第18話 不機嫌なクリスマス
ジャンが周遊の旅に出てから十日が過ぎた。
あれ以来 ――恐ろしく相性の悪いモニカというリーダー代理が来てから―― 透は一度もストリートコートへ顔を出さずに自宅で過ごしていた。
理由は色々ある。
やる気のない彼女の服装を見るだけでムカつくとか。言葉を交わせば、さらにムカつきが倍増するとか。家にいる時でさえ、他の留学生の赤い口紅に反応して不愉快になるぐらいだから、わざわざ本人に会いに行き、怒りを膨らませる必要はないと思ったとか。
だが最大の理由は、落ち着いた環境でサーブ練習に専念したかったからである。
人が真剣に課題に取り組んでいる最中に、外野から「無駄だ、無理だ、不可能だ」と吠えられるぐらいなら、父親に二ドルを払ってでも自宅のコートで練習した方が集中できるし、成果も上がる。そもそも部外者の彼女にとやかく言われる筋合いのものではないはずだ。
こうなったら、何としてでもサーブを完成させて、あのモヤシ女の鼻を明かしてやる。ジャンと同じ剛速球を叩き込んでやる。
そう決心して練習場所を自宅に移したが、現実は心意気だけで上手くいくほど甘くはなかった。
「何でだよ、ちくしょう!」
依然として進歩の見えない自身のサーブに、透は苛立ちを抑えきれなくなっていた。
やはりジャンとの体格差が原因なのか。その差を埋める事は不可能なのか。
諦めないと豪語したくせに、モニカの出した結論が頭をよぎる。
「くそっ! 何か方法があるはずなんだ。絶対に!」
「トオル? 大きな声がしたけど、大丈夫かい?」
怒鳴り声が家の中まで響いていたのだろう。エリックが裏庭まで様子を見に来てくれた。
「悪いな、エリック。なかなか練習が上手くいかなくて……ちょっと苛ついている」
同年代の気安さもあって、透は同居人の中でもエリックにだけは思っていることが素直に言えた。そして、それはエリックも同じであった。
「実は、僕もちょうど退屈していたところなんだけど、良かったら一緒に街へ出てみない? こういう時は、気分転換をしてみるのも一つの方法だよ」
エリックの言うことにも一理あると思い、透は久しぶりにダウンタウンへと足を向けた。
「そうか、今日はクリスマスなんだ」
ずっと裏庭にこもっていたせいで、季節の感覚が麻痺したらしい。普段よりも華やかなイルミネーションが、透に今日が街を挙げての一大イベントの最終日であることを思い出させた。
「テニスに夢中で、忘れていた?」
「ああ。それに覚えていたとしても、俺には関係ねえから。クリスチャンでもなければ、サンタクロースを信じる歳でもねえし。
家で肉食って寝るだけ……って、あれ? エリックはドイツに帰らないのか?」
「うん、僕は両親の反対を押し切って、こっちへ来たからね。ジャーナリストになる目処がつかないと、家には入れてもらえないんじゃないかな」
「あ、悪りぃ。余計なこと聞いちまった」
「気にしないで。おかげで、こうして気の合う親友と過ごせるしね」
いつもより家の中が静かに感じたのは、他の留学生達が故郷へ戻っていたからだ。気付いてみれば、野郎二人の味気ないクリスマスである。
「トオル……」
不意にエリックが立ち止まった。
「今からダウンタウンへ行っても、どの店もクリスマス・ホリデーで閉まっている。すっかり忘れていた」
「そうなのか?」
「自分から誘っておいて、ごめん。無駄足を踏ませてしまったね」
「気にするなよ。外の空気を吸えただけでも、良い気分転換になった」
男同士が慰め合うクリスマスに虚しさを感じなくもないが、行く当てがないのだから仕方がない。大人しく引き返そうとした矢先、向こうから見覚えのある二人組の影が近付いてきた。
ピンク髪を揺らしながら駆け寄る姿は間違いなくビーで、その隣に必ずセットでいる男と言えば、レイしかいない。
「ちょうど良いところで会ったな。お前等、暇なら、一緒にクリスマスパーティしようぜ!」
