第18話 シルバービーズの指輪

 幼い時分から ――たぶん自身が周りと比べて要領の良いタイプではないと気付き始めた頃から―― 奈緒は海底の住人になりたいと思う事がままあった。特に困った事や辛い事があると、その願望は強くなり、非現実的な空想の世界は小さな胸の中で膨らんでいった。
 潮の流れと共に時間もゆったりと過ぎていく深海は、さぞかし居心地が良いのだろう。例えばお伽話に登場する人魚のように、遥か昔に沈んだ難破船を住処とし、気ままに揺れるイソギンチャクと戯れながら、魚達の群れに交じって静かに暮らす。そこでは俊敏さを求められる事もなければ、無理して誰かと言葉を交わす必要もない。他人の噂話や雑音に振り回される事もなく、ふとした拍子に聞こえた一言に傷つく事もないはずだ。
 あいつ ―― 透は確かにそう言った。たった一言、彼の口から漏れ聞こえた言葉が、頭から離れない。一週間前のあの時からずっと。

 それは奈緒が学園祭の準備の為に、放課後、透と共に買出しに出かけた日のことだった。仕入れ係に立候補した二人は、安くて質の良いコーヒー豆とリーフティーを求めて歩き回った結果、最近、駅前に出店したという地元でも評判のカフェに行き着いた。
 「個人的には、もうちょっとベルガモットの多い方が好きなんだけどなあ。アールグレイは香りが命だし」
 透は入店するなり店員を呼びつけ、茶葉の原材料や原産国をチェックしながら予算に見合う品物を物色し始めた。
 彼の「紅茶に詳しい」の発言は、ハッタリなどではなかった。これに比べれば、自分のコーヒーに関する知識の方がよほどインチキに思えてくる。奈緒が識別できるのは、せいぜいカフェ・オレに合いそうなコーヒー豆の種類ぐらいで、それも香りや原産国まで問われると、うろたえてしまう。
 実際、透の茶葉に関する細かな要求はカフェのアルバイト店員では手に余ったようで、しまいには厨房で仕込みをしていた店長まで出てきて対応に当たっていた。
 「それじゃあ、コーヒー豆と紅茶とハーブティーの一括仕入れで、一万五千円でどうッスか? ちゃんと俺達、この店で買ったって宣伝するからさ」
 一時間ほど品定めをした後で、透が具体的な希望価格を持ちかけた。さすが小学生の頃からアルバイト人生を送ってきただけの事はあり、商談の落とし所を心得ている。絶妙な仕入れ値を提示された店長は、苦笑いを浮かべながらも「宣伝、よろしくね」と言って、あっさり領収書を切ってくれた。

 カフェからの帰り道、無事に務めを済ませた二人は、透が紅茶通だという話題から互いの“こだわり”について語り合っていた。
 「あんまり意識した事はねえけど、やっぱり紅茶にはうるさいかもな。あと、ハーブティーなんかも時々飲む。レモングラスとミントのブレンドとか、結構いけるんだぜ」
 「へえ、そうなんだ。トオルがハーブティーを飲むなんて、すっごく意外」
 「そうか? たぶん、あいつの影響だろうな。ハーブティーも紅茶も」
 この時すぐに「あいつ」の正体を確かめれば良かったのかもしれないが、透が奈緒のこだわりについて質問を投げかけてきた為に、深く追求する事なく通り過ぎた。
 「私はね、アクセサリー。今はビーズが多いかな。服に合わせ易いように、自分で作る時はなるべくシンプルなデザインにしているの」
 「自分で作るのか? すっげえな?」
 「全然、すごくないよ。手芸部で、学園祭の展示用に作ったりするだけだし」
 「でも、デザインから全部独りでやるんだろ? どんな風に作ってんのか、興味あるな」
 「ほんと?」
 「ああ。この前、バリュエーション見に来てくれたから。お礼って訳じゃねえけど、見てみたい」

