第39話 新メンバー乱入

 「なんか、俺達、だせえよな?」
 「虚しいとも言うけどね」
 ジャックストリート・コートを奪還してから一ヶ月。特に大きな争いごともなく、平穏無事に過ごせているというのに、ビーも、レイも、ひどく機嫌が悪かった。
 この場合、平穏過ぎることが問題なのかもしれない。
 挑戦者が一人も来ないのだ。かつては五十人ものメンバーが切磋琢磨し合い、活気に溢れていたコートが、今は見る影もない。
 ジャンがリーダーを務めていた頃は、日の出と同時に挑戦者が詰めかけ、長蛇の列が出来たこともある。ジャックストリート・コートのメンバーだと言うだけで、他のヤンキーから羨望の眼差しを向けられたこともある。それなのに――。
 過去の栄華を知る彼等にとって、四角いコートの四隅も埋まらぬ現状は、ストリートコート始まって以来の屈辱的な事態であった。

 普段はクールなレイから透のもとへ、大きめの溜め息が送りつけられた。
 「まったく……これじゃあ、何のために命がけでコートを取り返したんだか。だいたい、誰かさんが『伝説を引き継いだ悪魔』なんて名乗るから、皆、ビビって近づかないんだぞ」
 「『伝説を引き継いだ悪魔』って、何のことだ?」
 身に覚えのない話に、透は首を傾げた。
 「知らないのか? ジャックストリート・コートの新リーダーは血も涙もない悪魔みたいな奴だって、街中の噂になっているぜ」
 「なんで、俺が? 名乗るにしても、悪魔はねえわ」
 「じゃあ、誰の仕業だ? もしかして、チャンフィーの嫌がらせとか?」
 あの男の性格ならあり得ない話ではないと思ったが、意外にも犯人は身近なところに潜んでいた。
 「俺様が聞いたのは、トオルが一人で二百人のヤンキーをぶっ飛ばしたって話だ。ジャックストリート・コートが血の海になったらしいぜ」
 それまで不機嫌だったビーが、急に相好を崩して語り出した。自分達の首を絞めているはずの噂話を、なぜか前のめりになって聞かせる彼に、透は違和感を抱いたが、この時はまだ噂の中身に意識が向いていた。
 「ちょっと待ってくれ。俺が相手にしたのは、せいぜい三十人程度だ。それに一人で倒したわけじゃない。
 ビーも一緒にいたんだから、知っているだろ?」
 「もちろんだ」
 「当然、訂正してくれたんだよな?」
 「ああ。せっかくだから、二百人じゃなくて、五百人と言っておいた」
 「ビー!? なんで、わざわざ評判を落とすような真似をするんだ!?」
 「評判を落とす? 上げるの間違いじゃねえのか?」
 ビーの感覚では最悪と最強はイコールで、リーダーが悪ければ悪いほど人気が上がると思っているようだ。彼の頭の中に“倫理”の二文字は存在しない。
 そう言えば、前にも新リーダーの称号を決めると張り切っていた記憶がある。なるべく強そうな感じのするネーミングがどうの、と話していた。
 「ビー? もしかして『伝説を引き継いだ悪魔』も、お前が流したのか?」
 ピンク髪を得意げに揺らし、ビーが大きく頷いた。彼の態度に悪びれた様子は微塵もなく、むしろ、透からの称賛を期待しているかに見える。悪しき噂の元凶は自分達の足元にあったのだ。
 「あのさ、ビー? よく考えてみろよ。
 五百人のヤンキーをぶっ飛ばした悪魔みたいなリーダーと、本気でテニスの勝負をしたがる奴がいると思うか?」
 「千人の方が良かったか? やっぱ、五百人じゃ中途半端だよなぁ」
 「だから、そういう次元の話じゃないッ!」
 「リーダー、気持ちは分かるけど、とりあえず冷静になろうよ」
 身内に対して思わず拳が出そうになった透を、レイが大人の意見で取り成した。
 「こうなったら、噂が自然消滅するのを待つしかないでしょ? それより、今は一人でも多くのメンバーを集める手立てを考えないと」
 確かにレイの言う通りだ。
 三人でコートの番をしながら、学校やアルバイトへ行くには限界がある。夜中の見張り番も合わせれば、家に帰る暇もないのが現状だ。噂の出所を責めるより、メンバーの確保を優先すべきである。
 「ちょっと出かけてくる」
 透は二人に見張りを託すと、ハウザーの店へ向かった。ここはやはり、初代リーダーから知恵を授かる外あるまい。
 テニスショップへ行く道すがら、透はつくづくあだ名に恵まれない人生だと思った。光陵学園にいた頃も、「ウ吉」というダサいあだ名に悩まされた覚えがある。今となっては「ウ吉」の方が、血が通っているだけマシのような気もするが。
 「『伝説を引き継いだ悪魔』って……どんなセンスしてんだよ」
 メインストリートのショー・ウィンドウに映る自分の姿に向かって、透は尖った唇でひとりごちた。

