第二夜 

 「どうじゃ、ワシに頼みごとする気になったかの?」
 朝の光の中で透けるように立っているのは、やはり祖父の幸作だ。
 「じいちゃん。幽霊のくせに、朝から登場するのは止めてくれよ」
 「何を言っておる。ワシには一週間しか時間がないんじゃ。正確にはあと六日。朝だ、昼だと、時間を選んでおれんのだ」
 「だから、昨日も話したじゃん。俺は現状に満足しているし、仮に不満があったとしても、じいちゃんには頼まねえよ」
 「本当に願い事はないのか?」
 「ないね」
 「かおりちゃんのことも、か?」
 「なっ……なんで、じいちゃんがそれを?」
 かおりとは、幸太郎が秘かに想いを寄せている同級生の名前である。
 見た目は普通。ネイルや、つけまつ毛を含めて、化粧っ気なし。
 とりたてて勉強やスポーツで目立つ要素もなく、幸太郎もアルバイトの面接でファミレスを訪れた際に親友の俊也に「あれ、同じクラスのかおりじゃね?」と指摘されるまで、その他大勢の一人との認識しかなかった。
 ところが彼女の職場での態度を見ているうちに、少しずつ惹かれていった。
 かおりは、例えば自分の持ち場ではないところにゴミが落ちていたとすると、さり気なく拾って、然るべき場所に捨てられる。休憩が終わって席を立つ際に、ついでに他の従業員が使った椅子まで整頓してから去っていく。そういった皆がつい目を瞑ってしまいがちな善行を当たり前のようにできる女子なのだ。
 それ故、隠れファンが多い。
 俊也によれば、これを「吊り橋効果」ならぬ、「秘境の花効果」というのだそうだ。彼女の目立たぬ善行に気づいた野郎どもが、「俺だけが彼女の良さを知っている」とばかりに惹かれていくのである。
 しかし、なぜ祖父が秘境の花の存在を知っているのか。
 「こう見えても、ワシは幽霊じゃからな。お前がどこで何をしているかは全てお見通しだ」
 幸作が自慢げに胸を張ってみせた。張ったところで半分以上透けている平たい胸を。
 昨日の「ただの年寄り」発言と言い、今の台詞と言い、いったい幸作は己の立場をどう捉えているのだろう。
 祖父はどこからどう見ても年寄りで、去年死んだのだから幽霊だ。「こう見えても」と前置きをしなくても、立派な年寄りの幽霊だ。
 だがその疑問を呈するより先に、幸作が胡散臭い笑顔を差し向けた。
 「どうじゃ、幸太郎。三つの願い事のうち、一つを縁結びに使ってやっても良いぞ?」
 「もうご縁はあるから良いよ」
 「なんと情けない! ただ眺めとるだけで満足するとは。そんなことでは他の男にかおりちゃんを取られてしまうぞ。
 そうじゃ! 今からワシが手ほどきをしてやる」
 「手ほどき? どうやって?」
 「浪曲指南じゃ。お前は本物の芸を見る目がないから、色恋にも疎いんじゃ」
 この強引な話の持っていき方からして、最初からそれが目当てに違いない。
 確かに幸作は浪曲を好んで聞いていた。牛肉、浪曲、熱い風呂。この三つが揃えば、祖父は大抵機嫌が良かった。
 だが、孫の方にそんな年寄り臭い趣味はない。
 「嫌だね。じいちゃん、ひとりで行って来いよ。幽霊なんだから、どこでも自由に行けるだろ?」
 「それはそうなんじゃが、場所と時間がよく分からんのだ。ほれ、この手じゃ調べモンができんから」
 つまり幽霊になってどこでも行けるようにはなったが、透けてしまう分だけ手作業ができない。その代わりをお前がやれ、ということだ。

