第35話 唐沢三兄弟

 都会の空を見て深呼吸をしたくなったのは、たぶん初めての事だろう。ここ数日降り続いた雨のせいで苛立ちがピークに達した透にとって、梅雨の晴れ間は何物にも変えがたい天からの贈り物に思えた。
 無論、梅雨時だからと言って部活動が無かった訳ではない。都大会を間近に控えた光陵テニス部では雨天時にもそれなりの練習メニューが用意されており、校舎内の階段や廊下を使っての屋内トレーニングの他に、知識を培う為のミーティングや勉強会など、課題はいつもより多いぐらいであった。
 しかし部活動後の区営コートでの練習までを日課とするテニスバカには、この雨続きは足枷をはめられたような辛さがあった。雨天時用のメニューはあくまでも部活動の代替であって、その後の個人的な活動分は自分で補うしかないのだが、区が運営する質素な造りのテニスコートは夜間の照明は整っているものの天井も壁もない野晒し状態で、雨に降られれば練習を中止にせざるを得ない。実家の屋内コートで存分に練習できる遥希と違って、屋外の区営コートを拠点とする透には、ボールを打つ手立てがないのである。
 テニス部なのにボールも打てず、コートが空いているのに打ち合う相手もおらず。連日、雨に濡れた無人のテニスコートを眺めるだけで時間が過ぎていく。必然的に苛々は募り、今日こそは雨でもコートで打ってやると自棄になったその日の朝、今までの天気が嘘のようにからりと晴れたのだ。

 清々しい青空の下、しばらくぶりにテニス部のコートで汗を流した透であったが、やはり部活動だけでは物足りない。束の間の晴天なら、尚更、有効に使わなければ、今度いつコートに立てるか分からない。
 「よっしゃ、もうひと暴れして行くか!」
 久々のフル稼働で延びてしまった同級生達を尻目に、透は下校後、区営コートに立ち寄った。
 ところが鬱憤の溜まったテニス部員で混雑していると思われたコートはどこも閑散としており、一番奥のコート周辺だけが黒山の人だかりでごった返している。何事かと思って人垣の後ろから覗いてみると、海南中の一年生部員が背の高いオレンジ髪の少年にボールをぶつけられている姿が目に飛び込んできた。
 それは、とてもテニスの試合とは思えない悪質なプレーで、しかも少年の背後には仲間らしき連中が味方に付いている。どうやら海南中は性質の悪い不良グループに捕まったようである。
 すぐさま透は人混みを掻き分けコート内に入ると、オレンジ髪の少年を怒鳴りつけた。
 「お前等、芙蓉の連中か!?」
 地区大会以来、ラフプレーと言えば芙蓉学園との図式が頭にあった。
 「バカ野郎! あんな下衆な連中と一緒にすんな!」
 「だったら、何処の……って、疾斗? お前、こんな所で何やってんだ!?」
 騒ぎに気を取られて相手の顔まで注意して見ていなかったが、海南中の部員にボールをぶつけていたのは、先週、透が河原で出会った唐沢の弟・疾斗であった。
 コートの中をざっと見渡すと、すでに顔面に痛々しい痕をつけられた部員が数名いる。普段の透なら迷わず殴りかかっているところだが、疾斗のただならぬ様子に気付き、かろうじて思い止まった。
 今日の彼は、以前、河原で話した時とは別人だった。何人もの人間を傷付けているというのに、その表情は淡々としており、兄とよく似た切れ長の目は氷で出来たナイフのような冷たい光を放っている。

