番外編 荒木が喋った日

 まったく厄介な奴と関り合いになったものだ。
 唐沢は不満を表す目的では滅多に動くことのない唇を、拗ねた子供がするようにつんと前へ突き出しかけて、形をなす直前で引っ込めた。隣の席にいる滝澤の視線を感じたからである。
 この春始まったばかりの新一年生のクラスはどこも友達付き合いに入る前の品定めの段階で、新しい制服と同様、どこが身の丈にフィットするかも分からぬ余所余所しさが漂っていた。
 無難な落ち着き先を探してアンテナを張り巡らしてみるものの、よほどの共通点を見出さなければ、自分から知らない相手にアプローチすることはない。
 中には積極的に話しかけてくるチャンレジャーもいるにはいるが、そういった連中は後に生徒会活動に勤しむか、お調子者で終わるケースが多く、対処としては適当に話を合わせて済ませている。
 問題は、残りの一般生徒の中でいかに気の合うクラスメートを見つけるか。
 下手に話しかけたが為に、この先ずっと妙な上下関係を強いられては堪らない。相手に媚びることなく、あくまでも自然な流れで気の合う友達を作りたい。
 誰もがそんなささやかな希望を持つ、非常にデリケートな時期だった。
 とりわけ自己主張の激しい長男と我が侭な弟の間に挟まれて育った唐沢は、世間でいうところのヤンチャな次男坊色から大きく外れ、自分から行動を起こすのが苦手な性質で、目下の目標はいずれクラスのリーダー的存在になるであろう集団と何となく行動を共にする、いわゆる影の薄い人を狙っていた。
 ところがこの隣人は、事あるごとに意味ありげな視線を送りつけてくる。どうにも居心地が悪い。
 決してそれは彼の異様に柔らかな物腰のせいではない。唐沢のちょっとした心の動きをいち早く察知し、あたかも「君のことは理解している」と言いたげに、悩ましいサインを送ってくるのである。
 人は往々にして自分のことは理解し得ないものである。訳知り顔を気取る滝澤も、彼自身のことが分かっていない。クラス内でどれだけ特別視されているか。
 頭脳明晰、気品漂う容姿に反してスポーツ万能とくれば、普通は反感の一つも買うはずなのに、彼の一種独特の雰囲気ゆえに、周りにも「滝澤だから」という意味不明な理由で受け入れられている。
 要するに凡人とは違いがあり過ぎて、丸ごと特別扱いしなければ線引き出来ない程の変わり者。
 そんな奴に分かった風な態度を取られ、事あるごとに意味ありげな視線を送られては、こっちまで変わり者だと思われてしまう。
 中学校に入学してから二週間足らずの短い足跡を振り返るに、やはりテニス部に入部したことが間違いの始まりだとの結論に達した。あそこに入らなければ、彼との接点は一つもない。
 そもそも唐沢が入部した理由は幼馴染みの強い要望によるもので、このところ頻繁に入退院を繰り返す彼女の気休めになればと、大した志もなく届を出した。
 希望は帰宅部と言って憚らぬ消極的な人間がテニス部内で目指すのは、エースではなく幽霊部員。とりあえず籍だけあれば良いというポジションだ。それなのに――。
 始業前、すれ違いざまに滝澤から囁かれた一言が、妙な熱とともに耳に残る。
 「今日こそは君の本気、見せてくれるよね?」
 この二週間、頭痛、腹痛、歯医者の予約、委員会活動、ありもしない習い事から、健やかに生存する祖父母の法事まで。これだけ見え透いた口実を使って部活動を休むのだから、いい加減、目指す方向が違うことを察してくれても良さそうなものなのに、頭脳明晰な隣人は頑として聞き入れようとはしない。
 それどころか、こちらの言い訳が底をつくのを見計らって、先の一言を発したのだ。

