第34話 奪還

 「俺が本当に守らなきゃならないものが、あそこにある」
 モニカの制止を振り切り、敵の本拠地となったジャックストリート・コートに足を踏み入れた透だが、最初に手をつけたのはジャケットを奪い返すことではなく、中で怯える挑戦者を逃がしてやることだった。
 「早くここから出て行け。あとは俺が片をつける」
 「ありがとう。でも、君はどうするの?」
 「俺の事は心配しなくて良いから、早く」
 「本当に大丈夫? 噂に聞いていたコートとは違うみたいだけど……」
 「ああ、そうらしいな。今度ここへ来る時は、赤いジャケットを着たリーダーがいるか、どうか。確認してからにしろよ」
 「君は一体……?」
 訝しげな顔を向ける挑戦者を外へ押し出すと、透は他の連中に悟られないよう、一つしかない出入り口の鍵をかけた。夜中の見張り番が用心の為に使用するダイヤルロック式の鍵である。
 こうする事によって外部からの侵入を防げる上に、番号を知る者でない限り、出て行くことも不可能だ。これでモニカとあの挑戦者の安全は確保される。
 同時に、100対1のコロシアムが完成した。

 独りでここへ乗り込むのは、二度目である。
 普段から信仰とは無縁で、神の存在を意識した事もないが、この時だけは不思議な巡り合わせを感じた。大切なものを手に入れようとする時は、捨て身の覚悟を強いられる運命なのかもしれない。
 透は地面に落ちているジャケットを拾い上げると、丸太の上のリーダーと向き合った。
 「このジャケットは返してもらう」
 「貴様、もしかしてジャンが飼っていた日本人のガキか?」
 「ああ、そうだ」
 瞬く間にコート内の淀んだ空気が、殺気に変わる。
 大方、チャンフィーは、透が中に入った時から見当をつけていたのだろう。返事を聞いて血相を変える手下達とは対照的に、彼はどこか得意げであった。
 「こいつは面白い。俺も一度会ってみたいと思っていた。
 ジャンはお前を庇って、死んだらしいな? まずは礼を言わせてもらおうか」
 間近で見たチャンフィーは冷淡な笑いがよく似合う男であった。だが、最初に出会った時ほどの恐怖はない。
 注意深く探せばあるかもしれないが、今は感じなかった。恐怖心をも塗り潰す、毒々しい感情が身の内に起こっている。
 「一つ、聞きたい事がある。何故こんな卑怯なやり方でコートを乗っ取った?
 アンタもテニスプレイヤーの端くれなら、実力で勝とうと思わなかったのか?」
 どうせろくな返事は得られないと分かっていたが、最低限の筋は通さなければならない。盗人にも三分の理、という。外道にも、それなりの言い分があるのか。事を起こす前に、確かめておく必要があった。
 しかし彼の口から飛び出したのは、透の予想を遥かに超えるものだった。
 「人聞きの悪いことを言うな。今回の騒動はジャンから仕掛けてきたんだぜ」
 「嘘を吐け。ジャンは自分から喧嘩を売るような真似はしない」
 「頭の悪いガキだ。良いか、よく聞けよ?
 今回の一件は、余所のコートの奇襲を企むジャンを俺が返り討ちにした、という筋書きになっている。俺は卑怯者を成敗した英雄だ」
 「ジャンが卑怯者で、アンタが英雄だと? そんなデタラメ、誰が信じる?」
 「人望の厚いリーダーなら、仲間に見捨てられる訳がない。あの時、お前も血だらけになったジャンを置いて逃げた一人だろう?