彼等は急に姿を見せなくなった透を心配して、家へ向かう途中だったという。
渡りに船とは、このことだ。二人よりは四人の方が虚しさも半減する。
透はヤンキー二人の迫力に躊躇を見せるエリックも強引に誘って、男四人でクリスマスパーティを開く事にした。ビーが見張り番と称して、ストリートコートを貸し切りにしておいてくれたのだ。
会場と頭数が揃っているなら、あとは食料を調達するだけで済む。
先程、家のリビングを通った際に、オーブンからチキンスペアリブの焼ける匂いがしていた。透の母親が調理するスペアリブは特性のオレンジソースを使用する為、特有の甘くて香ばしい匂いがするのである。パーティのメインディッシュは、あれで決まりである。
自宅に戻った透がディナー用に準備されたスペアリブをオーブンからこっそり取り出していると、その姿を認めた母親がもう一つのメインのローストビーフでサンドイッチをこしらえ、温野菜とオニオンリング、それに飲み物まで付け足してくれた。
彼女にはいつも振り回されてばかりいるが、こういう時は能天気な性格をありがたく思う。
食料を調達し終えた透達一行は、早速、会場となるストリートコートへ向けて出発した。エリックの言う通り、街中の主なショップはシャッターを下ろしていたが、思いのほか豪華になったディナーを懐に抱えているせいか、侘しさを感じることはなかった。
ビーがスペアリブの匂いに吸い寄せられるように透の懐に顔を突っ込み、鼻と喉を同時に鳴らした。
「トオルの母ちゃん、料理が上手くて優しくて、最高の女だな! 俺様、本気で惚れそうだ」
レイもすっかりオレンジソースの虜になっている。
「それに、なかなかの美人だよね。どうしてあんな綺麗な人から、こんなのが生まれたんだ?」
皆の視線が一斉に息子である「こんなの」へ集中した。
「あのなぁ。そういう発言は、一緒に住んでからにしろよ」
後先考えずに十二人の留学生を受け入れ、無意味に真嶋家を大家族に膨れ上がらせたのは母親だ。おかげで、他の学生達と同様に夕食以外は自炊を強いられ、買出しまで付き合わされている息子としては、文句の一つも言いたくなる。
「僕も、トオルのママは素敵な人だと思うよ」
自身も散々こき使われているにもかかわらず、エリックが母親のフォローに回り、そこへ他の二人も加わった。
「そうだぞ。ぶん殴られないだけでも、ありがたいと思え」
ビーは、アルコール依存症の母親から虐待を受けて育った過去がある。
「家に男を連れ込んだり、稼いだ金を取られたりしないんだろ?」
レイの母親は、息子に稼がせた金を男に貢いでは捨てられるという、悪循環から抜け出せない女だったと聞いている。
幸い二人とも本物の悪党になる前に施設へ放り込まれたおかげで、いくらかマシな人生を送ることが出来たが、子供の頃に受けた傷跡が消えたわけではない。
実の母親から道具のように扱われ、それが愛情だと信じて育った。父親は、誰だか分からない。自分が世間の基準とは異なる家庭環境に置かれていたということも、施設の手続きをする際に初めて知った。
そんな彼等から見れば、透の母親は天使に映るだろう。
不用意な発言を心の中で反省しながらも、透は黙っていた。こういう時は何も言わないのが礼儀だと、最近、分かるようになった。
痛みに触れない程度に側にいる。それも関わり方の一つだと、彼等から教わった。
薄暗いコートの中へ入ると、新品のテニスボールがいくつも転がっていた。
「どうしたんだ、これ?」
不思議に思って透が尋ねると、レイもよく知らないらしく、肩をすくめた。
「たぶんジャンの知り合いだと思うけど、時々、大量にボールを寄付してくれる謎の人物がいるんだよ」
「だから俺様がこいつを使ってだな、スペシャルデコレーションを考えたんだ」
