第29話 開眼

 通い慣れたコートでの試合にもかかわらず、妙な緊張が押し寄せる。見知らぬ相手と対戦する時の緊張とは違う。これは相手の力量を知るが故のものである。
 決勝戦で惨敗したとは言え、季崎はライバル校を代表するエース格の選手であり、唐沢がしいたチェンジペース作戦も彼に実力があるからこそ成立する策だと聞いている。いつもの調子で様子見などしていては、一瞬で勝利をさらわれてしまうだろう。
 サーブ権を手にした透はボールを地面にバウンドさせながら、唐沢のフォームを思い返そうと意識をそこへ向けてみた。
 前回のバリュエーションで遥希の回転球に散々悩まされた苦い経験から、トップスピンやスライスもその後の練習に取り入れた。おかげで、軽くボールにスライス回転を加える程度のサーブなら習得できている。
 しかし唐沢が決勝戦で使った大きく左に曲がるスライス・サーブは、今日初めて目にするものだった。自身で打つのはもちろん、今まで受けたサーブでも、あそこまで鋭く回転のかかったスライスは見た事がない。
 ボールの弾む音に合わせて神経を集中させる。バウンドの回数が増えるたびに、頭の中により鮮明な映像が浮かび上がる。3ゲーム先取の短い試合で勝利する為には、季崎が苦戦していたあのスライス・サーブを再現するしかない。頭に描いたイメージに沿って、透はラケットを振り下ろした。

 「まさかとは思うけど、光陵は一年生にサーブ練習をさせていないのかい?」
 季崎が大仰に肩を落とし、侮蔑のこもった目をこちらへ向けている。
 イメージ通りに打てたはずのサーブはフォルトであった。回転をかける事に意識を集中し過ぎて当たりが薄かったのか。透の手元を離れた打球は途中で失速し、相手コートに入る前にネットに阻まれ落ちていた。
 続くセカンド・サーブは充分に力が伝わるよう注意して放ってみたが、やはりネットを超える事はなかった。
 「サーブを入れてくれないと、試合が始まらないんだけど?」
 季崎の目には素人以下の拙劣なプレイヤーと映っているのだろう。開始直後のダブルフォルトにやる気が失せたと言いたげだ。
 透はもう一度、サーブの映像を絞り出した。体の使い方は合っているはずだが、打点が微妙にずれている気がした。
 フラット・サーブとスライス・サーブを同じフォームで打ち分ける唐沢はインパクトの位置や角度を調節する事で思い通りに球種を操れると、コーチの日高が話していた。注意すべきはフォームではなく、ラケットがボールに触れる一瞬にある。確か彼はもっと右側の高い位置でボールを捕らえていたように思う。
 記憶に従い、二度、三度と挑戦したが、フォームとインパクトの両方を正しいタイミングで揃えて打つのは、そう簡単な事ではないらしい。フォルトを六回やらかした後でかろうじてボールがネットを越えたが、そのサーブも威力が充分ではない為に、季崎にリターン・エースを取られて第1ゲームは終了した。


 相手が初心者である事は試合前から察していたが、まさかここまでレベルが低いとは思わなかった。相次ぐフォルトにすっかり戦意を削がれた季崎は、通常セカンドで使用するサーブを更に緩めに打つ事にした。いくら経験が浅いと言っても、これ以上一方的に失点されては、却ってストレスが溜まる。
 ところが温情をかけたサーブは、とても初心者の球とは思えぬ程の勢いを携え戻ってきた。
 「何!?」
 頭では見間違いの可能性を浮かべながらも、体内に蓄積された経験がそうではないと判断したのだろう。咄嗟にラケットを持つ手が速いボールに伸びていた。おかげで初心者にリターン・エースを取られるという不名誉な失点は免れたが、動揺を多分に含んだ返球はチャンスボールとなり、ネット際で構える少年によって叩き落された。
 「一体、どうなっている?」
 今のリターンはまぐれなのか。それとも狙ってやった事なのか。アンバランスな力を見せる一年生に、季崎は動揺を隠せなかった。
 サーブもまともに入れられない初心者が、強烈なリターンを返してきた。通常、サーブ練習とリターン練習はセットで行うものだが、光陵テニス部ではリターンの方に力を入れているのだろうか。それとも、単純にサーブを練習に取り入れる前の段階なのか。
 そもそもリターンは、ストロークの基礎さえしっかり身につけていれば自然と強化される。もしかするとサーブが極端に不得手なだけで、甘く見たのは軽率だったかもしれない。


