第48話 サービス・ファイト
アメリカ合衆国最大の都市・ニューヨーク。そこでの滞在は、当初、透が想像していたよりも有意義で、そして笑いの絶えない毎日だった。
気心知れた仲間との仕事に加え、休憩時間にはノーラが話題の中心となって、現場の雰囲気を盛り上げてくれている。
実は今回のファッション・ショーにノーラが出演する予定はないのだが、彼女は休憩時間になると「関係者以外立ち入り禁止」エリアにふらりと現れ、スタッフあての差し入れを我が物顔で飲み食いしながら、あたかも一仕事終えたような寛ぎ方で楽しく談笑しているのである。
毎回、警備員の監視の目を潜り抜けて入って来られるのは、モデルの人脈を使ってか、大らかな性格のなせる業かは分からない。だが、彼女がこうして訪れる理由については見当がついていた。
「それで頭にきたから、そのスケベなイタリア人を怒鳴りつけてやったの。『私の気を引きたいなら、せめて日本の歌の一つでも覚えてから来ることね』って。
そうしたら彼、何て言ったと思う?
『一晩かけて覚えるから、日本で一番ポピュラーな歌を教えてくれ』って、涙目でひざまずくのよ。
さすが駆け引き上手なイタリア人よね。他の日本人を口説く時に使うのよ、きっと!」
酒の力を借りずとも、今日もノーラの舌はエンジン全開だ。
透は休憩所のテーブルに置かれた差し入れの中から好みのジュースを選ぶと、口をつける手前で話の続きを促した。
「で、そのイタリア人に教えたのか?」
「ええ。一晩もかけなかったけど」
「日本で一番ポピュラーな歌って、どんな?」
海外生活が長くなればなる程、現地の知識は増える代わりに、日本の世情に疎くなる。少しでもこの浦島太郎現象を食い止めるための問いかけであったが、間髪を容れず返された答えは、透の予想を遥かに超えるものだった。
「六甲おろし」
「えっ? 『六甲おろし』って、あの野球の? 阪神タイガースの?」
「もちろん、流行ってなんかいないわよ。でも彼には日本で最もポピュラーで、『オー・ソレ・ミオ』と同じくらい情熱的な恋の歌だって、教えたの」
「いくらなんでも、それはマズいだろう?」
「良いのよ。あのイタリア人、ほんとに失礼しちゃうんだから。
それより、想像してみて? ブランド物のスーツでビシッと決めた気障なオヤジが、これから彼女を口説くって時に、大声を張り上げて『六甲おろし』を熱唱するのよ。最高でしょ?」
ノーラに言われるまでもなく、透は曲名を聞いた時点で滑稽な場面が頭に浮かび、口に含んだジュースを噴いていた。
日本語の知識のない外国人からすれば、確かに情熱的な恋の歌に聞こえるかもしれない。
『六甲おろし』を『オー・ソレ・ミオ』と同じノリで歌いながら、日本女性を口説こうとするイタリア人。熱唱された側は、どういうリアクションをするのだろうか。万が一、相手がジャイアンツ・ファンなら、とんでもない事になる。
ノーラが持ち込む話題は、いつもこうだ。わざわざ知らせに来る程のものではないが、どんなに緊迫した現場でも簡単に和ませてしまう。
透は他愛もない笑い話を幾度となく聞かされているうちに、なぜジャンが彼女を「最高の女」と称したか、分かるようになった。
一見、無頓着に振舞っている彼女だが、他人が背負う心の傷を敏感に見て取れる。そして、その傷を知っていながら特に何をするでもなく、ささやかな笑いを残して去っていく。
三日前、透はジャンを死に追いやった事実を告白し、一年分の涙を流した。その告白を受けたノーラもまた、同じくらいの涙を流した。
二人で肩を寄せ合い、よく泣いて、最後には笑顔で別れたが、それで悲しみの全てが洗い流された訳ではない。恐らく最愛の人を失くしたという点では、彼女の方が多くの悲しみを残しているに違いない。