ご機嫌な様子で、ビーがボールの入っていた缶に細工をしている。彼が機嫌よく作業をする時は、本人にしか分からない芸術作品を創り出すケースが多い。派手なペイントだらけのコートも、一応、ビーの“作品”だ。
「ビー? その中に入っているキャンドルって、もしかして教会からパクッてきたんじゃ……?」
メインストリートからストリートコートへ抜ける道をさらに奥へ進むと、森に囲まれた小さな石造りの教会がある。そこで使われている少し太めのキャンドルと同じ形の物が、缶の中に入っている。
「人聞きの悪い事を言うな。拝借と言え、拝借と!」
「返すつもりなのか?」
「使った後にな」
キャンドルは燃やせば形がなくなるわけで、返せる物があるとすれば、それは即ちゴミである。キリスト生誕の日にわざわざ罰当たりな事をせずとも、と思いつつ、透は瞠目するエリックの反応を捉え、すぐさま話題を変えた。
ストリートコートのメンバーの間では取るに足らないジョークでも、健全な一般市民にとっては、これは立派な犯罪だ。特に真面目なエリックは、ビーが「窃盗」を「拝借」と言い切った時点で、すでに顔面蒼白になっている。
「で、キャンドルを拝借して、どうするつもりなんだ?」
ビーの計画では、キャンドル入りの缶をコートに並べて、そこに火を灯してイルミネーションの代わりにしようというのである。
ところが、いざ点火する段になって、誰もライターを所持していない事に気が付いた。ゲイルがいた頃は不自由もなかったが、透はもちろん、他のメンバーも煙草を吸う人間がここにはいない。
ビーもレイも、透がストリートコートのメンバーになってから煙草を止めた。素行を改めようとした訳ではない。透と一緒に基礎練習を行ううちに、喫煙者がトレーニングと乱闘の両方をこなすにはよほどの強靭な呼吸器が必要だと悟り、自然な流れで吸わなくなったのだ。
リーダーのジャンも、酒は飲んでも煙草は吸わない。但し、その理由は多くのガールフレンドに嫌がられるからとの説が有力ではあるが。
「これ、使いなさい」
フェンスの外から、勝気な声と共にライターが投げ込まれた。その声の主が誰だか知れた途端、レイとビーの二人が、同時に透の顔色をうかがった。
「どうもありがとう」
唯一、事情を知らないエリックがライターを受け取り、微笑んで見せたが、透にはその笑顔に応える心の広さはなかった。
「アンタ、テニスプレイヤーのくせに煙草なんか吸ってんのか?」
声の主は、モニカであった。
「あら、ジャンが帰るまで話しかけるなと言ったのは、誰だったかしら?」
「うるせえ! 借りを作りたくねえから、聞いてみただけだ」
「苦しい言い訳ね。まあ良いわ。今日はクリスマスだから大目に見てあげる。
明日、取りに来るわ」
「要らねえよ。持って帰れ!」
「クリスマスぐらい素直になれば?」
相変わらずの高飛車な言い方で透をやり込めると、モニカはさっさと立ち去った。わざわざ嫌味を言いに来たとしか思えない態度である。
「あの……僕、受け取らない方が良かったのかな?」
ライターを手にして戸惑うエリックを気遣って、レイが小声で事情を説明した。
「なるほど。最近、トオルの機嫌が悪いのは、そのせいなんだね」
謎が解けて納得顔のエリックとは対照的に、透は苛立ちを募らせていった。
「エリック、勘違いするな。俺が苛ついているのは、サーブ練習で行き詰っているからだ。あの女のせいじゃねえからな!」
「きっと彼女は不器用なだけで、素敵な人だと思うよ」
「あんな口が悪くて、ケバいババアの、どこが素敵なんだよ? だいたいエリックの『素敵』は、許容範囲が広すぎる」
「だって、彼女はとても綺麗な目をしていたよ。トオルと同じくらい。
このライターも、もしかしたら仲直りのつもりかも」
頑固で意固地な透も、純粋なエリックから極めて道徳的な意見を述べられれば、渋々でも折れるしかなかった。
「分かったよ、エリック。あいつに借りを作るのは癪だけど、そのライターは使わせてもらおう」
「それじゃ、始めるか?」
