第16話 敗者の教訓

 何とも後味の悪い試合だった。遥希にロブを打たれてからのラスト2ゲームを、透はほとんど覚えていない。
 必死に喰らいついたのに、全てが裏目に出ていた。記憶にあるのは、それだけだ。
 午前の藤原との試合では、負けはしたが充実感があった。敗戦からも得るものがあると、実感できたからである。
 だが今の遥希との勝負で得られたのは、敗北がもたらす虚脱感と、いくら必死に戦ったとしても越えられない壁があるという虚しい現実だけだった。
 湿った毛布のような、じっとりとした疲労感が透の全身を包んでいた。試合内容を振り返り、反省する気力は何処にもない。今は何も考えたくはなかったし、誰かと言葉を交わす余裕もなかった。

 「残念だったね、『ウ吉』君」
 コートから出るや否や副部長の唐沢が声をかけてきたが、透は無視して通り過ぎようとした。下手な慰めは却って鬱陶しい。たとえ先輩であっても、副部長であっても、今は放っておいて欲しかった。
 「俺も自分の試合があったから序盤は見ていなかったけど、途中までは良い感じだったよね?」
 圧倒的な実力差を見せつけられて、「6−1」の大差で負けたというのに、一体どこが「良い感じ」だったのか。見え透いた嘘である事は、初心者でも分かる。
 無視を決め込む透に構わず、唐沢は愛想よく話しかけてくる。
 「ああいう試合展開、嫌いじゃないからさ。結構、期待していたんだけど。
 たぶん、あと一手。ハルキの反撃に持ち堪えられる一手があれば、流れが変わっていたかもね。ほんと、惜しかった」
 「もう、いい加減にしてください! 一体、あの試合のどこが惜しかったって、言うんですか!?」
 透の我慢も限界に来ていた。テニス部の先輩として反省点を指摘してくれるなら聞く耳も持てたかもしれないが、惜しくもない試合を「惜しい」と言って慰められるのは、たとえそれが親切心から来る言葉だとしても耐えられない。いっそ「お前が弱かっただけだ」と叱責された方が、まだマシだ。
 「あれ、もしかして気付いていない?
 ふうん、そっか。もうちょっと頭の良い奴だと思っていたんだけど」
 下級生に怒鳴りつけられる格好となった唐沢は顔色一つ変えることなく、むしろ残念そうに呟いた。そのやけに物分りの良い冷静な態度が、余計に怒りを増幅させる。
 何もかもが腹立たしく思えた。敗北した者の気持ちなどまるで考えずに涼しい顔で言い寄ってくる副部長。そんな彼に対して怒鳴ることしか出来ない度量の狭い自分。そして、いまだ敗北を受け入れられない自身の往生際の悪さが、最も腹立たしく辛かった。
 「俺が未熟なのは良く分かっていますから、もう放っておいて下さい!」
 後味の悪さを更に酷くするのを承知の上で、透は周囲の人だかりを突き飛ばすようにして駆け出した。背後で唐沢が何か言いたそうにしているのが見えたが、それも無視して走り去った。

 こんな時、岐阜にいた頃の透には独りになれる特別な場所があった。滝壷の側にある小さな洞穴、神社の裏手に佇む大木のうろや、山頂近くの壊れかけた山小屋も。好きな時に好きなように身を潜められる、自分だけの隠れ家が。
 だが、このアスファルトとコンクリートだらけの街には、安心して心を預けられる場所がない。今の透には、この街にいること自体が苦痛であった。
 陽の光を遮る高いビルと無機質な道路と、そこを淡々と進んでいく無表情な人混みと。風の匂いも、季節の移り変わりも感じられない。広いだけで汚い河と、その水面に映し出される空にも色はない。溜め息だけが充満しているこの街で、どうやって呼吸していけば良いのか分からない。
 自分をこんな所に連れてきた父親がどうしようもなく憎らしく、それに対抗する手段を持たない我が身がひどく情けない。
 唐突に岐阜へ帰りたくなった。皆が笑って暮らしていたあの場所へ。嫌な奴ばかりの冷たい街から飛び出して、自分を温かく迎えてくれる故郷へ今すぐ帰りたい。
 転入して以来、ずっと我慢していた新しい住処への不満が、試合に負けたことを切っ掛けに十二歳の少年から一気に噴き出していた。

