第37話 勝利の女神

 京極との対戦後、自宅へ戻った透は、久しぶりに穏やかな気持ちで食卓についた。
 真嶋家の夕食は、決して和やかなものではない。細長いテーブルに十三人もの学生達が横並びに座り、好き勝手に話を進めながらもメインディッシュを争奪する様は、人間界における弱肉強食の何たるかを瞬時に伝える優れた見本であり、民主主義 ―― 特に平等については、腹を満たしてから語るものだという現実をリアルに教えてくれる体験学習の場でもあった。
 そんな生々しい食卓で穏やかな気持ちになるなど、通常ではあり得ない話だが、チャンフィーの一件以来、家の誰かと会話らしい会話をする余裕もなく、そのせいか、相変わらずの慌しい風景が妙に懐かしく、また愛おしく感じられる。
 別段、幸せとも不幸とも思わない日常があって、家族のように食卓を囲む仲間がいる。これこそが本当の意味での幸福なのかもしれない。
 透が食事の手を止めて皆の様子をぼんやり眺めていると、隣の席のエリックがメインとなるローストポークを取り分けてくれた。
 「ママのローストポークはファンが多いから、早くキープしておかないと食べられてしまうよ」
 いつもは率先して争奪戦に加わる親友が静観している事に違和感を覚えたのだろう。エリックは然るべき取り分を皿に乗せた後も透の手元を頻繁に覗き込み、その減り具合をチェックした。
 「大丈夫だ、エリック。ちょっと考え事をしていただけだから……」
 「考え事って、また何か事件でも?」
 余計な心配をかけまいと当たり障りのない理由を告げたつもりが、彼にはそれが “言い辛いこと”と映るのか、上品な細い眉をひそめている。
 「いや、そうじゃなくて、将来について……かな?」
 なるべく家ではストリートコート、特にジャンの死に結びつくような話題は避けていた。まだ心の中で整理がつかないのもあるが、言葉も文化も違うアメリカに馴染もうと努力している留学生達に裏通りの惨劇まで聞かせる必要はない、との思いもあった。
 それに将来について考えなければならないのも事実である。今日はその為に帰って来たのだから。

 透が発した一言に反応して、姉貴分のディナがすかさず会話に割り込んできた。
 「将来って、もしかして結婚したい人が現れたとか? それとも、しなくちゃいけない事態になっちゃったとか?」
 ディナはどんな話題も男女の恋愛に結び付ける。この飛躍し過ぎる質問も、夕食時の争奪戦と同様、日常化しているにもかかわらず、透は上手くかわすことが出来なかった。
 自分の意思とは無関係なところで、二人の女性が頭に浮かんだ。「結婚したい人」の後には奈緒が、そして「しなくちゃいけない事態」の後にはモニカの顔が。
 「ち、違うって! そっちの将来じゃない」
 頭の中の二人の女性も、ディナからの質問も、全面否定したつもりであったが、生憎とどちらも引き下がる気配がない。とりわけ、質問した姉貴分の方はやる気満々だ。
 「じゃあ、どっちの将来?」
 「だから……」
 ここは何としても、厳しい追及から逃れなければならない。今、脳内を占拠する二人の存在をディナに知られては、後々面倒だ。話が倍の大きさに膨れ上がって皆に伝わるだけでなく、純粋に親友の身を案じてくれているエリックにも軽蔑されてしまう。
 「だから、二人の選択を……」
 隠そうと思うほど、墓穴を掘るのが人間の悲しい性である。
 「二人!?」
 「あっ、いや……二つの選択。例えば、自分の進もうとした道が、突然、二手に分かれたら、皆はどうやって選ぶかなぁ……なんて……」
 先程までの穏やかな気持ちは何処へやら、嫌な汗が噴き出した。冷や汗という名の汗である。
 「ふうん、『二つの』選択ねぇ……」
 疑念を大いに含む視線を避けるようにして、透は強引に話を「二つの選択肢」へ持っていった。
 「どちらも前向きな選択だとして、一つはすごく遠い道のりで、ゴールできる保証もなくて、もう一つは確実にゴールできるけど、たぶん、望むものは半分しか手に入らないとしたら?」
 ディナの追及から逃れるために持ち出した話題が、話を進めるうちに核心を突いた質問へと転じた。
 透の問いかけに真っ先に答えてくれたのは、エリックだ。
 「僕なら、将来的に最も大きな収穫を得られる方を選ぶと思う。もちろん、二つの道にかかる時間や費用も考慮する必要があるけどね」
 理論派のエリックとは対照的に、ディナの答えは直感的なものだった。
 「インスピレーションに頼るしかないわよ。だって、将来、何が起こるかなんて、誰にも分からないことでしょ?
 だから、ピピッって来た方へ進めば良いのよ」
 ここにいる学生達は、国籍は違えど、皆、何かしらの志を持ってアメリカに勉強しに来ている。それゆえ、夢や将来といった類の言葉に敏感に反応する。
 この時も「将来」のキーワードを聞きつけて、次々と学生達が会話に加わってきた。
 以前、「夏が来るから」と言ってディナと別れたジョセッピは、「自分がハッピーな気分になる方を選ぶ」とお気楽な答えを出して、皆からの失笑を買い、逆に、愛らしい瞳がチャームポイントのジーンは、「最もリスクの低い道を選ぶ」とクールな意見を述べて、皆をほほうと唸らせた。
 いずれにせよ、選び方からして人それぞれで、選択肢を与えられた人間が自分で決めるしかないのだろう。様々な意見が飛び交う中、透は改めてそう結論付けた。