 ハウザーを訪ねて店内へ入ると、すでに先客がいた。
 彼の古くからの知り合いだろうか。カウンターを挟んで親しげに話すスラリと背の高い女性は、ただの客にしてはスキンシップが多かった。
 ハウザーの方も、まんざらではなさそうだ。
 確か、彼は妻子ある身と聞いたが、新婚でもあるまいし、古女房が旦那の職場まで押しかけてベタベタするとは思えない。また、子供は息子だったと記憶している。可能性があるとすれば、愛人というヤツか。
 好奇心も手伝って、透はしばらく黙って二人の様子を観察することにした。
 色々な意味でドキドキした。
 人の良い店長の浮気現場など、滅多にお目にかかれるものではない。しかも、相手の女性はモデル並みに美しい。日頃から人の外見など気にも留めない透だが、彼女に関しては一目で美人だと思った。
 腰まで伸びた癖のない髪は、彼女が笑うたびにサラサラと揺れて、白い首筋に流れ込む毛先が、グラスに注がれる瞬間のシャンパンの泡を髣髴とさせる。
 シャンパンゴールドと言うのか。アメリカに来て金髪など見慣れているはずなのに、彼女の細い髪はどれにも属さない上品な輝きを放っている。それがエメラルドグリーンの瞳と相まって、実際にヴィーナスがいるとすれば、こんな感じではなかろうかと、ついうっとりと見入ってしまう。
 いくら自制心のある男でも、彼女に言い寄られれば一溜まりもないだろう。オヤジの域に達した店長は、特に。

 シャンパン色の髪を持つ女性は、店の入口で待機する透に気付くと、すぐに話を止めた。
 「あら、ずっと待たせていたのかしら? 気が付かなくて、ごめんなさい」
 「あ、いえ……」
 「店長に用かしら?」
 「えと……あ、はい……」
 胸の高鳴りがますます激しくなった。視線を合わせるだけで緊張する。深刻な問題を抱えて来店したにもかかわらず、当初の目的は頭から消え去り、目の前の美女と会話を繋げることで精一杯だ。
 すると、突然、彼女の白い手が透の肩先に伸びてきた。
 「な、なに!?」
 男なら誰しも両腕を広げて歓迎する場面で、透は思わず飛びのいた。
 洗練された美女からのアプローチは十四歳の少年には刺激が強すぎて、体が勝手に警戒態勢に入ったようだ。その証拠に、耳の後ろに悪寒に良く似た震えが走り、それが全身に広がって、警鐘を鳴らしている。世にいう「ゾクゾクするような美人」とは、まさしく彼女のことである。
 「驚かせてゴメンなさい。でも、鞄の底が切れてしまいそうで……」
 彼女は大げさな拒否反応にも動じず、透の鞄の綻びを指差した。
 慌てて背中を確認すると、確かに鞄の底が擦り切れて、今にも穴が開きそうだ。
 「参ったなぁ。そろそろヤベエかとは思っていたんだけど……」
 奈緒にリメイクしてもらったのは一年半も前のことで、以来、毎日のように使っているのだから、ボロボロになったとしても不思議ではない。
 綻び部分は小さく、そこを縫い合わせれば使えなくもないが、幼い頃のトラウマで尖ったものに対して恐怖心を抱く透には、針を持つことからして至難の業である。どうにか針を持たずに済む方法はないものか。
 頭を悩ませているところへ、例の美女から救いの手が差し伸べられた。
 「応急処置で良ければ、私が縫いましょうか?」
 エメラルドグリーンの瞳に覗き込まれ、またしても透は本題を忘れそうになった。
 「いや……見ず知らずの人に、そこまでしてもらうわけには……」
 「まあ、私のこと、覚えていないの?」
 大げさな拒否反応を示した時よりも、今の方が彼女は落胆した様子である。どうやら彼女は透にとっても知人のようだが、いくら記憶を探っても、思い当たる節がない。
 呆け顔を覗き込む柔らかな視線に陰りが差した。その寂しげな瞳がまた色っぽく、純粋な少年を極度の興奮状態に陥れる。
 「ま、前に……貴女とお会いしたですか……?」
 動揺のあまり可笑しな敬語を使う透に向かって、彼女が好奇心いっぱいの笑顔を傾けた。
 「ええ、そうよ。秘密にして困らせてみたい気もするけど、ヒントをあげるわね。
 私の名前はクリス。鞄を縫っている間に、思い出してみて」