 「真嶋、だったよな? ここの連中もお前の仲間か?」
 「当然だ。世話になっている人の後輩だから、俺にとっても大事な仲間だ」
 「仲間ねえ。あちこち仲間やらダチがいて、ご苦労なこった」
 「疾斗? お前、弱い者イジメが嫌いなはずだろう? だったら、これはどういう事なんだ?」
 「別に、イジメじゃねえよ。ここの連中、バカみたいに必死こいてやってからさ。遊びでやっている俺とどっちが強いのか、試しただけだ」
 一瞬、瞳の中の冷たい光が歪んで見えた。氷のような印象を受けたのは、単に冷酷な所業の所為ではなく、触れれば崩れてしまいそうな、そんな脆さが含まれていたからかもしれない。
 「必死でやって、何が悪い?」
 「こんなもん、マジでやろうって奴の気が知れねえよ」
 疾斗がまた吐き捨てるような言い方をした。河原で兄の話題に触れた時と同じ反応だ。
 恐らく「マジでやろうって奴」の中には二人の兄も含まれているのだろう。地元では強豪と名高い光陵テニス部で副部長を務める唐沢海斗と、その礎を築いたとされる元部長の唐沢北斗。優秀な兄達の存在が、弟にとって重荷になっているのか。海南中の一年生部員を助けるつもりで飛び込んだ透であったが、加害者であるはずの疾斗の方が重症に思えてならなかった。
 「マジでやろうって奴の気が知れないなら、見せてやろうか? マジでやるってのが、どういう事か?」
 透はわざと挑発的な態度を取って見せた。
 「笑わせるな。お前、まだレギュラーにもなってねえだろ? 兄貴達と着ているジャージが違うぜ?」
 一触即発の気配を察して、海南中の部員が慌てて止めに入った。
 「トオル、止めておけ。お前の学校は都大会を控えているんだ。揉め事はマズイ。
 もうすぐ先輩達が来るから、それまで待って……」
 説得の言葉は確かに透の耳まで届いていたが、意識は別のところにあった。
 「お前の言う通り、俺はまだレギュラーじゃないけど、ラフプレーをするような卑怯な奴には絶対負けない」
 「痛い目に遭いたくなかったら、引っ込んでいろ。こう見えても、俺は子供の頃から兄貴達と一緒に鍛えられてんだ。お前なんか五分で片付けられる。
 この間の礼だと思って今日のところは見逃してやるから、とっとと失せろ」
 「逃げんのか? 『逃げるぐらいなら、負ける方がマシだ』と言ったのは、疾斗だろ?」
 無気力に包まれていた疾斗の表情に戸惑いの色が表れた。実力の差は歴然としているにもかかわらず、何故ここまでしつこく試合を迫るのか。その意図を計りかねているようだ。
 実際、透にも確たる理由はなかった。ただ真剣勝負をする事が、今の疾斗には必要な事のように思えたのだ。
 「疾斗が勝ったら、何でも言う事を聞いてやる。だけど俺が勝ったら、二度と馬鹿な真似はするな。
 俺の仲間の為だけじゃない。お前の為にも止めるんだ」
 「俺の為?」
 「こんな事して、お前自身も痛いんじゃねえか?」
 「うぜえ野郎だ。そんなに言うなら勝負してやるよ。
 但し俺が勝ったら、金輪際、俺に構うな。分かったな?」

 区営コートに出入りする学生達のルールに則り、二人はハーフマッチをする事にした。3ゲームを先取した者が勝者となる短い試合である。
 サーブ前のボールをバウンドさせている間に、透は一つの作戦を組み立てた。疾斗は子供の頃から兄達とプレーをしてきたと話していた。残念ながら長男・北斗のプレーを見た事はないが、次男・海斗のプレーなら記憶にしっかり刻んでいる。勝算と呼べる程の確信はないにせよ、試す価値はあるはずだ。
 透は記憶に留めた映像を思い浮かべると、それに沿ってラケットを振り出した。
 今から打とうとしているサーブは、自身のフラット・サーブとフォーム自体に大差はないが、ボールを捕らえる一瞬で球種を操作するという高度な技術が要求される。
 上空に振り上げたラケットから、短くも鈍い音が響く。フラット・サーブのような快音ではなく、ガットがボールに擦れて軋む音。それがこのサーブの特徴だ。
 独特の打球音を聞いて、疾斗の顔色が変わった。
 曲線を描いてコートに滑り込むボール。その軌道を目で追う二人の選手。だが、同じものを追いかける二人の表情は対照的であった。
 「スライス・サーブ……?」
 コートの外へ逃げていくボールを茫然と見送る疾斗に向かって、透が満足げな笑みを浮かべて言った。
 「少しはマジになったかよ?」