 ここらじゃ、この噂で持ちきりだ。ジャックストリート・コートの元リーダーは日頃の悪行が祟って、メンバー達にも愛想を尽かされた。だから瀕死の重傷を負っているのに、誰にも助けてもらえず、哀れな最期を迎えたんだとな」
 チャンフィーは、ジャンが刺された時の話をしているのだろう。被害を最小限に食い止めようとゲイルが取った行動を、自分達の都合の良い話に作り替え、卑怯者のリーダーの末路として街中にばら撒いたのだ。
 透は手にしたジャケットに袖を通し、いつでも身軽に動けるよう体勢を整えた。
 不思議な事に、頭が妙に冴えている。妙な冴え方をしている、というべきか。
 チャンフィーの言い訳にもならない返事を聞いて、怒り狂うかと思ったが、自身の中に判断を誤らせるような熱はない。先ほど起った毒々しい感情が、発火しそうな熱を飲み込み、冷まし、静めていく。
 「勝利を収めた側に正義がある。そういうことか?」
 「飲み込みの良いガキじゃねえか。ジャンが可愛がっていただけの事はある。
 無法地帯のルールはシンプルだ。勝者が全ての権限を持つ」
 「ああ、それには俺も賛成だ。自由にしたけりゃ強くなれ、と教わった」
 「気に入ったぜ、小僧! ジャケットはくれてやるから、俺と組まねえか? お前がいれば、余所のリーダーとも渡り合える気がしてきた。
 アメリカにいる限り、俺達アジア人が日の目を見ることはない。だったら裏の世界で思う存分暴れ回って、白人の奴等を見返してやろうぜ」
 「せっかくだが、外道に魂を売る気はない」
 あからさまにリーダーを愚弄する台詞に、周りの手下達は臨戦態勢に入ったが、チャンフィーはまだ余裕の笑みを見せていた。
 「ガキの分際で背伸びをするな。どうせ形見のジャケットを取り返しに来たんだろ?
 このまま無事に帰れると思っているのか?」
 「いいや、そんな事思っちゃいないし、帰る気もねえよ」
 「何だと?」
 「ジャケットはついでだ。大掃除のな。
 俺達の砦を汚ねえウジ虫どもが這い回っているようだから、叩き出してやろうかと思ってさ」
 「たった一人で、俺達全員と遣り合うつもりか?
 別にどっちでも構わねえが、お上品な『誓い』とやらは、もう良いのか?」
 チャンフィーの余裕の笑みが、一段と深くなった。
 「何故、それを知っている? まさか……?」
 ラケットで人を傷つけない。メンバーしか知らないはずの誓いを口にしたということは、チャンフィーは前々からジャックストリート・コートにスパイを潜り込ませていたに違いない。
 彼は手下を使って敵の内情を調べ上げ、絶好の機会、つまりモニカのグラデュエーションが行なわれる日を狙って、奇襲をかけたのだ。
 目的を果たした後も、リーダーの勲章欲しさにジャンの墓を暴き、棺の中からジャケットを盗んだ挙句、汚いと言ってゴミ同然に投げ捨てた。更には故人に罪をなすりつけ、自分は丸太の上で英雄気取りである。
 ジャンの死も、墓地での惨劇も、ゲイルが哀れな死に方をしたのも、全てこの男が元凶だというのに、無法地帯にこれらの悪事を裁く法はない。

 毒々しい感情が体を隅々まで満たしていく。あまり長く浸っていては身を滅ぼしかねないと分かっているが、一度でもそれがもたらす陶酔感を味わうと、どうにも手放すことが出来なくなる。
 まるで麻薬のようだ。この殺意というヤツは。
 殺したいと思うほど人を憎んだのは初めての事だった。すぐにでも飛びかかり、ジャンと同じ目に、いや、もっと酷い目に遭わせてやりたい。この男の血まみれになった姿を見れば、さぞかし胸のすく思いがするのだろう。
 こんな恐ろしい感情を抱く自分に驚きながらも、その一方で、獲物を仕留めるために最も効率の良い手順を導き出そうとしている。手下の人数と所在を確認し、最短距離で大将の首を取るにはどのルートを辿ろうか、と辺りを見回す。悪魔のような自分を、むしろ頼もしいとさえ感じてしまう。
 今度こそ、この手で人を殺すかもしれない。でなければ、自分がやられるか。
 「小僧、意気がるな。誓いを破ったら、大好きなリーダーが悲しむぜ?