 どれくらい歩き回っていたのだろう。あてもなくアスファルトの道路をさ迷い続け、気が付けば辺りは暗くなっていた。結局、独りになれる場所も見つけられず、ここには自分の居場所がない事だけを確認して、透は自宅へと戻った。
 リビングのソファでは、父・龍之介が頭を抱えて寝そべっていた。サイドテーブルに置かれたレモン入りのトマトジュースが、そこに至るまでの経緯を明確に表している。
 その光景を目にした瞬間、透の怒りは頂点に達した。
 「なんで、てめえはいつもこうなんだ!?」
 自分勝手で気まぐれで、息子に一切関心を示さない父。家族よりも自分の都合が一番大事な父。今日、父が通った中学校で、父がプレーしたテニスコートで、息子が必死に戦っていた事など気にも留めない様子で、前夜から深酒した挙句に二日酔いで寝転がっている。
 街をさ迷い、一度は擦り切れたはずの怒りが息を吹き返し、透の右の拳はだらしない寝姿に襲い掛かっていた。
 ところが、ほとんど不意打ちに近い襲撃であったにもかかわらず、怒りに震える拳は軽くかわされ、次の瞬間には木刀が透の顔面目がけて振り下ろされていた。
 父・龍之介は福岡で武具屋を営む旧家の次男坊で、幼い頃から祖父に武道を叩き込まれて育ったせいか、科学者でありながら剣道四段の腕前だ。右肩に古傷があるとは言え、息子の奇襲をかわす事など朝飯前だった。
 しかし、透も負けてはいなかった。瞬時に背中に差していたラケットで木刀を受け止めると、反撃に備えて体勢を立て直した。
 何の事はない。いつもの親子喧嘩が始まったのだ。

 二代に渡って血の気の多い父と息子の間では、言葉よりも拳と木刀が行き交う場面の方が遥かに多かった。
 「てめえに、何か迷惑かけたのか?」
 振り下ろされた木刀の重みに反し、父の顔にも口調にも、まだ気だるさが残っている。
 「迷惑なんてもんじゃねえよ。てめえが父親やっているだけで、大迷惑なんだよ!」
 「ほう、そいつは悪かった。だがな、それはお互い様だ」
 龍之介が木刀でラケットを振り払い、よろけたところを打ち込んできたが、今度は透がその素早い太刀筋をグリップで遮り、応戦した。木刀とラケットの鍔(つば)迫り合いなど滅多に見られるものではないが、真嶋家では日常的な光景であった。
 しかしながら、これをいつもの親子喧嘩と呼ぶには何かが足りなく、何かが余計であった。ラケットのグリップを握り締めるたびに、透の胸の中に試合の屈辱が甦る。ベースラインで釘付けにされた深めのトップスピンと、ネット際で急激に落下する鮮やかなドロップショット。返せなかった遥希の打球が次々と思い起こされる。
 ポイントを落とした場面が鍔迫り合いの最中でも意識の中に割って入り、集中を掻き乱す。情けなさと腹立たしさが胸の中で揉み合い、自分が何をしたいのか、それさえ分からなくなってきた。
 混乱する息子の隙を突いて、龍之介が再び木刀を振り下ろす。
 「要するに、てめえの負け試合の八つ当たりだろ?」
 図星だった。父の指摘が当たっているだけに、その言葉が充分に膨らんだ不満の起爆剤となった。
 「なんで、てめえが父親なんだ!? なんで、ハルキの親父みたいにテニスを教えてくれねえんだよ!?」