 食事を終えた後も、透はひとりリビングに残り、まとまらない思考と格闘し続けていた。
 時間は刻々と過ぎ、日付が変わる頃になっても、何一つ解決策を見出せなかった。
 遥希を倒すという目標を第一に掲げるならば、現状から考えて、明魁学園へ入学するのがベストである。だが、手堅い方法だと分かっていても迷いが出るのは、光陵学園に大事な何かがあるからだ。
 テニス部の皆との絆。残してきたユニフォーム。唐沢との約束。どれも大事なものには違いないが、しっくりこない。京極の誘いを吹っ切れる程の決め手に欠ける。
 一体、自分は何にこだわっているのだろう。
 生来、一箇所でじっとするのが苦手な透は、頭脳労働に向いていない。数時間も経てば思考が限界を迎え、体の方が勝手に動いてしまう。要するに、飽きたのだ。悩むという行為、そのものに。
 ソファの端から端まで移動しても落ち着かず、散々、部屋の中を歩き回った挙句、意味もなくリビングからキッチンへ行こうとした、その時だ。廊下に備え付けられている固定電話のベルが鳴った。
 この時間にかかってくるのはイタズラ電話の可能性が高いが、他に受ける者もおらず、仕方なく透が受話器を取った。
 「ハロー?」
 しばらく待ったが、わずかに雑音がするだけで、一向に返事が返ってこない。
 「やっぱ、イタ電かよ!」
 ムッとしながら下ろしかけた受話器から、か細い声が漏れ聞こえた。
 「……真嶋君のお宅……ですか?」
 かろうじて聞こえる程度の弱々しい声だが、その声には覚えがある。覚えがあるどころではない。聞いた瞬間に次々と思い出がフラッシュバックして、言葉が追いつかなかった。
 日本を発った日の、空港で情けない別れ方をして以来の、何度も思い出しては、何度も忘れようとして、結局、忘れられずにいる彼女の声である。
 いま、その彼女と、自分が握り締めている受話器の向こうで繋がっている。
 心臓がけたたましく暴れ始めた。本当に彼女だろうか。そうであって欲しい。でも、もし違っていたら。
 胸が張り裂けるかと思うほどの動揺を抱える一方で、聞き間違いではないか、と疑いもした。ぬか喜びは一番ショックがデカい。

