番外編 片便り

 「あっ! 畜生、落としちまった……」
 無防備に開いた口元からこぼれる白い歯が、その大らかな印象とは対照的にギリリと憎々しげな音を立てた。
 この怒りを磨り潰すような歯ぎしりの意味を、奈緒は知っている。普段は滅多に出さない癖だが、本当に悔しい時、千葉は唇ではなく、上下の歯を音がするほど噛み締める。

 「ごめんな、ナッチ。俺、あいつの先輩なのに……」
 二年前の夏、千葉はそう言って、今と同じように上下の歯をギリリと噛み締めた。
 あいつとは奈緒のクラスメートで、千葉にとってはテニス部の後輩にあたる真嶋透のことである。
 岐阜の山奥から転校してきた透は、良く言えば無邪気。早い話が疑うことの知らない田舎者で、当時、彼が所属するテニス部の先輩達からは、時にパシリ、時にギャンブルのカモ、時に暇つぶしの相手として、非常に屈折したやり方で可愛がられていた。
 この場合、屈折しているのは二学年上の先輩達であって、透本人の意図するところではないのだが、三年生が全てのルールを牛耳る体育会系において、一年生の彼に反論の余地はない。
 そんな透を、陰になり、日向になり、大事な弟分として面倒を見ていたのが、両学年の間に挟まれた二年生の千葉だった。
 「ごめんな、ナッチ。俺、あいつの先輩なのに、何もしてやれなかった。ほんと、情けねぇよな」
 こんな謝罪と共に千葉が悔しげな表情を見せたのが、二年前。透が父親の転勤でアメリカへ旅立つという日の前日だった。
 ちょうど今日と同じく千葉は部活動の帰りで、奈緒は通学路の途中にある河原で寄り道と呼ぶには長過ぎる時間をただぼんやりと過ごしていた。
 「ケンタ先輩が謝らなくて良いですよ。だって、誰も悪くないし」
 謂れのない謝罪に対し、奈緒は事実を返すだけで精一杯だった。
 「でも、ごめんな」
 千葉がもう一度、謝罪を口にした。
 きっと彼も、“透の為になる何か”を探していたに違いない。現状を変える力もなく、不甲斐ない思いをした彼は、自身を追い詰めることで少しでも後輩の苦悩を分かち合おうとしたのだろう。
 ぼんやりとした意識の中で、奈緒はそんな風に感じた記憶がある。

 「ごめんな、ナッチ。せっかくのダブルバーなのに」
 そして今、千葉が謝る理由は二年前と比べてそれほど深刻なものではない。奈緒が「お裾分け」と言って差し出したソーダアイスを割ろうとして、その欠片をうっかり地面に落としただけのことである。
 「良いですよ、ケンタ先輩。気にしないでください」
 「だけどさ、ダブルバーだぜ? 本当はひとりで食べるつもりだったんだろ?」
 「ええ、まぁ……」
 兄弟のいる人間なら誰しも一度は夢みるダブルバーの独り占め。それを半分分けてもらった上に、欠片を無駄にしてしまった不義理について。加えて、窪みが付いているにもかかわらず、上手に割れなかった不器用さについて。千葉は大いに罪の意識を感じているらしい。
 「何かさ。俺って、肝心な時に役に立たねえよな?」
 「そんなことないですよ。ほら、ケンタ先輩がアイスを落としてくれたおかげで、ご馳走をもらえたラッキーな人もいるじゃないですか」
 足元に落ちた甘い滴を狙って、早くも蟻の行列が出来ている。
 「ラッキーな人ねぇ……」
 「あ、人じゃなくて虫ですね」
 千葉が少し困ったような笑みを見せてから、「いるんだよな。ラッキーな人って」と呟いた。
 どうやら彼が「ラッキーな人」と繰り返したのは、奈緒の言い間違いを指摘したいが為のものではないようだ。
 「きっと本人に自覚はないんだろうけど、俺みたいな凡人から見れば、充分恵まれている。
 頭も良くて、ルックスもそこそこで、テニスの才能もある。性格は何考えているか分かんねえけど……つか、俺から見れば悪魔なんだけど、そこが良いって女子が結構いるんだよな。
 なあ、ナッチ? 女ってのは、ああいう性格の歪んだタイプに弱いのか?」
 「えっ? 『ああいう』って?」
 たぶん、テニス部内の誰かを指しているのだろうが、十五年間「鈍臭い」と言われ続けてきた奈緒には、その人物がすぐには特定できなかった。
 「悪りィ、変なこと聞いて。ナッチはトオルオンリーだもんな」
 ふうっと、入道雲に負けないほど大きな溜め息を漏らした後で、千葉がその行方を追うように空を仰ぎ見た。
 「どうしているかな、あいつ……」
 奈緒も同じように入道雲の輝く空を見上げてみるが、どんなに目を凝らしても行き着く先はやっぱり見慣れた青空で、会いたいと願う人のところまでは届かない。