 レギュラーにもなっていない一年生が、なぜ兄と同じスライス・サーブを打てるのか。疾斗は腑に落ちないといった様子で、首を傾げている。
 そんな彼を追い立てるように、透は次のサーブを打ち込んだ。
 「同じサーブが通用するか……いや、違う!」
 スライス・サーブを想定して構えていた疾斗の足元を、今度は快音を響かせたボールが突き抜けていった。
 「お前、本当にレギュラーじゃないのか?」
 驚きを露にする疾斗の表情が、二種類のサーブから受けた衝撃の強さを物語っている。
 透は最初にスライス・サーブで相手の注意を引き付けておいて、次にそれと同じフォームでフラット・サーブを放った。
 同じフォームで違う球種のサーブを打ち分ける。このやり方は、次男・海斗が得意とするトリック・プレーであり、透はそれを真似たに過ぎない。ただ一つ違いがあるとすれば、地区大会ではいくつかのゲームに分けてじっくりと罠を仕掛ける必要があったが、今はその必要がなかった事である。
 兄のフォームが目に焼きついているが故に、疾斗はたった一球で次もスライス・サーブが来ると勘違いをした。経験の浅い一年生が二種のサーブを打ち分けるレベルに到達しているとは思わず、また、そんな考えを巡らせる暇もなかったであろう。ところが同じフォームから放たれた二打目は、フラット・サーブだったのだ。
 「だから言っただろ? お前と違って、俺はマジでテニスやってんだ。卑怯な奴には負けねえよ」
 執拗に“マジ”を連発する透に対し、驚きを露にしていた疾斗も本気で応戦する構えを見せた。
 「お前の実力はだいたい分かった。初心者じゃねえなら、遠慮なく潰させてもらう」

 最も危険な形で相手を本気にさせてしまったかもしれない。
 現役のテニス部員ではないにせよ、疾斗は次男・海斗ばかりか、長男・北斗までも相手にしながら育っている。感情に任せてラケットを振るう芙蓉学園の選手と違い、それなりの技術もあるはずだ。
 今頃になって海南部員の忠告が身に染みた。万が一、疾斗がラフプレーに走れば、ボールを避け切れるか分からない。都大会に影響する程の騒ぎにならずとも、透自身、ケガを負って次のバリュエーションに出場できなくなる可能性もあるだろう。
 それでも、と透は思った。あの冷たい目の奥に潜んでいるものを信じたい。河原で見せた一瞬の笑顔が彼の本来の素顔であると、信じてみたかった。
 胸によぎる不安を打ち消すと、透は相手の右コーナーを狙ってサーブを打ち込んだ。
 疾斗が返球と同時に前方へダッシュするのが見えた。ネット前を陣取って、ボレーで崩す腹だろう。
 しかしリターンからの素早いダッシュを制したのは、またしても透のショットであった。地区大会で学んだもう一つのテクニック、パッシングショットを決めたのだ。
 矢継ぎ早に繰り出される兄のプレーに、疾斗はまたも驚きを隠せない様子であった。そして透本人もその様子を目の当たりにし、自身の成長を自覚した。
 日々の部活動に加え、区営コートでのゲーム練習、滝澤に知恵を借りながら練り上げたトレーニングメニュー。それぞれが螺旋階段の小さな一歩を築き、形を成そうとしている。
 しかも時折、あの明魁学園の京極とも試合をさせてもらっている。未だ連敗記録を更新中だが、試合の勘に磨きをかけるには、充分な役割を果たしていた。

