第11話 メロリン

 最近、それもほんの数日前から、奈緒には訳もなく気になり出したものがある。猫型キューピットという触れ込みのマスコット人形の『メロリン』だ。
 携帯電話に取り付けるストラップやキーホルダーほどの大きさで、値段も四百五十円と高くない。決して女子中学生が躊躇するような品物ではないのだが、買いに行くには勇気が要った。何故なら、これにまつわる噂話が小心者を更に臆病にさせているからだ。
 この『メロリン』、姿形は猫だが頭に二本の触角が生えており、触角の先にはピンクのハートが付いている。噂では、それが一本だけ取れると恋は片思いのまま成就せず、二本とも取れた場合に限り、意中の相手と両想いになれるとの事だった。但しその触角は自然に取れなければ効果はなく、二本の触角が無くなった時点で『メロリン』は恋のキューピットから普通の猫に戻るらしい。
 奈緒のクラスではこの噂話がまことしやかに流れており、女子の大半が『メロリン』効果を狙って鞄や携帯電話に付けていた。
 想いを寄せる相手もいないのに、どうして自分がこんな物に興味を持つのか分からない。単に流行りものだからかもしれないし、鞄にぶら下がっている姿が可愛いと感じたからかもしれない。
 そんなに気になるのなら、さっさと買いに行けば良いのだが、今や『メロリン』を身につけるという行為は「只今、絶賛片思い中」と周囲に宣言するのと同義で、なるべく目立たぬように学園生活を送ろうとしている彼女には飛び越える気も起きない高いハードルであった。
 単なるマスコット人形が、何故こうも気になってしまうのか。鞄に付けている友達を見ると、羨ましいと思うのか。考えれば考えるほど答えはぼやけ、堂々巡りになっていく。
 仮に勇気を出して『メロリン』を手に入れたとして、それだけで満足するかと言えば、そうでもない。皆と同じように鞄や携帯電話に付けてみたいし、何かの拍子に触角が二本とも取れてくれたらと思っている。片思いの相手もいないのに触角が取れることを望むなんて、自分はどうかしてしまったのではないだろうか。
 矛盾だらけの感情が心の中で渦巻いている。疑問と答えが永遠に追いかけっこを繰り返しているようで、落ち着かない。

 「奈緒、どっか悪いのか?」
 無意識のうちに溜め息でも吐いていたのだろう。隣の席から透が顔を突き出すようにして覗き込んできた。
 「俺の鞄、大変だったら無理しなくて良いからな」
 どうやら彼は、奈緒が疲れた顔を見せているのは破れた鞄のリメイクの所為だと思っているらしい。確かにこの二日間、鞄の修理に没頭するあまり徹夜となったが、何故か疲れは感じなかった。
 奈緒は慌てて否定すると、今朝完成したばかりの鞄を差し出した。
 「えっ? これ、ほんとに俺の?」
 透が琥珀色の瞳をこれ以上ないぐらいに丸くして、生まれ変わった鞄をしげしげと見つめている。
 「ああ、ほんとだ。ここんとこ、ちゃんと残っている。すげえな、お前!」
 十回以上は「すげえ」を連発しただろうか。彼は鞄を裏返し、子供達の書いた「トオル兄、だいすき」のメッセージとサインの箇所を確認ながら、しきりと感嘆の声を上げている。
 実際、その部分を残すのにかなりの労力と時間を要した。生地が麻で縫い辛い上に、破れた箇所の損傷も酷く、ほつれもあった。それを本の重みにも耐えられるよう補強しつつ、麻袋のイメージを払拭してくれるデザイン性の高い布を見つけて縫い合わせ、見栄えの良い鞄として甦らせたのだ。地味と蔑まれる手芸部員の職人的意地とプライドがなければ、とうに投げ出していたかもしれない。
 「ありがとな、奈緒。お前はこいつの命の恩人だ」
 透が背筋を真っ直ぐ伸ばし、律儀なまでに深々と頭を下げた後で、にっと笑った。
 鞄の恩人と言われてもピンと来なかったが、彼の反応は素直に嬉しかった。やんちゃ坊主が向けてくる屈託のない笑みを見れば、徹夜の苦労も報われる。
 彼のこの笑顔が見たかった。つまりは、そういう事だった。