ビーの合図でキャンドルに火を灯すと、コンクリートのコートもそれなりに小奇麗なパーティ会場に見えてきた。
四人はそこで絶品のスペアリブを頬張り、他愛もない話を延々と続けた。最初は尻込みしていたエリックも徐々に打ち解け、まるで昔からの知り合いのように遠慮なく話すまでになった。
好みの異性の話に始まり、よく聞く音楽や、「もしも金持ちになったら」という仮想の人生論。他人に打ち明けた事のない失敗談や、学校や職場で流行っている都市伝説等々、男同士で心行くまで語り明かした。
「俺様、やっぱ気に入らねえな。クリスマスだから、もっと派手な方が良い」
とっぷりと夜も更けた頃、おもむろにビーがキャンドルの入った缶を移動し始めた。自ら考案したレイアウトが気に入らないようである。
確かに一面のテニスコートを埋めるには、圧倒的に缶の数が足りない。しかも時間が経つにつれて、光が下へ沈んでいく為に、余計に寂しく見えてしまう。
まだ楽しい宴を終わらせたくないという気持ちもあった。クリスマスだから、少しぐらい羽目を外しても良いだろうとも思った。
「そうだ、ビー。最高の場所がある!」
透は熱くなった缶を慎重に持ち上げると、丸太のところまで移動させた。その意図を察したビーとレイが、すぐ後に続く。
コートに置けば隙間だらけでも、階段状に積み上げられた丸太の両端を埋めるには充分な数である。一つ一つ頂上へ向かって飾りつければ、立派なクリスマスツリー型のイルミネーションの完成だ。
「すごいよ、トオル! こんな美しいデコレーション、見たことない」
「驚くのは、まだ早い」
暗闇に現れたツリーに感激するエリックを、透はその頂上へと連れて行った。
「なん……て……」
オレンジ色に広がる夜景を前にして、エリックが感動のあまり絶句している。直情型の透は「すっげえ!」を連発したが、温厚な彼は今にも泣き出しそうな顔で絶景を見つめている。
「すげえだろ、エリック?」
透の問いかけにも、彼は頷くのが精一杯だ。
調子に乗ったビーが、丸太の上で大声を張り上げ、訳の分からぬ踊りを始めた。
「夜景も、俺様も、クリスマスも、今日はみんなハッピーだ!」
悪夢はここから始まった。
ステップを踏み損ねてバランスを崩したビーが、丸太の頂上から転がり落ちた。あろうことか、両端に並べたキャンドル入りの缶を道連れにして。
ここのところ晴天続きで、丸太の表皮は完全に乾き切っていた。そこへ落とされたキャンドルの炎は、猛火を起こすために点火したようなものだった。
丸太に燃え移った炎は、イルミネーション転じて、特大のキャンプファイヤーと化した。
男四人の性格はそれぞれ違っても、慌てると無駄な動作をしてしまうのは、皆、共通している。
焦って炎にシャンパンをぶちまけ、ますます被害を広げるビーと、それを止めようとして相棒の首を息が出来なくなるほど締め付けるレイ。ジーンズ地が燃えることを忘れて、ジャケットを炎に覆いかぶせ、キャンプファイヤーの燃料にしてしまった透。
ただ一人エリックだけは、落ち着いて地道にジュースをかけて消火にあたったが、それが大火の前では無意味な作業だと悟るまでには、かなりの時間を要した。
結局、四人が我に返ったのは、黒焦げになった丸太の山を確認した後である。リーダーだけが座ることを許される特等席が、みすぼらしい木炭の塊に変わっている。
透の頭に「俺を怒らせる三人」と怒鳴りつけるジャンの姿が生々しく浮かんだ。
「なあ、レイ? ジャンって、いつ帰って来るんだっけ?」
「あと三週間ぐらいは戻って来ないと思うよ」
「だったら修復の時間は充分ある……よな?」
「よし、俺様に任せておけ!」
ビーがバックヤードからペンキの缶を持ち出してきた。
「まさか、ビー?」
「せっかくだから、これを使おうぜ! ホワイトクリスマスだ」