 それとも、武器も持たずに素手で戦うつもりか?」
 良心を試すような口ぶりで挑発してくるチャンフィーを、好ましく思った。相手は本物の悪党だ。悪魔と悪党。刺し違えるには、似合いの相手である。
 透は背中のラケットに手をかけた。
 「俺はいつもジャンを怒らせていた。よく約束を破るから。拾ってくれた恩も返せないで、喜ばせた事は一度もなかった」
 鉄製のラケットならではの、ずしりとした感触が腕全体に伝わってくる。
 プロミスリングの誓いを破る事に罪悪感がないわけではない。だが、物言えぬ死者に汚名を着せて、ふんぞり返っている悪党を許すことは出来なかった。
 「今さら人の道に外れようが、誓いを破ろうが、どうって事はない。だけど、ジャンの誇りだけは守ってみせる」
 「今さら死人の誇りを守ってどうなる? 第一、たった一人で何をするつもりだ?」
 透はジャンの形見のラケットを構えると、丸太の上のチャンフィーを正面から見据えた。
 「勝利を収めた側に正義があるんだよな? だったら、今からアンタを殺して、俺が勝者になる」
 「ガキ一人で敵討ちか? 良いだろう。そんなに死にてえなら望みどおりにしてやる。間抜けなリーダーのあとを追いな!」
 透の覚悟が本物だと悟ったチャンフィーが、周りの手下達に号令をかけた。その時だ。
 バックヤードから聞き覚えのある声がした。
 「あとを追うのは勝手だが、てめえの墓はてめえで手配しろよ?」
 「ビー! どうして、ここへ?」
 「モニカから電話をもらった。『トオルを助けてくれ』ってな」
 「でも、どうやって……?」
 「自分で造っておいて忘れたのかよ?」
 ビーがバックヤードのフェンスの一部を顎で指し、ニヤリと笑った。それは透が罰当番から逃げ出す為に秘かにフェンスを破ってこしらえた抜け穴で、普段はトレーニング器具で塞がれている為に、「俺を怒らせる三人」以外、その存在を知る者はいなかった。
 「まさか、レイも?」
 言った側から、レイが器具の陰から顔を出した。モニカから急を知らせる電話を受けて、二人はフェンスの抜け穴を通って中へ進入したのである。
 「帰れよ、二人とも」
 顔を見るなり、透は冷たく言い放った。気持ちは嬉しいが、自分の命も危うい状況で、二人を守りながら戦う自信はない。
 「これは俺が勝手に仕掛けた喧嘩だ。お前達を巻き込むつもりはない」
 「俺達も、巻き込まれたつもりはねえよ。確かに、ここへ来たのはモニカに頼まれたからだが、加勢するのは別の理由だ」
 「別の理由?」
 「てめえが仲間だからに決まってんだろうが!」
 相棒に続いて、レイも彼らしい冷ややかなコメントを添えた。
 「ジャンの最後の命令も守らなかった事だし、どうせ遺言を破るなら、三人セットじゃないと。これって立派な復讐だよね?」
 「お前等、分かっているのか? ジャンとの誓いを破るんだぞ? テニスプレイヤーの誇りも捨てる事になる。命だって……」
 「ああ、話は聞いた。もともと俺様のプライドなんて大したものじゃねえよ。ジャンの名誉が守れるなら、それで充分だ」
 亡きリーダーの為に。そして仲間の為に。この愚かな親友二人は、何の躊躇いもなくプライドを捨てるという。
 透は胸の中に再び温かなものが流れ込むのを感じた。一度は切れたと思った絆が、また紡がれていく。前よりも強く、確かなものとして。
 「お前等、本物のバカだ」
 「お互い様だ、ボケ!」
 これが「俺を怒らせる三人」の復活の合図となった。
 レイが護身用の小さなナイフを取り出し、ラケットに結んであったプロミスリングを切り裂いた。
 「それじゃあ、トオル……いや、リーダー? 俺達に指示を出してくれないか?」
 「俺がリーダー?」
 同様にしてビーがリングを裂いて、ナイフを投げてよこした。
 「その赤いジャケットはリーダーの証だ。俺達の命はお前に預けた」
 「分かった……」
