第4話 肉だんご

 日高遥希への宣戦布告を聞きつけて、すでにテニス部に入部手続きを済ませた同じクラスの男子二人、久保田と高木が真嶋の周りを取り囲むようにしてやって来た。
 真嶋透は決して人を引き付ける美少年の類ではないが、揉め事に関しては磁力が働くのかもしれない。身の程知らずの啖呵を切った瞬間に居合わせた塔子と詩織に彼等が加わり、教室の最前列の席にはちょっとした人の輪が出来ていた。
 奈緒も一刻も早くその輪の中に入りたいと思ったが、鈍臭い彼女にとって学園生活の難関の一つ、お弁当がまだ完食しきれず残っていた。しかも今日に限って箸で掴みにくい肉だんごを六つも作って入れてきた為に、口に運ぶまでと飲み下すまでの両方で時間がかり、結局、手と口を動かしながら目と耳は隣席へ向けるという、不器用者には非常に厳しい体勢を強いられている。
 「真嶋君、止めておいた方が良いですよ。今からでも謝れば、なかった事にしてくれるのでは?」
 たった一週間の付き合いだが、奈緒は真嶋を説得している久保田が同種の人間である事を全体の雰囲気から感じ取っていた。
 自分が話題の中心になるような事態は極力避けて通り、友達同士の間でも会話の主導権は相手に譲り、揉め事に巻き込まれそうになったら責任の所在が明確になる前に謝罪する。要するに典型的な小心者、「偉い者には巻かれておけ」のタイプである。
 小心者の彼から見れば、真嶋が発した宣戦布告は暴挙以外の何ものでもないのだろう。
 久保田に次いで、もう一人のテニス部員である高木も冷静な意見を述べていた。
 「確かに、ハルキを敵に回して得する奴はいないと思うよ。父親はテニス部のコーチだし、先輩達も一目置いているからね。
 今月のバリュエーションで、地区大会のレギュラーに入るって噂もあるんだぜ」
 「バ、バリバリ……って何だ?」
 「バリュエーション。大会のレギュラーを決める校内試合のことだよ」
 「つまりランキング戦って事か?」
 「いや、そこがちょっと違うんだよね。うちの部は……」

 出来るだけ噛む音を小さくして耳を澄ます奈緒の隣で、高木が『バリュエーション』なる仕組みを真嶋に説いていた。
 「普通のランキング戦なら、単に試合に勝った選手を上位から選ぶだけだろ? だけど、うちの部のバリュエーションは選手の査定も兼ねているんだよ」
 「つまり、こういう事よ」
 テニス部マネージャーの塔子が、続きを引き継いだ。
 「まず通常の団体戦に出られるのは、ダブルス四人、シングルス三人の合計七名。でも、うちのレギュラー枠は十名。三人分、多いでしょ?
 これは、対戦校の傾向に合わせて、その都度レギュラー十名の中から出場選手を選考するからなのよ」
 塔子の話によると、光陵テニス部は大会に出場するメンバーを決めるまでに二段階の行程を設けているという。
 まず午前の試合で現レギュラー十名が二ブロックに分かれてリーグ戦を行い、勝ち数の多さで一位から十位まで順位を決める。この時点で、上位八名のレギュラー入りが確定する。
 同時進行で、レギュラー以外の部員の中からトーナメント方式で上位二名を選出する。但し、体力測定で基準値に達していない者は、そのトーナメントにも参加できない。
 そして現レギュラーの最下位二名とレギュラー以外の上位ニ名が残り二名の枠を賭けて、再びトーナメントを行う。これが第一段階のレギュラー決定戦である。万が一ここで負けて下位二名になれば、今までレギュラーだった人間も即刻レギュラーから外され、戦力外のノン・レギュラーに降格する。
 こうして新たにベストメンバー十名を選んだ後に、第二段階として午後に新規のレギュラー同士で試合をさせて、最終的に大会出場メンバー七名を選考するのがバリュエーションの仕組みであった。
 「つまり午後の試合で負けたとしても、内容によっては大会に出させてもらえるかもしれないのです」
 小心者の久保田が嬉しそうに付け加えると、
 「そんな訳ないでしょ? 基本は勝利よ、勝利!」と、塔子がキッパリと否定した。
 「このバリュエーションは日高コーチが二年前に導入して、着実に成果を上げているわ。
 効率よく勝つっていうのかしら。出場校の特徴を加味して対戦表を組んで、日高コーチと顧問の恩田先生、それから部長、副部長で査定して決めているみたい」
 塔子はさらにテニス部が置かれている現状についても、事細かに説明していった。
 現在光陵テニス部は、顧問の他に遥希の父親である日高コーチを外部から招き入れ、中高それぞれの部員を同じ指導者の下で育てる方法を取っている。これは六年間、部活動に専念できる中高一貫ならではの強みであるが、この体制と充分な設備が整ったのが五年ほど前のことで、歴史は浅い。従って、現状は地区大会で団体優勝できる所までの力をつけたとは言え、都大会では私立の強豪校の隙間を縫ってベスト8入りするのが精一杯との事だった。
 『バリュエーション』は、設備はあるが歴史の浅いテニス部を根本からてこ入れする為の秘策でもあったらしい。