前々からコートのラインと見分けがつかなくなるので白だけは使うなと、ジャンから厳しく注意を受けていた。その為、白いペンキは異常な量が余っている。焦げた丸太をカバーするには充分だ。
これは神様のお告げかもしれない。クリスマスの浮かれた気分が、そんな幻想を抱かせた。
「クリスマスだし?」
あえて語尾を疑問形にしたのは、透からレイへの誘い文句である。
「クリスマスだからね。上から何度か塗り直せば、ジャンが戻ってくる頃には乾くでしょ。よし、乗った!」
「そんな事して、大丈夫なのかい?」
今度は本当に泣き顔になったエリックの手ひらに、透はペンキの缶を手渡した。
「やろうぜ、エリック。クリスマスだから、きっと上手くいく」
説得力の欠片もない誘い文句だが、何故かこの時は、その場にいた全員が「クリスマスだから」の理由付けに納得したのであった。
パーティが工作の時間に変わったが、四人とも宴の二次会として充分に楽しんだ。白く塗り替えられた丸太も、思ったより上品な仕上がりで、全員がその出来栄えに満足した。
幸運にも、焼失した箇所が皮の部分だけで本体の損傷が少なかった為に、ペンキが乾けば違和感はない。
「これならクリスマス用にリフォームしたと言っても、絶対バレねえ」
作品に酔いしれるビーと並んで、レイも得意になった。
「ああ見えて、ジャンはロマンチストだから。案外、白い丸太になって喜ぶかもよ。
俺を喜ばせる三人、なんてね!」
確かに、そう思わせるほどの見事な出来だった。だがそれは、あくまでも予定通りにペンキが乾けば、の話であった。
翌日、透がコートで目にしたものは、白くリニューアルされた丸太ではなく、白と黒のマーブル模様が醜く溶け合う汚らしい木材の燃えカスだった。
昨夜は最高傑作に見えたのに、一体、どうした事だろう。生乾きのドロドロとした白ペンキの中に黒い炭が混ざり合い、焚き火の中にソフトクリームを突っ込んだかのような悲惨な現場である。
「なんで……?」
突如として冷や汗が噴出したのは、見るも無残な丸太のせいではない。その隣でひどく不機嫌な顔をして仁王立ちするジャンがいたからだ。
彼の赤いはずのジャケットが丸太と同じマーブル模様に着色されて、慌てて拭おうとしたのか、指の形をした細長い筋がシミとなって全身に広がっている。
現状から察するに、ペンキ塗りたてだと露ほども思わぬジャンが、いつもの習慣で丸太の上に座り、それが原因で乾けば完璧になるはずだった作品は崩れ、汚らしいマーブル模様の餌食となったようである。自分達の所業を忘れたわけではないが、『伝説のプレイヤー』も形無しだ。
「なんで、ジャンがここにいるんだ?」
透は本人に聞こえないよう音量を下げて、コート内のメンバーに説明を求めた。レイの話によれば、あと三週間は不在のはずだ。
ところが、こういう時に限って本命の彼女と喧嘩をしたらしく、予定より早く追い返されたとの事だった。
せっかくのクリスマスに、彼女と喧嘩をして追い出されただけでも不快指数はかなりのものだ。おまけに帰ってみれば、お気に入りの丸太が悲惨な変貌を遂げ、自らもマーブル模様にされたのだから、彼の怒りは今や厳戒区域にまで達しているに違いない。
あの立ち姿からは、異様な殺気を感じる。木刀を持った父親よりも、キレた唐沢よりも、密室で滝澤に襲われるよりも、仁王立ちのジャンはこの世のものとは思えぬほどに怖かった。
君子危うきに近寄らず。君子ではないが、危険だと分かって近付くバカはいない。足音を立てずに、透が立ち去ろうとした時だ。
「俺を本気で怒らせた三人目の登場か?」
ジャンに目敏く見付けられてしまった。しかも、いつもの「俺を怒らせる三人」のフレーズに「本気で」が加わっている。
このままダッシュして逃げ切れなくはないが、透は観念してコートの中へ入っていった。すでにビーとレイが捕まって、生乾きの丸太を背にして、縛り付けられているのが見えたのだ。さすがに仲間を見捨てて、自分だけ逃れるような卑怯な真似はできない。