 透はぼうっとしかけた意識を呼び戻し、シャンパンゴールドとエメラルドグリーンを手掛かりに、ここ最近の自身の行動を思い返した。カウンター越しに睨みを利かすハウザーの視線には目を瞑り、まずは美女と出会いそうな場所から挙げてみる。
 アルバイト先、学校、ストリートコート。この三箇所をぐるぐると回るだけの平凡な生活に、こんな美人と出会う機会があっただろうか。「クリス」という名前も初めて聞いた。
 「駄目だ! 全然、分かんねえや」
 頭を抱える透に修理を終えた鞄を渡すと、彼女が耳元で囁いた。
 「ずっと私のこと、考えてくれていたのね? 嬉しいわ、小さなバトラーさん!」
 その台詞を聞いて、透はようやく思い出した。クリスは、透がバトラーの仕事をしているホテルの常連客である。
 仕事柄、ドリンクのオーダーを取ったり、ラケットやタオルを渡すなどの世話をしたのだろうが、いちいち客の顔まで覚えていない。本業ならまだしも、所詮はアルバイトだ。プレーに興味はあっても、客の容姿に関心はなく、顔よりもラケットを見せられた方が早く気付いたかもしれない。
 「そうか、ホテルの……」
 せっかく思い出したというのに彼女の姿はすでになく、店から出ていった後だった。
 「リーダー、それで?」
 カウンターからハウザーが用件を尋ねてきたが、気まずさを大いに感じた透は相談事を切り出せず、そそくさと退散した。

 次にクリスと再会したのは、ホテルのテニスコートであった。
 透の勤務先であるセント・ラファエル・ホテルでは、月に二回の割合でVIPの客向けにテニスレッスンが開催されている。
 但し、VIPと言っても、従業員の間ではいくつかランク分けがされており、政府の役人など、いわゆる「要人」と呼ばれる本当の意味でのVIPもいれば、形ばかりのVIPもいる。百ドル程度の年会費で誰でも入会できるホテル会員は、VIPの中でも館内を閑散とした印象にさせない為の“にぎやかし”に過ぎず、舞台裏では「一見の客以上、上客未満」の位置づけだ。
 今回、レッスンの対象となったのは、このホテル会員で、その中にクリスもいた。
 勤務中は知り合いであっても私語は禁じられている為に、透は軽く会釈をする程度に留めた。すると、向こうもそれに気付いて手を振ってくれた。
 仕事を終えたら、きちんと彼女に鞄の礼を言いに行こう。年上美女との再会に、思わず口の端を緩めた直後に事件は起きた。