 「じいちゃん、この辺りを探してみたけど、今はどこもやってないよ」
 「そうか……生きとる間に今一度と思ったんじゃが」
 「だから、アンタは死んでんだ」と言いかけて、幸太郎ははたと気がついた。
 幸作は自分が年寄りだということも、死んだという事実も受け入れていないのだ。たとえ百人が百人とも彼を「年寄りの幽霊だ」と断言しても、彼自身は認めていない。生前より自由の身となったのだから無理からぬことではあるが。
 「ま、良いか」
 祖父と違って物事の筋を通さずとも平気な孫は、それならそれで良い、と思った。何もわざわざ悲しい現実を本人に突きつける必要はないと。
 「おっ! じいちゃん、隣町の公民館ならやってるぞ」
 「誰の何の演目じゃ?」
 「う〜ん、これだけじゃ分からないけど。とりあえず、行ってみれば?」
 「よし、行くぞ!」
 「行くぞって、俺も?」
 「当たり前じゃ。ワシは隣町の公民館なんぞに行ったことはない」
 またしても幸作のわがままが始まった。本来「連れて行ってください」と頼むべきところを、祖父は「当たり前じゃ」と言い切ってしまう。
 「あのさ、じいちゃん? 俺にも予定ってヤツがあるからさ。行き方教えてやるから、自分で行ってくれよ」
 本当は差し迫った用事は一つもないのだが、これ以上年寄りのわがままに付き合わされるのはご免である。
 「幸太郎。お前のために行くんじゃぞ?」
 「自分が行きたいくせに」
 「何を言うか! よし、お前が付き合わんと言うのなら、ワシはひとりで出かけてくる。ついでに、かおりちゃんの家でものぞいてくるかの」
 「じいちゃん、なんで彼女の家まで知ってんだ?」
 「昨日、お前を待っとる間に調べてきたんじゃ」
 昨晩の楽しげな笑顔は、久しぶりに自由となった我が身を喜んでいたわけではなかった。生きている時には叶わなかった公衆道徳に反するようないかがわしい行為も、誰はばかることなく出来るようになった。スケベ心から来る笑顔であった。
 「じいちゃん、もしかして……?」
 「なんじゃ?」
 「昨日の夜、彼女の家に行ったってことは……彼女の、その……」
 「教えて欲しいか?」
 幸作が皺だらけの口元を緩めて、顎鬚を撫でている。
 「分かったよ。付き合えば良いんだろ?」


 「まったく、つまらん奴を出しおって! あんな若造に人情の機微が分かってたまるか」
 公民館を出るなり、幸作は文句をつけた。
 せっかく孫が連れて来てやったというのに。趣味に合わない浪曲を我慢して聞いてやったというのに。このわがままな年寄りには人に対する配慮がまるでない。
 思えば、昔からそうだった。
 幸太郎が敬老の日に気を利かせて祖父の好物のいなり寿司を買ってきた時も、「あげが黒砂糖で煮ていない」との理由で、たった一口で箸をおいた。
 修学旅行の北海道土産に地元で評判の『六花亭』のバターサンドを買って帰った時も、「なんで『モリモト』のプリンを買って来んのだ!?」と怒鳴られた。
 『六花亭』のバターサンドは確かに美味いが、日持ちがするので通販でも購入可能である。対して、『モリモト』のプリンは賞味期限が短い為に、通販はもちろん、デパートの物産展でも販売しない。どうせなら、そっちを買って来いとの理屈である。
 これも商売人の性なのか。幸作の良質へのこだわりは人一倍強かった。
 だが、物には限度がある。人の好意を踏みにじってまで、こだわりを通す必要がどこにあるのか。
 幸太郎には祖父の良質へのこだわりが、傍迷惑なわがままとしか思えなかった。
 「そうじゃ、幸太郎! 気分直しに桜でも見に行かんか?」
 気分を害する原因を作った張本人から「気分直しに」と誘われ、幸太郎はますます気分が悪くなった。
 「桜なら一人で行けるだろう。俺はもう、じいちゃんに付き合う気はないから」
 「そうか。それならワシも出かけるか。この時間なら、ちょうど風呂かの。
 ありゃ別嬪さんとは言わんが、なかなかの器量好しじゃ。さぞかし素肌も美しかろう」
 「このクソエロジジイ……」
 たとえ幸作が幽霊で、ただの年寄りだとしても、性別を問われれば男である。しかも齢のわりには、好奇心も性欲も強いらしい。そんな人間、いや、幽霊が、かおりの家に行こうとしている。夕方のバスタイムを狙って。
 「分かったよ。今度は桜だな?」