 季崎の顔つきが変わった。初心者だと高をくくっていた相手にポイントを取られた事で闘争心に火がついたのか。一打目のサーブを入れた時より表情が引き締まっている。
 気持ちを入れ替えた様子の季崎から放たれた二打目のサーブは、透の予想を遥かに上回る速さであった。コートの外から眺めるのと、実際に中に入って受けるのとでは、スピード感がまったく違う。決勝戦では難なく返されていたので大した威力はないと楽に構えていたが、それはあくまでも受け手が唐沢だからこその話であって、今の透の実力では手も足も出ない。
 次々と打ち込まれるサーブになす術もなく、あっという間に第2ゲームも奪われてしまった。
 一つのゲームの長さが異様に短く感じた。実力の違いがあり過ぎると、こうも呆気ない幕切れになるのか。
 もう後がない。次のゲームを取られれば、透の敗北が確定する。あまりにもあっさり追い詰められた為に、焦りを感じる暇もない程だ。
 しかし敗戦色濃い状況である事は、フェンス越しに試合を見守る奈緒の様子からも窺い知れる。それ見たことかと言いたげな先輩二人の間で、彼女は今にも泣き出しそうな顔で透の姿を追っている。
 本来であれば、今頃は二人で楽しくコートで打ち合っているはずだった。苦痛で閉じたテニスの思い出を、今日は笑顔に塗り替える手伝いが出来ると思っていた。

 「奈緒……」
 透の胸の中で、熱を帯びた塊がどくどくと動き始めた。それに合わせて生まれたての暖かな刺激が全身を駆け巡り、眠っていた神経が呼び覚まされる。
 「あいつには渡さない」
 コートに入る前に交わした約束をもう一度胸の内で呟くと、透は全身の神経を次のサーブに集中させた。
 インパクトのタイミングは第1ゲームで掴んでいる。鍵を握るのは、ボールを放つ瞬間の手首の使い方や力の入れ具合など、微妙な“さじ加減”であった。
 先のゲームで断続的に思い浮かべていた映像が、今度はコマ送りとなって流れ始めた。体を動かすたびに唐沢のフォームの細かな部分が映し出され、次にやるべき動作を教えてくれる。
 フラット・サーブよりも少し右側にトスを上げる。ガットでボールを擦るイメージを持ってしまっては、第1ゲームのように当たりが薄くなる。あくまでもフラット・サーブと同じ要領で、膝で溜めた力を背中からラケットまで無駄なく伝えなければならない。
 上空に上げたトスが頂点に達してから、ゆっくりと落下する。ボールのスピードが通常よりも遅く見えた。第1ゲームで掴んだインパクトのタイミングを見定め、膝から送られてくる力をぶつけるようにして高い打点からラケットを振り下ろす。


