第27話 戸棚の中の金字塔

 ジャンの何気ない一言からヒントを得た透は、迷うことなく自宅へ向かった。
 課題のサーブを完成させるには、もうひと工夫、加える必要があった。どんなに改良を重ねても、ジャンと自分のサーブでは「似て非なるもの」と言わざるを得ない違いがある。
 それは追い風が吹けば帳尻が合う程度のわずかな球速の差異だが、ベースラインからサービスエリアまで、二十メートルにも満たない距離での勝負では、その差を自力で生み出せるか、否かが、サーバーの優位性を決定づける肝となる。
 あの空間をえぐるようにして突っ込んでくる荒々しいサーブを、己の肉体で再現する方法はないものか。
 試行錯誤を重ねるも出口は見えず、日にちだけが過ぎていた。限界まで筋力を引き出した体では、あと一押しのパワーを生むのも容易ではない。
 ところがモニカがテニスショップ『ロコ』へ行ったと聞いて、閃いた。プロの選手のプレーから、解決の糸口を見つけられるかもしれないと。
 今まで無縁だと思っていたプロの世界だが、プロと言っても千差万別で、中には小柄な選手もいるはずだ。彼等が他者との体格差を埋める為に、どんな工夫を施しているのか。調べる価値はありそうだ。
 透は自宅の玄関へ駆け込むと、一旦、呼吸を整え、そこから先はなるべく足音を立てないように、そろそろと階段を上がっていった。
 モニカが『ロコ』へ向かったという事は、彼女も同じことを考え、参考になりそうなDVDをレンタルしたに違いない。それならば、自分は他を当たるしかない。
 『ロコ』の他にも、もう一つ。プロの選手達の記録が保管されていて、部外者でも閲覧可能で、場合によっては、タダで持ち出しできる便利な場所がある。

 父の書斎の前まで来て、透はほくそ笑んだ。扉が半分開いている。これは龍之介の不在を意味している。
 父が仕事で部屋を使用する時 ――実際には“こもる”と言った方が正しいが―― 彼は自身が集中したいが為に扉に鍵をかけ、外部との接触を一切断ってしまう。たとえ家族であろうと例外はなく、電話やメールはおろか、ノックさえも無視を決め込む徹底ぶりだ。
 その反面、生来、横着な彼は、それ以外できちんとドアを閉めた例がない。書斎に限らず、リビングも、バスルームも、クローゼットに至るまで、ところ構わず開けっ放す。理由はもちろん、面倒臭いからである。
 扉を閉めるから開ける必要性が出てくるのであって、最初から開け放しておけば何もしなくて済むというのが、彼の理論である。
 何とも身勝手な話だが、今回に限っては、悪くないと思った。
 「ラッキー!」
 我が身が幸運だと自覚したのは、久しぶりのことである。今のうちに必要なものを抜き出して、後でこっそり返せば問題ない。
 レンタルショップで借りたとしても、一枚に付き、たった2ドルのレンタル料だが、十枚借りれば20ドル。日本円で約二千円もの大金だ。貧乏学生にとっては、痛い出費である。
 父が仕事で使う資料を無断で拝借する。この罪悪感から逃れる為に、透は自身にこう言い聞かせた。
 「今まで散々苦労させられたんだ。少しぐらい役に立ってもらわなきゃ」

 透は半開きの扉から素早く中へ滑り込むと、壁一面を使った収納棚の前まで階段と同じ歩調で近付いた。
 職業柄、父の書斎にはプロのスポーツ選手達の記録が数多く保管されている。普段のトレーニングから試合の様子まで、その内容は様々で、ビデオテープやDVD、写真を添付したファイルなど、記録方法も一律ではない。
 これは、龍之介の研究がいかに多岐にわたるかを物語っていると同時に、ディスクがない頃からの長い歴史も感じられた。この図書館の一角を髣髴とさせる膨大な資料の量からして、いくつか消えたとしてもバレる心配はなさそうだ。
 透は早速、作業を開始した。
 岐阜にいた頃、よく手伝いをさせられていた為に、父のファイリングの癖は熟知している。スポーツの種目ごとに整然と並ぶ棚の中で、真ん中にある二つがテニス関連の資料を収めたものだ。
 「あれ? 前はこんな並べ方してなかったよなぁ」
 左の棚には上から下までびっしりと記録が収納されているのに反し、右の棚は随分と隙間が目立つ。効率の良さを重視する父にしては、あまりに不自然な整理の仕方である。
 書斎の片隅には、手つかずの資料の山がダンボールごと積み上げられている。それなのに、なぜ父は棚にスペースを残したままなのか。
 不思議に思って扉に手をかけたが、びくともしなかった。横着者の父が、右の棚だけ鍵をかけているのである。
 こうなると、ますます興味が湧いてくる。秘密の扉が気になって仕方がない。
 ほとんど収納の役割を果たさぬ右の棚。下の段にはディスク同士が支えあう程度に詰まっているが、上の段にいくに従って、隙間が多くなっている。一番上の段などはディスクが四、五枚転がるだけで、どう見ても無意味な空間だ。まるでピラミッドを模したような不思議な形状は、何か意図があるのだろうか。