 まったく厄介な奴と関り合いになったものだ。いや、正確には厄介な奴等、である。
 唐沢の苦手とする人間が、テニス部にもう一人。
 名前は確か、成田といったか。彼は運動部における典型的な優等生タイプと見て間違いない。
 先輩に対しては媚び過ぎず、適度な節度を持って接し、同級生には驕らず気さくに話しかけ、コート整備などの面倒臭い仕事も自ら進んで引き受ける。当然、部内での評判も良く、すでに次期部長候補と注目されている。
 一度だけ、入部テストを兼ねた体力測定に参加させられた時、待ち時間に言葉を交わしたが、嫌味なぐらい王道をいく奴だった。
 プロのテニスプレイヤーに憧れて八歳からテニススクールに通い始め、ジュニア部門の名のある大会では常に上位の成績を収める兵でありながら、明魁学園などの強豪チームではなく大して強くもない光陵テニス部に入部した理由は、自由な校風の中でこそ培われる自主性を仲間とともに学んでいきたいと思ったからだそうだ。
 成田とは全ての面で違うと感じた。
 唐沢がテニスを始めた切っ掛けは兄が練習相手を必要としていたからであり、テニス部に入部したのも幼馴染みの希望によるもので、当面の目標はいかにして幽霊部員の座をキープするか。
 夢など追わずとも日々幸せだと思えるし、お気に入りの推理小説の発売日だというだけで一日機嫌良く過ごせる類の人間だ。
 とても同級生とは思えない別世界の住人。互いにそう感じたことだろう。
 だが困ったことに、どこまでも王道をいく優等生は、唐沢のささやかな望みを聞いた後も、しつこく部活動に出ようと誘ってくる。滝澤と同様、「君のことは理解している」と言いたげに。

 ただでさえ部長の弟の立場で目立つのに、これ以上有名人から親しくされては、幽霊部員の目論見も危うくなる。
 皆から存在を忘れられてこそ、幽霊部員。何となく顔は知っているが、声をかけようにも名前が思い出せない。このポジションが望ましい。
 それにはまず、あの厄介な連中と距離を取り、出来るだけ大人しそうな部員を見つけ出し、同類だと思われるよう始終行動を共にするしかない。
 この手の人間を見つけるのは得意分野である。自分自身の行動パターンを先読みすれば、そこには自ずと同種の人間がいるからだ。
 放課後、唐沢は滝澤の熱意に屈した振りをして、二週間ぶりに部活動に参加した。
 この日は三年生が地区予選の打ち合わせで一時間ほど遅れてくるらしく、前半の三十分は二年生を中心とした基本練習、後半の三十分は一年生も交えてのストローク練習と、事前にメニューが組まれていた。
 ざっと周りを見渡すと、ようやくボールを打たせてもらえるチャンスとあって、一年生は全員顔を揃えている。こんな中で一人だけ休めば、却って目立つことになる。
 滝澤がいつもより強引な誘い方をしたのも、もしかすると先輩から睨まれないよう配慮してくれたのかもしれない。だからと言って、彼の期待に応える気はさらさらないのだが。
 唐沢は授業中に考えた作戦を、早速、実行に移した。
 二年生が基本練習を始めるということは、当然、一年生は球拾いに回される。このチャンスを逃す手はない。前半三十分で大人しそうな同級生を見つけ出す。
 今回の作戦で重要な鍵を握るのは、穴場探しである。
 先輩達から厳しいチェックを受けずに、心穏やかに球拾いに専念できる場所。そこにターゲットとなる人間が集まるはずである。
 横並びに六面のコートを目の前にした場合、大抵の人間は左から右へと視線を移す。一番左端にあるコートの手間から奥へ、左奥から右奥をさっと見回して、右端の奥から手前、最後に中央へと戻ったところで全体の様子を確認した気になるものだ。
 つまり最もチェックが甘くなる場所は、左端から二番目の手前側のコート。ここが穴場に違いない。
 唐沢はわざとらしく人差し指を立て、球拾いの人数が少ないコートを探す振りをして、最もチェックの甘い穴場へ潜り込むと、ほくそ笑んだ。
 案の定、そこには見るからに大人しそうな一年生が立っていた。

