韃靼そば茶が揺れる理由(わけ)


 さっきから美咲は我慢していることがある。
 潰れかけの田舎の蕎麦屋。そう呼ぶしかないこの店は、人里離れた山奥にありがちな古民家そのもので、そこに訪れる客たちを数十メートル先から困惑させている。
 萱葺き屋根には緑の苔がこってり張りつき、ひび割れの目立つ外壁とともに、商売繁盛とは対極の寂寥感を醸し出している。
 砂利を敷き詰めただけの駐車場には農作業用のトラクターが車二台分のスペースを堂々と陣取り、入り口には暖簾もなく、ペンキの剥げた看板がひとつだけ。
 隠れ家的イメージを狙っているのかもしれないが、隠すにもほどがある。
 そもそも、どうして“ここ”なのか。
 昨日の夜中、突然、彼氏にドライブに行こうと誘われ、東京から車を飛ばして十二時間。サンデードライバーの彼氏は首都高速の入口を見つけるまでに四苦八苦し、ようやく乗れたと思えば反対方向で、散々回り道をした挙句、着いた先がここ山形。東北六県の山形だ。ドライブの範囲を大きく超えている。
 「どうして、ここなの?」
 「蕎麦が上手いって聞いたから」
 「だからって、山形まで来なくても……」
 付き合い始めて五年も経てば、当初の初々しさは何処へやら。遠慮よりも不満が先に出る。
 今日に限って、何故こんな潰れかけの蕎麦屋をチョイスするのか。初めてのデートから数えて、ちょうど五年目にあたる記念日に。

 ガタつく引き戸を開けると、そこは外観からは想像もつかない別世界 ―― が広がるはずもなく、土間のテーブル席にはオヤジ二人が天ぷらの盛り合わせをビールの肴(あて)に昼間から管をまき、セピア色に日焼けした座敷には、同じ顔をした五人の家族連れがバラエティ番組を自宅と見紛うような寛ぎ方で見入っている。
 店内を漂う出汁の香りに少しは心を奪われるものの、十二時間かけてまで食べに来る価値があるとは思えない。
 何より不満に思うのは、美咲たちが通された座敷の煙草の焦げ跡がついたレトロなローテーブル。厳密にはテーブルの下を通って押し寄せる匂いである。
 美咲はこの匂いの正体を知っている。
 昨夜仕事を終えて風呂にも入らず彼女の家へと直行し、その後、十二時間も靴の中に閉じ込められた結果、汗と雑菌の繁殖によって生じたもの。それがテーブルの下で胡坐をかかれることによって、持ち主ではなく向かい側の美咲のところへ流れ着く。
 しかも本人が姿勢を変えるたびにテーブル下の狭い空間に余計な対流が起こるため、その勢力は衰えることなく、常に一定の汚染レベルを維持している。
 綺麗好きの日本人が英知の限りを尽くして改善に努めているのに、いまだ勤勉なサラリーマンの大半を悩ませている憎き元凶。
 要するに、彼氏の足が臭いのだ。
 いくら付き合って五年の絆があったとしても、面と向かって言えることと言えないことがある。クシャミとは次元が違う。
 美咲はなるべく汚染された空気を吸わないようにテーブルと体を密着させて悪臭の封印を試みるが、今度は両脇から攻め入られ、せっかくの努力も無駄となる。
 この場合、効率よく酸素を取り込むには口呼吸がもっとも有効だと分かっているが、匂いの正体を知るだけに、口から摂取するのは抵抗がある。だからと言って、息を止めてやり過ごすにも限界がある。
 少しずつ小分けにして新鮮な空気を取り込む努力はしている。
 だが、そのたびに腹筋を使うのか。テーブルに出された韃靼そば茶までもがプルプルと揺れている。
 残る手段はただ一つ。隣の席の同じ顔をした家族連れを微笑ましく眺めるふりをして、出来るだけ多くのクリーンな空気を吸い込み、あとは徐々に息を吐きながら急場をしのぐ。
 つまりは潜水の要領だ。我が身も彼氏も救える方法は、これしかない。
 美咲がさり気なく横を向き、新鮮な空気を取り込もうとした矢先。
 「お父さん、足臭いわよ!」

 一瞬、自分の心の声が何らかの方法で反映されたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。例の家族連れの母親と思しき中年女性が、父親と思しき中年男性を睨んでいる。
 「うっせえなぁ。これはな、俺が汗水たらして働いた労働の証。いわば男の勲章ってヤツよ。
 文句あるか!」
 「労働の証でも、男の勲章でも、臭いものは臭いのよ。
 せめて足を横へ向けるとか、正座をするとか。少しは周りの迷惑も考えてちょうだい」
 「迷惑たぁ、何だ!? 迷惑たぁ!?」
 「ええ、迷惑ですとも。こっちは加齢臭も我慢しているんですからね」
 「うるせえやい! 俺だってな、そのチャーシューみてえな腹ぁ、我慢してやってんだ。お互い様だ」
 身も蓋もない夫婦の会話を聞きつけた子供達が、興味本位で父親の足の匂いを嗅ぎに行き、吸い込んだと同時に鼻を押さえて転げ回っている。
 そんな子供達にわざと足を向けて追い回す父親と、「おバカ!」と言って叱り飛ばす母親と。その光景を、テーブル席にいるオヤジ二人が赤ら顔で眺めている。

 「本当はさ、あの店に連れて行きたかったんだけど……」
 申し訳なさそうな顔で彼氏が口にした「あの店」とは、初めてのデートで立ち寄った喫茶店のことだろう。
 「俺にはまだ似合いそうにないし、ここの方が落ち着いて話せると思って」
 「話?」
 「ああ」
 「なに?」
 「あのさ、美咲? 俺達も、そろそろ……隣の家族みたいにさ……」
 落ち着いて話せると言ったそばから彼氏の声が震え出す。
 「俺のか、か、家族を……。いや、俺たちの家族を……」
 寂れた蕎麦屋で緊張しまくる挙動不審の彼氏に、周りの客たちが注目し始めた。
 しかし、この時ばかりは他人の視線を痛いとは思わなかった。
 「ごめん! ちょっと、タンマ……」
 シミだらけの天井を仰いで呼吸を整える彼氏に、オヤジ連中から声がかけられる。
 「頑張れ、あんちゃん!」
 それにつられて意味も分からず「頑張れ」と励ます子供達。
 「しっ! 静かに! いま大事なところなんだから」と見守る中年夫婦。
 店内に妙な連帯感が生まれた。
 「はい、お待ちどおさま。天ぷらそば二つね。
 早くしないと、お蕎麦伸びちゃうよ」
 店のおばちゃんのほんわかした声に背中を押されるようにして、彼氏がふうっと一息吐いてから、ふたたび美咲と向き合った。
 「俺の稼ぎじゃ、そんなに贅沢はできないけど、必ず幸せにする。いや、一緒に幸せになりたい。
 だから、俺……僕と結婚してください!」
 「一つだけ約束して」
 「な、なに?」
 「今度、私とドライブに行く時は、シャワーを浴びてからにしてくれる?」
 美咲の薬指に小さなダイヤのリングが輝いたのは、その直後のことだった。