第9話 村主という男

 光陵学園に転入してから三日が経ち、透にも登下校を共にする仲間が出来ていた。同じテニス部の久保田と高木である。
 今年は地区大会のみならず都大会での団体優勝をも視野に入れて活動している光陵テニス部は、この時期、始業前の朝練はもとより、放課後においても他のどの部よりも長く練習を行っている。それ故、同じ部の同じ学年同士で行動する機会が多くなり、必然的に同じクラスでもある彼等とつるむようになったのだ。
 部活動からの帰り道、高木が周りに自分達しかいない事を確認してから、たまりに溜まった不満を透に訴えた。
 「毎日、毎日、筋トレと球拾いばかりじゃ、いい加減、飽きるよな? ボールを打ってこそのテニス部だろ?」
 運動部である以上、体育会系のしきたりも覚悟して入部したとは言え、新入部員の下積み生活に高木は早くも音を上げた様子であった。
 確かにテニス部に入部してから、透達一年生がボールを打たせてもらった事はない。基礎体力をつける為のトレーニングと素振り、球拾いやコート整備などの雑用が新入部員に課せられた主なメニューである。
 透はまだ三日しか経験していないが、高木や久保田はそんな地味な下積み生活を十日近くも続けているのだから、そろそろ不満が出てきてもおかしくはない。
 「あのさ、この先に区営コートがあるんだけど、行ってみないか?」
 高木が秘密基地にでも案内するような得意げな口調で、区営コートの話題を持ちかけた。彼の話によると、そこは区が運営する総合スポーツ施設で、基本的には月に一度行われる抽選に当選した成人住居者のみに利用が認められているのだが、平日の夕方から夜にかけての時間帯だけは学生達に無料で解放されており、先着順で誰でもコートが使えるとの事だった。
 小心者の久保田が
 「でも、あそこはゲーム慣れした人じゃないと、僕達みたいな初心者が行っても邪魔になるだけですよ」
 と言って難色を示したが、透はボールを打てる機会とあって、大いに興味を持って聞いていた。
 ライバルの遥希は部活動の他にも、毎日自宅で練習を重ねている。その彼を倒すには、自分も練習場所を見つけなくてはならない。しかもバリュエーションは来週末に迫っている。せめて試合が成り立つ程度には打てるようにしておきたい。
 「よし、行こう!」
 かけ声と同時に駆け出した透の後ろに高木が続き、最後に久保田が慌てて追いかけた。

 区営コートは学校から走って十分程度の意外に近い場所にあった。テニスコートの他にも体育館や野球場なども併設されている上に、各施設の周りには芝生や草木もふんだんに植えられている事から、総合スポーツ施設というより運動公園といった観がある。
 高木からテニスコートは先着順で利用できると聞いていたが、この時期、考える事は皆同じと見えて、すでに四面のコートには順番待ちの行列が出来ていた。恐らく各校の球拾いに飽き飽きしている新入部員達が、同じ目的で集まっているのだろう。
 「この行列を待っていたら、夜中になるのでは?」
 「大丈夫。ハーフマッチの勝ち残り方式だから、すぐに順番が回ってくるさ」
 小心者の久保田の否定的な発言を、高木が耳慣れない単語で諭している。テニスの経験だけでなく知識も浅い透が二人の間で交わされる会話についていけずに首を傾げていると、高木がコートの中を指差しながら説明してくれた。
 この時間帯に集まる学生達の間では暗黙のルールがあるらしく、彼等はまずコートを使いたい者同士で3ゲームの試合を行い、勝った方が次の挑戦者が来るまで利用できるという勝ち残り方式を採用している。この地区の中高生が参加する大会では1セットマッチ・6ゲームが通例である為に、その半分の3ゲームをハーフマッチと呼ぶそうだ。但し勝ち残った方は次の試合に敗れるまでコートを利用できる権利をもらえるが、負けた方は翌日までチャレンジできない。まさに早い者勝ちであり、強い者勝ちのルールでもあった。
 高木の説明を聞きながら辺りを見回すと、一番端に挑戦者が一人も並んでいないコートが目に入った。
 「あっちの端のコート、誰も並んでねえじゃん」
 これはラッキーだと思って透が駆け寄ると、そこでは十人程の同じユニフォームを着た生徒が順番でラリーを続けていた。
 一瞬で透はその場に釘付けになった。中でも透の目を引いたのは、大人と見紛う程に大柄な男のプレーであった。光陵テニス部で手本にしろと言われた滝澤とは異なり、恵まれた体格を活かしたフォームは流れるというよりも自ら波を起こすといった荒々しい動きで、そこから放たれるボールも勢いに乗った力強い打球であった。
 手本とは違うが、初心者にも強さの分かる豪快なプレーをする男。しかも彼は、懐かしいあの『熊のおっさん』によく似ていた。あの人物は一体、何者なのだろうか。
 
