第三夜

 「幸太郎、緊急事態じゃ! かおりちゃんが……」
 幸太郎は喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
 本当は、早朝から孫のアルバイト先にまで現れる節操ナシの幽霊に、少しは身分をわきまえろと怒鳴りつけるつもりであったが、口を開いた直後に只ならぬ事態を察知して、後回しにしたのである。
 「彼女がどうしたって?」
 「お前が作っておった、ほれ、何と言ったかの?」
 「ラザニアか?」
 「そう、そう、それじゃ。そのラザニアに妙なモンが混ざっておったと、客に絡まれとる」
 「まさか!?」
 確かにラザニアの下ごしらえは幸太郎の担当だが、あらかじめ工場で作られた“ほぼ完成品”にチーズと刻みパセリを乗せるだけの容易な作業で、そこに「妙なモン」が混入する余地などないはずだ。
 唯一、可能性があるとすれば、客の故意によるものか。
 接客担当のかおりは時々性質の悪い客に絡まれることがある。社員が近くいる時は適当に捌いてくれるが、朝のこの時間帯は本部への連絡や仕入れのチェックなどに追われて、ホールはバイト任せになることが多いのだ。
 「ワシが何とかしてやるか?」
 三つの願い事を叶えるチャンスとばかりに、幸作がにやけ顔で構えている。
 「とにかく状況を見てから考える。どうしても無理だったら頼むかもしれないけど……」
 背に腹は変えられない。最悪、祖父の思う壺になるかもしれないが、彼女を助けられるなら、それでも良いと思った。
 「すいません。俺が作ったんです、そのラザニア」
 幸太郎は問題の客のところまで駆けつけると、頭を下げながら素早くラザニアに目をやった。
 客が「妙なモン」だと主張しているのは小さな紙屑で、その正体は爪楊枝の包み紙のようである。
 包装紙に包まれた爪楊枝は調理場では使わない。使うとしても剥き身のものである。
 これはどう見ても客の仕業である。
 「なんでお前が頭を下げるんじゃ? こんな紙屑、お前は触っとらんじゃろ?」
 耳元で幸作の喚き声が響いたが、幸太郎はもう一度、深々と頭を下げた。
 「申し訳ありません。すぐにお取替えいたします」
 「君さ、アルバイトだよね? 話の分かる人、呼んで来てくれないかな。おじさん、こう見えても気が短いんだよね」
 口調は丁寧だが、いかにもその筋の人を匂わせる言動からして、目的は明確だ。
 幸太郎の胸の奥にチリリと焦げたような痛みが走った。理不尽な要求をしてくる客に対して、自分には抗う術がない。
 頭の上を二種類の怒声が通り過ぎる。
 「不逞の輩に屈するでない!」と喚き散らす祖父の声と。「早く社員を出せ」と息巻く男の声と。
 不協和音がとどろく中で、幸太郎はひたすら頭を下げていた。
 するとそこへ、救世主が現れた。
 「お客様、申し訳ございません。すぐに新しいものとお取替えいたします」
 幸太郎とかおりの窮地を救ってくれたのは、マネージャールームに引っ込んでいた店長だ。騒ぎを聞きつけ、慌ててホールに戻って来たらしい。
 社員の中でも一際大柄な彼は、客が金の話を切り出す前に、芝居がかった態度で顔をしかめて見せた。
 「それにしても、この紙屑。不思議ですねぇ。
 見たところ爪楊枝の包み紙のようですが、これはお客様のテーブルにしかないものでして、厨房のスタッフがわざわざ持ち出して入れたとも思えないのですが……」
 店長クラスになると、こういった悪質な客に対する対処の仕方も訓練されているのだろう。相手の顔を立てながらも付け入る隙を与えず、穏便に事を収める接客は「さすが」の一言だ。