 奈緒は少し迷ったが、学校へ戻って透に作成中の作品を見せることにした。部活動が終わった今の時間なら、他の手芸部員も帰宅している。部外者の男子を連れていったとしても冷やかされる事はないだろう。
 ところが、部室の前まで来て驚いた。無人だと踏んだ部室の窓から灯りが漏れている。
 透に作品を見せると約束して連れてきた以上、ここで引き返すのは不自然だ。恐る恐る中の様子をうかがうと、奈緒と最も仲の良い手芸部の先輩・立花洋子が作品の仕上げをする為に残っていた。
 他の部員はともかく、彼女なら安易に冷やかす事はしないはず。躊躇う必要はないと考え、奈緒は透を部室の中へ招き入れた。
 「すっげ、すっげ、すっげえ!」
 展示用の手芸作品を眺めながら、透はずっと同じ言葉を繰り返していた。運動音痴の奈緒から見れば、テニスを始めて二週間で試合に出られる方がよほど「すげえ!」と思ってしまうが、本人は根気だけで作れるビーズ作品の方が凄いと思っているらしい。
 自身の不得手な分野で偉業を見せられると、原寸の労力にプラスして尊敬の念が割り増しされる。スポーツが苦手な奈緒は透の運動能力を尊敬し、じっとしている事からして苦手な透は、奈緒の作品に感心しているようだった。

 しばらくの間、「すげえ!」を連発して室内を歩き回っていた透が、ふと、ある作品の前で静かになった。奈緒が手がけた作品の中でも一番の自信作、シルバービーズの指輪の前だった。
 透はそれを慎重に手に取ると、おもむろに奈緒の手首を掴んで、薬指にはめてきた。
 あまりに突然の事で、我が身に何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。だが理解を超える現実はさておき、頭の中では教会の鐘の音が鳴り響き、純白のウェディングドレスを着た花嫁が鮮明に描かれていく。厳かな光を放つステンドグラスの前で、新郎が新婦の手を取り薬指に結婚指輪をはめて、生涯一人の人を愛し続けると誓いを立てるシーン。今、目の前で行われているのは、まさしくこの誓いの儀式と同じではないか。
 奈緒は自身の心音をこれ程はっきりと聞いた事がなかった。ドキドキなどと、可愛らしいものではない。ドックン、バッフンと、壊れかけのポンプのような激しい爆音が胸の辺りを騒がせている。
 「あ、あの……トオル?」
 「俺さ、こういの、良く知らねえんだけど。普通は、こんなもんか?」
 「こんなもん?」
 「だから女の指って、こん位が普通なのか?」
 奈緒の動揺にまったく気付く素振りも見せず、透は視線を指輪に落としたまま、興味深げに聞いてきた。
 「こ、これは9号だから、女の人の……標準サイズ……」
 質問に応じる声が震えている。自身の震える声を自覚して、ますます胸の鼓動が激しくなった。壊れかけのポンプは、すでに破裂寸前だ。
 「ふうん。じゃあ、お前の指が細いだけか?」
 女性の指の太さにそれほど差があるとは思っていなかったのか。透は奈緒の薬指にはめた指輪を何度もクルクルと回し、不思議そうに眺めている。
 これ以上、こんな事を続けられたら、きっと心臓が破裂する。そう確信した時だった。