 最初に透がコート内の異変に気付いたのは、テニスコーチのウェインがリターン練習を始めた時だった。
 彼はレッスン生を相手にプロの試合でも通用するような速いサーブを打ち込んでいたのである。
 「ボールをよく見て、返してくださいね。リターンのコツは、ボールをしっかり見ることですよ」
 口調は丁寧だが、指導法は無茶苦茶だった。
 今回のレッスンは初心者が対象だと聞いている。それにもかかわらず、ウェインは返せもしない速球を打ち続けるだけで、生徒を指導する気がないようだ。
 そもそも「ボールをしっかり見ろ」などと、部活動の先輩レベルの助言で生徒がまともに育つわけがない。初心者に限らず、生徒は全員「しっかり見ている」つもりであり、本来ならば、指導者側が生徒のレベルに応じて、自然に課題がクリアできるような練習メニューを提供すべきである。
 モニカの指導法がそうだった。彼女は、どんなに高いハードルであっても適切な階段をセットしてやれば超えさせることが出来ると信じていたし、それが指導者の腕の見せどころだと自負もしていた。
 そんな彼女から指導を受けてきた透には、ウェインのレッスンがどうしてもプロならではの内容とは思えなかった。
 かれこれリターン練習だけで三十分が経過している。明らかに、これは苛めである。
 ウェインは会員を苛めて楽しんでいるのだ。しかも、コートの中でサーブを返せず苦痛の時間を過ごしているのは、あのクリスであった。
 バトラーという立場上、客の世話をしても、レッスンにまで口出すことは許されない。だが、ここまであからさまに苛めが続くと、さすがに黙ってはいられない。
 「コーチ? そろそろ練習内容を変えられてはいかがですか? お客様もお疲れのようですし……」
 透は、ブレッドから習いたての丁寧な言葉遣いでウェインに進言を試みた。
 これはあくまでも接客用に習った敬語で、無能なコーチに披露するのは無駄遣いに思えるが、アルバイトの立場では仕方がない。騒ぎを起こさず、穏便に事を進めるには、多少の我慢はしなくてはならない。全ては日本へ帰る為である。
 「アルバイトの分際で、プロのコーチに指図しようと言うのか?」
 案の定、ウェインが突っかかってきた。いくら丁寧に言い繕ったところで、苦言は苦言である。
 「いえ、コーチに意見するつもりはありません。ただ、お客様が快適に過ごされるよう努めるのが、バトラーの仕事ですから」
 「お前、何か勘違いしているだろう? 俺は特別にVIP様を鍛えてやっているんだ」
 「返せないと分かっているサーブで、ですか?」
 「小僧、一度だけチャンスをやる。この仕事を続けたかったら、二度と俺のレッスンに口出しするんじゃない」

 コートへ戻ると、ウェインは前よりも力を込めてサーブを打ちつけた。それも、今度は体の正面を狙った返しづらいコースである。
 透の指摘がよほど癇に障ったと見える。
 これ以上、ウェインを刺激してはならない。彼女のためにも、自分のためにも。
 透は中途半端な正義感でコーチに進言したことを後悔した。ストリートコートならともかく、ここではウェインがボスであり、自分は彼をサポートする立場にある。道理が通らなくても耐えるしかないのだ。
 もう少しでレッスンも終わる。黙って仕事に没頭すれば、すぐに過ぎていく時間だ。
 なるべくコートの外側で待機する客達の世話に回り、意識が中へ向かないよう努めるものの、ボールのバウンドする音で苛めがまだ続けられていると分かってしまう。
 勢いの増していくサーブの音と、無理に受けようとしてラケットが弾き返される音と。どんな重労働よりも辛い時間が流れていた。
 やはり、もう一度コーチに頼んでみようか。時間稼ぎにはなるかもしれないが、もしも状況をさらに悪化させてしまったら。
 心の中で葛藤を続けているうちに、いつの間にか不快な音は止んでいた。不思議に思ってコートを見やると、ウェインが放ったと思われるボールがクリスの足に当たり、彼女はその場にうずくまっている。
 さすがに我慢の限界だった。せっかくブレッドに紹介してもらった割の良い仕事を手放したくはないが、ここで見て見ぬ振りをすれば、給金よりも大切な何かを失う気がした。
 「コーチ、初心者のお客様に対してやり過ぎじゃないですか? 指導の域を超えています」
 「当たり前だ。最初からテニスを教えようなんて思っちゃいない」
 「貴方はプロのコーチでしょう?」
 「ああ、そうだ。だが、こいつは客でもなければ、レッスン生でもない」
 「どういう意味ですか?」
 「お前は新人だから知らんだろうが、奴はストーカーで、しかも男だ」
 「へっ……?」