 中学一年生にして身長170センチ、体格も華奢な唐沢と比べると倍ほど差のある彼だが、今までの経験上、こういう外見が目立つ奴ほど根は大人しい性格だと知っている。きつく一文字に結ばれた口元が何よりの証拠である。彼は間違いなく口下手だ。
 そっと近づいて体操服の名札を盗み見ると、「荒木」と書かれている。
 ターゲットは絞り込めた。あとは自然な流れで話しかけ、付かず離れずの関係を築けば良い、と安堵した直後のことである。
 コートの中で基本練習をしていた二年生が、いきなり荒木を怒鳴りつけた。
 「おい、荒木! 少しは加減しろ! ボール渡すのに、どんだけ強打してんだよ」
 「ど、ど、どうも……」
 「ああ? 『どうも』って、なんだ? 馬鹿にしてんのか!?」
 会話の内容から察するに、荒木にはどもり癖があるらしい。普通なら「どうも」とセットで謝罪の言葉が出てくるはずだが、彼の場合、それを口にするのに時間がかかる為、血の気の多い先輩のほうが先に無礼な輩と結論づけたのだ。
 一歩、また一歩。唐沢は少しずつ荒木から離れようと、隣のコートへ移動を始めた。
 まさか口下手だと狙いをつけた奴にどもり癖があるなんて。これ以上の厄介事はご免である。
 ところが、もう少しで安全圏に避難できるという段になって、隣のコートにいた成田が騒ぎを聞きつけやって来た。
 優等生の彼は先輩を怒らせないよう取り成す傍らで、他の一年生には持ち場に戻るよう的確な指示を出し、赤ら顔でパニック寸前の荒木には「心配ない」と声をかけ、誰にも嫌な思いをさせることなく上手く場を収めた。ただ一人を除いては。

 成田が持ち場に戻るよう余計な指示を出したおかげで、唐沢は穴場変更のチャンスを逸してしまった。しかも今度は同じコートに成田まで加わった。
 現在、唐沢、荒木、成田の順で並んでいる。
 優等生の成田のことだから先輩に目を付けられた荒木の世話を焼くつもりだろうが、今の立ち位置からすると、自動的に唐沢も巻き込まれる恐れがある。
 このままでは、お騒がせな奴等の仲間だと思われるではないか。ここは何としても先手を打って、再発防止に努めなければ。
 その第一の手段として、唐沢は荒木にこっそり耳打ちをした。
 「荒木君? さっきみたいに誤解されないよう、俺が良いことを教えてあげる。
 まず体育会系での返事は『はい』が基本。先輩から話しかけられたら、とりあえず『はい』と答える。それで辻褄が合わないと思ったら、『別に』ととぼける。
 適当に『はい』と『別に』を繰り返しておけば、大抵のことは乗り切れるから」
 「あ、あ、あ……」
 「礼なら良いよ。自分の為でもあるからさ」
 我ながら完璧な作戦だと思った。これで球拾いの間は平穏無事に過ごせるし、後半は自分達の練習に専念すれば良い。

 唐沢の予想に反して、事件は後半のストローク練習の最中に起こった。
 ここでのストローク練習は、一年生が二球ずつボールを持たせてもらい、二年生を相手に打ち合いを続けるラリー形式で、どちらかのミスによりラリーが中断し、手持ちの球がなくなった時点で次の者と交代する流れになっていた。
 無論、指導する立場にある二年生が失敗するケースはほとんどなく、大抵は一年生の自滅によって上手い具合にローテーションがなされている。
 「荒木! お前、いい加減にしろよ!」
 本来なら事件など起こりようのない時間帯に何事かと振り向いてみれば、コートの中で先程の二年生が荒木を睨みつけていた。
 「何度言ったら、分かるんだ。いきなり球出しから強打する奴があるか!
 お前、格好良いと思ってわざとバカ打ちしているだろ?」
 「はい」
 「はぁ!? 『はい』と言ったか、『はい』と?
 これだけ言っても、直す気ねえのかよ?」
 「べ、別に」
 「てめえ、先輩なめてんのか!?」
 「はい」
 「荒木、もう一度だけチャンスをやる。お前、そのバカ打ちを直す気はないんだな?」
 「はい、あ……別に」