 叶わない想い ―― 叶わない、かなわない、敵わない。

 ここでようやく奈緒は「性格の歪んだタイプ」が誰なのか、思い至った。千葉が羨ましそうに語っていたのは、テニス部で副部長を務める唐沢のことである。
 副部長でありながらギャンブルが趣味という彼の噂は、透からも聞いたことがある。
 厳格な部長をサポートして、部員のフォローにあたる人望厚き副部長。これが表向きの顔だが、裏に回れば立場を悪用してのやりたい放題、賭け放題。校内試合を「レース」と称して後輩から金を巻き上げたかと思えば、学園祭では賭け将棋、昼休みは屋上で仲間を集めてポーカーと、まさにギャンブルのために学校に来ているような困った先輩だ。
 さらに困ったことに、千葉が好意を抱くテニス部のマネージャー・柏木樹里は、この唐沢に好意を寄せている。

 抜けるような青空を見上げたまま、千葉がふたたび呟いた。
 「どっちが遠いんだろうな。ナッチと、俺と……」
 今度の呟きは、先程の溜め息よりも重たく聞こえた。
 好きな人に想いを告げられず、日本とアメリカとの距離を持て余す奈緒と。
 毎日顔を合わせられる距離にいるのに、想い人には振り向いてもらえない千葉と。
 目に見える距離と、見えない距離と。
 がらんどうの胸の中で輪郭もなく浮かぶのは、あの日の約束だ。我ながらしつこいと分かっているが、何かにつけて思い出す。
 透がアメリカに旅立つという最後の日。空港で半ば強引に渡したリストバンドのお礼に、彼はエアメールを送ると約束してくれた。
 しかし、この二年間、彼からの便りはない。思い切って自分からハガキを出したこともあるが、それでも返事は来なかった。
 一方通行の恋は片思い。一方通行の便りは片便り。
 どちらも一方通行である以上、その距離は果てしなく遠い。

 暑さで解け始めたソーダアイスから滴が一つ。また一つ。足元の行列を潤した。
 ぽたぽたと。ぽろぽろと。
 するとそこへ話題の人物、柏木樹里が通りかかった。 
 「ねえ、ケンタ? 部長って、帰っちゃった?
 データの更新ができたから、合宿前にチェックしてもらいたかったんだけど……」
 「ああ? 知らねえよ」
 千葉が必要以上に乱暴な口調で話すのは、単なる照れ隠しだと思った。初めのうちは。
 「何よ、その態度? 随分、機嫌悪いじゃない?
 ああ、分かった! 昨日のバリュエーションで唐沢先輩にコテンパンに負けちゃったから、拗ねているんでしょ?」
 「別に、そんなんじゃねえよ」
 「仕方ないじゃない。相手は光陵テニス部ナンバー2なのよ? 部長が最も信頼する切れ者の副部長なのよ?
 単純だけが取り柄のケンタが敵うわけないじゃない」
 「ああ、もう! うっせえな!」
 きっと彼女に悪気はないはずだ。あくまでもマネージャーとして「強敵を相手にしたのだから落ち込むな」と、励ますつもりで言ったのだ。
 「部長なら『佐倉』だろ。副部長と合宿の打ち合わせをするって、言っていたから……」
 一瞬、千葉の口元からギリリと音が聞こえたような気がした。
 「『佐倉』って、甘味処の? 駅前のロータリーのある方だっけ?」
 「バ〜カ! 駅向こうの寿司屋の近くだよ」
 「お寿司屋さんなんて、あった?」
 「回転寿司の店があるだろうが!」
 「だって私、そんな安いお寿司、食べないし。ケンタと違って、量より質の女なの!」
 「ったく、しょうがねえなぁ」
 いかにも面倒臭そうに立ち上がると、千葉が解けかかったソーダアイスを口の中へ押し込んだ。そして奈緒に謝罪の言葉を告げてから、そそくさと去っていった。
 「ごめんな、ナッチ。俺、あのバカ女を『佐倉』まで送って行かなきゃなんねえわ」

 それは、いつものような元気はないが、今までで一番彼らしいと思える「ごめん」であった。
 遠ざかる影が二つ。照りつける日差しの中へと溶けていく。
 奈緒も慌てて崩れかけのアイスを頬張ると、シャリシャリとした食感が爽やかな風味とともに口の中に広がった。
 二年前、涙の色だと思ったソーダアイスが、今日は少し違って見えた。
 「きっと、もうすぐ……だよね?」
 晴れ渡った青空には、飛行機雲が一筋。真っすぐ東の空に向かって伸びていた。