 第1ゲームは透が先取した。一年生で経験も浅かろうと油断する疾斗の意表を突いて、どうにか先制した格好である。
 問題は、ここからだ。いくら透が成長著しい現役テニス部員とは言え、相手は子供の頃から年上の兄達とプレーをしてきた兵だ。またその兄二人は、今や光陵学園の高等部と中等部、それぞれのテニス部を牽引するエース格の選手である。厳しくも恵まれた環境で鍛えられた弟が、そう簡単に点差を許す訳がない。
 加えて、環境なのか、血筋なのかは分からないが、疾斗は抜群のテニスセンスを持っていた。動揺を抱えながらも、押さえるべきポイントはきちんと押さえ、勝負どころを逃さない。
 透の案じた通り、第2ゲームは奮戦空しく、疾斗が自身のサービスゲームをキープする形で物にした。

 ハーフマッチの短い試合では、先に勢いに乗った側が勝利を手にする確率が高い。第2ゲームで気を良くした疾斗が勢いづく前に、こちらから攻撃を仕掛けていかなければ、一度傾いた流れを覆すのは容易ではない。
 「あのサーブ、ここで試してみるか……」
 本当はまだ本番で使用する程こなれてはいないが、今はこの勝負に全力を尽くすしかない。
 透は通常よりも高いトスを上げると、それにタイミングを合わせて飛び上がった。
 ジャンプする際に生まれる体のしなりを力に変えて、空中に舞い上がったボールに叩きつける。高い打点から繰り出されるサーブは、ただでさえスピードのあるフラット・サーブに更なる威力を与える。
 透が攻撃を仕掛ける為に選んだのは、京極のフラット・サーブを返す練習をしている最中に体得したジャンピング・サーブであった。
 「そんな馬鹿な……!」
 眼前を通り過ぎていったボールを目で追いながら、疾斗が溜め息にも似た弱々しいトーンで驚きの声を漏らした。
 兄達との試合ならともかく、年下を相手にノータッチ・エースを立て続けに決められるなど、今まで経験した事がないのだろう。しばらくの間、彼はボールがコートの外で転がる様を呆然と眺めていたが、再び透の方を振り返った時には、まるで人が変わっていた。
 焦りと驚きをその表情に残しながらも、冷たい光を放っていた切れ長の目がいくらか柔和になっている。決して穏やかとは言えないが、彼の瞳の奥に閉じ込めていたものが徐々に解け出しているようだった。

 最初のゲームよりも球威の上がったジャンピング・サーブを仕掛ける事で主導権を握った透は、第3ゲームを物にした。
 続く第4ゲームは疾斗のサービスゲームだが、試合に勝つにはここで勝負を賭けるしかチャンスはない。経験の浅い自分が無闇に試合を長引かせては、相手に反撃のチャンスを与える事になり兼ねない。
 これまでの3ゲームで疾斗のプレースタイルは、ある程度、把握できている。あとは落ち着いて彼の動きを見ながら攻めていけば、必ず勝機は訪れる。
 サーブを放とうとする疾斗のフォームが、ゆっくりとコマ送りのように見えた。過去の記憶から来るものではなく、いま現在の映像が目で追える。京極との練習の成果だろうか。彼のフォームが、狙いをつけたコースまで、瞬時に見極められる。
 透はボールの落下地点に回り込むと、思い通りに飛んできたサーブをストレートで返し、疾斗がクロスで返球すると見るや否や、すかさず進み出て、ネット前からボレーを叩き込んだ。
 相手のサービスゲームで、レシーバーである透が先制ポイントを上げた。つまり、それはこの試合の勝者を予告する決定的な一打でもあった。