 一瞬、龍之介の顔色が変わったように見えた。いや、恐らく気のせいではないだろう。
 言った後から後悔したが、すでに遅かった。一度口にした言葉は元へは戻らない。
 ふっと、荒い鼻息に良く似た溜め息が漏れたかと思えば、刀身の重み以上に圧の掛かった木刀がラケットから離された。殺気立っていた空気が、妙な萎み方をした。
 理由は分からないが、龍之介がわざと息子からテニスを遠ざけていたのは事実である。そして、今の顔色の変わり方からして、その原因の一つはやはり肩の故障だと直感した。教えたくても教えられない父親に対し、自分が古傷をほじくり返してしまったという事も。
 「てめえに教えてやる義理はない。どうしてもと言うなら、俺と同じ土俵まで上がってくるんだな」
 これは父親なりの精一杯の強がりなのか。あるいは、本心から言っているのか。相変わらず気だるそうにしている表情から、真実を読み取る事は出来なかった。
 龍之介が薄っすらと開けた瞼の隙間から、透をじっと見た。息子の返事を待っているようでもあり、睨んでいるようにも見えた。
 しばらくそうしてから、彼は木刀をリビングの隅に立てかけると、おもむろに背を向けて部屋から出ていった。父の背中がリビングから玄関へと向かう。
 何か話さなければならなかった。謝罪でなくても、せめてフォローになるような言葉を探してみるものの、普段から拳をぶつける時しか向き合わない相手に対し、何を話して良いのか分からない。
 玄関で龍之介が愛用している雪駄を突っ掛ける音がした。父がいつもの調子で家から出て行こうとしている事は悟ったが、透は謝罪のタイミングを掴めぬままに、その気まずい時間を俯いてやり過ごした。
 雪駄が庭先の砂利を刻む音に紛れて、父が酔った時に口ずさむ炭坑節が玄関の扉の向こうから流れてきた。それは本来、盆踊りなどで使われる陽気な節にもかかわらず、この時だけは永遠に終わりの来ない虚しい調べに聞こえていた。

 自室に戻った透は、体ごと預けるようにしてベッドに倒れこんだ。倒れる程に疲れていた訳ではない。ただこうする事で、全身にまとわりついている嫌な空気を払える気がしたのである。
 真っ白なシーツの上に仰向けに寝そべった状態で天井を見上げると、再び遥希との試合が思い返された。親子喧嘩の最中とは違って、冷静な頭で振り返ったせいか、今日の敗因が明確になってくる。
 前半は五分と五分の勝負に持ち込めると思って戦っていた。実際、スコア上の点差は開いていたが、内容的には透が圧していた場面もあった。
 流れが変わったのは、ロブを打たれた後である。遥希のドロップショットに動揺し、ロブを打たれてからは完全に冷静さを欠いていた。
 ラスト2ゲームでやること全てが裏目に出たのは、当然の結果である。熱くなった頭で何をしたところで上手く行くはずもなく、透は遥希と戦う前に、己に負けていたのである。挙句の果てに、父親のみならず、副部長の唐沢にまで八つ当たりをして逃げてきた。
 唐沢の下手な慰めにしか聞こえなかった言葉も、事実かもしれない。確かに第4ゲームまでは遥希の挑発を一切無視して、冷静に対処できていた。だから「良い感じ」に見えたのだ。
 唐沢は「あと一手で流れが変わっていた」とも話していた。あれも、本当の事かもしれない。自分にもドロップショットに対抗できる何かがあれば、結果も随分違っていたはずだ。
 負けたくない相手に大敗して、周りが見えていなかった。唐沢はちゃんと助言をしてくれていたのだ。明日、彼にはきちんと謝らなければならない。

 次々と露呈する自分の未熟さを思うと、気分は最低だった。試合に負けたのも、父や唐沢に八つ当たりをしたのも、結局は己の未熟さ故の結果である。
 透は何か慰めになるものを探して、ベッドの脇に無造作に置かれた思い出の品に手を伸ばした。岐阜を出る時に、小学校の仲間達が寄せ書きしてくれた麻の鞄。確か奈緒がリメイクした時に、彼等のメッセージを裏側に残してくれていた。
 「トオル兄、だいすき」の文字を眺めていると、気持ちがいくらか楽になる。自分を受け入れてくれる仲間の存在が、崩れそうな気持ちを暖かく包み込んでいく。
 「あれ?」
 透は手にした鞄の中から、買った覚えのない飲み物が入っているのを見つけた。黄色いレモンティーの缶で、その側面にはメモが貼り付けられている。
 「だいじょうぶ。トオルならできるよ、きっと!」
 そう書いてあった。
 小さくて丸みの帯びた文字は、一目で奈緒が書いたものだと分かった。
 中等部に設置されている自動販売機には、ストレートティーやミルクティーはあってもレモンティーは置いていない。休日なので購買部も閉まっている。透がレモンティーを好むと知って、わざわざ余所から買ってきてくれたのだ。本当は試合の後にでも渡そうとしたのだが、荒れている自分に気遣って、黙って鞄に入れたに違いない。
 ささくれ立った心が少しずつ癒される。「だいじょうぶ」の言葉が安堵を、「トオルならできる」の言葉が再び立ち上がる勇気を与えてくれる。
 明日、もう一人謝る相手が増えた。フェンスの向こうで手を振る彼女の笑顔を思い出しながら、透は黄色い缶のプルトップを引いた。


