第1話 帰還

 〈昼休み、佐倉で待っている〉
 成田から携帯電話に送られてきた短いメール文は、一瞬で唐沢を不機嫌にさせた。
 『佐倉』とは光陵学園から歩いて十五分の距離にある甘味処で、スィーツ好きの成田がこよなく愛し、正反対の味覚を持つ唐沢が最も敬遠したい店の名前である。
 添え物の金時豆や大学芋はもちろんのこと、酢豚の中のパインにさえ嫌悪を抱く唐沢の嗜好を知っていながら、なぜ彼はわざわざ甘味の専門店を指定したのか。
 「久しぶりに食べたかったんだ。この店の『抹茶フルーツあんみつ練乳がけ』。最近試合がなくて、来られなかったからさ」
 店に入った唐沢を待っていたのは、親友の屈託のない笑顔であった。
 どうせそんな事だろうと思った。光陵テニス部の悪ガキ集団を取りまとめる凄腕部長で知られる成田だが、その表の顔とは裏腹に、素顔はいたって普通の高校生で、他人の好みよりも己の欲望を優先させる幼稚な一面も持っている。
 但し、彼が“素”の部分を見せるのは、テニスで本気の大一番に臨む時と、長年コンビを組んできた副部長の唐沢と二人でいる時に限られる。それ故、女房役の副部長としては多少のことは大目に見てきたつもりだが――。

 席に着くなり、唐沢は一言、文句をつけた。
 「自分の用事で呼び出す時ぐらい、相手の好みに合わせろよ」
 「悪いな、海斗。春の新メニュー、チェックしておかなきゃと思ってさ。
 『抹茶フルーツあんみつ練乳がけ』のイチゴミルクバージョン。お前も食べるか?」
 その甘味に甘味を上乗せしたようなネーミングを聞いただけで、早くもこめかみの辺りが痛くなり、吐き気も催した。我ながら難儀な体質だと分かっていても、こればかりはどうすることも出来ない。甘味は神が定めし天敵と諦め、距離を置くしか手立てがない。
 「俺はいつもので良いから」
 唐沢が『佐倉』で注文するのは、わらび餅の黒蜜抜きと決まっている。要するに黄粉の味しかしないという、甘味処の店主にとっては非常に屈辱的なオーダーで、甘味を天敵とする人間にとっては精一杯の譲歩である。
 常連客の知り合い程度に唐沢の事情を知る気の良いオバチャン店員が、二人分にしては大き過ぎる急須にほうじ茶を入れて、テーブルの真ん中に置いていった。それを早速口に運ぶ姿を見て、成田がまた屈託のない笑みを傾ける。
 「相変わらず気の毒な味覚してるよな。変わっている、って言われない?」
 「お前が言うな。そんな百パー糖分の激甘メニュー、男で食う奴いないだろ?」
 「そうでもないさ。昔、真嶋と来たことがある。中等部の頃だから、三年も前の話だけど。あいつも美味そうに食っていたよ」
 「ふうん……」
 真嶋透 ―― 最近、彼の名前をよく耳にする。成田に渡米の話が出てからというもの、コーチの日高のみならず、ライバル校の京極からも、その名が挙がっている。
 そして今日、バリュエーションの最中に自分が呼び出されたのも、彼に関する用件に違いない。
 「海斗? お前、どう思う?」
 「どうって、何が?」
 「とぼけるなよ。真嶋のことだ。お前の率直な意見を聞きたい」
 「あいつがうちに在籍していたのは、初心者の頃の四ヶ月。しかも三年も前の話だ。現時点で議論すべきことは何もない」
 チーム内ではコーチと共に戦略を練り、軍師としての役割を担う唐沢は、常に現実だけを直視する習慣を身につけている。たとえ過去に才能を見込んだ後輩であっても、その先入観がチームの命取りになり得ることも知っている。ここで軽はずみな発言をするべきではない。個人的な願望は別として。
 「滝澤が今でも真嶋と連絡を取り合っていると聞いたが、海斗のことだから、その内容もチェック済みで話しているんだろう?」
 「手の内を見せろ」と言いたげに、成田が淡白な評価の裏づけを求めてきた。
 確かにコーチから補充人員の話を聞かされた時、唐沢は真嶋のデータを調べて回った。
 情報通の滝澤を介して分かったことだが、アメリカへ転校してからも真嶋は頻繁に自身のデータを送り、在学時と同様、光陵テニス部随一の知恵者から練習メニュー作成に関するアドバイスを受けていた。