 予期せぬ展開に、怒りの熱が急速に冷めていくのを感じた。
 今まで女性だと信じて疑わなかったクリスが、実は男であった。常識を根底から覆された時の驚きは、どんな激しい感情も一瞬にして冷却する効果があるようだ。
 透の動揺を見て取って、ウェインが勝ち誇ったように続けた。
 「奴がここに来ているのは、俺が目当てだ。何度も『付き合え』としつこく言い寄ってきて、実際、迷惑している。レッスン中も色目を使いやがって、気色悪いんだよ。
 男が男に口説かれる気持ち悪さが、お前に分かるか?」
 「ええ、まあ……」
 その点に関しては、少なからず覚えがある。
 「だったら持ち場へ戻れ。今日という今日は、このオカマ野郎に思い知らせてやる」
 ウェインの話は分かった。ハウザーの店でやけにドキドキした理由も。
 本人に自覚がなくとも、本能が察知したのだ。クリスが滝澤と同類であることを。
 要するに、アレルギー反応と同じ理屈である。己の身を守るための防御策とでも言おうか。透はこの手の人間に出会うと、耳の後ろに悪寒が走り、心拍数が上がる。光陵学園で禁断の園を無理やり覗かされた恐怖体験から、本人も気付かぬうちに、そういう体質になっていたようだ。
 彼女を見てドキドキしたのは、クリスが稀に見る美人だからではない。「ゾクゾクするような美人」ではなく、本当にゾクゾク、いや、ゾッとしたのである。
 困った事になった。アレルギーが発覚した今となっては、ウェインの言い分も分からなくはない。
 しかし、格好良く啖呵を切っておきながら、事実を知らされたからと言って、「失礼しました」と引き下がって良いものか。出来れば、こうなる前に知らせて欲しかったが、今さら何を言っても「後悔、先に立たず」である。
 さり気なくクリスの様子を探ると、皆の前で公表された恥ずかしさからか、彼女はコートの中で気まずそうに俯いている。周りの客はと言えば、そんな彼女に対し嫌悪感を露にしている。
 たった一人の何も抵抗しない人間に対して。自分達とは違うという理由だけで。

 透はコートの中へ入ると、クリスを後ろに庇うようにしてウェインと向き合った。
 「どんな理由であれ、テニスコートは人を傷つけるための場所じゃない。今すぐ無意味なレッスンは止めてくれ」
 「ほう……良い度胸だ。アルバイト生のくせに、俺に口答えをすれば、どうなるか分かっているんだろうな? たかがホテル会員の為に、仕事を失くしても良いと?」
 「俺は一ドルの客も、千ドルの客も、差別する気はない。それがテニスコートの中なら、尚更だ」
 これを聞いて、コートで項垂れていたクリスが顔を上げた。
 「ありがとう、リーダー。でも、もう止めて。このままではクビになるわよ」
 「気にするなって。鞄の礼だと思ってくれ」
 「でも……」
 「リーダーだと?」
 二人の会話から透の正体を嗅ぎつけたウェインが、意地悪く微笑んだ。
 「分かったぞ、小僧。お前、あのジャックストリート・コートの新しいリーダーか?」
 「ああ、そうだ」
 ブレッドには申し訳ないが、こうなった以上、否定は出来ない。
 「オカマの次は、クズか。こいつは面白い。噂のリーダーの実力を試してやる。俺と勝負しようぜ」
 「条件は?」
 「6ゲーム、1セットマッチ。負けたら俺達全員に謝罪して、そのオカマ野郎を連れてコートから出て行け」
 「で、条件は?」
 「聞いていなかったのか? 今、言っただろう?」
 「俺が勝った時の条件をまだ聞いていない」
 レッスン中のテニスコートは騒然となった。それまで知らん顔を通していた客達が口々に勝敗の予想を立て始め、騒ぎを聞きつけた宿泊客が他の客も呼び込み、コート周辺は黒山の人だかりとなった。
 ホテル主催のレッスンの最中に従業員同士が試合を始めるなど、前代未聞の珍事である。しかも、プロのコーチを相手にアルバイトのバトラーが勝つ気でいるのだ。さほどテニスに精通せずとも、野次馬の目を引くには充分だ。
 「万に一つもないと思うが、俺が負けたら、貴様の言うことを何でも聞いてやる」
 「だったら、彼女の言うことを聞いてやってくれ」
 「良いだろう」
 「ラケットを取ってくる」
 早速、準備に入ろうとする透を、クリスが押し止めた。
 「止めた方が良いわ。いくらリーダーだって、コーチに勝つなんて無理よ!」
 「心配するな、クリス。お客様に快適に過ごしてもらうよう努めるのがバトラーの仕事だ」
 「そんな冗談、言っている場合じゃないでしょう? こんな事をしたら、クビになるのは確実よ。今ならまだ間に合うから、一緒に謝りに行きましょう」
 「悪くもねえのに?」
 「えっ?」
 「アンタのことはよく知らない。けど、どっちが真っ当な人間かは分かっているつもりだ。
 それに……」
 透はクリスをコート脇のベンチに座らせると、バトラーの指導係から勤務中は厳禁と注意を受けた、とびっきりの笑顔を向けた。
 「本当はバトラーの仕事より、こっちの方が専門なんだ」


