第1話 予感

 外気の温度が上昇すると、日差しも和らぐものなのか。上空から降り注がれる陽光はうららかなリズムで地上を揺らし、街中のいたる所で寒さから解き放たれた者達の生命の息吹が感じられる。
 奈緒は、自分の住んでいる街が好きだった。緑豊かとは言えないまでも、都心に程近い住宅街にしては樹木が多く、季節の移り変わりを伝える程度に自然がある。
 中学校へ行く途中の河原の側道には、地元住民だけに有名な桜並木。堤防には自生の草花。街の西側を流れる河川は決して透き通ってはいないけれど、青空に浮かぶ白い雲や夕暮れ時の輝きを映してくれる。
 そして、これら自然が最も華やぐ今の季節も好きだった。限りなく透明に近い薄紅色の桜花が視界を彩り、タンポポが足元を活気付ける、春。
 奈緒は春を迎えるこの街が好きだった。だが、その事を胸に留めておくしかない自分が好きではない。
 生まれ育った街が好き。季節を告げる花が好き。川面に映る空が好き。今時こんな国語の教科書のような感性を持つ中学生など、何処にもいない。

 今週のふたご座の運勢  
 健康運 ☆☆
 金運  ☆
 恋愛運 ☆☆☆☆☆
 運命の人と出会いの予感が……。何事にも積極的に!

 「やなもの見ちゃったな」
 浅い溜め息を吐きながら、奈緒は首を軽く傾けた。生まれながらの内向的な性格と運動音痴も手伝って、彼女はこの“積極的”という言葉が苦手である。
 家でも学校でも快活な子供が良い子とされ、大人達から気にかけてもらえるのに反し、何も問題を起こさず、宿題もきちんとこなし、係りの仕事も真面目にしていたとしても、内向的な子供は空気のごとく扱われ、その他大勢として見過ごされてしまう。
 身の丈を越えて目立ちたいと思っている訳ではない。しかし、誰にも遠慮することなく、例えば親友の搭子のように自由奔放に振舞えたら良いなと思う事はままあった。今朝だって――。

 奈緒の自宅のキッチンには出窓がある。北側なのであまり明るくはないが、朝は東の方から光が差し込み、チラチラとした細い筋が通り過ぎる。
 彼女はそんな朝のひと時をぼんやりと過ごすのも好きだった。
 「奈緒、新しいお友達は出来た?」
 朝っぱらから呆け顔で出窓を眺める娘が心配になったのだろう。キッチンで朝食の支度をしていた母親が声をかけた。
 ほとんど毎日、口癖のようになっているそれを、奈緒は寝ぼけた振りをして聞き流そうかと考えた。
 ちょうどダイニングにいる自分と母親との間には幅広のキッチン・カウンターがあり、そこではドリップ式のコーヒーメーカーがごぼごぼと音を立てている。彼女にはそこから沸き立つ水蒸気が煙に見えて、今日こそは上手く煙に巻ける気がしたのである。
 煙の下では琥珀色の滴が一つ、二つと生まれ、淡い光の中で小さく光ると同時に沈んでいく。コーヒーの世界でも一粒の滴だからこそ輝けるのであって、その他大勢は黒く見える。
 「ううん、まだだよ」
 上手く誤魔化せるかもと考えて、結局、生真面目に答えてしまう。小心者の性である。
 「だって、中学に入ってまだ一週間しか経ってないんだよ。それに私、搭子と詩織がいるから別に……」
 途中まで言いかけて、奈緒は母親の顔が徐々に曇っていくのを察知し、慌てて続きを引っ込めた。
 話の展開は分かっている。恐らく母親は小学校からの友達に頼らず新しい友達を増やして欲しいと懇願に似た小言を言い始め、内気な娘の性格が誰の遺伝かを推測し、続いて初めての子育てで過保護にし過ぎたと後悔し、果ては友達が出来ないのも、習い事が長く続かないのも、全て「私の所為よ」と嘆くのだ。
 先程まで光を放っていた琥珀色に「ごめんね」と言いながら、奈緒は多めに牛乳を足した。
 カフェ・オレの出来上がりだ。輝きは消えてしまうが、味はまろやかになる。
 この毎朝飲むカフェ・オレも好きなものの一つだが、いまだ親しい友人以外に話した事はない。
 案の定、キッチンでは母親がぶつぶつと娘の教育方針について自問自答し始めた。それを横目に、奈緒は軽く首を傾ける。こうすると、気持ちが楽になる。大抵のことは諦められるから。
 内向的な性格は、生み育てた親に毎朝小言を言われなければならないほど悲観すべき事なのか。彼女がふと抱いた疑問は反論に変わる前に、溜め息と共に落ちていった。