 「そっちは企業秘密だ。触るんじゃねえぞ」
 不意に後ろから声をかけられて、透は驚くよりも先にガックリと肩を落とした。振り返らずとも声の主は龍之介であり、やはり自分はそんなに幸運ではないと悟ったからである。
 「あのさ、親父?」
 出来ることなら、手の中の資料だけでも持ち逃げしたいところだが、素性が知れている以上、ここは覚悟を決めるしかない。
 「久しぶりに棚の整理でも手伝おうかと思ったんだけど……」
 覚悟を決めたわりには、遠まわしな頼み方しか出来なかった。
 息子から自宅にあるテニスコートの使用料を平気で請求する父親だ。今回もレンタル料をよこせ、と言いかねない。
 「そんで、整理したついでに、要らない資料があったら見せてもらおうかなぁ……なんて……」
 珍しく下手に出ているのも、余計な出費を避けるが為の防衛策である。
 ところが息子の貧乏臭い下心を気に留めるでもなく、龍之介は素っ気無い返事をよこしてきた。
 「左の棚にあるものは、好きなだけ持っていけ。但し、使い終わったら、元の場所に戻しておけよ」
 「マジで?」
 「ああ」
 「タダで良いのか?」
 「当たり前だ」
 「返す時に、金払えとか、言わねえか?」
 「何を勝手に警戒している? そっちは、付き合いで押し付けられた物がほとんどだ。
 元手のかかっていない物に対して、金を請求する気はない」
 龍之介の話は筋が通っている。しかし親子の会話としては、疑問が残る。
 今の理屈で考えると、元手がかかっていれば、息子であろうがレンタル料を請求するつもりだった、ということだ。
 うっすらと父に裏切られた感は否めないが、二千円の出費を思えば、このぐらいの心の傷はどうって事はない。それに今は、そんな事より気になるものがある。
 「なあ、親父? こっちの右の棚は、なんでこんなスカスカなんだ? ちゃんと整理をすれば、あっちのダンボールの中身も片付くだろ?」
 「整理した結果が、これだ」
 「整理したって、一番上の段なんて、ほとんど使ってねえじゃん」
 「一番上は、俺が残ると判断した選手。三段目から下は、コーチやトレーナーは期待しているが、俺から見れば終わった選手。二段目は、そのボーダーラインにいる連中だ」
 「残るとか、終わるって、一体、何の話だ?」
 「選手生命に決まっている。プロとしてのな」
 かなりシビアな話をしているにもかかわらず、龍之介は淡々と続けた。
 「その棚にあるのは全部、世間から天才と呼ばれたプレイヤー達の記録だ」
 父の言葉に、透の動きが止まった。
 一番上の段には、ディスクが五枚ほどしかない。二段目でようやく十五、六枚といったところか。その下の段からは徐々に詰まってきているが、彼等は龍之介から見て「終わった選手」である。
 二重、三重の驚きが、記録を物色する手を凍らせた。
 並外れた才能を持ち、類まれな存在だからこそ、天才は特別視されるのだ。その天才達が下段でひしめき合う姿に、まず愕然とした。そして天才と呼ばれながらも実際にプロとして生き残れる選手の少なさと、それを当たり前のように話す父にも、言葉を失った。
 天才の記録で形づくられたピラミッドが血なまぐさい要塞に見えてきて、能天気に記録を物色する自分が罰当たりな気がした。
 「じゃあ、あっちの隅にあるダンボールは?」
 「クソだ」
 「クソ?」
 「何かのはずみでプロになったは良いが、てめえの限界も超えられずに、勝手に挫折していった連中だ」
 透の感覚では、プロのレベルに到達しただけでも称賛に値すると思うが、龍之介の目から見れば、そこがスタート地点であり、その先を望めぬ選手はクソなのだ。
 遠い存在だと思っていたプロの世界が、生々しい縮図となって目の前に押し寄せてきた。