 透はナイフの刃先をプロミスリングに合わせると、二本同時に断ち切った。ジャンと自身の二人分の誓いを。
 それから脇で控える二人に向かって、リーダーとして最初の命を下した。
 「俺の顔に泥塗るじゃねえぞ」

 新リーダーの掛け声と共に、乱闘が始まった。
 単純に計算しても、一人に付き三十人は倒さなければならない。誰からともなく三人は互いに背中を合わせ、背後を取られないようフォーメーションを組んだ。
 まずレイが相手の攻撃を受け止め、その隙にビーが武器を叩き落し、最後に透がラケットでトドメを刺す。
 頭数では完全に不利な敵陣で、誰か一人でも負傷すれば、総崩れになる危険がある。それを避ける為に、三人一組となって、一人ずつ確実に片付けていく方法を取ったのだ。
 正確に状況判断ができるレイと、素早さに長けたビーと、剣道四段の父親に鍛えられている透。この三人だからこそ成り立つコンビネーション戦法だ。
 ところが三分の一を倒した辺りから、ビーとレイに疲れが出始めた。コンビネーション戦法は手間がかかる為に、体力の消耗が激しい。
 何かこの窮地を脱する方法はないものか。味方の疲労を察した透は、必死で考えを巡らせた。
 きっとこれが独りなら、力尽きるまで戦い通し、命を落としていたかもしれない。だが、今は大切な仲間がいる。こんな自分に命を預けてくれる掛け替えのない仲間が。
 ここへ来る前は、多くは守り切れないと判断し、独りで乗り込んだ。捨て身の覚悟で臨まなければ、砦は奪い返せないと。
 しかし、その考えは間違っていた。今なら断言できる。
 人は守るものが多ければ多いほど、強くなれる。だからジャンは強かった。大切なものがたくさんあったから。
 彼の形見となったジャケットが、リーダーの証が、その事を教えてくれた。まるで透を導くかのように。
 毒々しい感情が少しずつ引いていった。
 大切なものを守る。それは汚さないよう守ってこそ価値がある。血塗られた復讐という経路を辿らずに、純粋に砦の奪還のみを目指す。
 透は改めて決意を固めた。砦も、リーダーの誇りも、そしてこの仲間も。ここから先は一人の犠牲も出さずに守りきることを。

 「作戦を変更しよう」
 透の声かけに、レイが驚いたように振り返った。
 「俺達に作戦なんてあったのか?」
 「俺の勘が正しければ、ジャンの事だから、グラデュエーションの為にアレを用意していたはずだ」
 「まさか、アレって……アレか!?」
 「ああ。たぶん、隠し場所は丸太の上だ。俺があそこに辿り着くまで、二人で援護してくれるか?」
 「任せておけ」
 それまでコート中央で暴れていた三人が、丸太に向かって駆け出した。信頼する仲間の援護を受けて、透は一気に頂上を目指した。
 予期せぬ襲撃に慌てたのは、チャンフィーだ。高みの見物を決め込んでいた彼は、まさか相手が足場の悪い丸太の上で乱闘を仕掛けてくるとは思わなかったようだ。しかも二人しかいない味方を下に停留させて、透が独りで駆け上って来ようとは。
 身の危険を感じたチャンフィーはとっさに避難しようとしたが、丸太の下ではレイとビーが手下達と揉み合い、行く手を阻んでいる。自分の手下に逃げ道を塞がれ、彼はひとり足止めを食らった格好だ。
 「今さら逃げようなんて思うなよ? アンタには、最後まで付き合ってもらうからな!」
 かつてジャンと夜景を眺めたその場所で、透は形見のラケットを相手の喉元に突きつけた。
 「ガキが、いい気になるんじゃない!」
 逃げ場を失いながらも、チャンフィーは残りの手下達に号令をかけた。
 「おい! このクソガキを丸太の上から引きずり下ろせ!」
 「やれるものなら、やってみろ。お前達のリーダーがどうなっても良いならな!」
 透の怒鳴り声に振り返った手下達は、それぞれが信じられないという表情で、丸太の上の光景を見つめた。
 この時、透が手にしていた物は、ジャンの形見ともう一つ。ストッパーを外したばかりの消火器だった。三人が話していた「アレ」である。