 通学途中、奈緒は本を読みながら歩くことが多かった。
 理由は二つある。一つは、知った顔がいたとしても自分から話しかけずに済むからだ。
 そしてもう一つの理由は、彼女を知るごく一部の親友達の目印となるからだ。
 セーラー服と学ランに二分されているとは言え、奈緒が通学に利用している桜並木では学校へ向かう一本道とあって、毎日登下校の時間になると同じ制服姿が集団で列をなして歩いている。その中からたった一人の何の特徴もない女子中学生を見つけ出すには、項垂れた後姿のほうが、探す側にも都合が良いらしい。
 今朝も、親友の搭子が後ろから抱きつくようにして声をかけてきた。
 「あっ、また占いの本読んでる! ちょっと、見せてみ」
 積極性の塊である彼女は当然の如く奈緒から本を奪い取り、読みかけの箇所を一瞥すると、妙に大人びた口調で感想を述べた。
 「何事も積極的に、ねえ。
 ま、当然だよね。積極的にすれば、誰だって出会いが広がるんだからさ。
 占いって、ホント上手く書くよね。誰にでも当てはまるって感じ」
 辛口のコメントも、搭子が言うと嫌味に聞こえない。こういう時だけは、積極的であっても良いかと思う。
 「でも、こんな風に書かれると、ちょっと得した感じがするよ。
 運命の出会いがあるかもって思うだけで、ワクワクするじゃない?」
 塔子に続き、もう一人の親友である詩織も後ろからくっつくようにして会話に入ってきた。
 詩織は塔子ほど活発ではないが、奈緒ほど細かいことが気にならない。自ら外に向けて発信するものがなくとも悩まない、マイペースな性格であった。
 「でもさ、週末になってから、結局、運命の出会いが無かったって分かると、がっかりするかもよ」
 意地悪な質問を投げかける塔子に対しても、詩織は
 「大丈夫だよ。その頃には忘れてるから」と言って、何処吹く風でかわしている。
 物怖じしない搭子と、マイペースな詩織。この二人とは小学校の頃からどういう訳か馬が合い、中学校に入ってからも同じクラスになれた事もあり、今も親友として付き合い続けている。
 思うに、性格が違うからこそ、ぶつからなくて済む部分もあるのだろう。何よりこの二人は、奈緒の良き理解者で、「奈緒は、奈緒で良いじゃん」と言ってくれる唯一の存在であった。

 「ところでさ」と、搭子が切り出した。
 「二人とも決めた?」
 彼女の質問の意図はすぐに分かった。
 中学に入学してから一週間。今日は奈緒達にとって今後の学園生活を左右すると言っても過言ではない大事な日。部活動の仮入部期間が終了するのである。
 様々な所で体験入部をして放課後の一時を楽しんでいた新入生達も、今日で正規の所属クラブを決めて各クラスの担任に希望書を提出しなければならない。
 「私、手芸部にしようと思うんだ」
 親にもまだ話せていていない本音を奈緒が告げると、すかさず塔子が賛同の意を示してくれた。
 「奈緒らしいね。良いじゃん。この前、奈緒が作ってくれたビーズのループ・ストラップもすっごく評判良かったし。また新作期待してるから、よろしくね。
 で、詩織は決めた?」
 「私は、料理研究部」
 「えっ!?」
 奈緒と搭子は同時に声を上げた。
 「詩織が料理研究部? なんで?」
 「だって私、運動部とか、先輩が怖そうな部活はちょっと」
 詩織が最後まで言い終わらないうちに、搭子が深い相槌と共に話の続きをさらっていく。
 「あ、それ分かる。運動部の先輩って怖そうな人多いもんね。
 それにうちは中高一貫だから、先輩の数だって半端じゃないし。そんな中で気を遣って頑張ったって、実際、自由に部活をエンジョイ出来るのって最終学年になった三ヶ月ぐらいでしょ?」
 奈緒達の通う中学・光陵学園は公立だが都内でも珍しい中高一貫のモデル校で、中等部と高等部の間に形式ばかりの仕切りがあるものの、同じ敷地内で教師も生徒も自由に行き来できる特殊な環境にあった。加えて中等部から入学した生徒は厳しい試験もなく高等部へ持ち上がりとなる為に、高校卒業までの六年間をやりたいことに当てられるという公立中学では考えられない特典もある。しかも公立ならではの野放しと紙一重の“自由な校風”が生徒の自主性を育むのに一役も二役も買っており、必然的に部活動、特に運動部が私立と肩を並べるまでに強かった。
 「そうそう。料理研究部なら先輩も優しそうだし、それに作った料理は自分達で試食できるんだよ」
 マイペースな詩織は多くの候補の中から彼女なりに適正を考え、中高六年間を平和に過ごせるクラブを選んだ結果、優しい先輩のいる料理研究部に辿り着いたに違いない。性格的に、手際の良さが重要視される料理が性に合っているかどうかは別として。
 「だったらさ、私と奈緒の為にノンカロリー・クッキーとか、研究してみてよ」
 「あ、それ良いな。ダイエット・ケーキとか……」