それなのにノーラは自身のことはさておき、透のために毎日職場でもない舞台裏まで押しかけて来るのだ。他愛もない笑い話を引っ提げて。
そんな彼女のタフな優しさに、『伝説のプレイヤー』も惹かれていたのだろう。
ノーラの話を聞きながら、透はこの出会いが偶然ではないような気がしていた。きっと、ジャンが引き合わせてくれたのだと。
「ジャックストリート・コートのリーダーが、ここに紛れちゃいねえか?」
声がした方を振り返ると、厳つい顔の大柄な男が、見覚えのある連中を引き連れ、入口に立っていた。巨体の陰で震える警備員の様子から察するに、彼等はノーラよりも大胆な方法で舞台裏まで来たようだ。
「リーダー、こいつだ。この間の生意気なガキは!」
連中のうちの一人が、リーダーと呼ばれた男の背後で透を睨みつけている。
「あら、アンタ達! インチキ寿司屋の前で私達にちょっかいかけてきたヤンキーでしょ? 自分から喧嘩を売ったくせに、途中で逃げ出した根性ナシの!」
閃いたとばかりに、ノーラが叫び声を上げた。
彼女のいう通り、その面々は寿司屋の前で絡んできたところを透が返り討ちにしたヤンキーだった。自分達では適わないと判断して、ボスを連れて来たのだろう。
「この間の借りを返しに来たんなら、表で聞いてやる。他のスタッフを巻き込むな」
すぐにでも応戦できる構えを取って、透が立ち上がった時だ。リーダー格の男から、予期せぬ台詞が飛び出した。
「うちのバカどもが迷惑をかけて悪かった。これで水に流してくれねえか?」
言うが早いか、男は子分達の頭を拳で順番に小突いていった。
「何だよリーダー、仕返ししてくれるんじゃねえのかよ?」
「バカ野郎! 俺がそんなくだらねえ理由で、わざわざ出向くか!」
男は自身を「ラルフ」と名乗り、改めて透に向かって自己紹介を始めた。
「俺はこの街のサウスストリート・コートのリーダーで、東では最強だと恐れられている男だ。うちのバカどもから話を聞いて、西のリーダーと勝負しに来た。
赤いジャケットの日本人。お前がそうだよな?」
彼の言う「東」とはアメリカ東海岸全域を指し、同様に「西」は西海岸全域を指すのだが、どうにも話の筋が掴めない。子分の敵討ちでないなら、なぜ彼は勝負などと息巻いているのか。
彼の口振りでは東と西の雌雄を争うリーダー対決のようにも聞こえるが、透自身、これまでジャックストリート・コートのリーダーが西で最強などという噂は聞いたことがなく、しかも東のリーダーに至っては、本人の自己申告だ。胡散臭いこと、この上ない。
そもそも名乗りもしないのに、どうして子分からの口伝えだけで透の正体が知れたのか。
相手の目的が見えない以上、用心するに越したことはない。
「あいにく、ここへは仕事で来ている。この間の片がついたんなら、俺にはアンタと遣り合う理由はねえよ」
まずは相手の出方を探ろうとしたところへ、今度は思いがけない名前が飛び出した。
「野郎同士が優劣を決めるのに理由は要らんだろう? ジャンはどんな勝負でも、二つ返事で受けてくれたがな」
「何だって? アンタ、ジャンを、ジャン・ブレイザーを知っているのか?」
「俺の質問が先だ。やるのか、やらねえのか、どっちなんだ?」
この男。伊達に最強の名を口にしているわけではなさそうだ。彫りの深い目元の奥からじっとこちらを見据える視線が、懐かしい感覚を呼び覚ます。
ジャンと対戦するたびに感じていた。限りなく戦慄に近い緊張が透の背中を駆け抜けた。
「分かった。場所を教えてくれ。仕事が終わり次第、そっちへ行く」
透はエリックとシェリーに断りを入れてから、ラルフがリーダーを務めるストリートコートへ向かった。
本当は独りで決着をつけるつもりであったが、不本意ながら同行者が一人。側でラルフとのやり取りを聞いていたノーラが付いてきた。危険な場所だというだけは彼女を説き伏せられず、結局、根負けする形で連れて来ることになったのだ。