 はっきり言って、滝澤からそれら三年分のデータを見せられた時は驚いた。そこには、立場上、多くの選手のデータを見てきた唐沢も目を見張るほど、著しい進歩の跡と伸び率が記されていた。
 しかも、よほど優秀な指導者と環境に恵まれたのかと思いきや、彼は中学校のテニス部を途中で退部して、不良の溜まり場と化しているストリートコートで練習を続けていたという。
 そんな劣悪な環境で叩き出した数字だと聞かされ、唐沢は同じアスリートとして尊敬の念を抱かずにはいられなかった。だが、軍師としての見解はまったく別物だ。
 「送られてきたデータだけでは不明な点が多すぎる。これといった戦績も残していないようだし、まともな指導を受けていたかも分からない。身体能力はハルキと同レベルか、少し上かもしれないが、これもデータに偽りがなければ、の話だ」
 「随分、否定的な見方をするんだな」
 「俺は自分の目で見たことしか信用しない。いくらコーチや京極が認め、滝澤から驚異的な数値を見せられたとしても、俺の中の真実じゃない」
 「切れ者の副部長らしい判断だ」
 テーブルに運ばれてきた『抹茶フルーツあんみつ練乳がけ』には、練乳の代わりに春を感じさせるイチゴミルクがかけられていた。それを美味そうに頬張る親友へ、唐沢は更に苦言を呈した。
 「現段階であえて俺の意見を述べるなら、真嶋は戦力外だ。
 データはどれも数字の記載だけだし、動画の類はなかった。唯一の判断基準が明魁の岬との対戦結果だと聞いたが、それも京極からの口伝えだ。ライバル校の部長のな」
 「海斗、まさか京極と真嶋が結託して、嘘の情報を流しているとでも? 本気でそう思っているのか?」
 「絶対にないとは言い切れない」
 「俺にはそうは思えない。少なくとも俺が知っている真嶋は、嘘を吐くような人間じゃない」
 「あくまでも可能性の話だ。三年も経てば、人は変わる。
 弟が荒れていた時も、酷いものだった。純粋な奴ほど、一旦、脇道に逸れると、歯止めが利かなくなる。治安の悪いアメリカで暮らしていたなら、尚更だ」
 「ちょっとシビア過ぎないか?」
 「お前を確実にアメリカへ送り込むためなら、たとえ元はうちの部員であっても、不確定要素は排除する。噂を当てにして裏切られるぐらいなら、最初からカウントに入れない方が良いからな。それに……」
 先程まで目の前の器に注がれていた親友の熱い視線が自分に向けられた頃を見計らい、唐沢は切り出した。
 「こんな分かりきった議論をする為に、わざわざ俺を校外へ呼び出したわけじゃないだろう?」

 『佐倉』に呼び出しを受けた時から察しはついていた。真嶋の話は単なる前置きで、この後、切り出しにくい用件が控えていることを。
 「やれやれ。軍師様を相手に腹を探ろうなんて、時間の無駄だったか」
 成田がわざとらしく肩を落として見せてから、テーブルの上に置かれたほうじ茶を口に含んだ。ご機嫌伺いの演技は終了し、ここからが本題だ。
 「なら、単刀直入に言わせてもらう。仮に真嶋が俺達の期待通りに育っていたとして、海斗、次の部長を任せて良いか?」
 やはり呼ばれた理由は、これだった。自分を直視する成田からは笑みが消え、いつもの部長の顔に戻っている。
 「真嶋の成長に関係なく、答えはイエスだ。俺がお前の頼みを断れると思っているのか?」
 「いや、頼みじゃない。光陵テニス部に籍を置く一人の部員として、やる気があるかを聞いている」
 今の自分には最も縁遠い「やる気」を問われ、唐沢は口元が不自然に歪むのを自覚した。見方によっては、鼻先で笑ったように映ったかもしれない。成田がつと眉根を寄せた。
 かつては同じ情熱を持って同じ夢を追いかけた同志に、その燃えカスさえも残っていないと分かり、裏切られた気持ちになったのか。あるいは、責任感の強い彼のことだから、そうなった原因も自身にあると思っているのか。差し向かいの席から送られてくる視線は、部長の肩書きを背負う彼にしては感傷的な湿り気を帯びている。
 「海斗? “あの事”は、いい加減忘れてくれ。もう五年も前の話だ。