 予期せぬゲーム展開に、コートを囲むギャラリーが騒然となった。中には疾斗に向かって野次を飛ばす者まで出始めた。先程まで味方に付いていた不良グループの連中だ。
 「疾斗、もたもたすんな! やっちまえ!」
 「顔面狙え、顔面!」
 口々にラフプレーをそそのかす集団は、今にも殴りかかりそうな勢いだ。
 ラフプレーの標的となるのは自身であるにもかかわらず、透は疾斗に対して警戒心を強める事はしなかった。少し前までは漠然とした勘でしかなかったが、今は確信を持って言える。彼は断じて裏切らない。テニスを、自分を、そして今目の前で行われている真剣勝負を。
 乱暴な口調でまくし立てるギャラリーには目もくれず、疾斗は次のサーブに集中しているようだった。彼にとっても、このゲームを守り切れるかどうかが、勝負の分かれ目となる。コートの中を真っ直ぐに見つめる眼差しは、人を傷つける事よりも、この試合の勝利が欲しいと訴えていた。
 準備を整えた疾斗からトスが上がる。ラケットを振り抜くと同時に、彼は攻撃を仕掛けてきた。
 本来、疾斗が得意とするスタイルはサーブ&ボレーに違いない。サイドを狙ったサーブで相手を外側へ押しやり、その隙を突いてネット前からボレー攻撃へと繋げる早業は、透の脚力をもってしても付いていくのがやっとであった。
 このままではボレーの連打で振り切られてしまう。サーブからのネットプレーでゲームを死守しようとする疾斗と、リターンからのネットプレーで勝負を決めようとする透。いずれも脚力が物を言う勝負だが、仮にその力が対等であるならば、先んじてスタートを切れるサーバーの方が断然有利である。
 1ポイント目の先制攻撃から一転して窮地に追いやられた透は、不利な戦況を立て直すべく、ベースラインから高めのトップスピン・ロブを上げた。
 「しまった!」
 ネット前の疾斗が慌てて後ろに下がろうとしたが、充分に回転を含んだボールは素早く弧を描いて頭上を越えたかと思えば、瞬く間に落下して、激しいバウンドと共にコートから出ていった。
 区営コートで透が最初に村主から教わったのが、このトップスピン・ロブである。あの頃はまだ翻弄される側でしかなかったが、今はネットプレーを封じる一手として自在に繰り出すことが出来るようになっていた。

 大事な勝負どころでカウント「0−30」と追い込まれた疾斗が、何故か笑みを浮かべた。この不利な状況を楽しんでいるかのような、好戦的な笑みである。
 「なあ、残りは小細工なしで勝負して良いか?」
 そう告げるや否や、彼は高い打点からのフラット・サーブを叩き込み、ラケットを両手に持ち替えた。何か攻撃を仕掛けてくるのかと思えば、そんな気配はなく、彼はベースラインに留まりラリーを続けている。
 回転も何もかけない真っ直ぐな打球は、疾斗の気性をそのまま映し出しているかに見えた。弱い者イジメが嫌いで、小細工なしの真っ向勝負を挑んでくる彼は、一体に何に躓いたのか。
 疾斗からのボールを受けて、透もまたフラットで返球した。互いに真剣勝負の決着がつくのを惜しむかのように、あえてコースを狙う事もせず、ただひたすらベースラインでの打ち合いを続けた。
 どれくらい打ち合っていたのだろうか。十分にも二十分にも思えたが、集中していたせいか、一分程度で終了したようにも感じた。
 疾斗のボールが二度ともネットに掛かった。最後の勝敗を決めたのは、現役テニス部員との体力差であった。彼が途中で両手打ちに変えたのも、その差を感じたからこその対抗策だったに違いない。