 モニカのグラデュエーションを行なうにあたり、ジャンと他のメンバーはある事で揉めていた。
 ジャン以外のメンバーは、全員、女性を送り出すのだから荒っぽい真似はしたくない。フラワーシャワーが妥当だ、と幹事である透の提案を素直に受け入れた。
 しかしながらジャンだけは、モニカの嫌いな男女差別に繋がるからと言って、ブレッドの時と同じく「消火器をぶっ放す」と主張した。無論、男女同権論は薄っぺらい建前で、消火器を乱射したいが為の主張である事は一目瞭然だった。
 前回のグラデュエーションでブレッド共々甚大な被害を被ったメンバーは、卒業するのが誰であれ、消火器だけは勘弁してくれ、というのが本音であった。
 普段は協調性のないメンバーだが、この時だけは全員一致でフラワーシャワーを支持した為に、仕方なくジャンはお楽しみを断念した。正確には“断念した振り”をした。
 頑固でわがままなリーダーが、そう簡単に己の欲望を捨てられるとは思えない。メンバーにバレないよう持ち込んで、当日、隙を見て、丸太の上から大量の泡を噴射する段取りを組んでいたはずだ。
 そう睨んだ透は、丸太に到着すると同時に周辺を調べ回り、見事「アレ」を探し当てたのだ。
 その数、十数本。メンバーに内緒で隠し持っていただけでなく、前より数を増やしたリーダーの所業を軽蔑しなくもないが、今となっては感謝の気持ちの方が強かった。

 透は消火器のノズルをチャンフィーの顔面に直接向けて、いつでも噴射できるよう準備を整えた。
 「心配するな。人体に害はないそうだ。但し、こんな近くで直接食らえば、どうなるか分からないぜ。窒息するか。噴射の勢いで下に落ちて骨折するか……」
 「き、貴様……どこから、そんな物を!」
 「さっきまでアンタがふんぞり返っていた場所からだ。ここは木片のパーツを一つ外せば、中は空洞になっている。奇襲を受けても困らないだけの最低限の防備品がストックされているんだよ」
 ジャンが常に丸太の上に座していた理由も、ここにある。
 そこは、最強の男を迎える王座であると同時に、武器庫の役割も果たしている。どんな時でも大切な仲間を守れるように。非道な手段でコートを奪い取った者には決して明かされることのない、歴代のリーダー達による知恵の結集 ―― この丸太の山は、武器庫完備の牙城であった。
 チャンフィーを足止めさせたままで、透は丸太の下で揉み合う手下達に問いかけた。
 「ここへ入って来る時、出口の鍵を閉めてきた。お前達に逃げ場はないし、頼みの綱のリーダーはこのざまだ。
 そこで、お前達に問う。
 最初にストリートコートに流れ着いた理由は何だ? 人を殴るためか? 盗みを働くためか? それとも、この男の言いなりになる為か?」
 その問いかけに、手下達の動きが止まった。
 「よく思い出せ。スパイをさせられた者、墓を掘り返せと命じられた者、人殺しの片棒を担がされた者もいるだろう。命じた人間は無傷だというのに、お前達だけが傷付いていく。
 周りを見てみろ。今までに何人やられた? これから何人やられると思う?」
 たった三人で全体の三分の一を倒された現状を目の当たりにして、コート内の殺気は沈下していった。
 「惑わされるな! これは奴等の罠だ!」
 慌ててチャンフィーが怒鳴り声をあげたが、敵に追い詰められた情けない姿では何の説得力もない。
 汚い仕事ばかり押し付けられた手下達にとって、どちらの声に耳を傾けるべきか。本能的に察知したようだ。
 「ここに選択肢が二つある。このまま外道の指示に従って、俺達にやられるか。それとも卑怯なリーダーに見切りをつけて、自分の為の道を探すか」
 透は一瞬たりともラケットを動かさず、一人ひとりの目を見て語りかけた。
 「覚えているだろう? ここは本来、何をする場所か。足元にある白いラインは何だったのか。