 一瞬にして、奈緒はぼやけた答えの正体を悟った。弁当のおかずを横取りされたのに腹が立たなかった原因も、徹夜の疲れが笑顔一つで吹き飛んでしまうのも、『メロリン』の存在が気になって仕方がないのも、全て一言で片付いた。
 自分は恋をしているのである。出会って一週間も経っていないというのに、いまだクラスメートの大半が彼を遠巻きに見ているというのに、いつの頃かは知らないが、行く先々で問題を起こすトラブルメーカーの転校生に惚れてしまったのだ。
 彼と出会ってからの出来事を振り返るに、恋愛対象にドキリとときめくキラキラな瞬間はなかったはずである。ときめきが無くとも、胸が焦がれるようなエピソードが皆無であっても、どちらかと言えば肝を冷やすような“騒動”の方が多い相手であっても、恋心は芽生えるものなのか。
 答えはイエスであった。
 自分が幼い頃から見聞きしていた話とは大きく違う現実に戸惑いを覚えるものの、今まで不可思議だった現象の全てが“恋”の一言で説明がついてしまう。矛盾だらけの不慣れな感情も、恋をしているが故に抱くものである。
 どうしたら良いのだろう。これが今の正直な気持であった。
 誰が見ても納得のいくような美少年でも優等生でもなく、よりによってクラス一お騒がせな転校生に惚れてしまうとは。
 どくどくと脈打つ体の中でも、特に心臓の辺りが慌てふためいているのが良く分かる。どうにかして“恋”以外の要因を探してみるが、一度正解と認められた答えは覆ってくれそうにない。
 時間が止まって見えた。顔が熱い。耳まで熱い。
 恋をしている。恋に落ちた。全身がキーワードとなった一字を思い浮かべるたびに火照り出す。
 
 「お前、やっぱ熱でもあるんじゃねえか? 顔、赤いぞ?」
 よほど分かりやすく動揺していたのか。隣席から透が腕を伸ばしてきた。ひんやりとした手の感触が額に当たる。
 「だ、大丈夫だよ」
 「そんな訳あるか。熱いじゃねえか。ほら、行くぞ!」
 「良いって、ほんとに」
 「駄目だ! すぐ我慢するの、お前の悪い癖だ」
 透はムッとしたように立ち上がると、奈緒の腕を掴んで強引に引っ張った。恐らく保健室へ連れて行こうとしているのだろう。透が有無を言わせぬ勢いで歩き出した為に奈緒も従うしかなかったが、その格好は付き添われているというよりも、連行されている観が強かった。
 どうしてこんな女子を女子とも思わない乱暴な男に惚れてしまったのか。廊下を引きずられるようして歩く奈緒の胸に、後悔が押し寄せた時だった。
 「俺の前では我慢すんな」
 前を向いたまま、一瞬だけ止まって早口で告げると、透はまたずんずんと先を歩いていった。

 案の定、奈緒の体はいたって健康だった。せめて熱が36度台後半であってくれたなら後ろめたさも酷くはなかったが、保健室で測った体温は36度1分。平熱中の平熱だ。
 「ごめんね、トオル」
 仮病とよく似た気まずさから奈緒がおずおずと謝罪を入れると、透は
 「バ〜カ! なんでお前が謝るんだよ?
 熱が無かったんなら、それで良いじゃねえか」
 と言って、いつものようににっと笑った。
 やはり、これだ。原因はここにある。彼のこの笑顔が好きなのだ。奈緒は改めて自身の恋心を自覚した。
 何気ない日常の一齣ではあるが、自分の恋はここから始まった。不器用な中にも時折見せる優しさに、惹かれるものがあったのだ。
 やんちゃ臭い笑みをそのままに、透が話しかけてきた。
 「奈緒、お前さ。何処も悪くないなら、俺に付き合わねえか?」
 「えっ?」
 「部活終わってからになるけど、鞄のお礼、ちゃんとしたいから。今日、空いているか?」
 心臓が止まるかと思う程の衝撃的なお誘いだった。いま心拍数を計測したら、間違いなく病気を疑われるはずである。
 「俺に付き合わねえか」が「俺と」に聞こえたのだ。
 「何か欲しいもんあるか? つって言っても、あんまり金ないから千円以内で勘弁な?」
 「う、うん……」
 動揺のあまり、曖昧な答えしか返せない。恋の一字が浮上して以来、フル稼働している心臓がすでに限界を迎えており、頭もまともに働かない。
 左脳では「買い物に付き合え」の意味を正確に理解しているにもかかわらず、右脳が「付き合え」の部分を何度も誇張して響かせる。透がしきりと何かを問いかけてくるが、会話が意識の中に入ってこない。右脳と左脳が別々の反応を繰り返す。
 「よし、決まり。じゃあ部活が終わったら、校門前に集合な?」
 結局、奈緒が言葉通りの意味で捕らえる事ができたのは、保健室を出る際に透が残したこの台詞だけであった。
 