 光陵テニス部では、バリュエーションの翌朝は部内ミーティングと決めらている。前日のレギュラー陣の試合内容を検討した結果、即ち、地区大会に出場する選手とオーダーが発表されるのだ。
 基本的に選手の査定と選抜は、コーチ、部長、副部長の三者に委ねられている。一応、顧問の恩田先生も同席するが、滅多に意見を言う事はないらしい。
 透は部内ミーティングの前に昨日の子供染みた態度を唐沢に謝罪しようと、少し早い時間に登校して校門の前に立っていた。悔しいと思えば八つ当たりをし、悪いと思えば頭を下げる。いずれも幼児性の高い短絡的な行動で大いに羞恥はあったが、今はそうする事しか考えられなかった。
 緊張の心持ちで待っていると、唐沢がチームメイトの滝澤と共に登校してくる姿が見えた。
 「唐沢先輩、昨日は失礼な態度を取って申し訳ありませんでした!」
 言うが早いか、透は地面に膝を突いて勢いよく頭を下げた。所謂、土下座である。
 基本的に脳と舌が直結している透は、いかに申し訳ないかを言い表す為の謝罪の言葉を多くは持ち合わせていない。「ごめんなさい」を言ってしまえば、後はこうして潔く頭を下げるしか選択肢がないのである。
 唐沢は校門前で大胆に土下座する後輩の姿を見ても、特に驚く風でもなく、それどころか「計算どおり」と言うように、したり顔で笑っている。
 「ようやく頭が冷えたらしいな。どうやら本物のバカでもなさそうだ」
 「いいえ、俺、バカでした。怒りに任せて唐沢先輩に八つ当たりして、最低です」
 二人のやり取りを聞きながら、滝澤が心配そうな表情で交互に見つめていたが、唐沢は平然と土下座姿の透に向かって話し続けた。
 「ま、その殊勝な心がけに免じて、一つ良い事を教えてやる」
 「はい」
 「まず、昨日の試合。お前が最後まで冷静だったとしたら、もう一度、流れを引き戻すチャンスが生まれたかもしれない。
 確かにトップスピンもスライスも習得していないお前がフラットだけで勝負するには、厳しい相手だったと思う。だけど、まるで勝算がなかった訳じゃない。現に前に詰めてきたハルキをロブで抜いて、得点する場面もあった」
 今の透には唐沢の言葉の意味がよく分かる。まさに、その通りだと思った。
 「つまり勝負事というのは、どんな時でも冷静でいられる奴が勝つ。これからお前がテニスで戦い続けるつもりなら、よく肝に銘じておけ」
 「はい!」

 「さあ、坊や? ミーティングが始まるわよ」
 滝澤に促されるようにして、透が立ち上がった時だった。唐沢が悪びれる様子もなく、とんでもない事を言い出した。
 「ああ、それと……お前の借金、一万四千円になったから。次の試合で返してくれよ、『ウ吉』君!」
 「へっ!?」
 すっかり忘れていたが、昨日のバリュエーションで透は自己投資の名目で唐沢に千円を預けていた。惨敗した訳だから、その千円が戻ってくるとは思わない。だが何故たった千円のかけ金が、一万四千円もの多額の借金に膨れ上がっているのだろうか。
 「それがさ、お前の枠が穴馬すぎて、だあれも賭ける奴がいなかったんだよねぇ。仕方がないから、急遽、お前の賭け口を倍に増やしたら、こうなった」
 「こうなったって、俺、聞いていませんよ!?」
 「だからさ、試合の後で言おうとしたんだけど、お前、それどころじゃなかっただろ?」
 「そ、そんなあ」
 たった千円の自己投資で済むはずが、一日にして一万四千円の借金に変貌するとは。それも本人の預かり知らぬところで、だ。
 涙目で座り込む後輩を尻目に、唐沢は上機嫌で「次のバリュエーション、期待しているから」と言い残し、すたすたと校舎の中へ入っていった。

