ここはサンドイッチハウス 第一話:生ハムとレタスのカンパーニュ・サンド


 しまった ―― 店内に入って三歩と進まぬうちに、孝弘はすっかり慣習化した行為が“あの一瞬”とともに消え失せた事を知り、我が身の現金さに嫌気が差した。
確か表にあったのは何の変哲もないスタンド式の看板で、同じく特徴のない文字で『サンドイッチハウス』と書かれていたところまでは思い出せるが、後に続く店の名前が分からない。初めて入る店の名前は必ずチェックしていたはずなのに。


 「Takahiro? What did you do last weekend?」
 (=タカヒロ、週末は何をしていたの?)

 高校三年生の春、大学受験に有利になるかと通い始めた英会話スクールで、孝弘は彼女と出会った。
 てっきり外国人から教わるものと思って入った教室には、二十代前半の日本人講師が一人。彼女は孝弘の能力ではまだそのレベルに達していない事をやんわりと告げ、ゆっくりだがネイティブと変わらない発音で自己紹介を始めた。
 食べ歩きが趣味である事や、好きな作家や音楽の話をした後で、彼女の事は「アサコ」と名前で呼ぶようにと言って短いスピーチを終えた。
 アサコ。アサコ先生ではなく、アサコ。大人の女性を呼び捨てにするのは初めての経験でひどく緊張したが、悪い気分ではなかった。
 今にして思えば、あの頃から恋心が芽生えていたのかもしれない。学校の先生よりも綺麗な発音で英語を操り、クラスの女子よりも洗練された大人の女性の匂いがして、何より熱心に自分の話に耳を傾けてくれる。
 孝弘は初心者クラスにいる劣等感も忘れ、英会話スクールへ通うのが楽しみになった。同時に、休みの日には出来るだけ外出し、食べ歩きが趣味だという彼女が喜びそうな店を見つけては、授業の始めに必ず聞かれるウォーミングアップ代わりの質問で、その店名を披露するようになった。

 彼女が「アサコ」と呼ばせたのは単なる海外の習慣で、自分の話を熱心に聞いてくれたのも仕事だからで、とびっきりの笑顔も生徒の緊張を解す為だと認識したのは、一年も過ぎてからの事である。
 「I’m going to get married next month. So I have to say good-bye to all of you.」
 (=来月結婚することになったので、皆さんにお別れを言わなければなりません)
 一瞬にして世界が色あせた。色あせたにもかかわらず、クラスの誰よりも先に「おめでとう」と言い、誰よりも強く長く拍手をし続けた。
 「Congratulations!」(=おめでとう)
 話を振られる前に自分から進んで英語を発したのは、この時が初めてだった。我ながら、よく頑張ったと褒めてやりたい。
 しかしその反動からか、一ヶ月経った今でも自堕落な放心状態が続いている。時に自虐的に、時に感傷的に。自分を追い詰めたり、慰めたりしながら、いまだに現実離れした毎日を過ごしている。


 確か表にあったのは何の変哲もない看板で、入り口の扉にはアルバイト募集の貼紙がしてあった。
 「一緒にお客様の笑顔を包んでみませんか?」
 このうたい文句が気になって、ついふらっと店内へ入ったのだ。さすがに相当弱っていると自覚した。今ならどんな臭い台詞にも、心を動かされるに違いない。
 「何か、失恋した僕に合うものを」と注文してしまったのも、そのせいだ。
 ところが店のオーナーらしき人物 ――店内には彼しか居ないので、そうに違いないのだが―― は驚きもせず、まったく嫌味を感じさせない柔らかな笑みで「かしこまりました」と言って、恥ずかしい注文に応じた。
 驚いたのは孝弘のほうである。失礼ながら「このおじさん、頭おかしいじゃねエの」と思ってしまう。ただ同時に何を出してくるのか楽しみでもあった。
 カウンター越しに見たところ、一流シェフの包丁捌きというよりも、リストラされた中年オヤジを彷彿させるもたつき感がある。不器用で、生真面目で、どこかホッとする。

 程なくして彼が出してくれたのは、天然酵母を使ったカンパーニュのサンドイッチだった。噛み応えのあるパンを軽くトーストした中に、生ハム、オリーブオイルとブラック・ペッパーを少々まぶしたトマトとレタス。「いつもはルッコラを使うのだけど、ちょっと癖があるから君にはレタスが良いと思って」と確かな考察付でのメニューである。
 「クリームチーズを入れても美味しいけど、今日はカンパーニュが上手く出来たから」
 口髭の下から人懐っこそうな大きめの前歯が覗く。
 「上手くいかない日もあるんですか?」
 「そりゃ、あるさ。パンも生き物だからね」
 「どうして、これを?」
 「生ハムの塩気とトマトの酸味がカンパーニュと相まって、噛んでいくうちに甘くなるでしょ?
 どんな味も噛み締める事で、豊かになっていくものだと思ってね」
 口に入れると、彼の言うとおり初めは生ハムの塩味が居座るかに思えるが、噛めば噛むほどカンパーニュとともに甘みが増して、トマトの酸味とレタスの歯ごたえが対極にある味覚を上手く調和する。
 「あの……すごく美味しいです」
 非常に月並みなコメントに、オーナーは「ありがとう」と注文を受けた時と同じ笑顔で答えてくれた。
 「ここの店の名前、何でしたっけ?」
 「あきの。サンドイッチハウス・あきの」
 「なんで?なんで、あきの?」
 「うん、僕の苗字だから」
 その何の捻りもない店名に、孝弘の手が止まり、それを認めたオーナーがこう続けた。
 「名前というのは器と同じ。中身が良ければ、自然とよく見えてくるものだから」

 数日後、表にあったアルバイト募集の紙は剥がされ、何の変哲もない店の看板が木製の小洒落たものへと変わった。
 ここはサンドイッチハウス、サンドイッチの美味しいお店。あなたの笑顔お包みします。




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