 右の棚の三段目から下の天才プレイヤーと呼ばれた多数の選手たちと。一番上のほんの一握りの天才と。二つの間で、上段へ上るか、下段へ落ちるか、ボーダーラインで揺れる選手たち。
 彼等の記録が収められている二段目が、運命の分かれ道に思えた。
 きっとこれがジャンの話していた「原石」と「石ころ」の違いだろう。魂を持つ者と、持たぬ者。いや、己の魂を正しく保てる者と、そうでない者との境目だ。
 オズボーンとの対戦で自分も落ちかけただけに、下段の選手達の数を見てぞっとした。
 今日の試合で、透は体の不調を言い訳にして勝負から逃げ出し、適当に終わらせようとした。土壇場で奈緒がくれたリストバンドが目に入らなければ、奮起することも無かった。対戦相手にも、自分にも負けて、その後ろめたさから、自らの魂を汚していたかもしれない。
 曇りのない魂を抱え、それを絶えず燃やし続けるというのは、いかに困難かを思い知らされた。
 ピラミッド型に並んだディスクの二段目を眺めているうちに、透はついボーダーラインにいる選手達を応援したくなった。
 「この人達、頂上へ上がれると良いな」
 「まず、無理だろ」
 「何でだよ!?」
 他人事とは言え、父の身も蓋もない言い方に腹立たしさを覚えた。
 「親父? 前から思っていたんだけどさ、アンタには人情ってモンはねえのかよ?」
 「ダイヤモンドは一握りだからこそ価値がある。そこらにゴロゴロ転がってりゃ、ただのガラス玉と変わらない。こいつ等も同じだ」
 多くの天才を下敷きにして造られたピラミッドの頂上。そこには何があるのか。どんな選手が君臨するのか。
 雲を掴むような話ではあるが、透は一人のプレイヤーとして、まだ見たこともない景色に想いを馳せていた。
 「頂点を夢見るなら、せめて棚の中に入ってからにしろ」
 現実を直視する父から、痛烈な一言が浴びせられた。
 「今のお前には、時間の無駄でしかない。ま、人の仕事部屋に勝手に忍び込むような礼儀知らずには、一生かかっても無理だろうがな」


 透が龍之介にやり込められている頃、モニカは自宅でレンタルDVDをチェックしていた。プロの試合の中から早送りでサーブのシーンを探し出し、そのフォームを調べていった。
 今までは成長途中にある透に元プロのサーブなど習得できるはずがないと、頭から決めてかかっていたが、オズボーンとの対戦を見せられ、考えが変わった。可能性はゼロではない。自分が見落としているだけなのだ。
 問題は、最初に感じた通り、二人の体格差から生じるスピードの差であった。ここをクリアしない限り、完成とは呼べない。
 透には可能な範囲で筋力をつけさせ、フォームも改善させた。だが、あと一歩が埋まらない。これ以上、縮めようのない差異を、どう克服すれば良いのか。
 これはジャンから透に出された課題であると同時に、自分にとってもクリアしなければならない試練なのだ。コーチとして生徒の能力を信じ、共にこのハードルを乗り越えることが出来れば、自身の中にある「得体の知れないもの」とも向き合えるかもしれない。
 モニカには、サーブの完成の先に将来を左右する出来事が待っているように思えてならなかった。