 テニス部の部内ミーティングは、毎回、中等部の校舎の最上階にある会議室で行われている。透が入室すると、すでに全部員が着席しており、前方のホワイトボードの前に顧問の恩田先生、コーチの日高、それに部長の成田と副部長の唐沢が席を並べて座っていた。
 全部員が席に着いたのを確認してから、部長の成田が地区大会の団体戦に出場する選手の名前を発表し始めた。
 「まず、ダブルスD2に滝澤、荒木。D1に伊東兄弟。シングルスは、S3に千葉、中西。S2とS1を藤原、唐沢、俺でローテーションする事に決定した」
 地区大会の団体戦はダブルスニ試合とシングルス三試合で行われ、先に三勝したチームが勝ち上がれる仕組みである。ダブルスをD、シングルスをSと省略して呼び、番号が低いほど試合の順番は後になる。よってS1と言えば最後の試合で、通常は部内で最も実力のあるエース格の選手が務めるケースが多い。
 また部員数に余裕のある学校は、補欠枠を上手く使ってポジションごとにローテーションを組みながら、連戦となる大会での選手の負担を軽減するよう工夫している。光陵テニス部はシングルスプレイヤーの選手が多い為、シングルスの枠内でローテーションを組んでいた。

 「部長、ちょっと質問して良いですか?」
 出場選手が発表された直後、遥希が露骨に不満げな顔をして手を挙げた。
 「どうして俺が出場枠から外されたんですか?」
 「外したんじゃない。最初から検討に値しなかった」
 「でも俺は午後のバリュエーションで一勝しています。いま発表された選手の中には、レギュラー陣同士の試合で全敗だった先輩もいます。これはどういう事ですか?」
 遥希は「一勝しています」のところで、透をちらりと見やった。昨日程ではないにせよ、やはり悔しさが込み上げる。だがしかし、今の透には唐沢から言い渡された一万四千円の借金をどう返済するかの方が大きな問題であった。
 「勘違いをするな。午後のバリュエーションは査定試合だ。その内容が悪ければ、勝利したとしても選考からは外される」
 部長の成田はあくまでも事務的に話を進めていた。経験上、こうした選考に関するデリケートな話題は、感情を挟まず話した方が良いと心得ているのだろう。
 「だったら、検討に値しなかった理由を教えてください。でないと俺、納得できません」
 確かに透も不思議であった。ライバルの実力を認めてしまうのは癪に障るが、事実は事実である。昨日の試合を見る限り、遥希は地区大会でも充分通用するレベルだと思っていた。
 「理由は明快だ。今度の地区大会に、お前は必要ないからだ」
 成田に代わり、コーチの日高がきっぱりとした口調で言い切った。聞いた話によると、日高は午前のバリュエーションを二日酔いで欠席したという噂が流れているが、息子に容赦ない言葉を浴びせる彼にそんなルーズさは欠片も見られなかった。
 「必要ないって、どういう事ですか? ちゃんと査定したんですよね?
 昨日の試合結果から見ても、大差で勝ったじゃないですか? 内容は悪くなかったと思います。納得できる説明をして下さい」
 尚も食い下がる遥希に対し、今度は成田が淡々と理由を述べた。
 「まずお前は午前のバリュエーションで唐沢に敗北し、その動揺を引きずって、午後の対戦では第1ゲームから相手の技量も確かめずに攻撃を仕掛けていた。少なくとも、あの時点で真嶋は冷静に戦局を見極め戦っていた」
 初心者を評価する発言を聞かされ、遥希はムッとしていたが、透自身は「あの時点で」と強調されて落ち込んだ。途中で自分が冷静さを失った事を、部長の成田にも見抜かれている。
 出だしと変わらぬ事務的な口調で、成田が説明を続けた。
 「結果、真嶋のロブで追い詰められたお前は、得意のドロップショットまで使って、ようやく勝利した。
 午前にお前と戦った副部長から話は聞いている。あのドロップショットはお前の得意とするショットだろう? つまりお前は、真嶋に対して出さなくても良い決め球を使った事になる。
 初心者を相手にこんな勝ち方しか出来ない部員を、地区大会の出場選手として選考枠に入れるつもりはない」
 いつもはギャンブルの事しか頭にない唐沢も、この時ばかりは厳しい顔付きになっていた。恐らく首脳陣は全員、同じ考えなのだろう。
 緊迫した空気を和らげるように、唐沢が口調を変えて補足を入れた。
 「皆も知っての通り、午後のバリュエーションは地区大会を前提として、俺達が査定しているのは分かるよね?」
 全員の反応を確認してから、唐沢が更に続ける。
 「もしもハルキがS3に選ばれたとして、初戦のレベルはそんなに高くはないはずだ。それなのに昨日の試合のように、自分が精神的に追い込まれたからと言って安易に決め球を出していたら、一時的に勝てたとしても優勝までは辿り着けない。状況によっては、チームごと全滅する可能性もあるからね」