 翌日、透はレイからこっ酷く絞られていた。
 「で、たった一人の顔見知り程度の客のために掟破りの試合をして、せっかくブレッドが紹介してくれたバイトをクビになった、と。そういうわけ?」
 「まあ……」
 「まったく、ただでさえ良くない噂が流れているところへ、どうして自分から煽るような真似をするかな? 本当にリーダーの自覚ある?」
 「悪りぃ」
 昨日の試合で、透はものの十五分で勝利を収めた。コーチと言えど、生徒をいたぶる事しか頭にないウェインに対し、日々の努力を欠かさず、元プロのジャンの下で鍛錬してきた透が負ける要素はなかった。
 しかし、そのせいで騒ぎはより一層大きなものとなり、瞬く間に噂は広まった。
 素人のアルバイト生がプロのコーチを“打ちのめした” ―― 初めは鮮やかな勝利を称えたつもりの“打ちのめす”が、噂がホテルから街中へと移るに従い、尾ひれ背ひれが付いてきて、再びホテルのマネージャーの耳に入る頃には凶悪事件のキーワードと化していた。
 高級ホテルのバトラーが実はストリートコートのリーダーで、彼はレッスン中に仕事をほったらかして試合を始め、その挙句、注意を与えたコーチを鉄製のラケットで“打ちのめした”と。
 「俺様は鼻が高かったぜ。ジャンの伝説を引き継ぐんだから、こんぐらい派手にやらねえと。やっぱ、千人倒したって言っときゃ良かった!」
 リーダーの悪評に舞い上がるビーの姿を見て、改めて透は己の軽率さを思い知らされた。
 これでは、メンバー募集は夢のまた夢である。当分、三人だけのローテーションを覚悟しなければならない。

 すると、そこへ事件の切っ掛けとなったクリスが、透を訪ねてストリートコートへやって来た。
 「リーダー? 昨日は、どうもありがとう」
 「どうして、ここへ?」
 「お礼を言いに来たの」
 「よく俺の居場所が分かったな」
 「だって、街中の噂になっているもの。道を聞いた人全員に『行かない方が良い』って止められたけど」
 昨日とは打って変わって、エメラルドグリーンの瞳が涼やかに見えた。
 不毛な恋愛に終止符を打ち、新しい一歩を踏み出そうとしている。そんな何処か吹っ切れたような軽やかさを感じる。
 「昨日のことは鞄の礼だから。気にするなって、言っただろう?」
 「そうはいかないわ。あの後、他のレッスン生の中にもリーダーの勇気ある行動に感動した人達がいて、皆でホテルのマネージャーにクビを取り消すよう頼みに行ったのよ。ウェインにも事実を話してもらってね」
 「あのウェインが? まさか?」
 「ええ、本当よ。試合の条件があったでしょ? 何でも言うことを聞くって。
 だから、彼の場合は渋々だけど」
 「じゃあ、もしかして?」
 「マネージャーさんが言っていたわ。『優秀なバトラーをクビにすれば、それこそホテルの名誉にかかわる』って。明日からシフトに入れてくれるそうよ」
 上辺の感謝ではなく、クリスは本気で透の為を思って、直接マネージャーに働きかけてくれたらしい。
 「ありがとう、クリス。正直言うと、困っていたんだ。助かるよ」
 「どういたしまして。これぐらいダーリンの為なら、どうって事ないわ」
 「ダ、ダーリン?」

