光陵学園を受験すると決めた時からふと訪れる、このモヤモヤとした感情は何だろう。
 はじめは顧問に対する怒りや不満がストレスとなって溜まっているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
 そもそも顧問とは、テニス部を引退してからは接する機会もなかったし、中学校を卒業してしまえば赤の他人である。いつまでも引きずる理由はないはずだ。
 では、この満たされぬ思いは何なのか。
 目の前のコートでは、日高と生徒がラリーを続けている。
 スカイブルーのコートに弾ける笑顔。それが過ぎし日の思い出を呼び起こす。
 顧問もおらず、予算もない。あるのは、水はけの悪い二面のクレーコートと、かろうじて団体戦に出られる数の部員だけ。
 それでも、当時は笑顔の絶えない毎日を過ごしていた。
 活動日に晴れたというだけで、はしゃぎまわる仲間たち。
 雨上がりの放課後は、水たまりのできたコートに砂を撒き、重たいローラーでならしてから、家庭用のほうきではいて。
 テニスボールは擦り切れるまで使うのが基本で、ニューボールの購入は年に一度、ホームセンターの決算日を狙って、底値のものを買いにいく。
 試合が近くなると、みんなでYou Tubeの動画を回し、部活の帰りには本屋で戦術書を読みあさる。
 決して恵まれた環境ではなかったが、辛くはなかった。どんな苦労も、仲間といれば笑い飛ばせた。あの時を除いては――。
 中学最後の大会直後、エースの欠場により初戦で敗退したにもかかわらず、チームメイトは誰一人として加曾利を責めはしなかった。それどころか、今度はみんなで一緒にインターハイを目指そうと笑っていた。
 いつもとは明らかに違うグシャグシャな笑顔。辛くて、悔しくて、堪らないのに、みんなが無理して笑っていた。
 彼等をそんな顔にさせたのは、他ならぬ自分である。
 自分が顧問に対して妙な意地を張りさえしなければ、たとえ不本意な結果で終わったとしても、中学最後の大会を笑顔で締めくくることが出来たはずなのに。
 ちらちらと、またあの寒緋桜の紅色が脳裏を掠める。
 薄曇の中でこそ凛と映える深紅の桜。春を伝える花だというのに寒の文字を携え、こうべを垂れながらも、気高さを失わずに立っている。

 生徒とのラリーを終えた日高が、駆け足でやってきた。
 「どうだ、もう一本打っていくか?」
 「何だかなぁ」
 無意識のうちに、加曾利はラケットを左手に持ち替え、振っていた。両手バックハンドのフォームを自分でチェックするために、自然と身についた癖である。
 「試打用のラケットじゃ、調子出ないか?」
 「いいや、全部ラケットのせいに出来れば良いと思ってさ」
 「たまにはしても良いんじゃねえか?」
 「らしくないって、思ってんでしょ?」
 「充分、らしいと思っているさ。結局、ラケットのせいにし切れんところがな。
 それがお前の良さでもあるし、だから放っておけんのだ」
 日高の優しくも真剣な眼差しが加曾利に注がれる。
 目つきの鋭さは相変わらずだが、目尻の皺が増えた分だけ、柔和に見える。剃り残した顎髭にも、薄っすらと白いものが混じっている。
 「あのさ、コーチ? 俺って、まだコーチの教え子?
 例えば、その……前期試験がダメで、後期はもうちょっとレベルを落としたほうが良いとか言われて。そんで、俺が光陵のライバル校へ行くことになったとしても。
 俺は『日高コーチの教え子です』って、名乗って良いのかな」
 「何を言っている? とっくに教え子は卒業したろ。
 いまは俺の大事なテニス仲間だ」
 「テニス仲間?」
 「なんだ、不満か?」
 「いや……ああ、うん……」
 「どうした?」
 「何でもない。それより、あの寒緋桜……」
 「桜?」
 「ほら、駐車場脇の植え込みのとこの」
 「ああ。あれ、梅じゃないのか?」
 頭を掻きながら話しているところを見ると、どうやら日高は本気で梅だと思っていたらしい。
 「どう見ても、桜でしょ。コーチ、ほんとテニスのことしか頭にないんッスね」
 「テニスバカと言いたいか?」
 「いや、そのままで良いッスよ。そっちのほうが倒し甲斐あるし」
 「あ? どういう意味だ?」
 「さあ」
 加曾利は右手にラケットを持ちかえると、コートに入った。
 薄日の差し込む窓辺には、庭木の枝から枝へと快活に飛びまわるメジロが一羽。小さいながらも春の訪れを伝えていた。