 弁当箱に張り付く肉だんごと格闘しながら、奈緒は耳をそばだてて聞いていた。
 「要するに、初心者の真嶋がレギュラー目前のハルキを倒すまでには、山のような試練がある訳で……って真嶋、聞いてる!?」
 高木の素っ頓狂な声につられて目をやると、当の真嶋は長い説明に飽きたのか、机の上に購買部で買ってきたと思われる惣菜系のパンを並べて食べていた。この話が始まる前は弁当を広げていたはずだ。いつの間に買ってきたのだろう。自分の弁当さえも満足に食べ切れない奈緒は、隣席の彼の早業を心底羨ましく思った。
 「要は、あれだろ?」
 やきそばパンとカレーパンを両手にした真嶋が、「勝ちゃ良いんだろ?」と言って、にっと笑った。
 「はあ? テニス知識ゼロのど素人のアンタに、真面目に説明した私がバカだったわ」
 今までの説明が全く無駄だと悟った塔子が、呆れ顔のままテニス部の入部案内を手渡した。
 「良いこと、真嶋? アンタはまず、テニスに必要な用具を揃える事から始めなさい」
 ところが真嶋は渡された入部案内をパラパラとめくり、
 「ラケット、ある。バッグ、ある。テニスシューズ、いらねえ」と早々に結論付けて放り出すと、空いた手でタマゴサンドを掴んで口に突っ込んだ。
 「アンタね! そんなボロボロのラケットで練習できる訳がないでしょ!?
 テニスバッグだって麻袋なんかで部活に来られたら、光陵テニス部全員の恥になるの」
 「俺、金ねえし」
 「誰もアンタに出せなんて、言ってないって。ご両親に出してもらえば良いじゃない。ご両親、ちゃんといるんでしょ?」
 「親はいる」
 「だったら……」
 「けど、うちの親は学費以外、絶対出さない主義なんだ。
 『てめえが好きで始めるんだから、てめえで何とかしろ』って、言うに決まっている」
 さすがは真嶋透の親である。この頃になると、奈緒も真嶋家の実態を薄っすらと掴みかけていた。何しろ息子がテニスは外国人がやるもので、ラケットは武器だと思い込んでいるにもかかわらず、訂正してやることなく放置していた親なのだ。息子がどの部へ入部しようと、関心を示すとは思えない。
 「だけどさ、せめてテニスシューズぐらいは買わないと。
 うちの中等部のコートはクレーで滑りやすいから、シューズは必需品だよ? 運動靴だと、絶対ケガするって」
 「んじゃ、裸足じゃ駄目か?」
 「アンタ、バカじゃないの? 相撲部じゃないんだから、コートにだって入れてもらえないわよ!」
 「しゃあねえなぁ。じゃあ、やっぱバイトすっか」
 「出来る訳ないでしょ、中学生で」
 「げっ、マジ? 東京じゃ、中学生はバイト禁止なのか?」
 奈緒と同様、多少のことでは動じなくなっていた塔子だが、本気で驚く真嶋を見て、彼女のほうも目を丸くして驚いていた。
 「マジって、真嶋? 岐阜ではアルバイトやってたの?
 アンタ、小学生だったでしょ?」
 「ああ、結構やらせてもらえたぜ。農園でジャガイモ掘ったり、牧場で牛の世話したり」
 「ああ、もう! 分かったわ。ほんと、アンタと話していると調子狂うわ。
 とにかくシューズを揃えなきゃ、テニス部の入部は認めないからね! 用意しておきなさいよ!」
 付き合いきれないと言わんばかりに、塔子は切り上げ口調で言い置くと、やって来た時と同じスピードで自身の席へ戻っていった。