 「じゃあ、あいつにピッタリだな。これ、他の客が手を付ける前に、俺が買っても良いか?」
 透がふいっと横を向き、制服のポケットから手探りで財布を取り出した。破裂寸前の心臓が、瞬時に凍りついた。
 奈緒は返事が出来なかった。
 事前購入、それ自体に問題はない。むしろ手芸部員としては歓迎すべきで、親友の塔子と詩織からも依頼を受けた物がある。しかし部員の立場とはかけ離れたところで、別の感情が渦巻いている。
 その指輪をはめる女性は誰なのか。サイズから推察するに、奈緒よりも年上である事は間違いない。
 完全に停止状態に陥った頭の中に、カフェからの帰り道の記憶が甦る。透はさっきも「あいつ」と口走っていた。母親に対して、あいつとは言わない。
 いつになく照れた横顔に、大人の女性の影がちらついた。透が指輪を贈ろうとしている相手は、やんちゃ坊主を紅茶通にするほど影響力のある女性で、自身のテニスシューズを買うよりも彼女へのプレゼントを優先してしまうほど大切な存在なのだ。
 姿も見えない「あいつ」と呼ばれる女性に、奈緒は生まれて初めて痛いような切ないような、割り切れない感情を抱いていた。

 口を閉ざした奈緒の代わりに返事をしたのは、先輩の洋子だった。
 「本当は学園祭が始まってから展示販売したいのだけど、西村さんのお友達なら良いわよ。シルバービーズの指輪は人気商品だから、すぐに売り切れちゃうと思うし」
 「ラッキー! ありがとうございます」
 「喜んでもらえて良かったわ。これ、西村さんの力作なのよ」
 「ああ、やっぱり。俺もどうせなら、こいつの作ったヤツが良いかなって」
 嬉しそうに指輪を受け取る透を目の前にして、奈緒の割り切れない感情はますます嫌な方向へと流れていく。いつもは照れた姿も純粋であるが故だと映るのに、今はデレデレと情けない男に見えてしまう。指輪の彼女は、彼をこんな腰抜けにさせるほど素敵な女性なのか。
 「あいつって、誰?」
 頭の中を支配するこの一言が、どうしても口に出来なかった。本当に情けないのは、他の誰でもない。自分であった。

 さっきまで爆音を立てながらも弾んでいた気持ちは、何処へ行ったのか。落胆の上に自己嫌悪が重なって、どうしようもない所まで沈み込んでいる。
 よくよく考えてみれば、奈緒は透の事を何も知らなかった。深く知ろうとするより先に、好きになっていた。彼に関する情報と言えば、岐阜の山奥から引っ越してきた少年であること。それだけだ。
 もしかしたら、かつて住んでいた家の近くに素敵な彼女を残してきたのかもしれない。“東京に知り合いがいない”イコール、“彼女がいない”ではない。
 透に彼女がいるなんて、考えもしなかった。まだ決定した訳ではないが、その確率は非常に高い。女兄弟のいない彼に、他に指輪を贈る相手がいるとも思えない。
 真相を確かめるか、否か。こんなに沈んだ気持ちになるのなら、いっそ確かめた方が良いのだろうが、その度に最悪の事態を想像してしまい、結局、怖くて聞けないまま学園祭の初日を迎えていた。

 浮かない気持ちで手芸部の展示室まで行くと、先輩の洋子が待ち構えていたように声をかけてきた。
 「西村さん、この間の彼、来ていたわよ。さっきまで貴女を待っていたのだけど、唐沢君が連れて行っちゃった」
 「そうですか」
 「探しに行っても良いわよ? まだ、そんなにお客さんも入っていないし」
 「いえ、後で連絡しますから」
 先輩の手前、そう答えたが、本心は違っていた。出来ることなら、透とは顔を合わせずに済ませたかった。
 顔を見れば、聞きたくなる。指輪の女性が誰なのか。万が一、いや、十中八九、彼女だと思うが、その存在を知らされた時、自分を保てる自信がない。
 今のままなら、まだ想う事は許される。相手にされなくても良い。ただ膨らみ始めたこの想いを、もう少しだけ捨てずに抱えていたかった。
 口数の少ない後輩を心配したのか、洋子が優しく諭すように言葉を継いだ。
 「この間の彼、真嶋君って言ったかしら? きっと嘘の吐けないタイプよね?
 私は信じても良いと思うな。彼、きっと不器用なだけだと思うわよ」
 奈緒には、洋子の助言の意味が理解できなかった。女性に指輪を贈るという行為は、むしろ器用な人間のする事に思える。そして贈られた相手もまた、紅茶やハーブティーに詳しいぐらいだから、きっと洗練された大人の女性に違いない。
 センスの良い調度品が置かれた温かな部屋で、香り高い紅茶を飲みながら仲睦まじく語り合う二人の姿を想像し、奈緒の気持ちはまた重く沈んでいくのであった。