 まずい。まずい。非常にまずい。確かに『はい』と『別に』で大抵のことは乗りきれると教えはしたが、まさか鵜呑みにするとは思わなかった。しかも先輩の問いに対する答えが見事なまでに一致している。
 逃げるべきか、助けるべきか。いつもは迷わず前者を選択する唐沢も、責任の一端を感じるだけに知らん顔を通すわけにもいかず、後で真相が発覚してはもっと厄介になるとの消去法的判断のもと、不本意ながらコートの中へ入っていった。
 「あの、先輩? 荒木のバカ打ちはわざとじゃなくて、単にスィングスピードをコントロールしきれていないからだと思います」
 唐沢は荒木に悪意がないことを述べた上で、『はい』と『別に』に関しては自分にも責任があると謝罪しようとしたのだが、先輩の威厳を保つことしか頭にない二年生には真意が伝わらず、さらに怒りを煽る結果となった。 
 「なんだ、お前? 偉そうな口を利いて? 部長の弟だからってデカい態度取るんじゃねえぞ」
 「別に、そんなつもりは……」
 「だったら、どうして部活に出て来ない? こんな幼稚な練習じゃ、満足できねえか?」
 「違いますよ」
 「良いよな、部長の弟様は。どうせ家で直接教えてもらってんだろ? 球拾いの間は来なくて良いとか、言われてんじゃねえの?」
 どうやら幽霊部員の目論見が、他の先輩達からは違う目で見られていたようだ。成田や滝澤がしつこく部活動に出るよう誘ってきたのも、これら嫉妬の目を早くから察知していたからだ。
 今度こそ、本当にまずい。危険回避どころか、自ら渦中へ飛び込んだ挙句、溺れかけているではないか。
 この状況で部活動に出ない理由を正直に答えるのは自殺行為である。今さら「幽霊部員を狙っていました」などと言おうものなら、目の前の二年生のみならず、テニス部全員を敵に回すことになりかねない。
 しかし返事をしなければ、この先ずっと生意気な後輩として目を付けられるに決まっている。荒木も自分も同時に助かる道はないものか。
 窮地に立たされた唐沢に助け舟を出したのは、またも成田であった。
 「俺も唐沢君のいうことが正しいと思います。
 荒木は体が大きいから、本人も気付かないうちにスタンスを広めに取って、踏ん張るように打ってしまう。だから自然と当たりの強い打球になるけど、正しいフォームを覚えた上で打たれたボールと違って、制球力はほとんどない。バカ打ちに見えるのは、これが原因です。
 本来なら先輩方がその原因に気付いて、正しいフォームでゆっくり打つよう指導してやらなきゃならないのに、的確な判断を下した唐沢君が責められるなんて、俺には納得できません」
 気のせいだろうか。優等生の成田にしては、発言の中に非難めいたものを感じる。
 隣で聞いていた唐沢がそう感じるぐらいだから、言われた先輩はもっと屈辱的な内容に受け取ったはずである。
 「今年は生意気な新人が多いな。
 分かったよ。そこまで言うなら、制球力のある正しいフォームとやらを見せてもらおうか?」
 「ええ、構いませんけど」
 「お前等、ストローク練習まだだったよな? だったら、今から俺達とクロス・ラリーをしよう。
 使えるボールは二球まで。お互いクロスで打ち続け、ネットにかかるかアウトして、先に手持ちのボールのなくなった方が相手のいうことを何でも聞く。
 どうだ、面白そうだろ?」
 今日は厄日なのか。聞き間違いでなければ、今「お前等」と言われた。
 ストローク練習を終えていない一年生は、この中で二人。唐沢と成田だけである。
 恐れていた事がついに起きた。先輩達は唐沢と成田を仲間だと思い込み、二人まとめて制裁を加えようとしている。

