第四夜

 今の時代に生まれて良かったと思う理由の一つに、インターネットの普及が挙げられる。家にいながらにして世界各国の情報が得られるし、買い物だって出来るのだ。
 「ゲッ……こんな小せえのが十二万もすんのかよ!?」
 幸太郎は予想を一桁上回る金額を前にして、己の浅慮を心底悔いていた。
 きっと性質の悪いサイトに違いないと、片っ端から情報を掻き集めてみたが、どうやら八万円が底値のようである。
 「マジか……」
 無知というのは恥ずべきことではないにせよ、そうであることぐらいは知っておいた方が良いらしい。現に幸太郎は今、己が無知から窮地に立たされている。
 それは昨日のことである。

 ファミレスでの事件の後、公園でかおりと他愛もない話を続けていた幸太郎は、ふと彼女の誕生日に向けてサプライズでプレゼントをしようと思い立ち、それとなく探りを入れてみた。
 「ラブラドールレトリバー」
 いま一番ハマっているもの。欲しいもの。こうした話題には誰しも笑顔になるはずだ。
 ところが、かおりは浮かない顔でその名を告げた。
 彼女の話によると、子供の頃にラブラドールレトリバーを飼っていたのだが、その犬が亡くなった時の落ち込みようがあまりに激しく、以来、家では生き物の飼育が禁止となり、動物の話題すらタブー視されているとの事だった。
 可愛い我が子を思う親心とは言え、かおりにとっては十年以上も前の話で、あの頃よりは精神的にも成長しているし、ペットの類のほとんどが人間よりも寿命が短いことも知っている。
 将来、ペットショップのトリマーを夢見るほど動物好きの彼女としては、いい加減、過去の呪縛から解放して欲しいというのが本音である。
 しかしながら、両親にとって娘はいつまで経っても愛犬の死を受け入れられないガラスのハートの持ち主で、よもやその死からケロッと立ち直り、動物相手の商売を考えているとは思いも寄らないことなのだ。
 娘に過剰な天使像を抱く両親に対して、新しい犬を飼いたいとはとてもじゃないが言い出せない。
 かおりの苦しい胸の内を聞かされた幸太郎は、自分がどうにかしてやらねばとの正義感 ――あとから思えば、彼女の前で格好つけたかっただけかもしれないが―― に駆られ、当初の目的も忘れて宣言したのである。
 「よし! 俺がそのラブなんとかって犬、誕生日プレゼントに買ってやる。
 友達から強引に渡されたとか、上手く理由をつけて飼っちゃえば?」
 「ちょっと、待って。幸ちゃん、無理だよ」
 「なんで?」
 「だって、すごく高いんだよ。悪いよ、そんな……」
 「大丈夫だ。小さいヤツなら何とかなるだろ? 任せておけって!」
 幸太郎はこの時まで、自分が無知であることを知らずにいた。
 ラブラドールレトリバー。それはその辺の犬ころと同種と考えてはいけない。たとえ子犬であっても、体の大きさに合わせて価格が下がるような安易な代物ではなかった。

 「八万って……どうすんだよ?」
 パソコンの前で頭を抱える幸太郎に、さらに追い討ちをかける事態が起きた。
 〈お前、かおりと付き合ってんのか?〉
 親友の俊也からのメールである。
 ――ついに来たか。
 中学校からの親友というのは、何でも分かり過ぎて困ることもある。ハッキリと明かされたわけではないが、俊也もかおりに好意を寄せていることは日頃の言動から察しがついていた。
 本当は彼に一言断りを入れてから告白するつもりであった。だが昨日のごたごたで、不本意ながら順序が逆になったのだ。
 幸太郎は送られてきたメールに返事をしてから、家を出た。
 〈公園で待っている〉