 「まさか、これは……」
 ボールがサイドラインを駆け抜けても尚、季崎は目の前の出来事を現実として受け入れられなかった。
 「待たせて悪かったな。サーブ練習、終わったぜ」
 ネットの向こうで満足げな笑みを浮かべる少年の様子から、信じ難い事実が明らかとなる。先程から彼がフォルトを連発していた理由は、唐沢と同じスライス・サーブを打とうとしていたからだ。
 「せっかくイメージ通りに打てたんだ。ガンガン行くぜ!」
 今までの困惑顔から一転して、彼は意気揚々と次のサーブの構えに入っている。
 季崎の脳裏に決勝戦の悪夢が甦る。鋭いスライス回転に翻弄されて、ラリーに持ち込む前にゲームを失った。あんな屈辱的な思いは二度としたくない。その焦りに追い立てられるようにして、季崎はサーブに合わせて右へと移動した。
 「まさか!?」
 一瞬にして、エースの背中が凍りついた。
 いま足元をすり抜けていったのは予想していたスライス・サーブではなく、フラット・サーブであった。
 「一体、彼は何者なんだ!?」
 唐沢と同様、スライス・サーブとそっくり同じフォームでフラット・サーブを放つ一年生に対し、季崎は困惑を通り越し、薄っすらとした恐怖心を抱きかけていた。

 初心者を相手に1ゲームも許さぬ覚悟で試合に臨んだにもかかわらず、二種のサーブに惑わされ、第3ゲームを奪われてしまった。ゲームカウント「1−2」と詰め寄られた季崎は、努めて冷静になろうと自身に言い聞かせた。
 「このゲームを押さえてしまえば、僕の勝ちだ。何も焦ることはない」
 実際、季崎の最初のサービスゲームでは、一本目の緩いサーブ以外、まともなリターンは返って来なかった。次の第4ゲームでも油断せずに通常通りのプレーを行う。それで勝負は決まるのだ。
 気持ちを落ち着かせた季崎は、渾身の力を込めてサーブを放った。
 身体能力の高い選手の中には、一目見ただけで他人のプレーを再現できる者がいると聞く。通常は耳から聞いた情報を頭で理解して、視覚で捕らえた映像から自分なりのイメージを作り、体を使って体現する事で初めて新たな技術を覚えていくものだが、この手の選手はそれらの過程をすっ飛ばし、目で見た映像をすんなり体に馴染ませ再現する事が出来るのだ。無論、それを可能にするには日頃からの鍛錬が必要不可欠ではあるが。
 今、目の前でプレーする少年はそのタイプの選手だと、季崎は思った。それが証拠に、第2ゲームで悪戦苦闘していたサーブを、今は難なく返している。たった1ゲームで唐沢のサーブを再現できたのも、彼の突出した洞察力と身体能力が合わさっての事だろう。
 季崎のサーブの落下地点を見極め易々と追い付いた少年は、左コーナー深くにリターンを返してきた。後方で足止めされた季崎は、バックハンドの体勢からドロップショットを繰り出そうとした。相手の意表を突くこのショットは、勢いに乗りかけた選手のペースを乱すには有効な手段である。
 ラケットを引いた瞬間、気の所為とも思える程の僅かな時間、嫌な予感が体を貫いた。試合経験の豊富な選手は戦況の良し悪しに関係なく、集中力が高まるにつれて先の展開が読める事がある。初心者相手の試合で本気で集中せざるを得ないほど自身が追い詰められているとは思えなかったが、確かに予感がした。そして数秒後に、それは現実のものとなった。

 「僕のショットが、見切られている……?」
 フェイント気味に繰り出したドロップショットが放たれるとほぼ同時に、少年が前へと詰め寄り、ネット際に落ちてくるボールをすくい上げるようにしてラケットを合わせたかと思えば、季崎の立つ場所の反対側のサイドへボレーで沈めた。それはドロップショットを放ってからセンターへ戻る間もない、まさに一瞬の出来事であった。
 フェイントをかけたはずのショットが、完全に読まれている。1ゲームのリードを保持しているにもかかわらず、季崎は敗北の泥沼に足を取られた気分であった。
 もしかしてこの少年は唐沢のプレーのみならず、季崎のプレーも、その細かな癖に至るまで、記憶に刻んでいるのではないだろうか。ドロップショットを返した際の動きの素早さから見ても、その可能性は多いにある。
 だが、たとえそうだとしても所詮は経験の浅い一年生。あらゆる角度から攻めていけば、必ずボロが出るはずだ。
 ようやく自身を落ち着かせる材料を見つけた季崎は、押し迫るプレッシャーを跳ね除け、次のサービス体勢に入った。
 「まずはサーブ&ダッシュで速攻をかけて、揺さぶってみるか」
 季崎はサーブを放つと同時に前方へ進み出た。行く手を阻もうと深めのリターンが返ってきたが、それをローボレーで繋いで更に距離を詰めていく。
 このまま前進してネット前を陣取れば、先制攻撃を仕掛けられる。先手必勝。ボレーの連打を浴びて混乱する初心者の姿を想像して、最後の一歩を踏み込んだ時だった。
 サービスエリアの中央に立つ季崎の脇を、サイドラインに沿って強烈なストレートが駆け抜けていった。
 「パッシングだと……?」
 一度は跳ね除けたはずのプレッシャーが、敗北の予感と共に再び季崎のもとへ圧し掛かってきた。


