第26話 復活

 決勝戦を前にして、光陵テニス部の選手控え室では応援部隊を含む全部員が集められ、最後の打ち合わせが行われていた。次の対戦相手は余程の強敵なのだろう。各選手に指示を与える部長の成田が、いつも以上に慎重な態度を見せている。
 今回もダブルスの二組に変更はなく、シングルスは千葉、唐沢、成田の順でオーダーされていた。
 透と遥希は思わず顔を見合わせた。不謹慎と知りつつも、二人はエース格の選手が激突する最終戦に大きな期待を寄せていた。
 部内最強と謳われる先輩が本気で戦う姿を一度で良いから見てみたい。これが二人の本音であった。
 部長とまでは言わずとも、せめて副部長の唐沢の試合ぐらいは、丸一日応援し続けた褒美として拝ましてくれても良いのではないか。身内の敗北を期待するような態度は顰蹙(ひんしゅく)を買うので大人しくしているが、透も遥希も密かにそう願っていた。

 対戦表に記された『杏美紗好学院』の校名を、透はどう読んで良いのか、分からなかった。
 「あれで、アンビシャスって読むんだよ。長いから『アンビ』って省略しているけどね」
 隣にいる陽一朗が、小声で教えてくれた。
 テニス初心者である上に他県から転入して間もない透は、テニス部の話し合いに付いて行けない事が多い。テニス用語も知らなければ、近隣校についても明るくない。その事情をよく知る陽一朗や千葉が、後輩のきょとんとする顔を目安に、こうして補足説明をしてくれる。
 次の対戦相手である杏美紗好学院には要注意人物がいるらしく、「宮本」という選手の名前が頻繁に登場した。陽一朗の話では、宮本はダブルス戦における試合運びの巧みさから「陣型崩しの天才」と呼ばれており、過去の対戦で苦い経験をさせられてきた伊東兄弟にとっては、彼に照準を合わせて練習するほど執着の強い、まさに宿敵中の宿敵との事だった。
 全体ミーティングが終わっても、ダブルスに出場する選手四人はまだ成田とコーチの日高から細かい指示を受けており、話題の人物がいかに曲者であるかがうかがい知れる。もしかすると決勝戦は期待通りの事が起こるかもしれない。珍しく真剣な表情で話し合う先輩達の様子から、透は今回のダブルス戦で一波乱ありそうな予感がした。

 解散後、透が控え室を出ようとすると、廊下のベンチに独り腰を下ろす千葉の姿が目に入った。話し合いの最中は皆の手前もあって平静を装っていたが、いまだ彼は敗戦を引きずっているのだろう。がっくりと項垂れ、両肩を落とす様は、これから試合に向かう選手にしては覇気がない。
 目標とする成田と同じオールラウンダーになりきれず、途中からサーブ&ボレーのスタイルにシフトチェンジしたものの、時すでに遅く、反撃の一手が敵の懐に届く前に敗北した。先の試合は、そんな消化不良の印象が強かった。
 力の出せなかった試合には悔が残る。たとえ勝ったとしても後悔するのだから、負ければ尚更だ。
 透は一旦、千葉の前を通り過ぎ、会場へ向かう部員達の後を追った。いま自分がなすべき事は、先輩達の試合を見て学び、糧とする事だ。そう唐沢から指示を受けている。
 出口まで十メートル程の廊下を通り抜け、外へ出かけたところで振り返る。千葉は考え事をしているのか、ずっと項垂れたままだった。
 自身の過去の経験から下手な慰めは逆効果だと分かっている。しかも後輩の立場で気の利いた助言が出来るとも思えない。だが、背中を丸めて俯く姿はあまりにも痛々しく、放っておくのも忍びない。
 声をかけるべきか。放っておくべきか。二つの選択肢の間で悩んだ結果、透は用もないのに廊下を行き来するという無意味な行為を繰り返していた。
 一体、自分は何をやっているのだろう。唐沢に見つかれば、即座に怒りを買いそうな愚行である。第一、透が何度も目の前を通り過ぎているにもかかわらず、千葉は気付く気配もない。
 諦めて応援部隊と合流しようとした矢先、丸めた背中が少しだけ伸びて、「こっちへ来い」と手招きするポーズが見えた。