 試合後、握手を求める疾斗に向かって、透はわざと「俺の勝ちだ」と言い寄った。
 「ああ、分かっている。約束は守る」
 不思議なことに、疾斗は試合に負けたというのに落胆した様子もなく、むしろ晴れやかな笑みを浮かべていた。試合前に抱いた漠然とした勘は、やはり正しかった。この笑顔こそが、彼の素顔に違いない。
 するとそこへ、コート脇に控えていた海南中の伊達が声をかけてきた。
 「途中からしか見てねえけど、なかなかのナイスゲームだったぜ。二人とも、やるじゃねえか」
 「いや、俺は……」
 照れ臭そうにしながらも、疾斗が何かを言いかけた時だった。
 「おい、疾斗! 負けたくせに、仲良く和んでんじゃねえよ!」
 突如として荒々しい怒鳴り声が響き渡り、それを合図にギャラリーにいた不良達が一斉にコートになだれ込んできた。
 「お前等、止めろ! 俺が勝負して負けたんだ。約束は守れ!」
 暴徒と化した連中は疾斗の制止も聞かず、次々と海南中のテニス部員に襲いかかり、止めに入った余所のテニス部員をも巻き込み、区営コートは一時、騒然となった。
 誰が誰か判別の付けにくい状況ではあるが、味方のテニス部員は皆、ジャージを着用しているはずである。少ない手がかりを頼りに、透も助けに行こうとした矢先、脇腹を目がけて突進してきた男がいた。
 イノシシ並みの力強さと死角からの攻撃とあって、さすがの透も数メートルほど吹っ飛ばされてしまった。何が起きたのか分からないまま起き上がってみると、コートの中ほどに鬼のような形相で仁王立ちする荒木の姿があった。透にタックルしてきた男は先輩の荒木であった。
 「荒木先輩、どうしてここに?」
 荒木は後輩の質問に答える気がないのか、暇がないのか、黙々と不良連中の首根っこを捕まえては力ずくでコートの外へ放り出している。その人間離れしたパワーと迫力に圧され、威勢の良かった不良達も一人、また一人と退散し始めた。

 少しずつコート内が静かになってきたところへ、今度は荒木とは別の体格の良い男が現れた。その人物は黙々と不良連中を片付ける荒木に向かって「いつも悪りぃな」と声をかけると、おもむろに疾斗の襟首を掴んで、コートの外へ引きずり出した。
 「ちょっと待ってくれよ、兄貴! 今回は違うんだ。俺はちゃんと試合をして……」
 透は思わず、その人物を凝視した。疾斗が「兄貴」と呼んだという事は、彼は唐沢三兄弟の長男・北斗に違いない。
 光陵テニス部の悪しき慣習を打ち破り、強豪校への礎を築いた元部長。透も何度か噂を耳にしているが、本人に会うのは初めてであった。
 現役の光陵テニス部員達の間で今も語り草となっている名物部長の第一印象は、良くも悪くも図太い男に見えた。華奢な次男とは対照的に、アスリートになる為に生まれてきたような体躯は、身長、骨格、共に申し分なく、本人もそれを自覚して鍛えているのだろう。幅広の肩から胸を中心に、筋肉もしっかりついている。
 察するに、次男・海斗は母親似、長男・北斗は父親似といったところだろう。頭髪も瞳も甘いココアを連想させる次男に対し、北斗はいずれも黒々としており、目付きの鋭さも相まって、全体的に無愛想な印象を与えている。
 必死の抵抗をものともせず、北斗は強引に疾斗を連れ去ろうとしていた。いかに身体能力の優れた疾斗と言えど、三つも年上の兄が相手では体格からして差があり過ぎる。しかも次男と違って長男はよほど短気なのか、懲りずに抵抗を続ける疾斗を蹴り飛ばし、殴りつけては、言うことを聞かせようとしている。
 「ちょっと待てよ。アンタ、疾斗の兄貴なんだろ?」
 折檻としか思えない一方的な暴力を目の前で見せられて、透は黙っていられなくなった。
 「ああ、そうだ。だから、どうした?」
 「兄貴なら、殴る前に弟の言い分ぐらい聞いてやったらどうなんだ?」
 「俺はこいつを回収しに来ただけだ」
 「自分の弟が可愛くねえのかよ!?」
 「好きで兄貴をやっている訳じゃない。こいつを引き取る気がないなら、余計な口出しはするな」
 二人のやり取りを真剣に聞き入る疾斗の隙を突き、北斗がその体をひょいと担ぎ上げた。彼は弟の為を思って透と議論を交わすよりも、“回収”する事のほうに興味があるようだ。
 肩に乗せられた疾斗は手足をばたつかせて抵抗するが、体格差のある兄にはまったく通じない。
 「アンタ、いい加減にしろよ!」
 まるで弟を荷物の如く扱う北斗の言動に、透は怒りを抑えきれなくなっていた。ところが今にも掴みかからんとする透の肩を、伊達が引き寄せ、
 「止めとけ、トオル。無駄だって」と囁いた。
 北斗の言動に怒りを感じているのは、自分だけなのか。同意を得ようとして周りを見渡してみたが、透とまともに視線を合わせる者はいなかった。常日頃から練習を共にする海南中の一年生部員でさえ、伏せ目がちに視線を下げて気まずそうに頷くだけだった。
 何事もなかったようにコートから出て行く北斗の肩の上で、力なく項垂れる疾斗。ぼんやりとした視線を送る切れ長の目には、再び氷のような冷たい光が宿っていた。