 放課後、奈緒は約束の場所で透を待ちながら、光陵学園と書かれた門柱の前の狭いスペースをグルグルと歩き回っていた。体を動かしていなければ落ち着かないと思ってせっせと歩いているのだが、その行為が却って落ち着きを失くしているような気もする。
 我ながら滑稽な姿だと自覚しつつも、止められなかった。じっとしていると心臓が爆発しそうで、つい足を動かしてしまう。
 生まれてこの方、家族以外の異性と二人きりで出かけた事のない彼女は、いきなり生じた一大イベントにすっかり翻弄されていた。
 考える事がたくさんあった。これは所謂デートだろうか。男女が約束をして会うことをデートというのなら、これはまさしくデートである。だが二人は付き合っている訳ではない。しかしながら、デートの途中で告白のチャンスがないとも限らない。いやいや、透の性格からして男女の色恋に疎いはずだ。例え二人きりになったとしても、恋仲に発展する確率は限りなくゼロに近い。これは単なる買い物だ。鞄のお礼なのだ。これを機にお付き合いなんてミラクルが起きるはずもない。
 どうにかして気持ちを落ち着かせようと否定的な考えを思い浮かべるが、心は逆の方へ傾いていく。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。可能性はゼロに近くとも、まったくのゼロではない。
 恋心を自覚する前とは違う種類のモヤモヤが、頭に、胸に湧き起こる。今から好きな人に会うというだけで、ドキドキが止まらない。
 だがしかし、呑気に浮かれていられる状況でもなかった。奈緒にはやるべき事がまだあった。
 まずは前髪を手鏡でチェックする。思えば自身の前髪がパックリ割れていると気になり出したのも、透が隣の席に座るようになってからだ。学校の帰りにドラッグ・ストアで整髪料を買ったのは、彼と出会って二日目のことだった。
 今日は体育で長距離を走らされたので乱れていないか心配になったが、どうにか無事のようである。「髪、思い通りに決まる!」の謳い文句は、誇大広告ではなさそうだ。
 次に制服のスカーフが形よく結ばれているか、スカートの皺はないか、靴は汚れていないか、ハンカチとティッシュはすぐに出せるか等々、頭の先から爪先まで順次気になる箇所を点検していった。
 一通り全身をチェックして、最後にもう一度、前髪が可笑しくないか確認を入れたところで、とんでもない事実に気が付いた。今日に限ってお気に入りのリップクリームを持っていない。
 奈緒のお気に入りはシトラスオレンジのリップクリームで、香りはもちろん、ほんのりと唇にオレンジ色が加わるところが気に入っている。だが、いま鞄に入っているのは、試しに買ったベリーピンクの方だった。これでは唇がピンクに染まってしまう。
 自身の肌の色からして、ピンクよりもオレンジ系のほうが断然明るく見える。しかもこのベリーピンクは色が少し濃い気がするのである。
 午後の体育をさぼらず張り切った所為で、すっかり唇の色が剥げ落ちている。早く塗り直した方が良いのだろうが、彼とのデートの前にわざわざ色の濃いリップを塗ったりしたら、却っていやらしく思われはしないだろうか。