 唐沢から緊急事態と言われて透が連れて来られた場所は、いつも部活動で使用しているテニス部の部室であった。もうすぐ学園祭が始まろうという時に、何かテニス部で深刻な問題でも発生したのだろうか。
 不思議に思いながらも中を覗くと、そこには所狭しと並べられた四つのテーブルの上に将棋盤と駒がセットで配備され、それぞれの席の後ろには三千円、五千円、七千円、一万円と記された立て札が入口から見えるように置かれていた。
 部室と、将棋と、立て札と。これらがどう繋がっていくかは分からないが、今までの経験上、警報レベルの悪い予感がした。
 「あの、唐沢先輩? 緊急事態って、何ですか?」
 透がおずおずと尋ねると、唐沢は彼にしては人懐っこい笑みを浮かべて言った。
 「実はケンタがトジって、五千円の席に座る奴がいないんだよね。クラスの出し物の迷路が壊れたとかで、急遽、呼び出されてさ。
 お前、代わりに座ってくれない?」
 テニス部に入部してから約一ヶ月。唐沢の裏の顔まで見てきた透は、彼が浮かべる笑顔には法則があると気付いていた。公の場で副部長の役割をこなす時 ――つまりはレースの勝敗を予想する為の情報収集に他ならないのだが―― 相手に警戒心を持たれないよう万人受けする穏やかな笑みで接し、誰かを陥れたり罠にかける場合には、断りづらい雰囲気を作ろうとして妙に人懐っこい笑みを浮かべてくる。
 今、唐沢はわざとらしいまでに人懐っこい笑みを浮かべている。即ち、これは透にとって良くない兆候だ。
 「唐沢先輩? 俺、まだ状況が飲み込めていないんですけど、一体、ここで何をするんですか?」
 「見れば分かるだろ? 将棋だよ、将棋。まさか、やった事ないとか?」
 「ありますけど、俺の席が五千円って……?」
 「お前はケンタの代わりだから。俺が七千円で、お前が五千円で、久保田が三千円。
 あ、そう言えば、久保田がまだだった」
 するとそこへ、小心者の久保田が部室に現れた。彼も状況が飲み込めないまま唐沢に呼び出されたらしく、普段使用している部室に入るというのに、おどおどしていて落ち着きがない。
 ますます嫌な予感が色濃くなる中、唐沢が後輩二人に対して飛びっきりの笑顔を向けた。
 「よし、これで揃ったな? 今から『闇の学園祭』を開始するぞ」

 「闇の学園祭?」
 耳慣れぬフレーズに、透と久保田が同時に声を上げた。そもそも学芸行事とは無縁のはずのテニス部員が学園祭に関わるだけでも妙なのに、その上「闇の」などと怪しい形容詞を付けられては叫び声を上げたくなるのも無理はない。
 しかし驚きを露にする後輩をよそに、唐沢は平然と『闇の学園祭』なる催し物の流れを説明し始めた。
 「良いか? 時間がないから、手短に説明するぞ。
 まず参加料は一局千円で、それを払った客は三千円から一万円のうち、好きな席を選んで俺達に挑戦できる。もしも挑戦者が勝てば選んだ席の金額が賞金として支払われるが、負ければ客の参加料が丸々俺等の儲けになる」
 「あのう、唐沢先輩? それって、もしかして賭け将棋ってヤツですか?」
 「まあ、そうともう言うな」
 「そんな! 神聖な部室で賭け将棋をやるなんて、成田部長や他の先輩達に知られたら……」
 普段から更衣室代わりに利用する部室を神聖な場所として崇めた事など一度もないが、この時の透には酷くいけない事のような気がしてならなかった。いや、実際いけない事なのだ。多くの来校者で賑わう学校行事のどさくさに紛れて、部室でこっそり賭け将棋をやるなど、いくら自由な校風の校内でも許されるはずがない。
 ところが透の至極まともな意見も、ギャンブラーと化した唐沢の前では紙くず同然に蹴散らされてしまった。
 「三年の連中だったら心配ない。全て、手は打ってある」
 部内では「軍師」と称される知略に長けた副部長の顔からは、自信の二文字が溢れていた。