 平和な区営コートを襲った乱闘騒ぎは、北斗の出現によって後味の悪さを残しながらも収まった。
 その夜、騒動に巻き込まれた全員の無事を確かめた後で、伊達が世話になった礼だと言って、透をラーメン屋『がんこ』に招待してくれた。
 久しぶりに口にするラーメンの味は格別美味かったし、伊達の好意も嬉しかったが、透は素直に喜ぶことが出来なかった。弟・疾斗を荷物のように扱う北斗の態度が、どうにも気に入らない。あの地球の軸が自分にあると言わんばかりの自己中心的な態度は、あの身内の事情もお構いなしの横暴さは、透の父親・龍之介にそっくりだ。
 「お前がそんなにカリカリする事ないだろう?」
 鼻息荒くラーメンをすする透を見て、伊達が苦笑する。
 「正直言って、幻滅しました。村主さんが尊敬しているって聞いたから、もっと話の分かる器の大きい先輩を想像していたのに、何ッスか? あれは?」
 「気持ちは分かる。俺も、初めて見た時は驚いた」
 「という事は、よくある事なんスか?」
 「ああ、しょっちゅうやってるよ。北斗さんの時もあれば、海斗さんの時もある。
 ほら、区営コートはテニス部の関係者が多いだろ? 騒ぎを起こせば、どっちかに連絡が入るらしくてさ。まあ、海斗さんの時はもう少し紳士的だけど……」
 二杯目のラーメンを待つ間に、伊達が知る範囲で唐沢家の内情を教えてくれた。
 それによると、疾斗の実家は小規模ながら江戸時代から代々続く由緒ある寺院で、そこの住職をしている厳格な父親の下、兄弟三人とも仏教の教えに従い厳しく育てられた。三兄弟のうち、誰一人としてその教育が反映されているようには思えないが、世間的にはそうらしい。
 ところが疾斗が中学受験に失敗した頃から徐々に様子がおかしくなり、仲の良かった兄弟はバラバラになっていった。父は住職、長男は光陵テニス部の礎を築いたとされるカリスマ部長、次男はその跡を継いだ人望厚き副部長。二人の兄は光陵学園に入学できたのに、弟だけは松林中学に――。
 さまざまなプレッシャーが疾斗を苦しめたのだろう。
 しかも長男・北斗は、世間的には偉業を成し遂げた英傑かもしれないが、兄弟間では兄の役割を果たしているとは思えない。あの横暴さを見れば、“カリスマ=わがまま”の認識が正しいとさえ思ってしまう。
 それにもかかわらず、北斗を尊敬し、慕う後輩は大勢いる。先ほど仲裁に入った荒木もその中の一人で、疾斗が騒ぎを起こすたびに借り出されているそうだ。
 疾斗は何処にいても北斗の監視下にいるようなものだ。
 そしてもう一人、彼には厄介な兄・海斗がいる。表向きは人望厚き副部長の皮を被っているが、あの悪魔ぶりは半端ではない。北斗のように表に出さないだけに、余計に性質が悪い。
 尊敬を集めるカリスマ部長は家では横暴で、面倒見の良い副部長はただの悪質なギャンブラーで。そういう人間の裏側を見て育てば、疾斗でなくても物事を斜めから見る癖がつくだろう。