 バトラーに復職できるよう口を利いてくれた恩人にもかかわらず、心の中に感謝の気持ちがあるにもかかわらず、透は大きく後ずさりをして、間合いを取った。耳の後ろがゾクゾクして、激しい動悸を感じる。
 「あの……クリス?」
 「なあに、ダーリン?」
 「念のために言っておくけど、俺はノーマルだから」
 「知っているわ。ハウザーから聞いたもの。『ナオ』って彼女がいるのよね?
 その前は『モニカ』という彼女がいたけど、すぐに別れたんでしょう?」
 「ち、違うっ! モニカの事は……って、なんでハウザーが、そこまで知っているんだよ?」
 「あら、ただの浮気なの?」
 「いや、その……」
 動悸がますます激しさを増していく。但し、その原因はアレルギーなどではなく、罪悪感によるものだ。
 追い討ちをかけるように、レイの冷やかなコメントが耳元に届く。
 「ふうん、モニカとねぇ。怪しいとは思っていたけど、そういう事になっていたんだ」
 無論、ビーも便乗しないわけがない。
 「新リーダーは伝説だけじゃなくて、前リーダーの女癖もしっかり引き継いでいたとはなぁ。『エロを引き継いだ悪魔』ってか?」
 「だ、だから、それは……」
 「おまけに両刀だったとはねぇ。こういうの、『バイ』って言うのか? 俺様には分かんねえ世界だな」
 「だから、違うんだって!」
 「大丈夫よ、ダーリン。私、障害の多い恋愛には慣れているの」
 クリスの抜けるように白いけれど、太くて逞しくもある腕が、透を捕らえた。見かけは確かに女性だが、その怪力は紛れもなく男性のものである。
 こうなって初めて、透はテニスショップでのハウザーの強い視線の意味を理解した。あれは睨んでいたのではない。クリスの惚れっぽい性格をよく知る彼は、透の身を案じてくれていたのだ。
 「クリス……俺、マジでこういうの、駄目だから……」
 さすがに本人を目の前にしてアレルギーがあるとも言えず、世間から『悪魔』と恐れられるリーダーは、情けない醜態を晒して拝むしかなかった。
 「心配しないで、ダーリン。今日から私が貴方のお世話をするわ。ここのメンバーの一員としてね」
 彼女が透を訪ねた真の目的は、別のところにあったようである。
 「ゲッ! 記念すべき最初のメンバーがオカマかよ!? 良いのか、レイ?」
 これまで他人事だと思って高みの見物を決め込んでいたビーが、突如として降りかかった災難に慌てふためいた。
 「この際、贅沢言っていられないんじゃない?」
 「でも、オカマだぞ? ジャックストリート・コート始まって以来の……えっと、何て言うんだけ?」
 「不祥事かい?」
 「そう、そう。不祥事だ」
 「この程度の不祥事じゃ、もう誰も驚かないと思うよ。それにモニカがいた頃を考えれば、女でも、男でも、どっちでも良いんじゃない?」
 「バ〜カ! どっちかなら良いんだ。けど、奴はどっちでもないんだぞ?
 こんな奴をメンバーに入れてみろ。せっかく良い感じで盛り上がってきた評判が、ガタ落ちだ」
 「それなら、心配しなくて良いよ。もう、どうしようもないとこまで落ちているから」
 レイの判断は、いつ、どんな時でも的確だ。

 「おい、そこのピンク髪!」
 本当の災難は、この一言から始まった。
 「さっきから黙って聞いてりゃ、オカマ、オカマって、どの口が言ってんだ?」
 透を捕らえていた逞しい腕が、ビーへと伸ばされた。
 「うちのリーダーは、こういう差別を嫌うんじゃねえのか?」
 あまりの豹変振りに、透を始め、メンバー一同、我が目を疑った。
 凄みの効いた声と言い、片手で大の男を宙吊りにする腕力と言い、メンタルな部分を除いては、やはりクリスは男であった。
 二人を比べてみて分かった事だが、彼女はビーよりも体格が良かった。長い髪に遮られて見えなかっただけで、肩幅はジャンと同じ広さがあるのではないだろうか。
 「コートの中では誰でも平等なんだよな?」
 「は、はい……」
 生前のジャンを思わせる迫力に、さすがのビーも抗う勇気はないらしい。
 「だったら、誰がメンバーになっても文句はねえだろ。
 それに、今は工事中だ。分かったか!」
 「はい!」
 返事はしたものの、ビーが本当に理解したのは「これ以上、クリスを怒らせてはいけない」という一点であり、それは透も同じであった。
 特に「工事中」とは、どういう事なのか。頭の中で疑問が広がるが、触れてはいけない領域にあると察して、あとはひたすら彼女の地雷を踏まぬよう大人しくしていた。
 こうして腕力も迫力もジャン並みに強い事が判明したクリスは、本人の希望通り、新メンバーの地位を獲得し、この日を境にコート内での実権は、リーダーの透ではなく彼女が掌握したのであった。






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