 唐沢の話によると、部長の成田はクラスの出し物で演劇の主役を務めるらしく、学園祭が行われている間はほとんど教室の外に出られないとの事だった。無論、そう仕向けたのは唐沢で、成田と同じクラスの女子に自分のクラスの出し物の無料券を配布して、主役に推薦するよう頼んでおいたという。
 「成田の奴、『忠臣蔵』の大石内蔵助の役だから、メチャメチャ出番が多いんだよね。シンゴは陸上部の助っ人で土日は地区大会に出場するって言ってたし、荒木はもともと無口だからバレたとしても喋るような奴じゃない」
 「滝澤先輩は?」
 次々と救世主が消えていく中で、透は万に一つの望みを託して聞いてみた。
 「ああ、あいつは俺のクラスで占いの真っ最中」
 「占い、ですか?」
 「そう。『滝澤風雅の占いの館』っての。うちのクラスの出し物でさ、わりと評判良いんだぜ」
 今回『闇の学園祭』を決行するにあたり、最も上手くいった作戦なのか、唐沢が嬉々として語り出した。
 「滝澤の占いは客から聞き出したデータを基に予測していくやり方だから、下手な占い師よりよっぽど正確に客の将来を言い当てる。しかも準備が超簡単。教室にカーテンをかけて、机と椅子を適当に出しとけば、後は滝澤にお任せで済むからさ。
 クラスの皆からも楽だって感謝されるわ、本人も良いデータ収集になるって張り切っているわ、何処もかしこも丸く収まってんだよね」
 普段の部活動の時よりも生き生きと語る先輩を前にして、透は軽い目眩を覚えた。
 用意周到と言うべきか。計画の細やかさと行動力を挙げるなら、唐沢の才は大いに評価されるだろう。しかし、テニス部の副部長という立場ではどうなのか。
 「軍師」の異名を持ち、コーチや部長のみならず、後輩からも信頼を得ている面倒見の良い副部長。この善良な仮面の裏で行われている所業と言えば、校内試合をレースと称して競馬もどきの賭け事をやらかし、そこへ何も知らない後輩を参加させた挙句に借金を背負わせる。そして今また健全なる学園祭の舞台裏で、同級のテニス部員を欺き、後輩達を賭け将棋に引きずり込もうとしているのだ。
 こんな頭の中がギャンブル一色の男が、地区大会連覇を狙うテニス部の副部長であって良いものか。

 現在、透が背負わされている借金が一万四千円。唐沢の事だから、万が一、五千円の席で負けるような事があれば、当然、客に支払う額を借金に上乗せするに違いない。
 一人負ければ五千円、二人負ければ一万円と、借金が増えていく。それだけは、何としても避けたかった。たとえ嘘を吐いてでも、この場から逃げ出さなければ、返済不能の借金地獄が待っている。
 「あの、唐沢先輩? 実はうちの親父は剣道四段の堅気の武道家で、昔から賭け事だけはやらないように、きつく言われていて……」
 慣れない嘘に冷や汗をかきながら、透が逃げ口実を並べた時だった。突然、部室の扉が開いて、コーチの日高が入ってきた。
 「ほう、そいつは驚いた。この『闇の学園祭』の創始者は、お前の父親・真嶋龍之介なんだがな?」
 「はあ?」
 透は声を発したまま、しばらく茫然としていた。この胡散臭い催し物を始めたのが、よりによってテニス部OBである自分の父親だったとは。もう目眩などと可愛らしいものでは済まされない。驚きと羞恥の両方で、意識が飛びそうだ。
 だが、その何処へもぶつけようのない感情とは別に、新たな疑問が湧いてくる。一体、龍之介はテニス部で何をしていたのか。
 もしかして父がテニスの話題を避けているのは、深い意味などまるでなく、単に息子に語れる程の活動をして来なかっただけではないだろうか。テニス部に所属していたのも、今の唐沢のようにギャンブルが主たる目的で、幽霊部員に等しい存在だったとしたら。そう考えれば、テニス部に入った息子にまったく関心を示さないのも納得がいく。