 「それと、もう一つは……」
 ほんの一瞬、伊達は躊躇いを見せたが、すぐに続きを話し始めた。
 「北斗さんと海斗さん、前にトラブルがあったらしい。それもアイツが荒れる原因の一つだと聞いたことがある」
 「兄弟喧嘩ってことですか?」
 「俺も詳しくは知らねえけど、村主さんがよく気にしていた」
 伊達から村主の話をされて、透も思い出した。確か地区大会の時、兄の話をされた海斗が露骨に嫌な顔を見せたことがあった。普段、滅多に感情を表に出さない彼にしては珍しいと思った記憶がある。
 「身内だからこそ譲れない事って、あるだろ?」
 案外、それは多くの人間に当てはまる事なのか。透の家の事情を知らないはずの伊達が、相槌を求めるような口調で言い足した。
 他人なら腹が立たない事でも、親だから、兄弟だから、譲れない。許せない。そういう他人とは違った境界線が、家族に対しては存在する。
 「その譲れないと思う気持ちを捨てろとは言わないけど、俺はそれに振り回されるのは御免だ。自分が損するだけだと思う」
 珍しく真剣な面持ちで話し込む伊達の前に、カウンターから『がんこ』の店主が杏仁豆腐を二人分用意してくれた。
 「つまり、こういう事なんだよ」
 賑やかにフルーツが盛られた杏仁豆腐を指差して、伊達が続ける。
 「俺もお前も、親や兄弟の為だけに生きている訳じゃない。夢中になれるテニスがあって、それを続ける事で、こうして杏仁豆腐をサービスしてくれるオッチャンとか、村主さんとか、色んな人達との絆が出来て、自分なりの世界が広がっていく」
 冷たいデザートを頬張りながら、伊達が満足そうに微笑んだ。
 「俺が言わなくても分かっていると思うけど、トオル? あいつの最初の絆になってやれよ?」
 「了解ッス。だけど、伊達さん? 俺、お願いが一つあるんですけど……」
 満面の笑みで伊達に擦り寄った透は、杏仁豆腐の透明な器に視線を落とした。
 「な、何だよ? 気持ち悪い」
 「これ、いただきます!」
 そう言って伊達の器からサクランボを奪い取ると、透は素早く口に放り込んだ。
 「あっ、それは最後の楽しみに取っておいたのに!」
 「やっぱ、そうッスか? 俺も、この一つしかないサクランボを見ると、無性に食いたくなるんですよね。ごちそうさまでしたッ!」
 無念そうに睨みつける伊達に向かって、透はしてやったりとばかりに白い歯を見せた。
 「やっぱり良いッスね。こういう絆って!」
 「中には、とんでもねえ絆もあるけどな。ああ、俺のサクランボ……」
 絆は一つではない。今はよじれた絆でも、他の仲間と紡ぐ事で、いつか修復できる日が来るかもしれない。
 二人のやり取りを黙って聞いていた店主が、おもむろにカウンター越しに手を伸ばしてきた。料理人の苦労が垣間見える無骨な手。そこには、赤いサクランボがもう一つぶら提げられていた。






 BACK  NEXT