 すると突然、テーブルに置かれた携帯電話が鳴り出した。誰にも邪魔されず集中したいと思いつつ、電源は切らずにマナーモードにしておいた。
 サーブの問題が解決するまで出るつもりはなかった。しかし、ちょうど行き詰っていたのと、相手が透からだと分かり、つい手が伸びてしまった。
 「もしもし?」
 情けないことに、音域を意識して返事をする自分がいる。普段より若干低めの掠れ声は、過去の男たちがセクシーだと言って好んだ音域だ。
 「悪りぃ、モニカ! 今から、そっちに行って良いか?
 親父からDVDを借りたんだけど、家だと予約でいっぱいで、すぐには見られないって……」
 予想はしていたが、テニスバカにハスキーボイスの効果はまるでなく、その事に落胆する自分を愚かしく思った。電源を切らずに、わざわざマナーモードに設定していた行為も含めて。
 「俺が知らないうちに、テレビもデッキも予約制になったらしいんだ。まともに順番待ちしていたら、一週間先になるって……。まったく、参ったぜ」
 多くの留学生と暮らす彼の家では、一般家庭では考えられない決まりごとがあると聞いている。今回のデッキの件も、数あるうちの一つだろう。
 事情は理解できたが、少しの間、モニカは返事を躊躇った。独り暮らしのこの部屋に、まだ一度も異性の入室を許したことはない。
 これがジャンや他のメンバーならば、それほど迷わず「イエス」と答えていたかもしれない。だが、相手が透となると話は別である。
 周りの目がなくなれば即座に声色を変えてしまう自分が、恋愛感情を抜きにして、彼と二人きりで過ごせるか、どうか。正直、自信がない。
 返事がないのを不審に思ったのか、透がおずおずと会話を繋げた。
 「他の奴等にも聞いたんだけど、テレビがねえとか、電気を止められているとか。悲惨な話ばっかでさ。
 もう、モニカしかいないんだ。頼むよ」
 本人にそのつもりがなくとも、好意を寄せる相手からトーンダウンした声で「君しかいない」と懇願されれば、それは充分な殺し文句になる。
 「良いわ。すぐにいらっしゃい」
 あくまでもコーチとして。自分にそう言い聞かせて、モニカは電話を切った。

 「いきなりで悪かったな。おかげで助かったぜ!」
 両手一杯に映像資料を抱えた透が、屈託のない笑顔と共にズカズカと部屋に入ってきた。まるで男友達の家に入るのと変わらぬ態度が腹立たしく思え、モニカはつい棘のある言い方で想い人を出迎えた。
 「ねえ、夜遅くに女性の部屋に入るのよ? 少しは気を遣いなさいよ」
 「ああ、急いでたから、ごめんな。あとで何か買って来る。
 この間、チリドッグの美味い店が出来たって、ビーから聞いたけど、食ってみるか? それとも、女はケーキとか、デザート系の方が良いのか?」
 「そうじゃなくて、アタシが言いたいのは……」
 「ここは年頃の女性が、独り暮らしをする部屋なのよ」と言おうとしたが、たった今固めた決意を思い出し、モニカは慌てて話を合わせた。
 「そうね。今度、うんと高いディナーをご馳走してもらうわ」
 「マジかよ? ああ、でも一回ぐらいは奢らねえとな」
 「どうして?」
 「どうしてって、モニカには色々世話になってっから」
 固めたはずの決意が、ちょっとした一言で揺らいでしまう。
 異性としての自覚もない相手に、ロマンチックなディナーを期待する方がどうかしている。仮に認識があったとしても、彼の思う男女の違いは、チリドッグとケーキの差でしかないというのに。
 あまり認めたくはないが、明らかに恋愛対象を間違えた。よりによって、こんなデリカシーの欠片もないテニスバカに惚れるとは。
 溜め息と同時に落ちた視線の先では、そのバカが鼻歌交じりで借りてきたDVDを床の上に広げている。男女二人きりの悩ましげなシチュエーションよりも、プロの試合のほうが気になって仕方がないようだ。
 ここは虚しい片思いに見切りをつけて、己がなすべきことに集中しようとした矢先、下を向いて作業をしていた透が、突然、顔を上げた。
 アメリカでは見かけることの少ない琥珀色の瞳。それは時に子供染みて、時に最強の男に夢を抱かせるほどの輝きを放つ。
 その瞳が、今は真っ直ぐモニカを捉えていた。
 互いの視線を合わせるか、合わせないかの際どい緊張感を保ちながら、無言で透が立ち上がる。瞬きもせずにモニカを見つめる視線にいつもの幼さはない。
 コート以外で、こんな真剣な透を見るのは初めてだ。
 何の躊躇いもなく、ごく自然に引き寄せる彼の腕に、モニカは素直に従った。
 初めて恋心を自覚した、いつかの森の中での出来事が甦る。蒼白い月明かりの下で抱き締めてくれた、あの時と同じ真っ直ぐな眼差しと、優しい声――。
 「モニカ、身長いくつだ?」
 「えっ……?」
 「だから身長だよ。何フィートだ?」
 「5.3だけど?」
 「ってことは、こいつのサーブから見てみるか?」
 ぴたりと体を密着させているにもかかわらず、彼の視線はすでにディスクに添付されている選手のデータへ向けられている。
 「トオル? もしかしてアタシのこと、メジャー代わりに使ったの?」
 「悪りぃ、悪りぃ。俺、フィートが苦手でさぁ。センチなら分かるんだけど……」
 この瞬間、モニカの中で鍵をかけたはずの扉が音を立てて崩壊した。