 この時、透は海南中の村主の言葉を思い出していた。
 彼は「皆で強くならなきゃ意味がない」と言って、後輩の指導に力を注いでいる。前にこの話を聞いた時、透は後輩想いの心優しい先輩だと感動したが、どうやらそんな単純な理由ではなさそうだ。
 地区大会のような大きなトーナメントになれば、個人の力量だけでなく、チーム内でいかに個々の役割を果たすかが勝ち進む為の重要な鍵となる。いくら個人が勝利したとしても、チーム内での役割をこなさなければ先へは進めない。
 遥希に関して言えば、たとえ初戦でドロップショットを駆使して勝ったとしても、先に切り札を見せてしまっては、次の試合で不利になる。チームで連戦する事を頭に入れて戦わなければ、個人の勝利は意味がないのである。
 地区大会に向けての、先輩達のシビアな一面を見せられた気がした。
 最後にコーチの日高が、トドメとばかりに息子を一喝した。
 「目先の勝負に捕らわれて簡単に手の内を晒すようなバカは、地区大会、いや、この光陵テニス部には必要ない」
 日高の顔からは地区大会のみならず、都大会連覇をも視野に入れた強豪校のコーチの威厳がうかがえた。

 ミーティングに参加していた部員達の視線が、一斉に遥希に向けられた。コーチや部長達に悪意はないのだろうが、透はこの時、はっきりと認識した。全員とまでは言わないが、首脳陣を除くテニス部員の中には遥希に対して穏やかならぬ感情を抱く者がいるのである。
 昨日の試合の前にも、テニス部員の間で「肩透かし」、「期待外れ」といった遥希に対する不満の声が飛び交っていた。いま彼に向けられている視線にも、それは多分に含まれている。
 父親からの容赦ない叱責と、自分を突き刺す冷たい視線に居たたまれなくなったのか。遥希が会議室から飛び出した。テニススクールの紳士的なコーチに囲まれて育った彼は、ここまでボロクソに言われた経験などないのだろう。しかも最も酷く言われた相手は、自分の父親だ。他人には分からない悔しさもあったに違いない。
 咄嗟に、透は後を追うつもりで席を立った。
 自分でも不思議だった。遥希は事あるごとに突っかかってくる嫌な奴だと思っていた。それなのに、何故か放っておけなかった。
 昨日の透には、敗戦の後、励ましの言葉をかけてくれた藤原がいて、助言を与えてくれた唐沢がいて、わざわざレモンティーを買ってきてくれた奈緒もいた。だが、残念ながら今の遥希を追いかけようとする者は、誰もいない。
 誰かが行かなくてはと思い、出口に向かった時である。部長の成田に呼び止められた。
 「ミーティングの途中で無断退出した者は、一週間の部室掃除だ」
 一瞬、会議室から飛び出しかけた透の足が止まった。しかし、警告に怯んで止まった訳ではなかった。
 「ミーティングより、今はチームメイトの方が大事ですから。掃除は後でやります。失礼します!」
 透は部長に一礼すると、遥希の後を追いかけた。その背後で、ずっと沈黙を通していた顧問の恩田先生の間延びした声が響いた。
 「随分、暖かくなってきましたねぇ。もう春ですか……」