 透は千葉が座るベンチを目指してダッシュした。まるで飼い主からしばらくぶりに声を掛けられた犬のように、走っているのか転がっているのか分からない程の勢いで駆けていった。
 「悪りぃ、トオル。コーラ、買って来てくれないか?」
 「了解ッス!」
 たとえパシリでも、今は嬉しかった。日頃から世話になっている先輩の為に何も出来ずにいるよりは、使いに出された方がいくらかでも気が楽だ。
 控え室前の廊下のベンチから出口付近の自動販売機までダッシュで向かい、コーラとレモンティーを買ってから戻ってくると、千葉が隣の席を空けて待っていた。ようやく隣に座る事を許してくれたらしい。
 透は空いた席に腰を下ろし、黙ってレモンティーの缶のプルトップを引いた。何も話さなくても、側にいることで少しは彼の気が紛れるかもしれない。
 人気のない廊下に、しばらくの間、沈黙が流れた。今朝の大会開始前の浮ついた熱気はすでになく、祭りの後のような気の抜けた静けさが漂っている。決勝戦が行われる今の時間帯は、ほとんどの学校が敗れて帰るか、大会の覇者を見届ける為にコート付近に集結しているかのどちらかだ。この選手控え室のある管理棟に残っているのは、二人だけに思われた。

 長い沈黙の後、千葉が重い口を開いた。
 「俺……最低の試合、やっちまった。ナンバーワンを目指すなんて、とんでもねえよな」
 薄暗い廊下に視線を落とし、抑揚なく語る横顔は、いつもの溌剌とした先輩とは別人に見えた。恐らく自責の念に駆られているのだろう。重々しく開かれた唇が、悔しさからか、一言終えるごとに無念そうに結ばれる。
 「成田部長を目標にしてオールラウンドプレーヤーを目指したつもりが、全然使い物にならなくて。得意のはずのネットプレーも、結局、中途半端で終わっちまって……」
 千葉の告白を聞きながら、透も前の試合を思い返した。確かにあの時、もっと早くに攻撃パターンを切り替えていれば、新たな展開に繋がったはずである。千葉の判断ミスは否めない。
 隣から漏れてくる反省の言葉に、透は相槌を打つでもなく、口を挟むでもなく、ただ黙って話を聞いていた。過去の反省材料が全て出揃った今、彼に残された課題は後悔を膨らませる事ではない。その反省を次の試合に繋げることだ。
 しかしながら、それを可能にするのは本人の意思である。どうにか自力で立ち直って欲しい。この想いから、あえて透は慰めの言葉を発しなかった。

 再び訪れた沈黙に抗う事なく、透が無言の時を過ごしていると、管理棟の出入り口付近に人影が見えた。マネージャーの塔子である。彼女はしきりに手首の辺りを指差して、こちらに合図を送っている。
 「時間がない」と、言っているのだろうか。いや、ダブルス戦は始まったばかりで、シングルスの千葉の出番までには充分な時間があるはずだ。
 ところが塔子は手でアルファベットの「D」と数字の「2」をかたどり、続いて両腕を胸の前で交差させてバツを作って見せた。
 まさか、第一試合のダブルスがこんな短時間で負けたというのか。俄かに信じがたい話だが、彼女の深刻な表情からこの解釈で間違いなさそうだ。
 早く千葉の意識を次の試合に向けさせなければ、更に後悔を重ねる事になる。透は覚悟を決めた。
 これから言おうとしている事は千葉を怒らせるかもしれない。テニス初心者の助言など、役に立たないかとも思う。それでも言わずに後悔するよりはマシである。
 「ケンタ先輩? 両方目指せば良いじゃないッスか」
 突拍子もない発言に、千葉は驚いて顔を上げた。
 「サーブ&ボレーも出来る、オールラウンドプレーヤーって、どうですか?」
 努めて明るい顔で問いかけてみたが、すでに彼の眉間には深い皺が刻まれている。
 「これなら絶対、ナンバーワンになれますよ。もう無敵です」
 かなり強引な提案だとの自覚はあった。オールラウンドプレーヤーを目指して敗れた人間に両方目指せと言っているのだから、下手をすれば嫌味に取られかねない話である。
 だが、「千葉はサーブ&ボレーヤーに向いている」という唐沢の意見と、本人の「オールラウンドプレーヤーを目指す」という理想を合わせると、どうしてもこの結論に達してしまう。素人ならではの発想かもしれないが。

