ここはサンドイッチハウス 第二話:ツナとアルファルファのクロワッサン・サンド



 孝弘が『サンドイッチハウス・あきの』でアルバイトを始めてから二週間が過ぎていた。学生の本分である勉強を含め、大学で特に何もしていないフリーの身であったので、平日の三日と週末の二日間、週五日も店に顔を出している。
 その間に分かったことが一つある。オーナーの秋野氏は恐ろしく人が良いという事だ。
 カウンター席で物憂げな溜息を吐く中年サラリーマンがいれば、ランチタイムの混雑時でも平気で相談に乗ってやるし、子連れの主婦達が話に夢中になっていれば、仕入れ業者との打ち合わせを遅らせてでも、放って置かれている子供の面倒を見る始末。孝弘自身も失恋直後の痛手を癒してもらったのだから偉そうな事は言えないが、秋野氏は商売人として致命的な欠陥を抱えている。
 そんな彼の性格を知ってか知らずか、ここ『サンドイッチハウス・あきの』に来る客も「訳あり」が多かった。そして、今日もまた一人やってきた――

 店の入り口のドアチャイムが鳴った。鈴の音にも似た軽やかな音色を放つチャイムは、アルミ製の六本のパイプが連なる単純な造りで、ドアが開くと同時にそれらが揺れて、店内にいる孝弘達に来客を告げるのだ。
 二週間も経つと、チャイムの長さで来店した人数も見当がつくようになってくる。ヒールの音から女性だと推察できたが、不可解な事にドアチャイムはその客が一人であると伝えていた。サラリーマンならまだしも、ランチタイムに入る前から女性が一人で来るのは珍しい。
 ここへは初めて来たらしく、その女性客は店内をぐるりと見回した後でカウンター席に座り、本日のオススメである『ツナとアルファルファのクロワッサン・サンド』を注文した。
 「オーナー、ランチ一つです」
 わざわざ中継ぎをせずともカウンター席の客の言葉はすぐ目の前でスタンバイしているオーナー兼調理担当の秋野氏にも伝わっているのだが、一応、建前としてウェイターの孝弘がオーダーを流す決まりになっている。
 今日のランチ『ツナとアルファルファのクロワッサン・サンド』で使用するツナ・マリネは孝弘が朝から下拵えしたものだった。作り方はいたってシンプルで、ツナ缶のオイルを抜いて、塩と一緒にホワイト・ペッパーとブラック・ペッパーの両方をまぶし、マヨネーズで和えている。但しオイル抜きをする際は決して絞らず、茶こしの要領で自然に油が落ちるのを待つ事と、レモン汁は入れないようにと、事前に注意があった。
 自分が作ったマリネがどのように調理されるのか興味もあって、孝弘はカウンター越しにその過程を覗き込んでいた。すると普段無口なオーナーが、要所要所で解説らしきものを加えてくれた。
 「小椋君が作ってくれたツナと絡みやすいように、サニーレタスを使うんだ。その上にビタミン豊富なアルファルファを敷いてからツナ・マリネ。
 隠し味にオレンジマーマレードを少々。魚の臭みを消して、旨みを引き出すからね。レモン汁を入れなかったのは、この為さ」
 クロワッサンはもちろん天然酵母で、表面のサクサクとした食感と中のしっとりとした歯ごたえの両方を味わえる。定番メニューとは言え、オーナーの細やかな気配りが食欲をそそる一品だ。
 「オーナー、後で俺にも作ってくださいよ」
 「うん、余ったらね」
 「ちぇっ」
 カウンター席を合わせても全客席数が十五席の店で、ランチの仕込みは三十食。二回転で完食されてしまう量である。しかも今日は日曜日。他の喫茶店と違い、サンドイッチがメインのこの店は、休日のブランチを兼ねた客が押し寄せるために、平日よりも週末のほうが忙しく、当然、「余ったら」の条件は、無に等しい。

 孝弘が「はぁ」と吐いた溜息と同じ色合いものが、カウンター席からも聞えてきた。
 先程クロワッサン・サンドを頼んだ女性客が、ランチに手をつけずに何度も時計を見やっている。
 「お客様、お気に召しませんでしたか?」
 またオーナーの悪い癖が始まった。今から日曜日のランチタイムに突入しようと言うのに、彼の視線はカウンター席の一人の客に釘付けだ。
 「ごめんなさい。お料理はとっても美味しそうなんですけど、実は……」
 ほら、来た。やっぱりだ。「このオーナーにして、この客あり」なのだ。ドアチャイムがたて続けに二組の来客を告げているにもかかわらず、すでにカウンター席は相談所と化している。
 「実は私、いま主人と三歳の子供を家に残して出てきているんです」と、その女性客は語り出した。
 「母の日のプレゼントでね、主人が日頃の感謝だと言って私にお休みをくれたんです。
 ずっと楽しみにしていたんですよ。だって三年ぶりの自由時間なんですもの。
 子育てにかかりきりで、自分の時間なんて無かったから、今度の休みにはお洒落して買い物へ行って、ゆっくりランチしてって、随分前から計画も立てていたんです。
 でも実際に自由になってみると、家のことが気になって落ち着かなくて。
 女性一人じゃ行くところも限られているでしょ?仕方がないから早目のランチをとることにしたんですけど」
 そう言ってから、女性は「仕方がない」の部分を気にしたのか、オーナーに小声で「ごめんなさい」と肩をすくめて見せた。
 どうせならカウンターの後ろで慌しく動き回るウェイターの事も気にしてもらいたいものだが、彼女の意識は家に残してきた家族にあるようで、背後の騒ぎは無きが如く話に戻っていった。 
 「パパだけで大丈夫かしら。テレビばかり見せていないかしらとか。
 食事もね、インスタントで済ませようとしているんじゃないかって心配で。
 子供中心の生活が続いて、気が付いたら世間知らずのオバサンになっていたって言うのは嫌なの。でも、やっぱり子供の事が気になって、私もオバサン化しているのかなあって」
 
 メニューを抱えて店内を走り回る孝弘を尻目に、カウンター席ではゆったりとした時間が流れていた。
 「そう言えば、今日は母の日でしたね」
 オーナーの秋野氏は穏やかな物言いで頷くと、例のツナ・マリネとテイクアウト用の箱を取り出した。孝弘の労働後のささやかな楽しみが遠のく予感がした。
 十分ほどして、オーナーが満面の笑みと共に袋を差し出した。
 「当店のサービスでランチボックスをご用意いたしました。母の日のプレゼントです。
 半分に切ったサンドイッチのほうには、お子様のお口に合うようアルファルファとサニーレタスを少な目にして、代わりにスライスしたゆで卵を入れておきました」
 それを聞いたカウンターの女性客からも、同様の笑みがこぼれた。
 「そうね、食事は家族と一緒のほうが楽しいものね。
 食べかけだけど、私のもテイクアウトにしてくれるかしら?」
 オーナーの「喜んで」の声が静かに響き、その後を孝弘の細長い溜息が追いかけた。今日は急遽企画された母の日のプレゼントに振り回される事だろう。
 何より困るのは、テイクアウトボックスを抱えて立ち去る客を見送るオーナーの笑顔に、つられてしまう孝弘自身であった。
 ここはサンドイッチハウス、サンドイッチの美味しいお店。あなたの笑顔お包みします。




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