 「最低! アナタって、何にも分かっていないのね!」
 いきなり飛んできた平手打ちに、透は唖然とした。
 「そんなに怒らなくても……」
 フィート換算を苦手とするのは、平手打ちを喰らうほどの罪なのか。
 1フィートは約30.5センチ。フィートで書かれた選手のデータを、いちいち30.5などという半端な数字で掛け算する身にもなって欲しい。相手が女だから大人しくしているだけで、普通なら殴り返している。
 ところが、そうも言っていられない状況が目の前で起きていた。
 「モ、モニカ?」
 てっきり反撃に出ると思った彼女から、大粒の涙が溢れている。勝気な平手打ちの後だけに、透は訳が分からなかった。
 「俺、またキツイこと言ったか? ごめんな、モニカ」
 とりあえず謝ったものの、涙が収まる気配はない。
 いくらフィートの目安に使われたとは言え、泣くほどの悲劇ではないはずだ。きっと、辛い出来事があったのだ。
 思えば、電話をかけた時から、彼女の様子が変だったような気がする。声の調子がいつもと違っていた。
 「モニカ、何かあったのか?」
 「違うの。ごめんなさい……ごめんなさい」
 こんな時、つくづく自分は鈍感な部類の人間だと思い知る。
 平手打ちを喰らわせた人間が、その直後に涙して、今は泣きながら謝っている。きっと、こうして取り乱すまでに何らかのサインが出ていたはずなのに、それらしきものは電話での妙に低い声しか思い至らない。
 「あのさ、俺で良ければ、相談に乗るけど……?」
 これが精一杯の打開策であった。
 そもそも体育会系の人間が共感できる涙は、範囲が限られている。敗戦後の悔し泣きなら得意分野だが、それ以外はどんな言葉をかければ良いのか、見当もつかない。
 専門外の涙を前にして、テニスバカがしてやれる事と言えば、小首を傾げてポカンとした間抜け面を晒すことぐらいだろうか。
 「無理にとは言わないけど。話をするだけでも、楽になるかもしれないし……」
 実に不器用な沈黙が流れた。何かを言いかけては躊躇うモニカと、その度に聞こうとしては身構え、気落ちする透。
 この破れそうで破れない沈黙がしばらく続いた後、ようやくモニカが口を開いた。
 「アタシね……」
 そう言った後から再び迷っていたが、やがて区切りをつけるように息を吐くと、彼女は落ち着いた声で語り始めた。
 「アタシね、ずっと好きだったの」
 「誰を?」
 「アナタよ、トオル」
 「へっ……?」
 驚いた時に「頭が真っ白になった」とよく言うが、実際に体験したのは初めてかもしれない。あまりに唐突過ぎて、何から考えて良いのか分からない。
 頭だけでなく、視界も白くなり、余裕のないはずの思考の片隅で、今日は随分と濃い一日だ、とぼんやりと思った。
 「なんで……俺……?」
 「自分でも、どうしてだか分からないの。
 これでも、何度も確認したのよ。口が悪くて、非常識で、フェミニズムも知らない年下のアナタに、思慮深い大人のアタシがどうして惹かれるのかって。
 でも、考えれば考えるほど、それでも好きって答えしか出てこなくて。こんな風に、理由もなく誰かを好きになったのは初めてで……」
 ここまでひと息に話した後、モニカが深い溜め息と共に想いを告げた。
 「自分でも、どうして良いのか分からないの。ただアナタが好き。それしか理由が見つからない」
 いくら鈍感な人間でも、ここまでストレートに打ち明けられれば、彼女を異性として意識せざるを得ない。深夜近くの、二人きりの部屋で、涙に濡れた瞳でダイレクトに告白されたのだ。それも恋愛経験豊富と思われる大人の女性に。
 何となくいけない事をするような罪悪感を抱きながらも、透はモニカの肩に腕を伸ばした。
 自分を好意的に見てくれているからと言って、すぐに恋愛感情が湧くものではないし、同情心ともまた違う。ただ彼女の好意に対して、何らかの形で応えなければと思った。
 こういう時に限って、同居人のディナに言われた台詞が頭をよぎる。
 「トオルは、“まだ”なんだ?」
 白紙になった頭に良からぬ思惑が顔を出す。もしかして、これは今日一日頑張ったご褒美かもしれない。神様がたまには美味しい思いをせよと、気を利かせてくれたのではなかろうか。
 ジャンの彼女との思い出話に触発された事もあるだろう。バージン野郎の汚名も、機会があれば返上したいとも思っていた。
 加えて、このふんわりと漂う甘い香り。例えばそれが人工的な香水の類ではなく、清潔感漂うシャンプーの匂いだったとしたら。不安げに俯く彼女の、洗い立ての髪から発せられているとしたら。つい出来心で手が伸びてしまうのも無理はない。