 千葉が険しい表情を崩さずに、じっとこちらを見ている。見ていると言うよりも、睨んでいる。しかし、もう一言、敬愛する先輩に聞いて欲しかった。
 「だいじょうぶ。ケンタ先輩なら、きっと出来ます!」
 千葉がおもむろに立ち上がった。その右手には拳が握られている。やはり素人の発想に気分を害したのか。あるいは、ふざけていると思われたのか。
 硬く握られた拳が目の前に迫ってきた。
 「殴られる!」
 咄嗟にそう判断した透は、歯を食い縛った。発言そのものは間違っていたかもしれないが、先輩に対する想いは間違っていない。だから逃げずに、殴られるのを待っていた。
 ところが眼前に迫った拳は額のところでピタリと止まると、形を変えた。「バチッ!」と年季の入った音がして、額がじんわり熱くなった。
 「ケンタ先輩?」
 てっきり殴られると思っていたのに、何故デコピンなのか。驚きと疑問を含む目で透は千葉を見上げたが、彼は一瞬視線を合わせただけで、後は何事もなかったかのように無言のまま立ち去った。

 今のデコピンが何を意味するのか分からず、透が先輩の後姿を茫然と見送っていると、入れ替わりに塔子がやって来た。
 「もう、真嶋の役立たず! ケンタ先輩、ムッとして行っちゃったじゃないの!」
 相変わらず、彼女は手厳しい。
 「やっぱ、怒らせたよな?」
 消沈気味の透に対し、塔子は容赦なく追い討ちをかけてくる。
 「絶対、怒らせたと思う。だいたい真嶋はお気楽過ぎるのよ。『両方目指せ』なんて、バカじゃないの!?」
 散々な言われように落ち込みかけた透だが、先程見せられた合図の方が気になった。
 「それより、D2負けたのか?」
 「うん。十五分かかっていないと思う。アンビのオーダーに変更があって、D1だと思っていた宮本さんがD2に組まれていたの」
 「宮本さんって、アンビの中じゃエース格の人だろ? どうして、D2に?」
 「先輩達の話だと、D2とD1の選手を入れ替えて、宮本さんの出場するD2で手堅く一勝、シングルスで二勝するつもりじゃないかって。アンビは去年、地区大会での優勝を逃しているから、必死だって言っていたわ」
 「だけどシングルスなら、うちだって強いだろ?」
 「アンビはシングルス二戦目に、エースの季崎さんを投入してきたの」
 要するに、大将戦にもつれ込む前にダブルス、シングルス共にエース格の選手を出場させて、早い段階で決着をつける腹なのだ。
 塔子から話を聞いて居ても立ってもいられなくなった透は、急いで決勝戦が行われているコートへと向かった。
 驚いたことに、透がコートに到着した時には第二試合のD1も決着がついていた。スコアボードには光陵学園の勝利が記され、陽一朗がムッとした顔で宮本を睨み付けていた。
 無理もない。宿敵との対決を想定し前々から準備をしてきたにもかかわらず、直前で肩透かしを喰らったのだ。いくら優勝する為の策とは言え、陽一朗にしてみれば腹の虫が治まらない。速攻で勝利を決めたのは、精一杯の抗議のつもりだろう。
 兄の太一朗に宥められ、渋々出て行く陽一朗と入れ替わり、千葉がコートに入ってきた。