 今いる部員は誰もお前を責める気はないし、皆、前に向かって進んでいる。お前だけが、いつまでも過去に負い目を感じる必要はないんだ」
 一言ひと言、言葉を重ねるごとに、成田が前のめりになっていく。二人の間ではタブーとなった話題を口にしたことで、胸の奥に秘めていた想いも溢れてきたのだろう。
 唐沢は熱のこもった弁に聞き入る振りをして、座席の低い背もたれに体を預けた。適度な距離を保たなければ、この親友は捨て身でこちらの領域に飛び込んで来かねない。
 「なあ、海斗? 俺達に次はないんだ。今年の夏が最後のチャンスだ。頼むから、もう一度、本当の自分と向き合ってくれ」
 「俺はいつだって向き合っている。最も真実に近い自分と。
 お前こそ、素直になれよ。部長をやれと言うなら引き受けるし、テニス部をインターハイへ行かせろと言うなら約束する。だから、安心してアメリカへ行け。
 子供の頃からの夢がかかっているんだ。せっかくのチャンスを無駄にするな」
 「そんな事はどうだって良いんだ!」
 激しくテーブルを叩く音に合わせて、食べかけの新メニューの器が倒れかけたが、成田は構うことなく先を続けた。
 「俺が一番心配しているのは、テニス部でも、自分の夢でもない。海斗、お前のことだ。
 五年前の“あの事”を綺麗さっぱり忘れろとは言わないけど、せめて……」
 「悪いが、その件に関してお前と議論する気はない。これは俺と兄貴の問題だから」
 親友の心からの言葉と分かっていながら、唐沢は無理やり会話を終わらせた。そして本題の返事だけを残して、席を立った。
 「部長の件は考えておく。お前の言う『やる気』とやらを含めてな。少し時間をくれ」

 ひどく後味が悪かった。店を出た唐沢の胸には、早くも後悔の念が渦巻いていた。
 この話題になると、いつも成田に嫌な思いをさせてしまう。
 彼の気持ちは痛いほど分かっている。このままではいけない事も自覚している。
 しかし誰にも触れられたくない領域が自身の中に存在するのも事実であった。そこに一歩でも踏み込まれれば、誰彼構わず重荷を背負わせることになりそうで。
 前途有望な親友をそんな場所に近付かせてはならない。だから、独りで抱えていくと決めたのだ。今までも、これからも。
 校門に差し掛かったところで、唐沢の目の前を桜の花びらが一片通り過ぎた。それをすくい上げようとして、ふと手を止める。散りゆくものに手を差し伸べるなど、愚か者のすることだ。
 「良いよな、お前等は。俺も早く……」
 言いかけた言葉を飲み込んだ。今はまだ、その時ではない。
 「さて、今日は誰をカモるかな」
 春うららかな陽気に向かって一言つぶやくと、唐沢もまたいつもの副部長の顔に戻った。


 「唐沢、トオルから連絡受けてねえか?」
 部室の扉を開けたと同時に、コーチの日高の声が耳元に迫ってきた。その切羽詰った語調から、自分達の留守中にただならぬ事件が起きたことは、すぐに分かった。
 「いえ、俺は何も……。ひょっとして、まだ来ていないんですか?」
 「ああ、マズいな」
 バリュエーションの日程は、すでに本人に知らせてある。体調を考慮して、前日には到着する予定だとも聞いている。
 それなのに、まだ姿を見せないとは、どういう事なのか。今日がバリュエーションの当日だというのに。
 時計を確認すると、昼の一時を過ぎている。
 成田の補充人員として入部するには、レギュラーの座を勝ち取ることが必要最低条件だ。現時点での不在は、午前の部に参加しなかったことを意味し、当然、レギュラーからも外れることになる。
 迂闊だった。成田の留学が保留の現状で、部員にいらぬ心配をさせないようにとの配慮から、真嶋の復帰はコーチと部長、副部長の三人だけのトップ・シークレットにしたのだが、それが裏目に出てしまった。
 通常、午前のバリュエーションは全部員が各コートに分かれて試合を行なう為に、マネージャーが出欠確認などの運営全般を取り仕切ることになっている。実際、成田も唐沢も朝からコートの中で各々の試合に集中していたし、コーチは例によって重役出勤だ。従って、今の今まで彼の不在を疑問に思う者がいなかった。