 「それで、噂は本当なのか?」
 普段はムードメーカーとして周囲を笑わせている親友が、今は顔を強張らせ、冷たい視線を向けている。
 「俊也の気持ちは何となく分かっていた。でも、いろいろ事情があって、ほんとに偶然なんだけど、こうなった」
 「こうなったって?」
 「だから、その……」
 「ハッキリ言えよ」
 親友を気遣う言い方が、逆に相手を苛立たせている。畳み掛けるような口調からそう感じた幸太郎は、現状を包み隠さず伝えることにした。
 「順序が逆になって悪かった。けど、俺は今、かおりと付き合っている」
 「いつからだ?」
 「昨日から」
 「なら、まだ間に合うな」
 「えっ……?」
 それまで険しい顔を見せていた親友が、なぜか安堵の色を浮かべている。
 「間に合うって?」
 「幸太郎。俺と勝負しろ」
 「勝負? なんで? どうやって?」
 「明日の夕方、この公園で剣道の一本勝負だ。
 俺が負けたら黙って引き下がる。だけど俺が勝ったら、彼女に告白する」
 「でも、俺たちはもう……」
 「たった一日のことだろう? だったら俺にもチャンスをくれよ」
 先ほど俊也が「まだ間に合う」と言ったのは、二人が付き合い始めて日が浅く、彼にも入り込む余地があると判断したからだ。
 もともと俊也は大雑把な性格だ。
 アルバイト先でも、床に落としたステーキに三秒ルールを適用しようとして、シェフに大目玉を喰らった男である。彼の理論をもってすれば、たった一日の付き合いなら無かったことに出来るはず。
 なるべくリスクの少ない方法で話をつけたいところだが、親友の「俺にもチャンスをくれよ」の一言が重く圧し掛かる。昨日の事件がなければこうなっていたかと思うと、尚更、断りきれない。
 「分かったよ。明日の夕方な」
 「遠慮するなよ?」
 「お前もな」

 お互い剣道は高校に入って体育の選択授業で少しかじった程度である。
 あくまでも同じ条件のもとで正々堂々勝負する。実に俊也らしい決着のつけ方だ。
 昔から俊也にはこういう一本気なところがあった。男から見ても男らしく、それでいて周りへの気配りも忘れない。
 幸太郎がかおりに告白した時に振られると思ったのも、俊也の方が女子にも人気があるからだ。
 明日、もしも勝負に負けたなら、俊也に彼女を取られるかもしれない。昨日は怖い目にあった後だし、吊り橋効果が働いたのやもしれぬ。
 そんな不安からか。幸太郎は祖父が叶えてくれるという「三つの願い事」を思い出した。
 八万円の子犬の件もある。試しに二つだけ頼んで、様子を見ても良いのではないか。
 最後の願い事さえしなければ、体が乗っ取られるようなこともないはずだ。
 そう言えば、毎日のように現れていた祖父の姿が見えない。孫に「俺はじいちゃんとは違う」と言われたことが応えたのか。
 いや、それはない。あの頑固で、意固地で、人の話を聞こうとしない「クソジジイ」が、これしきのことで落ち込むわけがない。
 仮にそうだとしても、自分は事実を伝えただけで、間違ったことは口にしていない。

 ふう、と幸太郎の口から溜息が吐いて出た。
 偉そうなことを言いながら、窮地に立たされると「三つの願い事」に頼ろうとする己の弱さを恥じていた。しかも二つだけという小ズルい手段を用いて切り抜けようとしたのである。
 いくら小さな幸せでも、自力で守らなければ意味がない。この手で守ってこその幸せだ。
 「俺が自分で何とかしなきゃ」
 幸太郎はアルバイト先に電話をかけると、シフトの延長を願い出た。
 まずは彼女との約束を守るために八万円を稼がなくてはならない。ざっと計算したところでは、今日からフルタイムで仕事を入れれば、どうにか手の届く範囲である。
 春休みの繁忙期とあって、シフトの延長はすぐに了承された。
 「よっしゃ!」
 次は剣道の稽古だ。一日で上達するものではないが、せめて面打ちぐらいは練習しておきたい。
 不思議なことに、自分で守ると決めた途端、気持ちが前向きになった。
 明日も明後日も、かおりに「幸ちゃん」と呼んでもらいたい。その一心で、幸太郎は素振りの稽古を始めた。
 無我夢中で竹刀を振っていたせいか、姿を見せない祖父のことも意識の外に飛んでいた。
 幸作が幽霊となって現れて、一週間の半分が過ぎていた。






前頁 | NOVELに戻る | 次頁