 ついにシングルス戦が始まる。透は今までとは違う種類の緊張を感じながら、コートを見つめた。
 相変わらず千葉は厳しい表情のまま、ベースラインで構えている。一見して落ち込んでいる様子はないが、いつもの「やる気満々」といった風でもなく、口を真一文字に結び、じっと相手を見据えている。
 相手の選手はパワー系のプレイヤーらしく、高さ185センチの審判台と変わらぬ長身と、太腿と見間違えるような二の腕の太さがそれを物語っている。千葉が後方で構えているのも、力強いサーブを用心しての事だろう。パワーの乗ったボールを返すには、後ろに下がって球威が落ちたところを捕らえる方が、確実に返球できる。
 透の予想通り、試合開始早々、高い打点から勢いのあるサーブが叩き込まれた。千葉は上手く合わせて返球しているが、相手の選手はさらに強烈なスピンボールでコースを打ち分け、揺さぶりをかけてくる。
 序盤から千葉が圧されているのは、透の目にも明らかだった。
 「ケンタ先輩……」
 透は祈るような気持ちで千葉の姿を追った。自身の勉強の為ではなく、ひたすら千葉の為に勝利を願った。いや、この際、勝利でなくとも良い。この試合が、充分に己を責めたであろう先輩にとって納得できる結果に結び付いて欲しいと願っていた。
 第1ゲームは力押しで試合を進める杏美紗好学院が先取した。
 「大丈夫。先輩なら、きっと……」
 無意識のうちに、透は以前、奈緒に言われた台詞を呟いていた。
 「だいじょうぶ。トオルなら出来るよ、きっと」
 遥希との勝負に敗れて落ち込んでいる時に、彼女から掛けられたこの言葉。それが透を救ってくれた。もう一度、立ち上がる勇気を与えてくれた。同じ言葉をありったけの想いを込めて、透はコートで苦戦する先輩に送っていた。

 続く第2ゲーム。まるで透の想いが届いたかのように、千葉の動きが良くなった。
 やはり唐沢の言う通り、千葉にはサーブ&ボレーのプレースタイルが合っている。本人もその事を自覚したのか、積極的に前へ出て攻撃する機会が多くなった。相手のパワーの乗った重い球をスライスで処理しながら、ネットにつく作戦を展開している。
 千葉のスライスはバネのある下半身を充分に活用して放つ為、回転数もさる事ながら、伸びもある。パワーショットで返すつもりでいた相手は低く伸びるスライスに戸惑い、中途半端に打ち込まれたボールはネットに詰めていた千葉の絶好球となった。
 相手のパワーボールを牽制しつつネットプレーに繋げる作戦で、ゲームカウントは「3−1」と光陵学園がリードし始めた。

