アールグレイが揺れる理由(わけ)


 さっきから美咲は我慢していることがある。
 街角の喫茶店。そう呼ぶには上品すぎるこの店は、外観からして優美な雰囲気を醸し出しており、そこに訪れる客たちを数十メートル先からエレガントな気分にしてくれる。
 レンガ造りの外壁には深緑のアイビーがこんもりと生い茂り、出窓に飾られた花々が主役の座を奪わぬ程度に彩りを添えている。
 店内ではどこかで聞いたことのあるクラシック音楽が流れており、アンティークなテーブルランプが午後の日差しの中で柔らかな存在感を示している。
 どこを見回してもファミリーレストランとは明らかに違う。上質な大人の空間がここにある。
 それなのに――。
 もう我慢の限界にきている。我慢しすぎて、震える膝に合わせてテーブルに置かれたアールグレイの紅茶までもがプルプルと波紋を広げている。

 「イッグッション!」
 誰にも遠慮せずにする時の美咲のクシャミはこんな感じ。とても二十代前半の女性から発せられたものとは思えない、オヤジ顔負けのクシャミである。
 男兄弟の中で育った彼女はこれが普通だと思っていたし、クシャミにも個性があるとは考えもしなかった。
 ところが二年前、当時付き合っていた彼氏から「おまえのクシャミ、どうにかなんねえか?」とやんわりと指摘され、ようやく彼女は世の女どもが男の前では上品ぶって「作り笑い」ならぬ「作りクシャミ」をしている事実を知った。
 問題はここからだ。
 いくら練習を重ねても「作りクシャミ」が習得できない。
 そもそも自然の摂理に従って出てくるクシャミを相手にまんぞくな練習時間が取れるはずもなく、手本もマニュアルもない中で、何を頼りにこの難易度の高い技をマスターすれば良いのか。
 それでも乙女パワーを全開にして“上品に見えそうなクシャミ”にチャレンジするものの、結果はカエルを潰したような「グジャッ!」という爆発音をさく裂させるか、不発に終わって気色の悪い感触を残すかのどちらかで、大した成果を得られぬまま現在に至る。

 いまだ完成形とは言えないクシャミが、もう近くまでせり上がって来ている。抑えがたい小鼻のムズムズが美咲に余裕のないことを伝えている。
 この優雅な店内で、二年ぶりにゲットできた彼氏の前で、オヤジ顔負けのクシャミをさらすのは何としても避けたい悲劇である。
 だがしかし、今までの経験からもう不発にすることは不可能だ。トイレに駆け込む時間もない。
 だからと言って、出たとこ勝負ではあまりにリスクが高い。
 アールグレイの波紋が広がると同時に、美咲の焦りも全身に広がった、その時。
 「美咲、どうした?」
 口数の少なくなった彼女を心配して、彼氏が声をかけてきた。
 「イッグッション!」
 やってしまった。
 彼氏の問いかけに応じようとした一瞬の隙間を突いて、何の遠慮もない自然体のクシャミが美咲の口から飛び出した。
 唖然としたのは彼氏だけではない。店内のもっと上品にクシャミが出来ると思われる客たちも、自分を凝視しているのが分かる。
 なぜ、こうも人の視線は残酷なのか。それは時として言葉以上に雄弁だ。
 視線が痛い。沈黙が辛い。
 止まったままの時間を動かすには自分から話かけるしかないのだが、上手い言葉が見つからない。
 「ゴメンなさい」とは言いたくなかった。それはお尻から出たときに取っておきたかったし、だいいち咎めを受けるようなことは何一つしていない。
 たまたま神様からちょうだいしたクシャミのスタイルが世間の標準と照らし合わせた場合、不幸にも少数派というだけだ。少数派がイコール、悪のはずがない。
 それなら、堂々と「失礼しました」と言って乗り切るのはどうだろう。この店の客らしくハンカチを口に当てて、上品に会釈でもするか。
 いや、待て。会釈といえど、謝罪は謝罪。自ら非を認めるような真似をしてはならない。多少は唾液を浴びせたかもしれないが、クシャミごときで加害者にはなりたくない。
 ならば、「驚いた?」と茶化してみるか。だが、間髪を容れずに「うん」と返されたらどうしよう。
 いずれにせよ、明らかに幻滅しているであろう彼氏を笑顔にするのは至難の業である。
 女だってオヤジのようなクシャミをする奴もいる。人の外見とクシャミが比例すると思う方がどうかしている。
 きっと逆パターンで悩んでいるオヤジも世の中には存在するかもしれない。
 少女のようなクシャミをするオヤジ。それよりは数倍マシである。
 そう考えると、勇気が湧いてきた。

 「あの……」
 その場を取り繕うつもりで、美咲が発した言葉と、彼氏の笑顔が重なった。
 「おまえのクシャミ、良いな」
 「えっ!?」
 嫌味とは思えぬが、その一言でせっかくの勇気が驚愕に変わった。
 「本気で言ってるの?」
 「ああ」
 「どうして?」
 「どうしてって言われてもなぁ」
 店内に流れる音楽に合わせて、彼氏の視線が泳いでいる。きっと答えに詰まっているのだろう。
 こんな下品なクシャミに取りつかれた女を気の毒に思い、慌ててフォローしたものの、辻褄が合わなくなって次の手立てを考え中、といったところか。
 「無理しなくて良いよ。前にも……」
 ここはお姉さんがどうにかしなければならない。年下の彼氏にいつまでも沈黙の処理を任せて良いわけがない。
 ところが美咲の話を遮るようにして、彼氏が指差した。
 「ああ、それだッ!」
 「それって、どれ?」
 「無理してないからだ。おまえのクシャミ。
 たまに犬みたいなクシャミをする奴、いるだろ?
 俺、ああいうの好きじゃない。なんか不自然で」
 「そ、そ、そうなの?」
 「うん。ついでに言えば、この店もちょっと……」
 周りの目を気遣いながら、彼氏が声を潜めて続けた。
 「自分で連れてきて言うのもなんだけど、本当は公園かどっかで寝転んで、缶コーヒー飲んでいる方が性に合っている。
 今日は初めてのデートだったから。俺、背伸びしたかも……」
 本音が近づくにつれ、彼氏の声がトーンダウンしていく。
 「天気も良いし、どっか行こうか?」
 美咲はテーブルに置かれた伝票をさっと掴むと、訝しげな顔を向ける彼氏に微笑んだ。
 「こんど来た時、ご馳走して? いつか二人ともこの店が似合うようになったら」
 「それって、あと五年はかかると思うけど?」
 いちおう語尾は上がっているが、彼氏の答えが「イエス」であることは緩んだ口元から察しがついた。
 「良いよ。それまで一緒にいてくれるなら」
 香りが抜けた紅茶を一気に飲み干して、二人は店を後にした。
 美咲が「ゴメンなさい」を言ったのは、それから二時間後のことだった。