 続きを待ったが、向こうから言い出す気配はない。少しの沈黙の後、透は恐る恐る顔の見えない彼女に尋ねた。
 「奈緒か?」という自分の声と、「西村です」という相手の声が同時に重なった。このタイミングのズレ方からして、国際電話に違いない。
 日本にいる奈緒がアメリカへ電話をかけてきたのだ。
 続けざまに、もう一度、尋ねた。
 「奈緒なのか?」
 もどかしさを充分感じる間が空いてから、彼女からの返事が聞こえた。
 「あの……覚えてますか? 光陵学園で同じクラスにいた西村奈緒です」
 「当たり前だ。忘れるわけねえだろ!?」
 「良かった、覚えていてくれたんだ。ごめんね、トオル」
 「なんで、いきなり謝ってんだ?」
 「だって、そっちはもう夜中でしょ? 時差とか計算したんだけど、国際電話をかけるの、初めてで。いろいろ迷っていたら、遅くなっちゃって。
 ごめんね。寝てたよね?」
 「いや」
 「本当?」
 「ああ」
 「でも、声が眠そう」
 「そ、そうか?」
 せっかく彼女が勇気を振り絞って電話をくれたというのに、素っ気ない返事しか返せなかった。
 喉の奥が貼り付いたようになって、上手く声が出せない。話したい事はいくつもあったはずなのに。
 どうにか会話を繋ごうとして問いかけた「どうした?」と、「あのね」と切り出す声が、またしても重なった。息が合う、と言うのか。合わない、と言うべきか。
 二人の置かれた距離を腹立たしく思いながらも、透はすぐに同じ質問を繰り返した。
 「何かあったのか?」
 再び似たような間が空いてから、返事が届く。
 「あのね。疾斗君が、最近、トオルから連絡がないって、心配していて。私も変な夢とか見ちゃって、それで……」
 「変な夢?」
 「トオルがすごく遠くに行っちゃう夢。変だよね? もう遠くにいるのに」
 「まあ、そうだけど……」
 「ごめんね。つまんない事で電話して」
 「だから、謝るなって」
 これを以心伝心と言うのだろうか。自分が不安に思っている事が、そっくり伝わったような気がした。
 彼女の言う「遠くへ行く夢」が、明魁学園を選択した場合に起こる現実に思えた。
 仮に京極の誘いを受けて日本へ帰れたとしても、透の立場はライバル校の生徒になる。光陵学園とは反対側のコートに立ち、遥希だけでなく、世話になった先輩達とも戦わなければならない。当然、彼女とも離れて過ごすことになる。
 試合の度に掛けてくれた声援も、笑顔も、敵となった自分に向けられる事はない。ある意味、アメリカで暮らす今よりも隔てられてしまう。ライバル校の生徒という柵(しがらみ)によって。
 「奈緒は謝らなくて良い。謝らなきゃならないのは、俺の方だ」
 「……何か……あった……?」
 遠慮がちに掛けてくる温かな声が、想像していたよりも遥かに懐かしく、胸の深いところが疼く。ここに、この痛みを感じる場所に、想いがあるのだ。色褪せたかに見えた彼女へ想いが。
 ありのままを伝える勇気がなくて、約束のエアメールを出せずいた。余計な心配をかけたくないと、そう思い込もうとしていたが、実際には彼女に情けない現状を知られたくなかっただけである。
 受話器から流れる温かな声は、そんな上辺の虚栄心を溶かしてくれる。彼女から掛けられた一言で、途切れた時間がまた動き出す。同じ教室で、隣の席で、何でも話せたあの頃のように。

 「俺、色々あってさ」
 「うん」
 「最低な事ばかりしていて」
 「うん」
 「何て言うか……威張れることじゃないって言うか……」
 素直な気持ちで切り出したはずなのに、やはり「テニス部を辞めて、ヤンキーになった」とは言い辛かった。
 ましてや、ヤンキー同士の縄張り争いに巻き込まれ、自らコートに乗り込み、ラケットを振り回して乱闘騒ぎを起こした挙句、めでたくストリートコートのリーダーに収まりましたとは口が避けても言えなかった。
 たとえ警察の手の届かない場所での騒動で、何の咎めも受けなかったとしても、自分がしてきた事は犯罪だ。今さらながら、その事が重く胸に圧し掛かる。
 「俺、本当に最低なんだ」
 「ケガでもしたの? テニス、出来ないとか?」
 彼女が想像し得る「最低」と、自身がしてきた事とのギャップを知らされ、ますます罪の意識を強く感じた。
 「いや、出来なくはないけど……」
 「良かった。だったら、大丈夫だよ」
 「何でだよ!?」
 彼女に非はないと分かっているくせに、やりきれない思いが語気を荒らげてしまう。変わらぬ優しさが、今は辛かった。
 「テニスを続けていたって、その為に毎日のように喧嘩して、人を傷つけていたとしたら? もうお前が知っている俺じゃないとしたら?
 それでも、大丈夫なんて言えるのか?」
 本当に責めを負わなければならない人間は、ここにいる。
 奈緒への想いを持ち続けるのが辛くて、他の女性を愛そうとした。夕食の時などは、二人の女性を同時に思い浮かべてしまった。
 そのくせ、昔と変わらず励まそうとしてくれている奈緒に対し、見当違いの怒りをぶつける自分を、この上なく醜く、無様に思う。いっそ、どこかへ捨ててしまいたくなる程に。
 今が一番「最低」だった。