 悶々と思い悩む奈緒の背後から、いきなり透が現れた。
 「悪りぃ、待ったか?」
 最悪のタイミングで彼が来てしまった。
 同級生の中にはすでにマスカラや口紅を塗りたくっている女子もいるが、奈緒はリップクリーム以外に化粧と呼べるものは何もしていない。それが剥げ落ちているとなると、つまりは“すっぴん”だ。こんな事なら手持ちのリップクリームでも我慢して塗っておけば良かったと後悔するが、今さら彼の前で化粧直しをするほど神経は太くない。
 「待たせて悪かったな。今日に限って、後片付けが遅れちまって」
 自ずと俯きがちになる奈緒を気に留める風でもなく、透はいつものペースで話しかけてくる。
 「陽一先輩とシンゴ先輩がさ、ケンタ先輩のことをネットで“す巻き”にしちゃってさ。
 ケンタ先輩には色々世話になってっから助けにいこうとしたら、今度は俺がターゲットにされて参ったぜ。まったく、うちの先輩達は……」
 もしかして透は奈緒の唇はおろか、顔面さえも、まともに見ていないのではないだろうか。あまりの無頓着ぶりに、口元を気にして俯く自分が馬鹿らしく思えてきた。
 「どうにか振り切って逃げてきたけど、シンゴ先輩って、メチャメチャ走るの速えのな。驚いたぜ」
 「知っている。小学校が一緒だったから。シンゴ先輩って、前は陸上の短距離の選手だったんだよ」
 「どうりで速えはずだ。山の中なら絶対負けねえ自信はあるんだけどな。テニスコートじゃ障害物がなさ過ぎだ。
 そうか、陸上の選手か。よし、次から対策考えないといけねえな」
 部活動の練習ならまだしも、後片付けの“す巻き”対策の為に真剣に頭を悩ます透を、奈緒は微笑ましく思った。また自分の頭を悩ませていた問題も杞憂だと悟り、“すっぴん”の唇から安堵を含んだほのぼのとした笑みが零れてくる。
 「あっ、お前? いま俺のこと、笑っただろ?」
 「だって……」
 一度笑い出したら止まらなかった。「俺の前で我慢するな」と大人びた発言をするかと思えば、今のような子供染みた一面もある。新たな彼の内面を発見するたびに嬉しくなる。その喜びが笑顔となって溢れ出す。
 親友の塔子と詩織を除き、人前でこんな風に心置きなく笑顔を見せるのは初めての事かもしれない。
 唇を尖らせ、ふて腐れる透の横顔が、更なる笑いを連れてくる。嬉しくて、少し恥ずかしくて、やっぱり嬉しくて。嬉しさも、恥ずかしさも、どちらも笑顔に繋がった。

 学校から駅前に出るまで、初デートだとパニックに陥っていた人間とは思えないほど、奈緒は楽しい時間を過ごしていた。教室での出来事や部活動の話など、特別な話題はないはずなのに、ときめきにも似た感覚が胸を弾ませる。
 ところが駅前のショッピングモールである物が視界に入った途端、奈緒の意識は違うところへ向かった。猫型キューピットの『メロリン』が雑貨屋の店頭に並んでいたのである。
 「願いが叶うマスコット」の宣伝文句がピンクのハートマークと共に店先に貼り出されており、値段は相変わらずの四百五十円だった。この手のキャラクター商品は値下がりしないのが原則だ。
 インチキと言ってしまえばそれまでだが、自身の恋心を自覚した奈緒には『メロリン』がキューピットどころか、神様のように見えていた。たった四百五十円で恋の願いが叶うのだ。なんと太っ腹な神様なのだろう。
 「へえ、奈緒? こういうのが好きなのか?」
 奈緒の視線を追って興味を持ったのか。透が雑貨屋の入口まで近付き、ずらりと並ぶ『メロリン』の一つを手に取った。
 「それにしても女ってのは、なんでこんなオモチャみたいなヤツ、ゴチャゴチャぶら提げてんのかな? 俺なんか、少しでも荷物軽くしてえと思うけど」
 そう言いながら、透は『メロリン』のキーホルダーのリングに人差し指を通して、クルクルと回し始めた。恐らく彼は『メロリン』が女子の間でどういう存在であるかも、学校で流れている噂話もまったく知らずに、単なるマスコット人形として扱っているに違いない。
 やんちゃ坊主に捕まった哀れな恋の神様は、彼の指先で延々と大車輪の連続技を強いられている。恋の神様になんて事をするのだ。もしも噂が本当なら、天罰が下るに決まっている。
 小心者の奈緒が何と言って止めさせようか、思案し始めた矢先。罰当たりな少年にも察するところがあったのか、透が『メロリン』を旋回させながら「俺、買ってやる。四百五十円だし」と言ってきた。
 予期せぬ展開に、奈緒は戸惑った。
 確かに『メロリン』は欲しかった。皆と同じように恋の願いを叶えたいとは思うものの、万が一、噂話が透に知られたらと考えると、とてもじゃないが「買ってください」とは言えなかった。片思いの相手に、恋の願いを叶えるアイテムを買わせる度胸はない。
 「べ、別に欲しくないよ。ちょと、見ていただけだから」
 慌てて否定してみたが、保健室の時と同様、心拍数がハイペースで上がっていく。恥ずかしくて、ドキドキして、頭までクラクラする。いや、違う。本当に目眩がしてきた。どうしたというのだろう。
 「奈緒!?」
 揺れる視界。薄らぐ意識。遠くで透の呼ぶ声がした――。