 まだ油断のならない状況だが、2ゲームのリードが透に周りの景色を見せる余裕を作った。但し景色と言っても、目に飛び込んできたのは青々とした新緑ではなく、少し離れたところでスポーツ新聞を広げる唐沢の姿であった。
 唐沢は次の対戦に向けて、彼なりのやり方で集中力を高めているのだろう。相変わらず違和感のある光景だが、陽一朗の忠告に従い、邪魔をしないよう放っておいた。
 ところが事情を知らない他校の選手が、にこやかな笑みを浮かべて唐沢に話しかけてきた。背格好からして三年生だろうか。上品な顔立ちの少年は杏美紗好学院のロゴの入ったユニフォームを着用し、地区大会の会場だというのに両耳に可愛らしいピアスをしている。しかも小粒ながらダイアモンドのようである。激戦が続く大会には不釣合いなアイテムだが、この品の良い少年にはとてもよく似合っていた。
 「久しぶり、海斗。運命の悪戯ってヤツだね。決勝戦で君と当たるなんて、神様も心憎い演出をしてくれる」
 透は少年が殴られるのを心配して、止めに入ろうと身構えた。だが新聞から目を離した唐沢は、意外にも同じ類の笑みを浮かべている。不思議に思いながらも暴力沙汰には発展しそうにないと踏んで、透はしばらく様子を見守ることにした。
 話の内容から察するに、あの少年は杏美紗好学院のエースで、次のS2にオーダーされている季崎という選手の可能性が高い。対戦前の敵情視察か。あるいは挑発しに来たのか。二人とも笑みを浮かべているところが、逆に怖かった。
 「相変わらず気障ったらしい台詞……って、あれ? お前、誰だっけ?」
 唐沢の笑顔が一転して困惑顔に変わった。記憶を手繰るように視線を上に向けて、眉をひそめている。彼等はそんなに深い知り合いではないのだろうか。
 「えっと、確かキザ……キザ……そうだ! 『キザピョン』だ!」
 「季崎だよ、キ・ザ・キ! わざとらしく、そっちのあだ名で思い出すな!」
 唐沢の一言で、季崎の品のある顔立ちが醜く崩れた。周囲の目を気にせず激しく抗議しているところを見ると、『キザピョン』のあだ名に嫌な思い出でもあるのだろう。
 「だいたい、君じゃないか! 僕に『キザピョン』なんて、ふざけたあだ名をつけたのは!」
 「へえ、兄貴じゃなかったか?」
 「君がナッチャンと彼女の友達にそのあだ名を吹き込んで、皆で仲間外れにしたんだろ?」
 「そうだっけ?」
 「僕の初恋だったのに。ナッチャンに嫌われたのは、海斗の所為だからな!」
 二人は幼馴染みのようだが、そう断言するには“馴染み”の部分に何やらささくれ立った棘を感じてしまう。
 「あれは『缶蹴りのルールも知らないバカを仲間にするな』って、兄貴が言うからさ」
 「缶蹴りぐらい、知っていたもん!」
 「いや、知らなかったって。缶を持ったまま全力疾走してたの、誰だっけ?」
 「違うって! だって、あれは海斗が『大事なものだから手放すな』って言ったから!」 
 昔を思い出したのか、季崎の口調が急に子供染みてきた。
 「まあ、昔の事をいつまでも気にすんなって。な、キ・ザ・ピョン!」

 二人のやり取りを聞きながら、透は次第に季崎が気の毒に思えてきた。話を聞く限り、唐沢が子供の頃から悪魔ぶりを発揮して、季崎を陥れていたのは明らかだ。自身も何度か周到な罠にはめられているだけに、そこに至るまでの経緯が容易に想像できる。
 「あいつ等の痴話喧嘩は気にしないで、ケンタの試合に集中しろ」
 透の注意を引き戻したのは、コーチの日高であった。
 「唐沢の中では、もう試合が始まっている。放っておけ」
 「そうなのか……って、おっさん、ベンチに残っていなくて良いのかよ?」
 「俺の役目は終わった。後は面倒臭せえから、成田に任せた」
 「面倒臭いって……」
 通常、地区大会ほどの規模になると、『ベンチコーチ』と呼ばれる役割の人間が出場選手と一緒にコート内に入る事が許される。ゲームの流れを読んで選手に指示やアドバイスを与えるといった監督的要素が強い事から、光陵テニス部では大抵コーチの日高がその任に就いているのだが、試合中にもかかわらず彼は部長をコート脇のベンチに座らせ、自身はフェンスの外で傍観者面して立っている。これは役目を終えたのではなく、放棄と言うのではないだろうか。
 「おっさん、仮にもコーチだろうが!」
 「コーチはいざ試合になると、案外、役に立たないもんだ。要点だけ教えてしまえば、後はこうして見ているしかない」
 ほんの一瞬、勘違いと思える程の短い時間だが、日高が透と同じ祈るような眼差しを千葉に向けた気がした。