 唐沢は考えられる状況を頭の中で並べてみたが、無断欠席の正当な理由には思い至らず、今さっき自ら発した台詞が唐突に浮かんだ ―― 三年も経てば、人は変わる。
 「まさか、あいつに限って……」

 遅れて入ってきた成田が状況を察して、部室のパソコンに向かった。
 「予定していた帰国便がストで欠航になっているようですね」
 航空会社のホームページでフライトスケジュールを確認した結果、アメリカ西海岸から日本への直行便は全便ストライキで欠航になったと判明した。
 成田はキーボードを叩く傍らで、画面から航空会社の連絡先を拾い、真嶋が乗りそうなフライトを直に電話で照会していった。こういう時の的確な判断と行動力が、中高合わせて部長を任される所以である。
 「翌日の成田行きの便にも真嶋の名前はありませんね。搭乗記録では、ストがあった日に一人だけサンフランシスコから出発した日本人がいたそうですが、ニューヨーク行きのフライトなんで……」
 「反対方向じゃ、トオルが乗っている可能性はないか。相変わらず、人騒がせな奴だ!」
 怒りを露にする日高とは対照的に、成田の口元はニヤけている。
 「何だか、真嶋が帰って来るって感じですね」
 「笑いごとじゃない。お前の将来がかかっているんだぞ?」
 普段はふてぶてしいまでに感情を出さないコーチだが、何故かこの後輩が絡むと子供のようにムキになる。
 気心知れた親友の息子だからか。無鉄砲な言動がそうさせるのか。いずれにせよ懐かしい光景だ。
 コーチの心中を知らない訳ではないが、唐沢も成田と同様、お騒がせな後輩と共に過ごした日々を思い出し、少しばかりニヤついた。
 だが、それもほんの一瞬のことである。
 日高がここまで理性を失うには理由がある。もしも補充人員を確保できなければ、責任感の強い成田が渡米の話を断ると分かっているからだ。
 プロテニスプレイヤーの養成所から請われて留学するなど、こんな名誉なことはない。何より才能溢れる成田が活躍するには最も相応しい場所であり、コーチとして一刻も早く送り出してやりたいと願うのが道理だ。
 自分の教え子がその才能を認められ、プロへの切符を手に入れようとしている。それなのに、当の本人はチャンスを前にして部長の立場に縛られ、せっかくのプラチナチケットを放棄するつもりでいるのだから、落ち着けという方が無理な話である。
 「あのバカ、さっさと帰って来い!」
 部室のロッカーに拳で一撃を加えると、日高は午後の部の査定をしに出て行った。

 成田に代わって、今度は唐沢がパソコンのキーボードを叩き始めた。
 おぼろげな記憶だが、確か航空会社の都合で欠航になった場合、乗客は代替便の利用を認められているはずだ。直行便が駄目なら、経由便を使ったかもしれない。
 インターネット上の記録では、真嶋が乗ろうとした航空会社の日本への直行便は全便欠航だが、国内の移動は可能であった。
 例えば全くの仮定だが、最終目的地が日本であれば、同じチケットを使ってサンフランシスコから反対方向のニューヨークへ回ったとしても、ルール上は問題ない。無論、効率の悪さ、時間の浪費、体力的な負担、それに何と言っても逆方向へ向かう馬鹿馬鹿しさを一切除外して、の話である。
 「一つだけ、南回りなら……」
 弾き出した本人も信じられない無謀なルートが、画面上で組み上がった。
 「まずサンフランシスコからニューヨークへ飛んで、そこからヨーロッパに入る。たぶん、この接続ならチューリッヒかローマへ寄って、南回りでボンベイ、香港と経由すれば、一応、日本まで帰れることは帰れる」
 「経由便を使って反対方向から帰るということか? いくらなんでも、そんな馬鹿な……」
 そう言いかけて、成田も電話で聞いた「ニューヨーク行きに搭乗した日本人」の話を思い出したらしく、食い入るように画面を見つめた。
 「真嶋の奴、まさか……?」
 「途中で遅延トラブルがなかったとしても、三十六時間かかるけど」
 きつい冗談だと笑い飛ばそうとした二人だが、互いに目が合った瞬間、笑うに笑えぬ可能性が浮上した。
 ――あいつなら、やりかねない!