 「俺、遠慮しときます。体弱いんで」
 降りかかる火の粉を払うには、こうするしか策はない。ジュニア界の兵と違って、兄の練習台としてしかテニスを知らない人間が、先輩とクロス・ラリーで勝負して勝てるとは思えない。
 ここは主張の正否より、先輩にとって自分が人畜無害の後輩であることを知らしめた方が、後々楽に生きていける。
 「逃げるの?」
 唐沢の出した結論に真っ先に異を唱えたのは、勝負を仕掛けた二年生ではなく、味方についていたはずの成田であった。
 「ああ、逃げる。負けると分かっている勝負を引き受けるほどバカじゃない。
 先輩と打ち合いたければ、独りでやれば良い」
 「冗談でしょ?」
 まるで世界一気の毒な人間を見るかのように落胆の色を露にする成田を認め、唐沢はむしろ安堵した。お互い住む世界が違うことを、やっと理解してくれたと思ったからである。
 だが彼が落胆した理由は、まったく別のところにあった。 
 「自覚、ないんだね」
 「自覚?」
 「この間、部長と打ち合った時に言われたよ。『無限の可能性を信じる天才よりも、身の丈を知る天才のほうが敵に回すと厄介だ』って。
 それって君のことだよね?」
 「いや、俺は天才なんかじゃないし、うちには弟がもう一人いるから、そいつのことだと思う」
 「ほら、やっぱり君のことだ。身の丈を知る天才。どうしてその力を使おうとしないの?」
 恐らく成田は唐沢が天才だと勘違いして、無自覚のまま才能を埋もれさせている現状を嘆いているのだろう。あの落胆の表情は、価値の分からぬ愚かな同級生を憂うものである。
 「俺はお前とは違う。テニスなんか好きでもないし、人と争うこと自体、向いていないし、天才が身の回りにゴロゴロいるとも思っちゃいない。
 毎日平和に過ごせれば充分満足する。俺はそういう人間なんだ」
 「仲間を見捨てても?
 今のままでは、いつまで経っても荒木のフォームは改善されない。ここできちんと直しておかなければ、あとで苦労するのは目に見えている。それぐらい君にも分かるだろ?」
 「今度は脅しか?」
 「ああ、脅しと取るなら、それでも構わない。ついでに言わせてもらえば、この騒ぎの原因は君にあると思っている。
 俺は本物だと認めた相手には厳しくいくよ。唐沢君、君には勝負を引き受ける義務がある」

 有無を言わせぬ力強さが、成田にはあった。
 そしてその強さは、唐沢に憧れと同時に絶望を抱かせる。何故なら、それは兄・北斗が持つ強さと同種のものだから。
 自分の力を信じ、行く道を信じて、どんな時でも決して揺るがない兄・北斗。彼のようになりたくて、背中を追いかけた時期もある。
 だが、その先で待っていたものは、人には向き不向きがあるという厳しい現実だった。
 やるしかない状況に追い込まれても、まだボールを取ろうとしない唐沢に向かって、成田が手持ちの三球の中から二球を差し出した。
 「ねえ、唐沢君? テニスに向き不向きは関係ないよ。来たボールを返す。ただそれだけだ。
 個性があるとしたらボールの返し方に出るのであって、それが良いか悪いか判断するのは対戦相手の仕事だよ。君がこの時点で心配することじゃない」
 「恐ろしく前向きな奴だな」
 「ああ、よく言われるよ。だって後ろに夢はないからね」
 「お前の夢って、プロのテニスプレイヤーになることだっけ?」
 「その前にもう一つ。ここでしか実現出来ない夢を見つけた」
 「なに?」
 「ただでは教えられないなぁ。君がこの勝負に勝ったら……ね?」
 成田は手元に残った一球をこれ見よがしに唐沢へ突きつけると、「俺は一球で充分だから」と言って不敵な笑みを浮かべた。
 何かにせっつかれたような、不思議な熱を感じた。あの時、教室で滝澤が残したものとよく似た種類の熱を。
 唐沢は手渡されたボールの一つをカゴの中へ戻すと、コートで待つ成田の隣へ進み出た。
 「俺、勝負事に賞品が懸かると俄然やる気の出るタイプなんだよね」