 まるで頭の中に一冊の便利なアルバムが置かれているような感覚であった。地区大会、いや、それ以前に目にしたプレーまでもが、もう一度見たいと願う透の欲求に従い、鮮明な映像となって甦る。
 ゲームカウント「2−2」まで追い上げたところで、透はこの不可思議な現象が自身の特技だと自覚した。どうしてそんな事が出来るのか、理由はよく分からないが、どうやら自分は集中力が高まると、今まで見てきたプレーを細部に至るまで鮮明に思い起こせる特技があるらしい。テニス経験の浅い透にとって、これはコーチが側で手本を見せてくれるのと同じぐらい有用な能力であった。
 ボールを地面に向かってバウンドさせながら、今度はドロップショットの映像を探してみる。アルバムをめくるような感覚で、数ある記憶の中から遥希のフォームを選び出す。あまり深く考えずとも現れる映像は、どれも次の対応にベストなものばかりであった。
 遥希のドロップショットは、季崎のそれより落差が激しく、拾い辛い。自分が放ったドロップショットよりも威力のあるショットを打ち込まれれば、さすがのエースも精神的なダメージを受けるはず。
 得体の知れない特技に感謝しつつ、透はフラット・サーブを叩き込んだ。


 「まさか、ドロップショットまで体得しているなんて……」
 少年はフラット・サーブに続き、ネット際に落ちるドロップショットを繰り出そうとしているらしかった。彼のフラットは並外れた球速故に、後ろに下がって受けざるを得ない。リターナーをサーブで後方に退けておいて、前方に落ちるドロップショットを放ち、ポイントに繋げる腹だろう。
 まだ季崎が見抜けぬ程ではないものの、刻々と攻撃手段の幅を広げていく少年のプレーに、先ほど薄っすらと抱きかけていた恐怖心が確固たる恐怖に変わる。ラリーを重ねるごとに初心者との実力差が縮まり、追い抜かれていくようだ。
 だが、何としてもこのドロップショットを決めさせる訳にはいかない。「2−2」の引き分けで臨んだ第5ゲームで、自分が先に追い込まれる事だけはエースの誇りにかけて避けねばならなかった。
 ベースラインの位置からネット際まで、急激に落下するボールを追いかけ突っ込んでいく。
 「痛っ……!」
 突如として、季崎の右足に激痛が走った。ふくらはぎの筋肉が収縮するようなこの痛みは、こむら返りに違いない。
 地区大会での連戦に加え、決勝では唐沢に長いラリーを強いられ、今の試合での急激な負荷。痙攣を起こす要素は充分だ。