 透が好奇心全開でプレーを見ていると、その大柄の男が声をかけてきた。
 「チャレンジャーか?」
 「チャレンジャー?」
 「試合をするのかと聞いている」
 「そのつもりだったけど、おっさんのプレー、もう少し見てて良いか?」
 そう言った途端、後から追ってきた高木が慌てて両手で透の口を塞ぎ、頭を下げた。
 「すみません、村主さん! こいつ、三日前にこっちに越してきたばかりなんで!」
 「このおっさん、すぐりって言うのか?」
 「良いから、お前は黙ってろ!」
 高木の慌て方からして、ただ事ではないと察した透は言われた通りに口を閉じ、視線だけを村主と呼ばれた男に置いていた。するとそこへ、遅れて駆けつけた久保田が男の目を盗むようにして、事の次第を教えてくれた。
 村主は海南中学という公立中学のテニス部部長で、地元ではちょっとした有名人との話であった。その第一の理由は、海南中学は学校側が野球部とサッカー部に力を入れている為にテニス部は男女合わせて一面しかコートを与えてもらえず、女子が使用する日はここで部活動を行う以外、練習場所も確保できない状況にあるという。しかも顧問は他の部と掛け持ちのやる気のない教師で、そのお粗末な環境に嫌気が差して部員が次々と辞めていき、現在残っているのは部長の村主と副部長の他は、一、二年生ばかりであった。故に、本来村主は誰もが一目置く程の実力がありながら、過去の地区大会の団体戦において存分に力を発揮する機会にも恵まれず、こうして区営コートで練習する姿から、華やかな舞台とは縁遠い“不遇の選手”としてその名を広めているらしい。
 どうりで誰も並ばないはずである。彼等は部活動を終えて来ている他のテニス部員達と違って、満足な設備がない為に部活動そのものを区営コートで行っているのである。
 「おっさん、すげえな」
 久保田からの説明を聞いた後で、透は素直な気持ちでそう言った。男女合わせて十二面の設備の整った光陵テニス部とはまた違う強さ、いや、逞しさのようなものが海南部員からは感じられる。
 それを聞いた村主がしばらく無言で透を見据えていたが、剥き出しのまま持っていた木製のラケットに気付くと、
 「そういうお前はどうなんだ? 上手いのか?」と、挑発的な笑みを浮かべて聞いてきた。
 「いいや、俺はまだ下手だ。これから上手くなるところなんだ。だからここへ来た」
 「面白い奴だ。どうだ、試合をしてみるか?」
 「良いのか? 練習しているんだろ?」
 「ここは区営コートだ。挑戦者が来ないから練習していただけで、来たからには受けて立つ。
 坊主、誰と試合がしたい?」
 「おっさんと試合がしたい。だけど、俺は坊主じゃない。真嶋透だ」
 「分かった。それなら俺も名乗っておくか。俺は海南中学テニス部部長、村主昭光(すぐりあきみつ)だ」