一足先にロープで縛られた二人には、後頭部から踵まで例のマーブル模様の粘液がべっとり、たっぷり貼り付いている。ジャンは丸太と同じように、いや、それ以上に三人を汚い作品に仕上げるつもりなのだ。
もぞもぞと二人が落ち着きなく動いているのは、頻繁に体の位置をずらしておかないと、ペンキが乾いて丸太の表皮と一緒に固まる恐れがあるからだ。だが、ずらし過ぎると、ペンキの被害を広げることになる。これは、まさしく拷問だ。
「お前等さ……」
ジャンが特大級の溜め息を漏らした。
「クリスマスぐらい、俺を怒らせないように努力するとか、考えなかったのか?」
考えた結果がこれなのだが、このタイミングで打ち明けるのは自殺行為である。大人しく縛られるしか策はない。
「情けない」と愚痴をこぼす口調とは裏腹に、透を締め上げるジャンの手は力強く、腕にも足にもぐいぐいとロープが食い込んでくる。それに伴い、背後から滴り落ちるペンキが髪をつたって首筋から進入し、痛みだけでなく気色悪さも襲ってくる。焦げた部分を隠そうと、ペンキを厚く塗ったのが裏目に出てしまった。
「あのさ、ジャン……?」
ジャンの怒りを和らげるよりも先に、透には帰ったらすぐに確かめたい事があった。
「どうして、モニカはコートに入ろうとしない? 何か事情があるんだろう?」
これは、この十日間ずっと抱いていた疑問である。
性格はともかく、彼女のテニスに関する知識はかなりのものだ。プレイヤーとしての実力も、自分より上かもしれない。
その彼女がコートに入ろうとしないのは、どう考えても不自然で、それを知っているくせにリーダー代理を任せて、いつもより早く周遊の旅から戻ってきたジャンの行動にも疑問があった。本命の彼女に追い返されたからではなく、最初から早く戻るつもりだったのではないか。
「結局、コートに入らなかったか」
ジャンが二度目の溜め息を吐いた。
「ジャンが帰ってきたってことは、あいつ、今日で最後なんだろ? だから……」
エリックに言われたからではないが、透はほんの少しだけ悔いていた。もし何らかの事情があるのなら、自分の態度が適切だったのか。
例えば、ケガをしたとか、故障を抱えているとか。そうした事情でコートに入れないなら、同じプレイヤーとして最後ぐらいは協力したいとも思った。
「モニカは、俺が高校時代に世話になった恩師の娘でな。ウェスト・パタソーンズの後輩だ」
丸太の上とは勝手が違うのか。ジャンは座りにくそうに脇にある砂袋へ腰を下ろすと、彼女が直面している問題を語り始めた。
モニカの父親はこの街でテニススクールを経営しており、彼女はそこの一人娘で、小さい頃からテニスの英才教育を受けていた。テニスが生活の一部であり、その事に何の疑いも持たずに育った彼女には、将来、テニススクールのコーチになる夢があった。
ところが、高校でテニス部のキャプテンを務めていた時、彼女は地区大会で大きな作戦ミスを犯した。優勝間違いなしと言われたチームを、二回戦で敗退させたのだ。
コーチの指示に従わず、自分で立てた戦略で勝ち抜こうとした、彼女の慢心が招いた結果である。
コーチから非難を受け、部員からも信頼も失い、すっかり自信喪失に陥った彼女は、恐怖心からコートに入れなくなってしまった。そこで彼女の父親がジャンに相談を持ちかけ、今回、リーダー代理を任せたという話であった。
「つまり俺を生徒代わりにして、あの女にコーチになる夢を思い出させようと企んだのか?」
「まあ、そういうこった」
「バカじゃねえの?」
心無い台詞が、透の口からついて出た。
これまでいくつもの壁にぶち当たり、挫折を経験してきた透にとって、たった一度の失敗でコートに入ろうとしないモニカは、ただのわがままなお嬢様としか思えなかった。しかもその理由はケガや故障ではなく、挫折とも呼べない些細な失敗からである。
「簡単に手に入るから、簡単に手放せるんだ。俺等に比べたら、そんなのどうって事ねえよ。