 「まったく、貴方達には冷や冷やさせられるわ」
 部活動終了後、二、三年生達が引き上げるのを待ちかねたように、滝澤が文句を言い出した。
 半ば呆れ顔から送られてくる視線は、考えなしの同級生を交互に捉えている。
 「分かっているの? 僕があのタイミングでボールを乱入させなければ、今頃二人とも、二年生全員を敵に回していたかもしれないのよ?」
 確かに滝澤のいう通りであった。
 たった一球でラリー勝負に挑んだ成田と唐沢は、二年生を相手に一度もミスすることなく十分以上も打ち合いを続け、自分達の主張の正当性と確固たる実力を同時に見せ付ける結果となった。
 初めは上級生との勝負に臆した唐沢も、実際に打ち合ってみると、二歳年上の兄が放つ打球より数段返しやすいと分かり、後半は相手のミスを誘うまでに優位な立場に立っていた。
 しかし、そのことを快く思う連中ばかりとは限らない。
 ラリーに集中していた二人は気づく余裕もなかったが、勝負を仕掛けた先輩を始め、他の二年生がこぞって才能あるルーキー二人を嫉妬の混じった目で睨みつけていた。
 あわやもう少しで先輩の放った打球がネットにかかろうかという直前で、不穏な空気を感じ取った滝澤が隣のコートから特大のアウト・ボールを叩き込み、双方の面目が保てるようラリー勝負を意図的に中断させたのだ。
 その後、幸運にも打ち合わせを終えた三年生が戻ってきた為に、大した騒ぎにならずに済んだが、タイミングが少しでも遅れていれば、どうなっていたか分からない。

 「ありがとう、滝澤。おかげで助かった」
 機転の利く同級生がいることに、唐沢はこの時初めて感謝した。
 すると、今まで黙々と後片付けをしていた荒木が急に立ち上がり、一人ひとり順番に肩を掴んで、「成田、た、滝澤……」と続けてから、唐沢のところで「な、な、名前、何?」と聞いてきた。
 「唐沢」
 「下の……な、名前」
 「なんで?」
 「部長と同じ。困る」
 「たぶん、もう来ないから。困ることはない。
 成田のおかげでテニスに向いていないとは思わなくなったけど、でも、やっぱり俺は……」
 「名前、何!?」
 荒木に掴まれた肩から、めちゃくちゃな熱が伝わってきた。他の二人とは違って、力任せに発したひどく乱暴な熱だが、誰にも引けを取らない迫力といおうか。直向さといおうか。巻き込まれても仕方がないと思えるような純粋な熱だった。
 「海斗。唐沢海斗だ」
 「あ、あ……ありがとう、海斗。教えてくれて」
 「えっ?」
 「『はい』と『別に』で乗り切れた」
 「荒木、お前……」
 呆気に取られる唐沢の隣で、成田が仰々しく頭を抱えてみせた。
 「そうだった! 荒木は人より覚えは遅いけど、一度覚えたら、絶対に忘れない体質なんだ」
 「何だって!?」
 「だからバカ打ちの件も、妙な癖がつく前にフォームを直さなくちゃ駄目だと思ってさ。
 こうなった以上、海斗には責任を取ってもらわなくちゃね。今後、荒木の尻拭いは、君に任せるよ」
 言葉とは裏腹に、やけに嬉しそうに微笑む成田に続き、滝澤も「幽霊部員の野望は捨てなさい」と言って、訳知り顔の笑みを傾けた。
 「まったく厄介な連中と……」
 唐沢の心の声が形なって現れようとした、まさにその時。荒木の言葉が覆いかぶさった。
 「海斗も、な、な、仲間」
 「やれやれ」
 つんと突き出しかけた唇に、溜め息がひとつ。その口元が成田の夢を聞いた後で、少しだけ上向きに緩んだ。
 「海斗? 俺の好きな言葉、覚えておいて。
 独りで見る夢は夢で終わる。だが、誰かと見る夢は現実となる。
 一緒に行こうよ、インターハイ。このメンバーなら絶対に行ける」
 これより先、幽霊部員を目指した少年は、仲間とともに兄でさえ踏み入れたことのない頂点に向かって走り出す。
 唐沢、成田両名が異例にも光陵テニス部初の一年生レギュラーに抜擢されたのは、この翌日のことだった。


*珍しくあとがき(別窓)