 「ここは一つ、落ち着いて考えてみようか?」
 放心状態に陥った透に向かって、唐沢がにこやかに語りかけた。
 「例えば、お前が一日平均十人を相手にして、二日で二十人。そこで全勝すれば、参加費千円×20で二万円が儲けになる。
 二日で二万円が手に入るんだ。借金をチャラにする絶好のチャンスだと思うけどな、『ウ吉』君?」
 前回のバリュエーション以来、透は唐沢に『ウ吉』と呼ばれると、条件反射的に従わなければいけないような思考回路が出来ていた。確かに二日で一万四千円の借金が返せるならば、これは絶好のチャンスと言わざるを得ない。
 幸いなことに、クラスでの役割は終わっている。このフリーとなった二日間を他の催し物の見学で潰すより、アルバイトと割り切って借金返済に充てたほうが遥かに実りある時間となるのではないか。
 健全だが収穫のない学園祭か、怪しくとも実りある『闇の学園祭』か。悶々とする透を横目に、日高が一万円の席に腰を下ろし、将棋の駒を準備し始めた。
 「トオル? お前、龍を相手に指していたんだろ? だったら、問題ない。
 三千円と五千円の席は、素人しか来ねえから」
 「問題ないって、その席、おっさんが座るのかよ? アンタ、コーチだろうが!?」
 「ああ、コーチは教師じゃねえからな。別に構う事はねえって。遊びだ、遊び!」
 どうやら融通が利き過ぎるコーチとギャンブル好きの副部長に挟まれた新入部員の選択肢は、最初から一つしかなかったようである。蟻地獄の如く、ますます深い闇に落ちていく気がしなくもないが、我が身に降りかかった火の粉は自分で払うしか手立てがないらしい。
 「分かりました。要するに、勝てば良いんですよね?」
 透は用意された席に座ると、将棋の駒を手際よく並べていった。

 結局、透の人生初の学園祭の思い出は、焼きそばの匂いを漂わせる中庭から少し離れたテニス部の狭い部室で、野外ステージの賑やかな音楽を遠くに聞きながら、黙々と将棋盤に向かって将棋を指すこと。この一点に終始した。
 青春の一頁を飾るには華やかさも健全さも足りなかったが、思ったよりも悪い気はしなかった。透は学園祭が開催された二日間で、一度も負けなしの全勝記録を打ち立てたのだ。
 日高の言うとおり、五千円の席は素人にとって金額的にも挑戦し易いようで、怪しげな部室の扉を叩いた客達は、ほとんどが三千円か五千円の席に着き、千円の参加料を無駄にした。少なくとも二日で五十人近くを捌いたはずだから、合計五万円は稼いでいる。
 これで借金の返済が出来る。そう思うと、幸せな気分になるのであった。