コートに入りたくねえなら、とっとと止めりゃ良いじゃねえか!」
余計な気を回して損をしたと思った。
理不尽な理由でテニス部を追われ、コートに立てない辛さを味わい、独りで練習する孤独に耐えてようやくここへ辿り着いた人間から見れば、彼女が抱える問題など挫折にも値しない。
「子供のアナタに……アナタなんかに、何が分かるっていうのよ」
いつから居たのか。フェンスの外からモニカがこちらを睨み付けていた。だが、今回は透にも反論の材料は充分にあった。
「ああ、分かりたくもねえよ。お嬢様の考えなんか」
「そうでしょうね。仲間に恵まれて、楽しくテニスが出来るアナタに、居場所を失くした人間の辛さなんて分かるはずないわ!」
「居場所を失くしただと? 笑わせるな!」
後から振り返るに、この時の発言は反論というより、嫉妬が込められていたように思う。何でも苦労なく手に入れられる恵まれた環境と、それを簡単に手放した彼女への嫉妬である。
「アンタの場合は、居場所を失くしたんじゃない。逃げ出しただけだ。自分から捨てたくせに、被害者面するな!」
「おい、トオル! 言い過ぎ……」
慌ててレイが止めに入ったが、すでに遅かった。勝気な彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。間髪をいれず反撃してくるはずの唇は固く閉ざされ、あの腹立たしい赤い口紅は強く噛み締めたせいで、色味が失せている。
「いや、あの……」
咄嗟にフォローを試みようとするも、その意に反して、正論を言ったのだから謝罪の必要はないとの思いが対応を遅らせ、透は声を掛けるタイミングを逸していた。
モニカが無言で走り去り、ジャンの機嫌が一段と悪くなった。
「おい、クソガキ! お前は、ここで何を見てきた?」
「泣かせた事は悪いと思う。けど、俺は間違ったことは一つも言ってねえ」
そう言った後から、後味の悪さが胸に広がった。何故かは分からなかったが、それは首筋から入るペンキのようなジメジメとした感触を伴い、嫌な速度で胸の奥を刺激する。
「お前は強くなりたいと、俺に言ったよな? その強さは、弱い奴をなじる為なのか?」
「それは……」
「良いか、トオル? 自分の為だけに強くなるのは、オスのすることだ。男ってのは、そうじゃねえだろ?
少しは成長しろ、クソガキが!」
本物の男からの説教が、胸にずしりと応えた。すでに傷付いてやって来た人間を、その過程が気に入らないからと言って、もっと傷付けて良いはずがない。
「今度はお前が誰かに胸を貸してやれるほど強くなれ」
そう教えられたのに、嫉妬心から酷いことを言ってしまった。
自分より弱い人間を虐げ、傷つけて。これでは、透を差別して追い出したアップルガースと同じではないか。
ここの仲間が十二歳の少年を受け入れてくれたのは、行き場のない境遇に共感したからではない。仲間を思いやる気持ちが通じたからでなかったか。
大粒の涙と、気色の悪いペンキと、自責の念とで、気分は最悪だった。
その後、モニカが戻って来ないかと、何度もフェンスの外を見やったが、いつまで経っても彼女は現れなかった。
結局、透、ビー、レイの三人は、一日中ずっと丸太に縛り付けられ、服と髪はペンキでガチガチに固まり、家に帰ろうにも手足が痺れて動けず、そのまま一晩、コートの見張り番をやらされた。
それでもリーダーの怒りは冷めやらず、休みの間じゅう、パシリとコート掃除をやらされた上に、キャンドルを盗んだお詫びに教会へボランティアとして働かされた挙句、ジャンの知り合いの材木店へ奉公に出され、嫌というほど扱き使われた。
当然、材木店で稼いだ賃金は、新しく丸太を造り直すための資金に充てられた。要するに、タダ働きだ。
こうしてジャンと「俺を本気怒らせた三人」のクリスマス・ホリデーは、悲惨な傷跡を各自の胸に残して幕を閉じた。