 しばらくの間、雑音だけが流れていた。
 国際電話の間ではない。答えに詰まっているのか。呆れているのか。
 自ら気まずくさせておいて、相手の顔が見えない伝達手段に苛ついた。
 「大丈夫だよ」
 考え直す時間は充分あったはずだが、彼女から返ってきた答えは先と同じものだった。
 「正しくなくても、良い事だったんだよ。きっと」
 「えっ?」
 「私、知っているよ。疾斗君の時だって、そうだったでしょ。
 都大会の前なのに不良グループの人達と喧嘩しちゃって、二人とも唐沢先輩に怒られたって。疾斗君、今でも嬉しそうに話しているよ。
 『あの時、トオルと出会わなかったら、今の俺はないだろう』って」
 「疾斗が?」
 「そうだよ。だからね、私、思うの。正しい事と良い事って、一緒じゃない時もあるのかなって。皆から見て正しくなくても、救われる人がいるなら間違いじゃないって。
 だから、大丈夫だよ。今でも、トオルはトオルだよ」
 「奈緒……」
 ずっと心の奥底で引っかかっていたものの正体を、透はこの時、初めて自覚した。唐沢に必ず帰ると約束した場所は、ユニフォームを残して去った場所には、掛け替えのない人がいる。
 転校当初、クラスの皆が自分に対して距離を置こうとする中で、彼女だけは心を開いて話してくれた。レギュラーになれずにふて腐れた時も、試合で苦戦を強いられた時も。辛い時、苦しい時、どんな時でも励ましてくれた。そして、今も。
 忘れようにも忘れられない大切な存在。光陵学園には、奈緒がいる。
 今なら、不可解だった行動の一つひとつがよく分かる。
 なぜボロボロになったリストバンドを捨てられなかったのか。命がけでコートを奪還した夜、なぜ彼女の夢を見たのかも。

 「奈緒、ありがとう。もう少しで、本当に遠いところへ流されるとこだった」
 彼女にありのままを伝えよう。ストリートコートのリーダーである現状と、モニカとの事も。
 一夜で終わったとは言え、全てを話しておくべきだと思った。そして、今度こそきちんと自分の気持ちを告白する。ずっと伝えられなかった想いを、今こそ伝えるべきである。
 「あのさ、奈緒……」
 言いかけたと同時に、幼い声に遮られた。
 「あっ! 姉ちゃん、彼氏と話しているんだろ?」
 「違うよ、これは……」
 「じゃあ、なんでコソコソしてんだよ? 男の名前も聞こえたぞ。
 ハヤトって奴と、トオルって奴。どっちが本命なんだ?」
 「もう、和紀のバカ! トオル、ごめんね。弟がうるさいから、もう切るね」
 電話口で騒いでいたのは、彼女の二歳下の弟のようである。覚悟を決めた告白は、無邪気な弟によって、強制的に先送りにされてしまった。
 せっかくのチャンスを逃したことに無念さはあるが、そんなに悪い気はしなかった。短い時間でも、彼女との会話の中ではっきりと認識できた。自分が光陵学園にこだわり続けた本当の訳を。

 翌日、透は京極が滞在するホテルへ出向き、明魁学園への誘いを断った。
 「そうか。ま、何となく、分かっていたけどな。お前は夢の欠片で満足できる奴じゃない」
 悩んだ末に下した結論を、京極は予測していたかのように、平然と聞いていた。
 「夢の欠片、ですか?」
 「他人から与えられた中途半端な夢には興味がない。そういう事だろう?」
 「いえ、物凄く興味はあったんです。こんなチャンス、二度とないと思うし。
 でも、まだ諦めたくないんです。やれる事を全部やってから諦めないと、後悔しそうだから。
 せっかく誘っていただいたのに、すみません」
 「一つ、聞いて良いか?」
 頭を下げる透に対し、珍しく京極が躊躇う素振りを見せた。よほど聞きづらい内容らしく、切り出した後も少しの間があった。
 「お前が光陵にこだわる理由は、リーダーか? その……俺より成田の方を、お前は……」
 「いえ、違います。京極さんと成田部長を比べた訳じゃありません」
 「なら、唐沢か?」
 「それも違います。上手く言えないんですけど、勝てる気がしないんです。光陵学園じゃないと、俺は戦い続けることが出来ない。そのことを思い出したんです」
 「光陵には、勝利の女神でもいるのか?」
 「ええ、まぁ……」
 「そうか、分かった」
 一瞬、京極が名残惜しそうな目を向けたかに見えたが、すぐにいつもの強気な態度に戻ると、限りなく脅しに近い激励を残して立ち去った。
 「次に会う時は敵として叩き潰してやるから、心して這い上がって来い」

 京極と別れてから、透はハウザーの店へ向かった。一昨日、彼から出された宿題の答えを返すために。
 仲間と夢の両方を守れるリーダーになる。その夢とは、他の何処でもない。光陵学園へ帰ること。
 右手には奈緒からもらったリストバンドが復活している。丁寧に洗ったにもかかわらず、所々に茶褐色のシミが残ってしまったが、それも含めて、今の自分を受け入れようと思った。
 「覚悟して這い上がって来い……か。そうだよな。どん底まで落ちたんだったら、あとは這い上がるだけだ」
 躓き、傷つき、随分と汚れはしたけれど、変わらないものもある。変えたくないものがある。
 「だいじょうぶ。トオルなら、できるよ」
 透は一旦、足を止めて、リストバンドの文字を指でなぞると、また駆け出した。メインストリートへと向かう背中には、形見のラケットが一本。その重みに似合わぬリズムで揺れていた。






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