 あともう少しで肉だんごを制圧できると思った矢先に、隣の席の会話が終わってしまった。己の要領の悪さを恨みながらも奈緒が顔を上げると、すぐ隣に真嶋が沈んだ表情で立っていた。しかも、物怖じしない彼にしては珍しく口ごもっている。
 やはりショックだったのだろうか。
 テニス部は体一つで入部できる部活動ではない。いくらやる気があったとしても、最低限、テニスラケットとテニスシューズぐらいは揃えなくてはならない。
 何とかしてやりたいのは山々だが、奈緒がジュニアの頃に使用していたシューズでは小さ過ぎるし、アルバイトの斡旋も不可能だ。
 どうしたものかと思案していると、彼がおもむろに重い口を開いて、ぼそぼそと話をし始めた。
 「あのさ、奈緒……じゃなかった、えっと、その、苗字何だっけ?」
 「えっ、西村?」
 「あ、そうそう、西村。あのさ、俺、お前に迷惑かけてたみたいで、ごめん」
 ドリップしたての琥珀色の滴が、再び胸の中に落ちてきた気がした。それはきらきらとした光を落とすと同時に、幾重もの波紋を作り、広がっていく。
 「今朝、困った顔してたから気になって話しかけたんだけど、俺が名前を呼び捨てにしていたから困っていたんだよな。ほんと、ごめん」
 「もう良いよ。気にしないで」
 本当はひどく困惑したが、完全に視線が下向きになっている真嶋にこれ以上追い討ちをかける気にもなれず、奈緒は通り一遍の答えを返した。
 大して感情をこめた訳でもない、儀礼的な一言に、彼は深く頷き、
 「何か、ずれてるよなあ」と言って、力なく微笑んだ。
 「こういうの、浮いてるって言うのかな。
 宮腰の事もさ、学級委員ってヤツを見るのが初めてで。うちの小学校、人数少なかったから、そんなのいなくてさ。
 つい感動して、『すっげえ』って叫んじまって。あいつ、まだ怒っているみたいだし」
 ごく平均的な学園生活を送る奈緒にとって学級委員がそれほど珍しい生き物とは思えないが、授業を二学年一緒に受けるような少数学級で過ごしてきた彼にとっては、感動に値する存在だったに違いない。
 「俺、この学校にいたら、また知らないうちに色んな奴に迷惑かけちまうんだろうな」