 気が付けば、奈緒は通学途中の公園のベンチに横たえられていた。体の上には制服の上着、ジャージ、スポーツタオル等、あらゆるものが掛けられている。それらは全て透が普段使っている物のようである。
 「奈緒、大丈夫か?」
 心配そうに覗き込む透と目が合った。光の加減だろうか。琥珀色の瞳がいつもより黒く見える。
 「うん……大丈夫。ごめんね、心配かけて」
 「だから謝るなよ。俺の方こそ、ごめんな。無理に誘っちまって。
 やっぱりお前、具合悪かったんだな?」
 「ううん、違うの。あのね、あの……」
 途中まで言いかけて、奈緒は口ごもった。
 倒れた原因は分かっていた。透の鞄のリメイクに二日も寝ないで作業をしたからだ。
 しかし今そんな事を口にしたら、彼はますます自分を責めてしまうだろう。それだけは何としても避けたかった。
 歯切れの悪い言い方で、これ以上問い詰めてはいけないと察したのかもしれない。透が「なんか飲むか?」と聞いてきた。
 「カフェ・オレ、あるかな?」
 「ちょっと待ってろよ」
 公園のベンチから自動販売機までは大した距離ではなかったが、透は一刻も早く奈緒のリクエストに応えようとするかのように、素早くダッシュで向かい、同じくダッシュで戻ってきた。
 よく見ると、彼は体操服のハーフパンツ一枚だけで、上半身は何も身につけていなかった。自分の衣類を全て、奈緒に掛けてくれていたのである。
 四月と言っても、まだ肌寒い。奈緒は急いで起き上がると、体に掛けてあった制服やジャージを返そうと畳んでいった。
 「おい、まだ動いちゃ駄目だって!」
 「うん、でも……」
 「言っただろう? 俺の前で、我慢するなって」
 透が慌てて奈緒の側まで駆け寄り、隣に座ると同時に、買ってきたばかりのカフェ・オレを「さっさと飲め」と言いたげに、顔の前に押し付けてきた。

 奈緒は半身だけを起こして、黙って温かなカフェ・オレに口をつけた。本当は迷惑をかけた事をきちんと謝りたかったが、「謝るな」と言われた手前、上手い言葉が見つからない。
 隣では透がレモンティーを飲んでいた。厳しい自然の中で育った所為なのか、彼は平然とした様子で外気に素肌を晒し、しかも露となった箇所からは仄かな熱まで感じられる。筋肉のある人間は体温も高いのかもしれない。ボディビルダーのような盛り上がりはないが、彼の体はどこも関節に沿って細く締まっている為に、程よく筋肉がついて見える。いや、実際あるのだろう。奈緒がこれまで目にした事のない、少年と言うより男に近い体であった。
 見慣れぬ肉体に奈緒は突如として気恥ずかしさを覚え、慌てて透の手元にある飲み物に話題を移した。
 「紅茶、好きなの?」
 透は必ず惣菜パンと一緒に紅茶を買ってくる。ほんの数日過ごしただけだが、奈緒は自分が思っている以上に、彼について詳しかった。
 「ああ、そうだな。コーヒーって苦いじゃん? だから、家でも外でも紅茶だな」
 そう言ってから、透が不思議そうにこっちを見た。
 「あれ、笑わないのか?」
 「どうして?」
 「大抵の奴は、ガキっぽいって笑うから」
 「私も同じ。だから、カフェ・オレ」
 「なんだ、そっか! やっぱ奈緒、お前、良い奴だな」
 にっと笑った彼の瞳が琥珀色に戻っている。ただそれだけの事で、心が安らぐ自分に気付く。
 コーヒーが苦手。些細な共通点が嬉しかった。「良い奴だ」と言われた事が、彼に認められたようで自然と顔が綻んでしまう。