 柄にもなく奇跡を信じかけた唐沢に反し、成田はとうに甘い夢物語から覚めていた。
 「いずれにしても、タイムアップだ。午前の試合を放棄した時点で、真嶋はレギュラーになる資格を失った。
 今回の留学の話はなかった事にしよう」
 コーチの後を追って部室を去ろうとする成田を、唐沢は後ろから引き止めた。
 「俺がテニス部をインターハイまで行かせてみせる。たとえお前と真嶋がいなくても……」
 「希望的観測は、副部長らしくないぞ。そんな安易な夢なら、俺もお前も、ここまで躍起になって追いかけたりはしない。そうだろ?」
 彼の言う通りである。
 地元では強豪で知られる光陵テニス部だが、高等部での過去最高記録はインターハイ初戦敗退。これはコーチの日高が現役時代に打ち立てた記録である。
 最も期待が高まった一昨年でさえ、あと一歩のところで予選を突破できなかった。
 「そんな顔するな、海斗。俺には八十人の部員を預かる責任がある。それを放棄してまで個人の夢を叶えたいとは思わない」
 成田の答えは、最初から分かっていた。だが万に一つの望みを託して、唐沢は自身の決意を伝えた。
 「その責任を、今から俺が引き継いだとしてもか? 俺が部長になって、必ずテニス部をインターハイへ連れて行く。どんな事をしてでも。
 だから、お前はアメリカへ行け。いや、行ってくれ」
 「もう良いんだ、海斗。これ以上、お前が何かを背負う必要はない。俺にはそれが一番辛いことだから」
 柔らかな、春の日差しと同じ色合いの微笑を、成田が向けた。部活動中に、彼がこのように笑いかけたことは一度もない。
 「海斗、俺の為にいろいろ動いてくれて、ありがとう。あともう少し、夏まで宜しく頼む」
 コーチの後を追って査定に向かう背中を見送りながら、唐沢もまたロッカーに一撃を加えた。他の部員に怪しまれぬよう、日高と同じ場所を狙ったつもりであったが、薄っぺらいスチール製の扉には拳の跡が二人分、くっきり付いていた。

 結局、午後の査定が終わっても、元後輩は姿を見せなかった。やはり三年の歳月は、人を変えるには充分なのか。
 夕暮れの中、コーチがコートの中に部員を集め、明日からの予定を伝えているが、唐沢の耳には入らなかった。 
 最初から期待などしていなかったはずなのに、なぜか虚しさが込み上げてくると思った、その時。
 「悪りぃ、おっさん! バリュエーション、やっぱ終わったか?」
 聞き覚えのある声が、コートの入口から飛び込んできた。
 「遅いんだよ、このバカタレが! 一体、どこをほっつき歩いてたんだ!?」
 「そう怒鳴るなよ。これでも一番早い方法で帰って来たんだぜ。三十六時間かかったけど」
 「それが遅いと言っているんだ!」
 日高と懐かしい押し問答を繰り広げているのは、確かに彼である。三年前、驚くほど短期間で成長し、レギュラーの座を勝ち取ったにもかかわらず、その直後に父親の転勤でテニス部を去った一年生。
 今でも、あの日のことは鮮明に覚えている。
 光陵学園を去るという最後の日。いつもは感情表現豊かな後輩が、赤い目を瞬かせ、肩を震わせながら、黙々と壁打ちボードに向かっていた。彼なりに理不尽な現実を受け入れようとしたのだろうが、最後の最後で堪え切れなくなって、唐沢の胸にしがみつき幼稚園児も顔負けの泣きっぷりで号泣した。
 あの頃から比べれば大人びた印象を受けるが、口を開けばその人間性に変わりはないようだ。
 「だ・か・ら、航空会社のストだって言ってんだろ! 遅刻したくてしたんじゃねえよ!」
 「だったら、電話の一本ぐらいよこせ! どれだけ心配したと思っているんだ!?」
 「時間が無かったんだよ。すぐにニューヨーク行きが出発するって言うからさ。
 おっさん、相変わらず細かいこと気にし過ぎだ。ハゲるぞ? あっ、ちょっと薄くなったんじゃねえか?」
 「うるさい! コーチと呼べ、コーチと! ハゲと言うな! おっさんと言うな!」
 たった四ヶ月の在籍で、彼ほど全員にその存在を印象付けた部員はいないだろう。強面のコーチと威勢よく言い争う様を、他の部員達は懐かしそうに眺めている。
 コーチの手前、笑いを堪えて腹を押さえる者。堪え性がなくて噴き出してしまう者。久しぶりの光景を写真に収める者。
 皆に共通するのは、あの日、実現不可能と思われた約束が、こうして形となって現れた。そのことに対する驚きの混じった喜びが、皆の顔にありありと浮かんでいる。
 ――真嶋透が帰って来た!