 こんな危険と背中合わせの場所まで来て、まだラケットを手にしている理由は何だ? お前達だって、本当は気付いているんだろ? 自分達が何をしたいのか。
 二つの選択肢は、お前達の意思で選べば良い。俺は強制しない。何故なら、自分の道は自分の手でしか切り開くことが出来ないからだ」
 恐らくチャンフィーの手下達は、選択肢というものを与えられた経験がないのだろう。人を人とも思わないリーダーから発せられるのは、常に絶対服従の命令ばかりで、自分達の為に何かを選ぶ事などなかった。
 人格を認められた人間は、正しい道を選択する。誰かに従うのではなく、何かに流されるのではなく、己の為に何が必要かをきちんと判断できるようになる。
 「これから俺が自由になる為の番号を教える。今なら間に合う。テニスプレイヤーに戻りたい奴は出口へ急げ。鍵の番号は1313(ダブル・サーティーン)だ!」
 その掛け声と共に、両脇で控えていたレイとビーがそれぞれ手にした消火器のレバーを引いた。勢いよく吹き出る泡が引き金となって、残りの手下達が出口に押し寄せた。
 感覚的なものだが、いくら自分たちが優位な立場にいたとしても、閉じ込められたと分かれば、脱出しようとするのが人間の本能だ。
 透が扉の鍵をかけたことによって、番号を知らない彼等は閉じ込められたと感じる。そして倒された仲間と、追い詰められたリーダーの姿を見て、心の底では逃げ出したいと思うはず。
 あとは切っ掛けさえ与えてやれば、もともと恐怖だけで支配されていた手下がリーダーを裏切り出て行く事は分かっていた。虐げられた者の痛みを知る、透ならではの心理作戦だ。
 しかし、一つだけ誤算があった。
 「なあ、トオル? 今さらだけど、俺達のリーダーって、どういう頭の構造してたんだ? 愚かというか、浅はかというか……」
 消火器から吹き出る泡を、レイが複雑な表情で見つめている。
 「ああ、ゲイルもそう言っていた」
 透の予想通り、ジャンは確かに消火器を準備していた。この事については感謝している。
 問題はその中身である。
 コート全体に広がる消火器の泡 ―― メンバーに言われてモニカが女性である事を意識したのか。今回、ジャンは女性用に特別注文したらしい。ピンクの泡が吹き出る消火器を。
 いくら女性が好む色に変えたところで消火器には変わりなく、頭からかけられれば迷惑極まりないというのに。ピンクに着色された分だけシミになり、もっと迷惑になるとは思わなかったのか。
 「『歴史に残る阿呆』か……。ゲイルの言った通りだ」
 無人となったコートを前にして、透は亡きリーダーの置き土産を、しばらくの間、目を細めて眺めていた。

 「さてと……」
 残りはチャンフィーだけである。手下に見捨てられ、ひとり敵陣の中に置き去りにされた悪党は、透が拍子抜けするほど情けない姿で丸太にしがみつき、ぶるぶると震えていた。
 「アンタの言った通りになった。人望の厚いリーダーなら、仲間に見捨てられる訳がない」
 「か、か、金ならある。挑戦者から巻き上げた戦利品も全部やる。もちろんコートも明け渡す。
 だから……た、助けて……テニスが出来なくなったら、俺……」
 「ふざけんな!」
 あまりに身勝手な言い分に、ビーが這いつくばるチャンフィーの胸倉を掴んだ。
 「これは、てめえが仕掛けた喧嘩だろうが! きっちり落とし前つけてもらうからな!
 なあ、トオル? どうする?
 こいつを干乾びるまで丸太に縛り付けてやろうか? それとも、毎日ちょっとずつ切り刻んで、カラスの餌にしてやろうか?」
 「頼む、助けてくれ。ずっと羨ましかったんだ。何をやっても奴の方が上手くいく。白人というだけで、皆から慕われて……」
 チャンフィーが透の足元にすがり付いてきた。
 「なあ、お前なら分かるだろ? アジア人だからって、何度、差別を受けた? 外見の違いだけで苦しめられるなんて、理不尽だとは思わないか?