 「鞄のお礼、ちゃんと出来なかったな」
 奈緒が笑顔になるのを待っていたのか、透が教室にいる時よりも優しい声音で切り出した。
 「何か欲しいものを言ってくれたら嬉しいけど……。まあ、今どき千円以内で欲しい物なんて、見つかる訳ないか。却って、悪かったな?」
 それは社交辞令などではない、彼の心からの言葉であった。透は純粋に鞄のお礼がしたくて、彼なりに出来る事を真剣に考えてくれていたに違いない。申し訳なさそうに歪む眉根が、やけに寂しげに見えた。
 彼の気持ちに応えなくてはならない。無意識のうちに奈緒も同じように真剣に考えていたのだろう。ふと口をついて出た言葉は、自分でも思いがけないものであった。
 「私、テニスがしたい」
 「えっ?」
 「私ね、テニススクールのレッスンに付いていけなくて止めちゃったの。なかなか上達しなくてね。同じクラスの友達にも呆れられて。
 ほら、ああいう所って、もともとスポーツの出来る人とか、運動神経の良い人が集まってくるでしょ? 私みたいに覚えの悪い人間は理解してもらえないって言うか、やる気がないって思われて。でも、テニスが嫌いなんじゃないと思う」
 運動音痴の自分には、テニスは向いていないと思っていた。してはいけないとさえ思っていた。恐らく周りの人間のほとんどがそれを否定ないだろうし、テニススクールを退会する理由としては充分だった。だが透と出会ってから、奈緒の中で変化が起きた。
 テニスが好き。下手ではあるが、好きだった。周りの目を気にして止めてしまったけれど、本当は上達するまで続けたかったというのが本心だ。
 ありのままの自分で良いと、透は言ってくれた。「俺の前で我慢するな」とも言ってくれた。だからこそ、自然に話すことが出来たのかもしれない。自分でも気付かなかった心の声を。
 「テニス部で頑張っているトオルを見てて、すごく応援している私がいて。でもそれは自分が途中で挫折したから、トオルに頑張って欲しいって思っているかもしれなくて……」
 テニススクールに入会し直すなどという大それた考えを持っている訳ではない。ただ周りの目を気にして止めてしまった自分は嫌だった。そんな自分に何処かで終止符を打ちたいと思っていた。
 「このままだと、本当にトオルを応援している事にはならない気がするの。私もちゃんとしなくっちゃって。
 だからお礼の代わりって言うか、その、私のけじめ的な意味で……一緒に、あの……」

 奈緒の勇気もここまでだった。肝心の一言がどうしても出てこない。
 「今度一緒にテニスをしてください」
 これを言うのは、自らデートの申し込みをするのに等しく、小心者には荷が重い。自分の意気地のなさを歯がゆく思っていると、最後の言葉を透がすんなりと形にしてくれた。
 「よし、分かった。今度、一緒にテニスしよう。
 好きなんだろ、テニス?」
 「うん。すごく下手だけど」
 「好きなら、それで良いじゃねえか。一緒にやろうぜ、テニス」
 いつもの笑みで誘われた途端、自分でも驚くほどに気持ちが軽くなった。ずっと心の奥底で負担に思っていたのだろう。本音を吐露した恥ずかしさより、安堵のほうが強かった。
 今まで周りの目を気にするあまり、自分に我慢を強いていた。誰にも本心を打ち明けてはならないと思っていた。それが透の前では少しずつでも口に出来る。
 恋をすると強くなれるのか。あるいは彼の笑顔が、奈緒の心を開かせるのか。自分はこれで良いと、隠す必要はないのだと、思い始めた自分がいる。
 まだ温もりの残るカフェ・オレを口に運びながら、奈緒は暮れかかる空を見上げた。肌寒さは感じるが、春の風は透き通っていて気持ちが良い。
 もう他人の目を気にして諦めるような事はしない。他人の目よりも、自分の気持ちを大事にしてみよう。
 薄紫色の夕空に、奈緒はそっと誓いを立てた。胸に秘めた小さな決意を応援するかのように、春の風が優しく頬を撫でていった。






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