 「よし、精算するぞ」
 唐沢が千円札の束を数えながら、それぞれの分け前を渡していく。
 「コーチが二万、俺が一万五千、『ウ吉』が四千で久保田がゼロ」
 「ちょっ、先輩? 計算、おかしくないですか!?」
 訳が分からなかった。二日で五万円は稼いだはずなのに、どうして分け前が一桁違う額なのか。
 憤然と異を唱える後輩に対し、唐沢は事もなげに言い切った。
 「各々の働きに応じて、分け前が決まるのは当然だ」
 「働きに応じてなら、俺が一番多く勝負してたじゃないですか?」
 「あのな、高額の席に座るって事はそれだけでリスクがあるし、神経も使っているんだよ。対局数が少なくたって、労力はお前等の倍だ。
 労働に見合った報酬をもらわないと、割に合わないだろ?」
 「それにしたって、四千円は少なくないッスか? 俺の稼いだ五万円は、何処へ消えたんですか?」
 「久保田が十三回負けているから。その分を引いたら、こうなった」
 三千円の席に座らされた久保田が相手にしていたのは、三十人程であったか。つまり勝率五割の結果で終わった為に、透が稼いだ金額はそっちへ持っていかれる格好になったのだ。
 理不尽な計算式で分け前を無かった事にされたにもかかわらず、小心者の久保田は申し訳なさそうに肩を落としている。恐らく自分の所為で全体の儲けが少なくなった事に、責任を感じているのだろう。
 本当は徹底的に抗議して、労働に見合う賃金をもぎ取る覚悟であったが、久保田の手前、これ以上追及するのは気の毒に思えてきた。
 要するに、新入生二人は日高と唐沢に良いように使われていたのである。実質働いていたのは透と久保田の二人であるのに、その稼ぎはまんまと掠め取られている。
 透は口元まで出かかった溜め息を押し戻すと、受け取った四千円のうちの半分を久保田の手に握らせた。
 項垂れていた久保田が驚いたように見上げ、唐沢も訝しげな顔を向けている。
 「久保田も一緒に働いたから。俺達、仲間だろ?」
 ただでさえ少ない分け前が半分になった事に無念さはあるが、後悔はなかった。そもそもが泡銭(あぶくぜに)なのだ。額に汗した金ではない。
 透は唐沢に一礼すると、急いで部室を後にした。去り際、コーチの日高が含みのある言い方で「仲間ねぇ」と呟くのが聞こえたが、一言だけ強調したその声は少ない儲けを分け合った新入生二人のどちらでもなく、何故か隣にいる唐沢に向けて発せられたようだった。