 まんまと幸作の術中にはまった幸太郎は、仕方なく花見に付き合うことにした。
 「じいちゃん、ここはうちの近くの川原じゃないか。
 本当にこんな所で良いのか? また後で文句言うなよ?」
 「ああ、桜はここが一番じゃ」
 「ふうん、まあ良いけど。夜桜まではカンベンしてくれよな」
 「なんじゃ、お前は桜の楽しみ方も知らんのか。花見は夕桜と決まっておる」
 「ゆうざくら?」
 それは幸太郎が初めて耳にする言葉であった。夜に見るのが夜桜だから、夕桜は夕方に見る桜のことだろうか。
 「バカタレが! やはりバカは死ななきゃ治らんな。そんなことだから、女子(おなご)の一人も口説けんのだ」
 「バカは死ななきゃ治らない」とは幸作の口癖だが、幽霊の姿で言われると、ずしりと胸に応えるものがある。
 「ちょっと聞いただけじゃんか。 第一、桜と女と、どういう関係があるんだよ?」
 「ばあさんは、ここの桜が好きじゃった」
 「だったら、なんで浮気なんかしたんだ?」
 「少し黙っておれ。今からお前にも見せてやる。
 もうすぐ黄昏色が降りてくる。その一瞬しか本物の桜は拝めん。一発勝負なんじゃ」
 夕桜。黄昏色。本物の桜。祖父の口から次々と意味不明な言葉が飛び出してくる。
 「よし、今じゃ。ほれ、顔を上げて見てみろ」
 言われた通りに顔を上げると、幸太郎の目の前には暮れかかる空を背景に桜が満開に膨らんだ枝を広げていた。
 夕方から夜に移る過程で、ほんの一瞬、夕方でもなければ、夜でもない。空白の間が生まれる。
 茜色と漆黒の闇の狭間。夜の入り口。まるで映画のスクリーンのように、そこだけは乳白色の細長い幕が張られている。祖父のいう「黄昏色」が降りたのだ。
 そして、そのスクリーンを背景に「本物の桜」が色を魅せる。薄紅よりもさらに薄く、記憶にあるどの桜よりも高い透明度を持つ花の色。確かにここまで無に近い色を拾うには、この瞬間を置いて他にはない。
 「これが、夕桜……」
 「どうじゃ、ええもんじゃろ?」
 「うん。まあ、浪曲よりは」
 幸作には素直に心の内を明かさなかったが、この時、幸太郎は強い感動を覚えていた。
 新しいとか、古いとか。希少価値とか、値段の問題でもない。
 旬のものを最も生き生きとした姿で見られる幸せ。その瞬間に立ち会えた。そこに心が震えんばかりの感動を覚える。
 これが祖父の大切にしている「粋」というものか。
 世の中には洗練された目を持つ者だけが味わえる感動があって、それは桜に限らず、あらゆる場面、あらゆる瞬間に潜んでいるのだろう。

 桜を見物しながら、幸作が朗々と語り始めた。いつも聞き流していたウンチクが、今だけは不思議と耳に入る。
 「昼間は色香が強うてな。ワシは好かん。夜桜は、それはそれで艶っぽうてええんじゃが、桜本来の色とは違う」
 「夕桜が一番桜らしいってことか?」
 「ああ、そうじゃ」
 ある一定の条件のもとでしか見られない本物の桜色。幸作のこだわりの原点がそこにある。
 「なあ、じいちゃん。あれも桜なのか?」
 幸太郎が指差したのは、川にかかった橋のすぐ側に佇む一本の巨木であった。他の桜はとうに開花し始めたというのに、一本だけ蕾を固く閉じたまま開く気配すらない。
 「あれは迷い桜じゃ」
 「まよいざくら?」
 「ワシはそう呼んでおる。毎年、あいつだけは一週間遅れで咲き始める」
 「随分、へそ曲がりな桜だな」
 孫の指摘に、幸作がうっすらと笑みを浮かべた。
 「へそ曲がりと言われれば、それまでじゃが、ワシはあいつが一番粋じゃと思っとる」
 「なんで?」
 「己の身の丈を心得ておるんじゃ」
 「品種が違うだけじゃねえのか?」
 「お前はまだ粋というモンが分かっておらんのう。
 良いか? 咲き時を心得ておるということは、散り際も心得ているということじゃ。
 あれが咲くと、ワシはこう尻がむずかゆうなってな。じっとしておられん」
 まるで友達のように桜のことを「あいつ」と呼び、品種が違う桜を「粋」と評する祖父。今日の夕桜を見て少しは分かったものの、やはり幸作には常人の理解を超える偏屈な部分があるようだ。
 まだ固く閉じている蕾を見ながら、幸太郎は迷い桜がどこか祖父に似ている気がしていた。






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