 コートに視線を戻すと、ちょうど杏美紗好学院の選手も攻撃パターンを変更したところであった。パワー重視のストロークから、ボレーでの攻撃に切り替えている。
 この切替え時期を見誤ると、先の千葉の敗戦のようにズルズルと点差を広げられ、反撃を開始する頃には手遅れとなってしまう。さすが決勝戦のシングルスを任されるだけの事はある。試合の流れを冷静に読んでいる。
 相手の咄嗟の判断で勢いを削がれた千葉は、点差を広げるチャンスを奪われ、再び苦戦を強いられた。向こうもストローク戦からボレーに切り替えたとなれば、スピード重視で押し切るには無理がある。
 ゲームカウントが「4−2」と、2ゲーム差をキープしたまま硬直していた。
 「ここが、あいつの正念場だ」
 逸る気持ちを押し殺したような低い囁き声が、透の頭の上から聞こえてきた。やはり少し前に感じた眼差しは、気の所為などではない。日高は待っているのだ。千葉が自らの力で答えを掴む瞬間を。

 第7ゲームに入ると、すぐにコート上の千葉が動き始めた。ネット前に出ようとする相手を、まずはパッシングショットで足止めをする。前の試合で伊達が使った戦法だ。
 同時進行でサービスラインまで踏み込んだ千葉は、相手からの返球をクロスに打ち込んだ。左右に打ち分けられるコースに振り回され、相手の選手は前に出られずにいる。
 普段はふてぶてしいまでに形相を変えない日高だが、その頬が少しだけ緩んだように見えた。彼の視線の先には、敵に代わってネット際のポジションを獲得した千葉の姿があった。
 パッシングで相手の動きを封じ、自分はアプローチで前へ出ながらボレーで攻撃して点を取る。この堅実な行程こそが、千葉の目指すべきスタイルなのだ。たとえ藤原のように素早くネットにつけなくとも、パッシングとアプローチの二つのショットを使いこなす事で、段階的に前へ出るチャンスが生まれる。
 それだけではない。この二つのショットのコンビネーションは、ネットに詰めようとする相手を足止めする事も出来るのだ。
 何かに秀でた才能というのは、確かにプレイヤーの大きな武器となる。しかしそれを持たないからと言って、イコール欠点とは限らない。
 オールラウンドやサーブ&ボレーに固執するのではなく、今回の千葉のように未熟な部分があったとしても、状況に応じてショットを使い分ける。この柔軟さが時に強力な武器となる。
 日高は、千葉が柔軟、且つ、堅実なスタイルを自分の長所として受け入れる瞬間を待っていたのだろう。藤原とも成田とも違う、千葉には千葉の武器とすべき能力がある。しかし、こればかりは自分でその価値を認めなければ、いくらコーチが指導したとしても何の解決にもならない。

 コートに視線を向けたままで、日高が独り言のように呟いた。
 「どの選手にも戦う為の武器は備わっている。問題は、それを自分で武器として認めるかどうか。その一点に尽きる」
 それは透に話していると言うよりも、指導者である自分自身に再認させているような口調であった。
 サーブ&ボレーも出来るオールラウンドプレーヤー。透の素人丸出しの発想は、全くの的外れという訳でもなかった。目の前の先輩のプレーが、それを証明している。
 強面の日高の目尻が大きく下がり、同時に光陵サイドから大きな歓声が沸き起こった。
 ゲームカウント「6−2」で勝利した千葉が、コートから透に向かってガッツポーズをして見せている。あの無言のデコピンは、「お前に言われなくても分かっている。任せておけ」の意味だった。
 意気揚々とした先輩のガッツポーズを見届けた透は、同じようにやり返した。
 「ケンタ先輩、最高ッス!」






 BACK  NEXT