 大変な事になったと、久保田は思った。
 海南テニス部員が練習しているコートに挑戦する学生がいないのは、恵まれない境遇の部員達に配慮しているからではない。たとえ並んだとしても、豪腕・村主が一瞬のうちに蹴散らしてしまうので、一日に一度しかない挑戦権を無駄にしてしまうのは勿体ないとの考えからである。
 そんな彼とついこの間までテニスは外国人がやるものだと思っていた素人が試合をしたら、どうなるか。赤子の手を捻られて終わるだけならまだ良いが――。
 怖いもの知らずの一年生の挑戦に、練習をしていた海南中の部員達が驚いた様子で成り行きを見守っている。せめてギャラリーが少なければ「すみませんでした」と謝って逃げ出す事も可能だろうが、部員達にしっかり見張られていては、それも叶わない。
 恐らく村主は均整の取れた透の肉体と使い込まれたラケットを見て、テニス歴の長い選手であると判断したに違いない。だがしかし、当の本人は今日初めてテニスにマニュアル本なるものがあると知った素人だ。試合のルールも頭に入っているか、定かではない。
 副部長の唐沢の指示で、久保田が透にルールブックを渡したのは今朝のことである。その後、授業中はもちろん、休み時間もそれらを読んでいた形跡はない。
 「真嶋君? 試合のルールは分かっているのですか?」
 念の為、コートに入る直前に確認してみると、彼から返ってきた答えはこうだった。
 「任せとけって! お前が貸してくれたマニュアル本に分かりやすく書いてあったぜ。要は、卓球と変わんねえんだろ?」
 「卓球……?」
 久保田の記憶では、そのような記述のある本を彼に渡した覚えはない。卓球がどこで出てきたのか、急いで頭をフル回転させみるが、思い当たる節はない。
 久保田の胸に、更なる不安が募る。
 もしも透がルールを知らない状態で村主に試合を挑んでいるとしたら、これほど失礼なことはない。仮にも相手は海南テニス部の部長で、先輩達も一目置くほどの兵だ。しかも、わざわざ練習を中断させて試合を申し込んだにもかかわらず、ルールも知らないとなれば、彼等の怒りを買うのは目に見えている。

 久保田の心配をよそに、透は意気揚々とサーブの構えを取っている。ここでは挑戦者が最初にサーブ権をもらえる決まりで、2ゲームの差をつけて3ゲーム先取したほうが勝者となる。彼はラケットを武器に野山を駆け回っていたと聞いたが、その実力はいか程のものなのか。
 透が高くトスを上げたと同時に均整の取れた体がバネのようにしなり、木製の古びたラケットからは当たりの良い場合のみに聞こえる快音と共に凄まじいスピードの打球が飛び出した。
 一瞬、久保田は我が目を疑った。本当に彼は初心者なのか。
 透が放ったサーブは、いわゆるフラット・サーブと呼ばれるものだった。最も効率よくボールに威力を与えるには、スピンやスライスなどの回転系を使わずに、ラケットのスィングスピードを直接打球に伝えられるフラット・サーブが適している。彼はテニスとしてサーブを教わっていなくとも、山での生活から体験的にそれを学んでいたに違いない。
 しなやかなフォームから放たれたボールは、全身から送り込まれた力を保持して村主の立つコート右側のサイドラインを直撃した。
 「フォルト!」
 村主の口から判定が下された。
 ここではセルフジャッジ、つまりプレイヤーが自ら審判をしながら試合を進める決まりである。
 「フォルト?」
 「ああ、なかなかの剛速球だったが、完全にラインから逸れている」
 村主の言う通り、確かに透の打球はサーブが収まるべきサービスラインから大きく逸れていた。ところが透はその判定に納得がいかないらしく、
 「そんな訳ないだろ? ちゃんとラインの中に入っていたじゃんか!」と、文句を言っている。
 本来、最初のサーブはコートの内枠であるサービスエリアに入れなければならない。今のサーブはラインの中と言っても、コートの外枠のサイドラインである。
 再び、久保田は嫌な予感に捕らわれた。