 俺は差別した連中を見返そうとしただけだ」
 これはかつて透も抱いた疑問であり、いまだ社会に根強く残る現実でもあった。
 もしもテニス部を追い出された時、ジャックストリート・コートではなく、ヴィーナスストリート・コートへ転がり込んでいたなら、自分もチャンフィーと同じ道を歩んだかもしれない。だが幸いな事に、透が流れ着いたのはジャックストリート・コートで、ここでの経験が彼とは違う答えをもたらした。
 「いいや、思わない。アンタが苦しいのは人種差別のせいじゃない。弱いからだ」
 「俺は努力した! 努力して強くなって、ジャンと同じリーダーの座を勝ち取った」
 「俺が言ってんのは、見た目の強さじゃねえよ。
 ジャンは自分の傷より、他人の傷に目が行っちまう。そのくせ、触れたら痛てえって分かってるから、知らん顔を通すんだ。
 傷に触れないように、俺達を丸ごと懐に入れて、癒えるまでずっと見守ってくれる。そんな男と汚いやり方で張り合おうとした時点で、アンタの負けなんだ」
 「俺の負け……?」
 「もう勝負はついた。さっさと立ち去れ」
 大切な人の命を奪った悪党にしては、情けない退陣の仕方であった。
 よろよろと這うようにして丸太から降りて行くチャンフィーを目の端に置きつつ、ビーが不満げな顔を向けた。
 「良いのかよ、トオル?」
 「あんな奴、殴る価値もない。これ以上、俺達の手を汚すまでもないだろう。
 それに、これだけ観客がいれば真実は伝わった。そうだろ?」
 フェンスの周りには騒ぎを聞きつけたヤンキー達が、成り行きを見守ろうと各地から集まって来ていた。
 その群集に混じって、モニカの姿があった。真っすぐに透を捉える視線には、別れた時のような悲しみの色はなく、安堵が色濃く見えていた。
 ほんの一瞬。目が合った瞬間に、モニカは眉根を寄せたが、すぐにいつもの勝気な彼女に戻って姿勢を正すと、メインストリートに向かって足早に去っていった。
 「モニカ、卒業おめでとう。もう戻ってくるんじゃねえぞ」
 透がふと漏らした独り言を、隣にいたビーが耳ざとく聞きつけ、大きく頷いた。
 「ああ、二度と戻ってくんじゃねえぞ。この悪党が!」
 「えっ、悪党?」
 不可解な台詞に視線を戻すと、丸太を降りていたはずのチャンフィーの姿が忽然と消えている。モニカに気を取られていた数秒の間に、何が起きたというのか。
 慌てて辺りを見回すと、丸太から少し離れた場所で地面にうずくまる後ろ姿が見えた。それも腰の後ろの辺り、つまり尻を抱えるようにして。
 「ビー、お前……いきなり命令無視かよ?」
 「命令は守ったぜ。殴っちゃいない。蹴飛ばしただけだ。これなら無視した事にはならないぜ?」
 何の危害も加えず逃がした事が、ビーには我慢がならなかったようだ。彼の得意げな笑顔から、何が起こったかは察しがついた。
 彼は丸太を降りようとするチャンフィーの背後から尻を蹴飛ばし、転落させたのだ。あの様子では、何箇所か骨折しているかもしれない。
 「やれやれ……」
 頭を抱える透に向かって、珍しくビーが殊勝な態度を見せた。
 「後悔してんのか?」
 「何が?」
 「どさくさに紛れて、お前にリーダーを押し付けちまった事とか。誓いを破った事とか、いろいろ……」
 「いや……」
 透は、自分を不安げに見つめる親友に笑みを返して言った。
 「もっと大人になって、ジャンと同じくらい強くなれば、今日のことを反省するかもしれない。でも、後悔はしないと思う。
 俺が今一番大切だと思うものを、こうして守ることが出来たから」
 いつか大人になった自分が、今日という日をどんな風に振り返るかは分からない。もっと賢い選択があったかもしれないし、若気の至りと恥ずかしく思うかもしれない。しかし、少なくとも後悔はないはずだ。
 ピンク色に染まったコートを眼下に収め、透は歴代のリーダーたちの志を継ぐ覚悟を決めた。だがそれはジャックストリート・コートに再生の息吹を運ぶと同時に、新たな苦難の始まりとなるのであった。






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