 「足、つったのか? こむら返りか?」
 季崎が自由の利かなくなった右足を抱え、その場にうずくまっていると、少年がネットを飛び越えて駆け寄ってきた。
 驚いたことに、彼は負傷した箇所を確かめると同時に手早くテニスシューズを脱がせ、痙攣を起こしている筋肉を丁寧に伸ばし始めた。コートの外で試合を観戦していた奈緒には自身の鞄を持ってくるよう指示を出し、先輩達には水分補給の為のスポーツドリンクを頼んでいる。
 「問題ない。じきに治まるから……」
 季崎は慌てて皆を制した。仮にもスポーツ選手でありながら、試合中にこむら返りを起こすなど恥ずべき事だと思ったのだ。
 大会後はしっかり体のケアを行ったつもりでいたが、敗戦に気を取られて疎かになっていたのか。それとも、自分が思う以上に疲労が溜まっていたのか。いずれにせよ、自己管理能力の欠如が原因だ。その上、敵対する学校のテニス部員に手当てをされるなど、季崎にとっては足の痙攣よりも辛かった。
 「良いから、大人しくしてろ」
 季崎の制止を無視して、少年は次々と指示を出していく。
 「筋肉の緊張を解すつもりで、ゆっくり息を吐いて。脚はもう少し伸ばせるか?」
 的確な指示と共にマッサージを行う少年に、季崎は思わず憎まれ口を叩いた。
 「僕なんかに親切にしたって、何のメリットもないと思うけど?」
 「アンタのことは気に入らないけど、目の前で苦しんでいる奴を放っておけないだろ?」
 「同情かい?」
 「いや違う。試合を離れれば敵じゃない」
 「だから?」
 「だから仲間だ。こんなこと言うと馬鹿にする奴が多いけど、俺はテニスをする奴はみんな仲間だと思っている。でなきゃ、楽しくない」
 「もしかして君は、テニスを楽しいと思っている?」
 「楽しくなきゃ、やんねえだろう? しんどい練習も、こんな無茶な試合も」
 「コテンパンに負けたとしても?」
 「負けたら楽しくねえけど、でも好きだから。何度負けても勝つまでやれば、それで良いじゃねえか。勝ったら、また楽しくなる」

 少年の答えは至ってシンプルで、異論を挟む余地はない。本当は揚げ足の一つでも取ってやろうと思ったが、そんな気も失せるほど理に適っている。
 「名前を、まだ聞いていなかったね?」
 「俺は真嶋透。知っていると思うけど、光陵テニス部の一年だ」
 「真嶋……もしかして、あのスポーツ科学の真嶋教授の息子? だから、こんなに手際の良い処置ができるのか」
 「あのクソ親父の息子で悪いか?」
 「いや、そうじゃない。僕、すごく尊敬しているから。真嶋教授が出した論文で、日本語に翻訳されているものは、全部目を通している」
 ようやくこの不思議な少年の正体が分かり、季崎は納得すると同時に羨ましく思った。独自の帝王学を振りかざす父親ではなく、スポーツに理解のある教授の息子であったなら、どんなに幸せな事だろう。
 ところが当の本人からは予期せぬ答えが返ってきた。
 「だったら俺と代わってくれよ。お前ん家、金持ちなんだろう?」
 冗談かと思ったが、顔は真剣そのものだ。困惑する季崎に向かって、少年はばつの悪そうに言い足した。
 「借金があってさ。一万一千五百円。あと、ラケットもちゃんとしたヤツ買いたいし」
 「その歳で、どうしてそんな借金を?」
 「どちらかと言うと、させられたって感じだけど。唐沢先輩に」
 「ああ……悪い事は言わないから、早く良識ある誰かに相談した方が良い。あいつは悪魔だ。みたいじゃなくて、悪魔そのものだから」
 「確かに悪魔だなって思うところはあるんだけど、俺はあの先輩が嫌いじゃない。少なくとも、テニスに関しては尊敬しているし……」
 乱暴な口調とは裏腹に少年の手の動きは繊細で、患部を気遣いながらも必要な箇所には力を入れている。
 さっきまで腹立たしい思いをさせられた少年が、まったく別人に見えてくる。負けたとしても「テニスが好きだ」と言い切り、ライバル校のテニス部員を「仲間」として扱う。尊敬する真嶋教授を「クソ親父」と呼び、憎き唐沢を「尊敬している」という。
 今までに出会った事のないタイプだが、会話を重ねるごとに、何故か気持ちが解れていく。自分もテニスを始めた頃は、プレーをするのが楽しくて仕方がなかった。勝敗よりも、まずボールを返せる事に喜びを感じていた。他校のみならず、同じチームの仲間さえライバル視するようになったのは、いつの頃からか。