 刻々と話題の変わるやり取りに、ようやく奈緒が追いつき、口を挟んだ時だった。
 突然、背後から何かが突進してきたような気がしたかと思えば、次の瞬間には視界が晴れやかな空を背景に桜の花びらが正面に見えるという特殊なアングルに変わっていた。
 「鈍臭い」と言われ続けて十二年の経験から、こういう時は大抵仰向けに転ぶと分かっていた。うつ伏せで転ぶ時は視界が百八十度反転するので、今回は間違いなく仰向けだ。
 恐らく後ろから走ってきた誰かとぶつかり、突き飛ばされた格好になったのだろう。綿菓子によく似た曖昧な雲の浮かぶ青空に、桜の花びらがくっきりと映っている。
 人間とは不思議なもので、切羽詰った時に限って無駄な思考が湧いてくる。これは単に奈緒の反応の鈍さが問題ではなく、己が対処できない程の危機に遭遇すると大抵こうなるのである。つまりはパニックだ。
 だがしかし、やはり彼女は次の手立てを考えなければならなかった。何故なら桜並木を正面にして仰向けに落ちているということは、真っ逆さまの状態で背後の河原に向かっているという事で、途中の堤防で上手くブレーキがかかれば良いが、自身の運動能力を冷静に分析する限りずぶ濡れになる可能性が非常に高いのだ。
 奈緒は積極性に欠けるし、人より反応も鈍いが、決してバカではない。
 その証拠に、余計なことだと分かっていながら、土手でブレーキがかかった場合と河川へドボンと直行した場合の二つのケースを比べ、下手に泥まみれになるぐらいなら直接落ちたほうが制服も汚れなくて済むかと考え、更に手遅れだと知っていながら、辞めてしまったテニススクールにもう少し根性を出して通い続け、せめて人並みの運動神経を身につけておけば良かったと後悔もした。
 目まぐるしく頭を回転させる暇があるのなら、我が身をかばう方向へ働かせたほうが助かる確率は断然高くなるのだが、パニックの真っ只中にいる彼女にそんな道理は通用しない。