 もしかして、先ほど透が口走っていた卓球というのは、マニュアル本の最初のページに書かれていた「はじめてテニスをするあなたへ」の箇所ではないだろうか。そこには序章として「テニスは卓球と同じくラケットを使って行う球技です」との記載があった。
 彼はその序章の部分だけを読んでテニスは卓球と同じルールだと思い込み、肝心のルール説明が載っている本文を読んでいないのではないだろうか。その証拠に、第一章には「サービスの基本」が明記されているのに、彼はサーブの判定基準さえ分かっていない。
 テニスコートは卓球台と違って外枠と内枠があり、内側をサービスエリアと呼び、サーブはそのエリアの中に入れなければアウト、つまり「フォルト」になる。しかしながら、卓球と同じルールだと思い込んでいる透は外枠にボールが入っているので、サーブは有効だと主張しているのではないだろうか。そしてまた、彼が「フォルト」と聞き返したのもジャッジに不服があったのではなく、「フォルト」の単語自体を知らないからだろう。
 これでは両者の意見が食い違うのも無理はない。
 自他共に小心者だと認める久保田は、大きな決断を迫られていた。
 本来なら、試合中の選手にルールを確認するなど許される行為ではない。そもそもルールを知らずして試合をする事などあり得ないのだから、当然だ。だが、今朝の唐沢の言葉が小心者の背中を押していた。
 「久保田君、君の力で初心者の真嶋を支えてやってくれないか?」
 久保田は大きく息を吸い込むと、意を決して試合中のコートに近づいていった。
 「ゲーム中に大変申し訳ないのですが、少しだけお時間をいただけないでしょうか?」
 久保田は丁重に村主に断りを入れると、透をコート脇まで連れ出し、状況を整理し始めた。
 「真嶋君、君はサーブを何処に入れるか、分かっていないでしょう?」
 「あの枠の中に入れりゃ良いんだろう? 違うのか?」
 「違います。枠は枠でも、内側の枠。サービスエリアと言いますが、サーブだけはその中に入れなくてはなりません」
 出来るだけ久保田は初心者にも分かり易い言葉で、短く丁寧に説明するよう心がけた。
 案の定、透はサービスエリアの存在を意識していなかったらしく
 「内側の枠? へえ、そうか。あれ、飾りじゃねえんだな?」と言って頷くと、今度は「よっしゃ、分かった。内側の枠だな」と呟きながら、得意げな顔でコートへ戻っていった。
 「あ、ちょっと待って。まだ説明が……」
 慌てて引き止めようとしたが間に合わず、透はすでに二度目のサーブの構えに入っている。
 いくらサーブがまともに入ったとしても、それだけで試合を進められるほどテニスは甘くない。本当はこれを機に試合を止めさせようと思ったが、説得はおろか、話もまともに聞いてもらえなかった。

 透の視線がサービスエリアを向いている。次は内側の枠内を意識して、サーブを入れるつもりでいるらしい。
 緊張の心持で久保田が見守る中、初球と同じ高いトスが上がった。膝から背筋を伝って、肩、腕、手首へと波動のごとく滑らかに力が送り込まれる様は、プロのフォームを見ているようであった。
 全身の力が集約されたフラット・サーブが再び村主の立つコートを目がけて打ち込まれ、先程の説明通りにきちんと内枠に収まった。だがしかし――。
 「フォルト!」
 村主が困ったような笑みを浮かべている。
 「何だよ、それ? ちゃんと内側に入ったじゃねえか!?」
 「フットフォルトだ。ベースライン、踏んでいたぞ」
 今度も村主の判定は正しかった。サーブを打つ際にラインを踏んだり、コート内に入る行為はフォルトと同じ扱いになる。透はラケットがボールを捕らえる瞬間に、勢いあまってベースラインを踏んだのだ。恐らくは、サーブの際にラインを踏んではいけないというルールがある事すら認識がないと思われるが。
 「ベースライン? フットフォルト? なあ、頼むから日本語使って喋ってくれよ」
 まだ状況を把握し切れていないのだろう。透は自身のサーブがまたしても無効になった事に納得がいかない様子であった。