 真嶋はテニスシューズを買えと言われて落ち込んでいたのではなかった。自身の事ではなく、自ら発した言動が騒動に発展してしまった事に対して、そこへ巻き込んでしまった人達に対して、罪悪感を抱いているのである。
 確かに、奈緒も最初は戸惑った。だが、よくよく彼の育った環境を考えると、それは無理からぬことであり、悪意があった訳でもない。山奥の小さな小学校から生まれて初めて都会の中学にやって来て、担任の大塚や級友達以上に戸惑ったに違いない。
 奈緒は、この時初めて真嶋を直視した。目の前の少年が、まるで母親に叱られてしょげている子供のように見えた。
 ふと、二歳年下の弟を思い出す。普段は悪戯ばかりして手が付けられないが、奈緒が困った時には、彼なりの方法で助けようとしてくれる。そして、その方法があまりにも無鉄砲で、母親に叱られては、こうして奈緒のところへ来て、しょんぼり項垂れているのである。
 「あのね、トオル?」
 特に深く考えた訳ではないが、弟のことを思い出していた所為か、自然と彼を名前で呼んでいた。
 「知ろうとすれば、いつかきっと分かり合えるから」
 「えっ……?」
 「皆、トオルのことを知らないから、最初はびっくりしたり困ったりするけど、お互い知ろうとすれば、必ず分かり合える時がくるよ」
 それは、奈緒が今まで口に出来なかった想いでもあった。
 知ろうとすれば分かり合える。母親に、教師に、他の友達に、自分のことを分かって欲しかった。運動音痴で、要領も悪くて、積極的には出来ないけれど、そういう自分を受け止めて欲しかった。
 「西村? 今、トオルって……」
 「うん、そうだよ。トオルのこと分かったから。
 トオルも、私のこと、奈緒って呼んで良いよ」
 真嶋はしばらく不思議そうな顔で奈緒を見つめていた。
 自分でも不思議だった。素直な気持ちを口に出来た自分。あんなに恥ずかしかったのに、真嶋を透と名前で呼んでいる自分。
 それはきっと、彼の瞳の所為だと思った。混じり気のない澄んだ琥珀色。名前のごとく透明度の高い、光に透けた滴色。この瞳が、奈緒に心の扉を開かせる。

 透が満面の笑みをこちらに向けた。
 「なあ、奈緒? この肉だんご、食って良いか?
 さっきから美味そうだなと思ってたんだけど、言い出せなくてさ」
 「もしかして項垂れていたのって、私の肉だんごを狙ってたの?」
 「ああ……うん。駄目か?」
 ほんの少し申し訳なさそうな顔をして、たっぷりと懇願の意をこめて、透が奈緒の顔色をうかがっている。
 落ち込んで見えたのは、奈緒の勘違いだった。それなのに、何故か腹立たしい気持ちが湧いてこない。
 人から注目されることが恥ずかしくて、出来れば避けて通りたいと思っていたのに、今は見つめられる事も嫌ではない。照れ臭さは感じるが、もう少しこのままでも良いかと思う。
 この心境の変化は何だろう。
 「しょうがないなぁ」
 彼の屈託のない笑みにつられ、普段、弟にするように「特別だよ」と言いながら弁当箱を差し出した。自ら放った無意識の言葉に、胸の波紋がまた広がった。

 「うまっ! うまっ! すっげえ、うめえ!
 奈緒、すっげえな。お前、これ自分で作ったのか?」
 あんなに苦しめられた肉だんごが、彼の手にかかれば一瞬で消えてしまった。
 「お前、器用なんだな」
 胸の波紋が収まりきらぬうちに、透が尊敬の眼差しをこちらに向けた。
 生まれて初めて器用だと言われ、動揺したのだろう。奈緒は思わず大声で否定した。
 「そんな事ない!」
 不意に訪れた息苦しさに、戸惑った訳ではない。断じて、違う。
 「私、昔から運動音痴で、鈍臭いって言われているし。
 友達とかもすぐに作れなくって、家族中から心配されているんだよ。要領の悪い証拠だよ」
 「けど、もう作ってんじゃん。新しい友達」
 「え?」
 透が自身の事を指差して、にっと笑った。いかにも彼らしい、やんちゃ臭い笑みだった。
 胸の波紋は収まるどころか、さらに勢いを増して舞い上がり、波打ち、傾き、揺れていく。
 「お前、すっげえ奴なのに、もしかして自覚ねえのか?」
 「だって、私なんか……」
 「肉だんご、美味かった」
 「あれは、昨日のハンバーグのタネをもらって、それで……」
 「でも、美味かった。それで良いじゃねえか。なっ!」
 琥珀色の澄んだ瞳が、奈緒に笑いかけている。
 ただそれだけの事で、どうしてこんなに胸が騒ぐのか。嬉しいと思うのか。
 嬉しいのに、息苦しい。この気持ちは何なのか。
 馴染みのない感情に戸惑いながらも、奈緒は最近では弟にも滅多に見せない笑みを彼に返した。
 「じゃあ今度は多めに作ってくるね、肉だんご!」






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