 ただ残念なことに、一人だけ感情と規律は別物として、道理を通そうとする堅物がいた。部長の成田である。
 「真嶋、遅刻の理由は後で聞く。まずはバリュエーションを終わらせるぞ」
 彼は完全に幼児レベルに落ちた口喧嘩を中断させると、何事も無かったかのように残りの指示を言い渡した。
 「明日は、全員、十時に会議室集合。地区予選の出場選手と今後の方針を発表する」
 「ちょっと待ってください、部長! 俺はレギュラーになる為に戻ってきたんです。チャンスをくれませんか?」
 「理由はともかく、遅刻は遅刻だ。今朝、真嶋が不在だった時点でその資格はない」

 相変わらず融通の利かない性格だと、透は思った。淡々と話を進める姿は、厳格を絵に描いてワックスを塗ったような、まさに記憶通りの部長である。
 中学時代、散々絞られた経験から反射的に怯んでしまうが、ここで引き下がっては遠路はるばる三十六時間もかけて戻った意味がない。
 ひとまず地面に正座して、両手を付いて、それから頭を下げる。久しぶりの土下座である。
 「お願いします、部長! 今から、誰かレギュラーと試合をさせてください!」
 帰国早々、まさか土下座をするとは思わなかったが、こうでもしなければ部長が意見を翻すことなどあり得ない。
 「今からって……三十六時間のフライトの後で、試合は無茶だ。来月まで待て」
 「どうしても今月からレギュラー入りしたいんです。ここで俺が勝てば、レギュラーとしての実力を認めてもらえますよね?」
 「だけど……」
 「お願いします、部長!」
 表向きは自己都合として話しているが、透がここまでするのは成田の為だった。
 日高の話によれば、今月中にオファーのあった養成所へ留学の返事をし、手続きを済まさなければ権利を失うと聞いている。つまり、この場で透がレギュラー入りするしか、成田を渡米させる方法はないのである。
 サンフランシスコの空港で欠航の知らせを受けた時、いつ出発するかも分からぬ後続便ではなく、無謀でも確実に日本に到着するルートを選択したのも、事前にこれらの事情を聞かされていたからだ。
 しかし、成田は土下座を前にしても意見を変えようとはしなかった。
 「気の毒だが、お前だけ特別扱いするわけにはいかない。これはテニス部の規則だ。例外はない」
 口調は厳しいものだが、少し細めた目元から苦渋の跡がうかがえる。彼も、透が誰のためを思って頭を下げているのか、分かっているのだろう。
 頑なに部長の立場を貫こうとする成田と、その成田の将来のために土下座を続ける透と。互いに一歩も引かぬまま、しばらく硬直状態が続いた。
 そこへ、双方の性格も胸の内も、充分に把握している日高が割って入った。
 「なあ、成田? こいつは入部希望者であって、まだ部員じゃない。単なる部外者に、テニス部の規則もねえだろ?
 入部テストを兼ねて、やらせてみたらどうだ?」
 コーチが説得にかかるのを待っていましたとばかりに、唐沢が意味深な笑顔を透に向けた。
 「入部テストなら問題ないでしょ? ま、部外者のわりには、この土下座スタイル、妙に懐かしい気もするけどね」
 中等部に在籍していた頃、透が校門の前で土下座したのを、彼はまだ覚えているようだ。
 下げたままの頭を上から小突きながら、唐沢が援護を続けた。
 「それに副部長の立場から言わせてもらえば、出来るだけ早くこの新入部員の実力を把握しておきたい。即戦力になるか、どうか。俺は自分の目で見たことしか信じない主義だから」
 その援護に応えるように、すかさず千葉がフォローに回った。
 「コーチ、だったら俺とやらせてください。ちょうど俺がボーダーラインの十位ですから、それでレギュラーの実力があるかどうか、はっきり分かると思います」
 相変わらずなのは、成田や唐沢に限ったことではなかった。躊躇うことなく名乗りを上げる千葉も、昔と少しも変わらない。ここで負ければレギュラーから外されるというのに、後輩の為に自ら対戦相手を買って出てくれた。
 「トオル、何だか妙なことになっちまったけど、お互い遠慮なしでやろうぜ!」
 「ケンタ先輩……あの、お久しぶりです。そんで、久しぶりで迷惑かけちゃって、すいません」