 「良かった、奈緒! やっと会えた」
 奈緒が手芸部の先輩・洋子と展示室の後片付けを終えて戸締りをしているところへ、透が駆け込んできた。よほど急いで走ってきたのか、珍しく息を切らしている。
 わざわざ自分に会う為に、全速力で走ってきてくれた。いつもなら、そんな小さな出来事に心を躍らせているのだろうが、今は用心深くなっていた。
 安易に喜んではいけない。彼が思いを寄せる相手は、他にいるのだから。
 学園祭が開催される初日の朝、透が手芸部の展示室を訪れたと聞いて、奈緒はほとんどの時間をそこで過ごしていた。展示品の販売当番の時はもちろん、その役割が終わってからも他の催し物を見に行く事もなく、透が会いに来たという会場を離れようとはしなかった。
 正直なところ、彼に会いたいと思ってそこに留まっていたのか、会いたくないから余所を歩き回らなかったのか、よく分からなかった。現に今も、透が息を切らして会いに来てくれたというのに、かける言葉が見つからない。
 じっと押し黙る後輩の代わりに、先輩の洋子が透に話しかけた。
 「真嶋君、どうだった? 指輪をあげた彼女の感想は?」
 「彼女って、ああ、お袋のことですか? おかげさまで、すっげえ喜んでました」
 「えっ? お袋って、お母さんのプレゼントだったの?」
 奈緒は思わず上げた叫び声に、安堵の響きが多分に含まれている事を自覚した。さすがに自分の母親を「あいつ」と呼ぶ事はないだろうと端から除外していたが、透を紅茶通にした大人の女性の正体は母親だったのだ。
 「言っとくけど、俺はマザコンじゃねえからな。ただ母の日も近かったし、いっつも俺の体のことを考えて飯とか作ってくれているから、それで……」
 照れ隠しの為か、仏頂面で答える透に対し、洋子が優しく言葉を添える。
 「そうよね。うちにも同い年の弟がいるから分かるけど、真嶋君の年頃って、照れ臭くって素直にお母さんにプレゼントしにくいのよね」
 「あ、いや……まあ、そうなんスけど」
 透がいつになく照れたように振舞っていたのは、洋子が彼を不器用だと言ったのは、プレゼントを贈る相手が母親だからである。あえて母親を「あいつ」と呼んだのも、マザコンだと思われたくなくて、違う呼び方をしたのだろう。
 全ては奈緒の早とちりであった。ここ数日、深海の底まで沈んでいた気持ちが軽くなる。透が息を切らして自分に会いに来てくれた事も、今は素直に嬉しかった。
 「ごめんね、トオル」
 咄嗟に謝罪の言葉が、奈緒の口からついて出た。
 「えっ? なんで、お前が謝るんだ?」
 「えっと、えっと、それは、あの……」
 「勝手に早とちりして、やきもちを妬いていました」とは、口が裂けても言えない。思わず謝罪を口にしたものの、奈緒は必死でその理由を探していた。
 「だから、あの、せっかく来てくれたのに、会えなくて」
 そう言うのが、精一杯だった。
 「お前が謝ることないって。それに、もう会えたじゃねえか」
 いつもの透の笑顔がそこにあった。さっきまで遠くに思えた彼との距離が、今は心が触れ合う程に身近に感じる事ができる。
 奈緒が抱いている特別な距離感を、先輩の洋子も敏感に察知したのだろう。彼女は「後はよろしくね」と微笑むと、唐突とも思えるタイミングで部屋から出ていった。

 二人が残された展示室には、気まずさとは違う不慣れな空気が立ち込めた。透も二人きりの空間に戸惑っているのか、「ところでさ」と切り出した口調も、もごもごと歯切れが悪かった。
 「この間の約束なんだけど……」
 「約束?」
 「ほら、一緒にテニスするって」
 「あれ、覚えていてくれたの?」
 「忘れる訳ねえだろうが。まったく、俺のこと信用してねえな?」
 「そ、そんな事ないけど……」
 否定しつつも、奈緒は胸が痛かった。信用していなかった訳ではない。ただ自分の期待通りに事が運ぶとは思わないよう言い聞かせていた。勝手に期待して、裏切られ、傷ついてしまう。この悪循環を恐れるあまり、いつの間にか臆病になっていた。
 透はそんな臆病な奈緒の考えを簡単に吹き飛ばしてくれる。もっと寄りかかって良いと、言われているようだった。
 「まあ、良いや。そんでさ、今度の土曜日。地区大会が終った後に、区営コートへ行かないか?」
 「えっ、良いの? でもテニス部は優勝候補だし、祝勝会とやるんじゃないの?」
 「そうかもしれないけど、俺は出場選手じゃないから、優勝したとしても祝勝会に出るつもりはない。それより、お前との約束の方が大事だから」
 透はそこまで言うと、ふいっと横を向いた。照れ臭そうな横顔は指輪を買った時と同じであったが、今は情けないとは思わない。
 奈緒は、やはり海底の住人を夢見てしまう。だがそれは、今までのようなネガティブな理由からではない。ゆったりと流れる時間の中で、この幸せな瞬間を誰よりも長く味わっていたい。
 「お前との約束の方が大事だから」
 この言葉を抱き締めて、不器用な彼の横顔を好きなだけ眺めていたかった。
 「じゃあ、地区大会が終わったら、区営コートで待っているね」
 学園祭の終わった展示室で交わされた二人だけの小さな約束。これが後に様々な波紋を広げようとは、この時の奈緒には知る由もなかった。






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