 不満顔の透と同様に、村主もまた怪訝な顔を向けていた。
 「お前、まさかとは思うが、初心者なのか?」
 「ああ、だから言ったじゃねえか。これから上手くなるって」
 口先を尖らせて反論する透を遮り、久保田はここぞとばかりに訴えた。
 「彼はテニスを始めて、今日で三日目なんです!」
 コート内に重たい沈黙が流れた。不穏な空気と言っても良い。
 海南テニス部員にとって、ここでの活動はオン・コートでの貴重な練習時間に違いない。それをわざわざ中断させた上に、大胆にも部内一の実力者であろう部長に試合を申し込んできた。その相手が、テニスを始めて三日の初心者だと知れたのだ。たとえ村主が許してくれたとしても、後ろに控えている部員達が黙ってはいないだろう。
 「因みに、彼はテレビの電波も届かない山奥に住んでいたものですから、四日前までテニスは外国人のやるスポーツだと思っていて……」
 言い訳がましいと思いながらも、久保田は温情に訴える作戦に打って出た。ここは田舎者である事と、素人の愚かさを盾に同情を引いて、許しを請うしか生き延びる道はない。
 決して嘘を言っている訳ではなかったが、村主を始めとする海南中の部員達は皆、信じられないといった形相で聞いている。確かに性質の悪い冗談と思われても仕方のない話である。
 これが試合前なら信じてくれたかもしれないが、彼等は透の放ったフラット・サーブを目の当たりにしているのである。初心者にありがちな手打ちのサーブではなく、全身の筋力を巧みに使った公式戦でも通用しそうな剛速球を。しかも二打目はフットフォルトを取られたものの、サービスエリアを正確に捕らえていた。初心者だと言われて、信じる者などいないだろう。
 「お前等、うちの部長をなめてんじゃねえぞ。あんだけのサーブを打っておいて、初心者な訳ねえだろう!?」
 海南テニス部の中でも特に血の気が多いと言われている二年生の伊達が、苛立ちを露に突っかかってきた。
 「悪いが、俺は部長と違って気が短いんだ。これ以上、村主さんを侮辱するのなら、俺が相手をしてやっても良いんだぜ」
 伊達はそう言いながら、腕まくりをして見せた。その今にも噛み付かんばかりの剣幕からして、温情で許してくれる気はなさそうだ。
 出来るだけ穏便に済ませたいと思っているのに、事態はますます険悪な方向へと進み、一触即発の様相を呈している。さらに伊達の挑発を受けて、透が
 「侮辱したつもりはねえけど、そっちがその気なら話つけてやっても良いぜ」
 と言って、売り言葉をやる気満々で買う素振りを見せたので、ますます悪化の一途を辿っている。
 こうなってしまっては乱闘も避けられないと思った矢先、高木が潔く頭を下げた。
 「すみません! 俺達、本当に初心者なんです。ボールもまだ打たせてもらってなくて、球拾いばかりでつまんなくて、それで……」
 お調子者の高木は空気を読むのが上手い。彼も不穏な空気を察知して、久保田の温情作戦を支持してくれたに違いない。あくまでも初心者である事と悪気がなかった事を前面に打ち出して、謝罪を繰り返すしか自分達が無傷で出られる道はないと悟ったのだ。
 ところが高木が頭を下げた途端、村主の顔色が変わり、コート内に野太い怒声が響き渡った。
 「バカ野郎! 球拾いを馬鹿にするんじゃない!」
 大柄な村主が怒鳴り声を上げると、まさに空から雷が落ちてきたようだった。高木と久保田はもちろん、けんか腰で構えていた透と伊達も、一瞬、体をびくつかせる程の勢いだ。

 最悪の事態が起きている。海南テニス部員を敵に回した挙句、部長の村主まで怒らせてしまった。正直、久保田はなぜ村主が怒鳴ったのか、詳しい理由は分からなかったが、一つだけ、自分達が助かる為にはトラブルメーカーの透を連れて一刻も早くここを立ち去るしかない。それだけは分かっていた。
 「なんでだよ?」
 後はもう平謝りに謝って撤退するほか選択肢はないというのに、ただ一人、透だけは逃げる素振りも見せず、村主に正面切って疑問をぶつけている。
 「なんで球拾いを『つまんない』って言ったら、いけねえんだよ? 人の打ったボールを拾わされて、面白い訳ねえじゃんか?」
 「坊主。お前は人に物を尋ねる時の姿勢から直さなきゃならんようだな」
 「どういう意味だ?」
 「まず、第一に目上の人間に対する物の言い方がなっていない。
 第二に、お前はテニスのルールも知らずに試合をしようとして、俺達の貴重な練習時間を無駄にした。
 第三に、俺達はお前にテニスを教える為にここにいる訳じゃない。俺から教えを請うには、自分がどうすべきか、よく考えろ」
 先ほど高木を怒鳴りつけた時とは打って変わって、村主はいたって冷静に、諭すような口調で説いていた。彼の言っている事はどれも正しく、反論の余地はない。
 村主の言葉を黙って聞いていた透がおもむろに「俺、出直してきます!」と叫びながら、コートを飛び出した。
 この機を逃さず、久保田と高木も後を追って出ていった。最悪の状況から脱出するには、今をおいて他にはない。
 海南中専用とされる一番端のコートから残り三面分の距離を走り抜け、区営コートの出口のところまで一目散に逃げてきた。ここまで来れば、ひとまず安心だ。安堵が広がる一方で、久保田は別の心配に襲われた。
 「あれ、真嶋君は?」
 慌てて辺りを探してみたが、真っ先に逃げ出したはずの透の姿は何処にも見えなかった。






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