 「タ〜コ! なに悠長なこと言ってんだよ。細かい話は後だ。レギュラーになりたくて帰って来たんだろ?」
 「はあ、でも……」
 「俺はお前が帰って来るって、ずっと信じていた。だから最初に対戦できて、すげえ嬉しい。ゴチャゴチャ話すより、直接打ち合った方がどれだけ向こうで鍛えてきたかも分かるしな!」
 昔と変わらず透を無条件で受け入れてくれる千葉。彼の気持ちに応える為にも、ここで結果を出さなければならない。
 覚悟を決めて、透が準備に入ろうとした時である。試合に異を唱える者が、他にもいた。
 「それじゃあ意味ないと思うんですけど? ケンタ先輩は昔から田舎者に甘いから」

 可愛げのない態度も憎まれ口もそのままの、相変わらずの部員がもう一人。別れ際でこそ名残惜しさを感じたものの、再会すれば腹立たしさが先に立つ。前世からの因縁でもあるのかと思うほど、理屈抜きでムカつくライバル。
 「ハルキ!」
 三年ぶりに再会した遥希は昔と比べて背が伸びたようだが、それを上回る勢いで透自身も成長したらしく、二人の身長差は前よりも広がった。
 しかしながら、その差がイコール、実力差ではないと、下から差し向けられた視線が訴えかけている。
 「コーチ、俺が相手になりますよ。先輩達じゃ手加減しそうだし、あいにく一年のレギュラーは俺だけだし、それに……」
 さらりとレギュラーを強調する嫌味な言い方も。負けず嫌いを象徴する吊り上った目元も。何もかもが相変わらずで、腹立たしく、そして――。
 「それに、こいつとの勝負は三年前に予約済みですから」
 その腹立たしさが、はらわたが煮えくり返るのと同じぐらい嬉しかった。
 三年前の約束は、別れ際の軽い挨拶のようなものだった。
 「そんなに同情して欲しいなら、今度また、勝負してやっても良いぜ」
 旅立ちの日、不本意ながらアメリカへ発とうとする透に対し、遥希はこう告げた。
 あの時、ほんのわずかな時間だが、互いに気持ちを通わせ、二人は別れた。一人はテニス部の合宿へ。一人はアメリカへ。いつかまた分かれた道の交わる場所で、ライバルとして戦える日が来ると信じて。
 遥希が挑発的な言葉で透を下から突き上げる。
 「それとも、四位の俺とじゃ差があり過ぎる?」
 「いいや、構わないぜ。どうせならもっと上の先輩とやりたかったぐらいだ。ナンバー3のシンゴ先輩とか……」
 毒舌には毒舌を。帰国前、父親から仕入れた情報をもとに、透はわざとこの話題を持ち出した。中等部では部長まで務めた彼が、四位に甘んじているはずがない。
 「へえ、減らず口だけは成長したんだ。断っておくけど、対戦する以上、容赦はしない。三十六時間のフライトなんて、俺には関係ないから」
 「そっちもバリュエーションの後だから、ちょうど良いハンデだろ。
 それに容赦なんかされちゃ、こっちも困る。本気のお前を倒さねえと、わざわざアメリカから戻った意味がねえからな」
 「帰国早々、惨敗なんて、気の毒に」
 「俺が帰ったばかりに、五位に転落とは気の毒に」
 「昔みたいに、トップスピン・ロブだけで俺に勝とうとしないでね」
 「お前こそ、あのしょぼいスライス・サーブ、まだ使ってんのか?」
 「ようし、そこまでだ。続きはコートでやれ」
 日高のこの一言で、テニス部全員がコートの周りに散らばった。
 透は荷物を下ろすと、ウォーミングアップを開始した。
 分かれた道が再び交わろうとしている。
 コーチの父親を持ち、実家がテニススクールという恵まれた環境で育ったにもかかわらず、常に周囲の嫉妬の目にさらされ、実力をつける事でしか自分の存在理由を確認出来なかった遥希。
 そんな彼とは対照的に、身勝手な父親に振り回されながらも、その逆境故に手を差し伸べてくれる仲間に恵まれ、彼等のおかげで困難に打ち勝つ強さを身につけた透。
 「もう、三年前とは違う。あいつも俺も……」
 光陵学園・高等部。対極のまま己の道を歩み続けた二人の対決が、この新たな舞台で再び始まろうとしていた。






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