 「モニカ……」
 煩悩の虜となった透がモニカを抱き寄せようと肩に手をかけた、その時だ。伸ばした右の手首から、「トオルなら、できるよ」の文字が飛び込んできた。
 ラッキーカラーの紫が目に突き刺さり、丸い文字をかたどった刺繍が神々しく見える。
 「モニカ、ごめん……俺には、他に好きな奴がいる」
 片隅に追いやられていた理性が、ようやくまともに機能し始めた。但し、今の返事が適切だったかは定かではない。
 もう少しマシな断り方があったかもしれないが、告白されたのも初めてなら、奈緒に対する気持ちを「大事な奴」以上の表現で他人に明かすのも初めてで、それ以外の事について深く考える余裕はなかった。
 またしても、二人の間に沈黙が流れようとしていた。戸惑いではなく、気まずさと恥ずかしさを伴う沈黙が。
 しかし今回は、明るい笑い声がそれを打ち破った。
 「知っているわ、そんなこと」
 「えっ?」
 「バカね、冗談に決まっているでしょ」
 「まさか、今の?」
 「ちょっと困らせてみただけ。アタシのことをメジャー代わりに使った罰よ」
 先程まで不安げな顔を見せていたモニカは、いつもの手厳しいコーチに戻っている。涙も、色気も、跡形もない。
 「本当に? さっきの……あれは……?」
 「あら、残念そうね?」
 「いや、そうじゃないけど」
 「だったら、早く準備なさい。夜が明けてしまうわよ」
 「う、うん……」
 何か釈然としなかった。人生初の告白が芝居だったと聞かされ、落胆したのもあるが、それ以上に、彼女の言葉が偽りだとは思えなかった。
 頭では分かっていても、どうにもならない事がある。
 いくら否定的な材料をかき集めても、出てくる答えはいつも同じで、諦めたと思っても、どこからともなく甦る切ない想い。相手の事を考えれば抑えるしかないと分かっているのに、どうしようもなく吐き出してしまいたくなる時がある。
 自分と同じ苦しみが見えたからこそ、思わず腕を伸ばしてしまったが、映像資料を調べる彼女からは少しもそんな素振りは見られない。
 やはり思い過ごしだったのか。
 行き場の失くした右手から、またもリストバンドの文字が燦然と浮かび上がり、反射的に透は自分の手首をもう片方の手で覆った。
 「大丈夫だ、奈緒。何にもない。何にもない」
 自分の手首に話しかける姿は、事情を知らない人間から見れば奇怪な行動に映るだろうが、本人はいたって真剣だ。
 「ほら……アレだ、アレ。胸を貸そうとしただけだ。本当に何にもなかったから、信じてくれよな、な?」
 しばらくの間、透はこうして懺悔にも似た独白を続けていたが、テレビの画面に映像が映ると同時に、余計な邪念は消し飛んだ。

 画面に映し出されるプロの選手達の華麗なプレーの数々は透を魅了する一方で、容赦のない現実を突き付けてくる。ここにいる選手達は、龍之介の書斎にあったピラミッドに入れなかった者達だ。
 透は何かに追い立てられる気がした。今より速く駆け上がらなければ。こんなところで立ち止まっている暇はない。もっと速く、もっと高く。
 どれもお手本にしたくなるような高度なプレーが流れる中で、透はある一人の選手のサーブに意識が向いた。
 「モニカ! 今のサーブ、もう一回!
 角度が前からだから分かり辛いけど、なんか引っかかる。特にトスが……」
 左胸が騒ぎ出した。頭の中に形にならない漠然とした映像が浮かび上がる。
 目の前の選手の映像と、頭の中の映像とが、繋がりかけては、また消える。
 同じ画面を見ていたモニカも、彼女なりにイメージが湧いたのか。ラケットを片手に立ち上がった。
 「すぐにコートに行きましょう。今度こそ、完成させるわよ!」
 二人は同時に笑みを浮かべると、夜中のストリートコートへと駆け出した。






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