 区営コートの入口で待たせていた運転手が、青い顔をして駆け寄ってくるのが見えた。もっと色々話をしたかったが、どうやら時間切れのようである。
 運転手に支えられながらコートを出て行く季崎に、少年が声をかけてきた。
 「次はゲームカウント2−2からで良いよな? いつか続きやろうぜ」
 やはり先程の言葉は冗談ではなく、本気で彼はテニスをする人間は全員仲間だと思っているらしい。
 「いや、今日は僕の完敗だ。この足じゃ、奈緒ちゃんを守れそうにないからね。
 今度、改めていただきに来るよ。勝利も、彼女もね!」
 季崎の冗談を真に受けて、少年の態度が急変した。
 「懲りねえ野郎だな! やっぱ、アンタだけは仲間とは思えねえ!
 今度会ったら絶対ぶっ倒して、二度と奈緒に近付けないようにしてやるからな!」
 あまりに下品な物言いに眉をひそめる運転手に向かって、季崎が今日初めての笑顔を見せた。
 「気にしなくて良いよ。彼は、僕の友人だから」


 運転手に連れられコートを去っていく季崎を見送りながら、奈緒が安堵の声を漏らした。
 「良かったね、トオル」
 「何が?」
 「季崎さんがテニスの楽しさを思い出してくれて」
 「えっ!? あいつ、あんなに上手いのに、嫌いだったのか?」
 「たぶん。テニスを好きだって、忘れてたんじゃないかな」
 テニスを始めて日の浅い透には、いまひとつ理解できなかった。
 テニスは面白い。やればやるほど夢中になっていく。そんな自分にも、近い将来、練習を重ねていく過程でテニスが嫌いになる日が来るのだろうか。
 今日初めて会ったにもかかわらず、季崎に対して共感の意を示す奈緒の態度から、それは誰にでも起こり得る事のように思えた。
 「だいぶ遅くなったけど、今からテニスやるか?」
 「でも試合の後だし、疲れてない?」
 「あんな短い試合じゃ……」
 疲れていないと言おうとした矢先、
 「疲れる訳ないよね? なんたって、ラブラブ・パワー全開だもん」と言って歩み寄る二つの影が見えた。
 「先輩達、まだいたんですか?」
 呆れ顔の後輩を前にしても動じる事なく、千葉が
 「だってよ、『あいつには渡さない』の続きを聞きたくてな」とウィンクすると、隣にいた陽一朗も
 「『俺の女』とか言ってたし」と相槌を入れた。
 ダブルスのペア並みに息の合った冷やかしが、矢継ぎ早に投げかけられる。そもそも彼等の目的は最初から透と奈緒の仲を冷やかす事で、その為に祝勝会にも出席せずに尾行してきたのである。ようやく邪魔者が消えたのだから二人きりにしてやろうなどという大人の発想は皆無である。
 「なに言ってるんですか!? あれは『キザ野郎』を追い払う為に言っただけで……」
 「へえ、そう? 結構マジに見えたけど?」
 「うん、見えた、見えた」
 季崎に続いてもう二人、追い払わなければならない人間がいるようだ。
 「まったく、いつも、いつも……。
 奈緒、ごめんな。あと五分待ってくれ。あの二人追っ払ったら、今度こそ一緒にテニスやろうな!」
 透は慌てて告げると、逃げ回る先輩二人の後を追って駆け出した。背後で「頑張って」の声がする。
 いつも自分を見守ってくれる温かな眼差し。勇気を与えてくれる優しい声。なくてはならない大切なものは、案外、身近なところにあるのかもしれない。
 春の軽やかな風を頬に受け、透は誰よりも速く、そして何処までも遠くに走っていける気がしていた。






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