 店長のお陰でどうにか難を逃れた幸太郎であったが、いまだ幸作の怒りは冷めやらぬと見えて、休憩室に入るなり大音量の雷が頭の上から落ちてきた。
 「なんという根性ナシなんじゃ! お前にはプライドがないのか!?」
 「うっせえな! ファミレスの料理なんかにプライドもクソもねえよ」
 「“なんか”とはなんじゃ!? お前はそれで金をもらっておるのじゃろ?」
 「俺はじいちゃんとは違うんだ。俺が頭を下げて彼女が守れんなら、それで良いと思っている」
 「それで守ったと言えるか! 情けない」
 「良いんだよ、それで! 俺が大切にしたいのはプライドなんかじゃなくて、彼女の笑顔なの!」
 感情が昂っていたせいか、幸太郎も祖父につられて声を荒らげた。
 「澤田くん?」
 振り返ると、かおりが休憩室の入り口で顔をのぞかせていた。
 「もしかして、今の……?」
 彼女からの返事はなかったが、気まずそうに俯く仕草が何よりの答えであった。
 幸太郎は頭の中が真っ白になり、目の前は真っ暗になった。
 恋愛経験も乏しく、さして取り柄もない。それでも、そんな男だからこそ、秘境の花を手に入れるための策を練っていた。
 かおりと親しい友人の話によると、もうすぐ彼女の誕生日とのことで、幸太郎はその日の為にここで稼いだ金を貯めていた。相手の負担にならない程度のプレゼントを買って、それと共に気持ちを打ち明けるつもりでいたのである。
 ファミレスの従業員用の休憩室ではなく、もっと雰囲気の良い場所で。祖父との口喧嘩の流れじゃなくて、もっと気の利いた台詞を用意して。
 こうなっては仕方がない。堂々と自分の気持ちを告白するしかない。
 「実はさ、変な独り言だと思ったかもしれないけど、あれが俺の正直な気持ち。前から……あっ、いや……前からじゃない。ここでバイトし始めてからだ。
 えっと、なんつうか……すごく良い子だなって」
 結局、堂々としたのは最初だけで、残りはシドロモドロの情けない告白になっていた。いくらプライドを捨てた男でも、ビシッと決めなきゃならない場面でうろたえていては、結果も自ずと知れようというものだ。
 初恋実らず、と諦めかけた時である。
 「私も」
 かおりが小声で呟いた。
 初めは空耳かと思ったが、顔を上げた彼女の頬がほんのりと桜色に染まっている。
 「えっ? なんでッ!?」
 てっきり振られると覚悟していただけに、俄かには信じられなかった。
 「学校では気づかなかったけど、ここで働いている時の澤田くんって、すごく真面目で、誠実で。
 ほら、仕事って人柄が出るって言うでしょ? だから、もっと色々話ができたら良いなって……」
 幸太郎が職場での彼女の姿に惹かれたように、彼女もまた好意を抱いてくれていた。
 「俺たち、その……」
 今度こそビシッと決めなければならない。
 「付き合うってことで……良いのかな?」

 この日、二人は互いの家の中間地点にある公園で会う約束をした。
 先に仕事が終わった幸太郎が待っていると、かおりが走ってやって来た。
 「ごめんね、待った?」
 「走ってくることなかったのに」
 「だって、待たせたら悪いと思って……」
 息を切らす彼女を見ているだけで、幸太郎は満ち足りた気分であった。
 祖父とは育った環境が違う。時代も違う。ライフスタイルも、考え方も、何もかもが違うのだ。
 たとえ物の値打ちを知らずとも、ありふれた日常の中で互いを思い合う優しさがあれば充分だ。少なくとも幸太郎にとっては、そっちの方が遥かに価値のあることに思えたし、その小さな幸せを幸せだと感じられる人間でありたいと願っている。
 「澤田くん、あのね……」
 公園のベンチに腰を下ろし、かおりが躊躇いながら話しかけてきた。
 「私、澤田くんのことを『幸ちゃん』って呼んでも良い?」
 「別に良いけど、幸太郎でも良いよ」
 「でも良いよ」と言ったが、本当はそうして欲しかった。
 昔は祖父も父も「幸ちゃん」と呼ばれ、新しい「幸ちゃん」が生まれるまでの間、つまり幸太郎が誕生するまでは、彼等は先代の「幸ちゃん」だった。
 自己主張の激しい祖父と、何事も我関せずの父の姿を見るにつけ、三代目の幸ちゃんは恥ずかしい連鎖から脱却したいと願っていた。
 だかしかし、
 「でも、男の人を呼び捨てにするのは、ちょっと抵抗あるから」
 こんな謙虚な理由を聞かされれば無下には出来ない。
 それに彼女の「幸ちゃん」には甘美な響きがあった。
 「それでね、幸ちゃん……」
 彼女が自分のことを呼ぶたびに、二人の距離が縮まるようだった。
 ――俺は、じいちゃんとは違う。
 一年三百六十五日のうちのたった一瞬の夕桜よりも、毎日くり返される「幸ちゃん」のほうが良いに決まっている。職人気質の面倒臭いプライドよりも、事を穏便に済ませる方を選ぶ。それで彼女の笑顔が守れるなら、喜んで頭を下げる。
 公園の桜の花も色づき始めた。幸作の嫌っていた「色香の強い」桜花を見ながら、幸太郎はこれで良いと強く思った。
 そしてそれ以降、始終つきまとっていた幸作が姿を見せなくなった。






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