 どうして、もっと早く気付いてやれなかったのか。遥希の後を追いながら、透は後悔の念に駆られていた。
 「ライバルが友達だって良いじゃねえか」
 自ら友達になると宣言したくせに、慣れない環境に付いていくのが精一杯で、周りのことが見えていなかった。「ど素人」、「田舎者」と馬鹿にされつつも、少しずつ周囲に受け入れてもらえた透と違って、遥希はテニス部の中でずっと孤立し続けていたのである。
 実家がテニススクールでプロのコーチを父親に持つ彼は、常に周りから羨望の眼差しを向けられていた。だがレギュラー争いにしのぎを削るテニス部では、その眼差しが羨望だけは済まなかった。
 ジュニア時代に築き上げた輝かしい戦績は嫉妬の種を生み、レギュラーの座を狙う部員達の脅威となった。バリュエーションで唐沢に完敗し、皆の納得のいくような結果を残せなかった事も、不満を増幅させる一因になったかもしれない。おまけに今日のミーティングでは、高飛車とも取れるような発言をした。幼い頃からラケットを握ってきた彼にとっては、出場選手の選考枠から外れたこと自体、我慢ならない話だろうが、他の部員達の心情を考えるとタイミングが悪かった。
 恐らく遥希は見かけによらず不器用で、想いの強さが裏目に出て空回りするタイプに違いない。昨日の自分がそうであったように。
 今頃になって、透は昨日の対戦で遥希をロブで抜いた後の部員達の盛り上がりようを思い出し、胸が痛くなった。同じチームメイトでありながら、初心者の透だけが支持を受けていたあの試合。遥希はどんな気持ちで皆の歓声を聞いていたのだろう。

 透が後を追って行き着いた先は、屋上だった。そこで遥希は周囲に張り巡らされている金網を力一杯握り締めたまま、遠くの一点を見つめていたが、透の足音に気付いた途端、これ以上ないというほど強く睨みつけてきた。
 「何だよ? 笑いに来たのかよ? どうせ良いザマだと思っているんだろう?」
 「そんなこと、思っている訳ないだろ?」
 「お前はお気楽で良いよな。1ゲームしか取っていないのに、ちゃんと部長から褒めてもらえるんだから」
 皮肉たっぷりに遥希が絡んできたが、透にはその姿が昨日の自分と同じに見えて、言い返す気になれなかった。
 「慰めに来たんなら、帰れよ。俺は、お前なんかに同情されるほど落ちちゃいない。
 出場選手の選考枠から外されたからって、一緒にするな」
 他者を一切寄せ付けようとしない言動に、遥希の傷の深さがうかがえる。出場選手に選ばれなかった事実は、透が思う以上に彼のプライドを傷つけているようだ。
 「なあ、ハルキ? 俺さ、最初はハルキの事を嫌な奴だと思っていた。いちいちムカつくし、いつか必ず倒して、お前に頭下げさせてやろうって。
 でもテニス部に入って、色んな人達と出会って、お前の強さとかも分かって。何て言うか、倒す目的が変わったんだ」
 遥希を落ち着かせようと言葉を重ねていくうちに、透は自分でも自覚のなかった感情に気が付いた。
 「俺はお前に勝つ事をこれからの目標にしたい。でもそれはムカつくからとか、嫌な奴だからとかじゃなくて、お前が強い選手だって分かったから。
 だから、お前も強くなれ」
 「はあ? 訳、分かんないよ」
 「前にも言っただろ? ライバルが友達だって良いじゃねえか?
 一緒に強くなろうぜ、ハルキ。一緒に強くなって、先輩達みたいに地区大会、都大会……いや、俺達なら全国大会だって行けるかもしれない」
 「その根拠のない自信はどっから来るんだ?」
 「根拠はある。俺はこれから強くなる。お前ももっと強くなる。
 今度の地区大会は、先輩達に頑張って優勝してもらってさ。俺達は都大会でデビューして、全国大会で大暴れするんだ。どうだ、すげえ目標だろ?」
 「バッカじゃないの?」
 遥希の目尻がいつもより吊り上がったが、それは不快な感情から来るものではないように思えた。その証拠に、愛想とは無縁の口元が少しだけ緩んでいる。
 「ああ、バカで良いぜ。俺は日本一のテニスバカになる。誰よりも、お前よりも!」
 透はそう言いながら遥希の頭を小突くと、反撃を食らう前に踵を返して逃げ出した。屋上の出口へと一目散に向かう透の耳に、猛スピードで迫りくる足音が聞こえてきた。負けず嫌いのライバルは、やられっ放しでは済まさない。
 追い越し、追い越され、そうやって二人で強くなる。バタバタと自分を追いかける足音に今までに感じた事のないくすぐったさを覚えつつ、透は屋上からの階段を駆け下りていった。






 BACK  NEXT