 落ちたと思った。それから少し経って、もう落ちても良い頃だと思ったが、体は宙に浮いたままだった。
 着地の振動は確かにあったのに、痛みはまったく感じられない。
 不意に視界の中の桜が見知らぬ少年の顔へと変わった。
 彼がぶつかった相手かもしれない。緩やかに伸びた茶色の前髪から、同色の瞳が忙しなく動いている。まるで奈緒の代わりに、全身を急いで点検しているようだった。
 「悪りぃ。ケガ、なかったか?」
 初対面にしては口調が少々乱暴であったが、その少年が向ける眼差しは真剣そのもので、奈緒が返事をするの食い入るように見つめている。返事を待つ間にも何度も瞬く瞳の色は、ドリップしたてのコーヒーの滴の色だった。
 「あ、うん。ごめんなさい。大丈夫です」
 「そっかあ。ああ、びっくりした!」
 琥珀色の瞳の少年は大仰に肩で一息吐いた後で、にっと笑った。
 同じ学年の生徒だろうか。制服は学校指定の学ランを着ているが、左眼の上の傷がいかにも悪ガキを象徴しているようで、やんちゃ臭くもあり、また幼くも見えた。
 「それにしても、お前、軽いな。都会の連中はパンばっか食ってるって勘太の母ちゃんが言ってたけど、そうなのか?」
 「は、あの……?」
 「こんな軽いんじゃ、イノシシ、いや、タヌキにだって吹っ飛ばされるぞ?」
 「え? イノシシ? タヌキって?」
 「せめて、勘太の母ちゃんぐらい米食わないと……」
 先程から会話に登場する「勘太の母ちゃん」とは誰なのか。当たり前のように話されるとそんなに有名人なのかと気になるが、奈緒は追及したい気持ちをぐっと堪え、少年の話を違う言葉で遮った。
 「あの、降ろしてくれませんか?」
 新品同様の制服姿で川に落ちるという悲劇から逃れた奈緒であったが、彼女には勘太の母ちゃんよりも気にしなければならない課題があった。通学途中の人通り激しい桜並木で、見知らぬ男子中学生にお姫様抱っこされていたのである。
 病弱のヒロインという設定のドラマや漫画なら架空の出来事として見逃せるものを、残念な事にこれは健康体の我が身に起きた現実であった。
 意識のハッキリしている時のお姫様抱っこほど恥ずかしいものはない。まして奈緒はドラマのヒロインでもなければ、病身でもなく、運動神経と反射神経以外は問題ないと太鼓判を押される、いたって健康な中学生だ。
 正直なところ、お姫様抱っこに憧れがなくもない。例えば相思相愛にもかかわらず、幼い頃から何年間も想いを打ち明けられずにいる女子中学生がドラマチックな経緯を経て彼氏に抱っこされる場面に遭遇するのなら、それは乙女の端くれとして照れながらでも享受できるのだ。但し、間違ってもそのドラマチックな経緯は川に落っこちそうになったとか、ヒロインが鈍臭いなどの流れではない。
 密かに憧れていたお姫様抱っこが、こんなに恥ずかしい形で決行されるとは。現実とは得てしてこんなものである。
 シビアな現実に打ちひしがれている奈緒をよそに、琥珀色の瞳の少年が突如として奇声を上げた。
 「あ、やべ! 俺、遅刻するとこだったんだ」
 乙女心などまるで頓着の無さそうな彼はムードの欠片もない奇声を上げた後で、荷降ろしをする要領で奈緒をドスンと地面に降ろすと、「米、食えよ」と一言言い残し、何事もなかったかのように走り去っていった。

 一連の出来事を好奇心全開で見守っていた親友二人が、奈緒の上に覆いかぶさるようにして代わる代わる話しかけてきた。
 「ねえ、今の彼、ナポレオンパイじゃない?」
 「いや、顔はそこそこだったけど、私はエクレアだと思うな」
 二人が論じているのは、今しがた公然とお姫様抱っこをして立ち去った少年対する評価である。彼女達は出会った男子の品定めを瞬時に行い、その結果を学校の帰りに立ち寄るカフェのスィーツの名前で暗号化して話し合う。これが最近のブームであった。こうする事で、万が一本人の耳に入ったとしてもランク分けされているとは気付かれない。
 当然の事ながら、最も値段の高いナポレオンパイは最高値のA評価であり、ケーキのついでに食せるエクレアは最下位のEである。
 積極性だけでなくファッション・センスもある塔子はルックスに関して見る目が厳しく、マイペースな詩織は無骨な感じの男子に弱かった。
 「だってさ、あの制服の着崩し方と言い、髪型と言い、無茶苦茶だったよ? 起きてすぐに出てきたって感じ。
 いくら顔が合格点でも、服のセンスが良くなきゃ一緒に歩きたくないじゃん」
 塔子の厳しい評価をものともせずに、詩織が反論した。
 「ああいうのを、ワイルドって言うのよ。
 ねえ、奈緒ちゃんはどう思う?]
 「私はね」
 奈緒は、いつにもまして慎重にその問いかけに応じた。
 「よく見ていなかったから、分かんない」
 ドリップしたてのコーヒーの滴が、胸の中に落ちてきたような気がした。






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