余所のストリートコートに足を踏み入れるのは初めてのことだが、ざっと見渡した限りでは、メンバーの数も、雰囲気も、ジャックストリート・コートと大して変わりがなかった。金網フェンスに囲まれた中にテニスコートが一面と、そこに好き勝手に描かれたペイントも、物騒なところまで同じである。
中に入ると、コートの端にいたラルフが「待ちくたびれた」と言わんばかりに大きく伸びをして、透のところまでやって来た。
「小僧、この俺を待たせるとは大した度胸だな? 俺に呼びつけられた奴は、大抵、すっ飛んで来るんだが?」
「『仕事が終わり次第』と言ったはずだ。それに俺は小僧じゃない。トオルだ。
呼びつけた相手の名前ぐらい覚えとけ」
「減らず口は西のリーダーの伝統か? ジャンの野郎も口だけは達者だったからな」
「アンタ、ジャンとはどういう……」
透の言葉を遮り、ラルフが早々と本題に入った。
「試合で決着をつけても良いんだが、小僧じゃ相手にならんだろうから、サービス・ファイトでどうだ?」
「サービス・ファイト?」
「早い話が、サービス一本勝負だ。互いに一本ずつサーブを打ち合い、先に相手からサービス・エースを奪った方の勝ちだ。
無論、一回に付き、打てるサーブは一本のみ。フォルトした時点で、サーバーの敗北。リターン・アウトはリターナーの敗北。
サービスとリターンだけで、ラリーはない。これなら小僧にも少しは勝機があるだろう?」
「条件は?」
「負けた奴は、次の対戦まで『下手クソ』と呼ばれる」
「はぁ……?」
「聞こえなかったのか? 小僧が負ければ、次に俺に勝つまで『下手クソ』と呼ばれ、それに関して文句を言う権利は一切ない」
透が聞き返した理由は、決して耳が遠くなったからではない。真顔で言い放ったわりには条件があまりに幼稚で、正気の沙汰とは思えなかったのだ。
ラルフからジャンと同じ匂いを感じて、勢い込んで来てみれば、待っていたのは緊張感の欠片もない馬鹿馬鹿しい勝負であった。
透はラルフに聞こえないように、小さく溜め息を吐いた。
ブレイザー・サーブを習得した今なら、最初の一本目で片がつく。おまけにアメリカ大陸の東と西、両端に分かれた距離では、万が一、『下手クソ』と呼ばれる事態になったとしても、どうという事はない。
「最初のサーブ権はどっちにある? 挑戦者か、それともトスで決めるのか?」
自ら発した質問の返事を待たずして、透はベースラインにポジションを置いた。
ところがこの投げやりな態度が癇に障ったらしく、ラルフから返されたのは聞きもしない問いの答えであった。
「前回のサービス・ファイトで、野郎は俺に負けている」
「まさか……?」
サーブには絶対的な自信を持っていたジャンが負けた。俄かには信じられない話だが、もしもそれが事実であれば、このサービス・ファイトは想像以上に高い技術を要する勝負かもしれない。
「小僧、前リーダーの汚名を返上してやりたいと思わねえか?」
ラルフの厳つい顔に好戦的な笑みが加わった。
透はもう一度、深めの溜め息を吐いた。どうやら本気でこの勝負に臨まなければならないようだ。
あの負けず嫌いのジャンが敗者の汚名を着せられたままでいる。しかも、負けっぱなしで終わらせた責任の一端は自分にある。
溜め息を吐き終えると同時に、透は背中からラケットを引き抜くと、ラルフに突きつけた。
「俺は『下手クソ』よりも、『小僧』と呼ばれることの方が嫌なんだ。おっさん、俺が勝ったら『小僧』は止めろよな?」
「ああ、約束してやる。但し、俺が勝ったら『下手クソなハナ垂れ小僧』だ」
「一発で決めるから覚悟しな」
「ほう……上等だ」
東と西のリーダー対決が始まった。
ラルフがラケットを回す。裏か表か。ラケット面を言い当てることによりサーブの順番を決める「トス」という方法だ。
「悪いな、小僧。俺の先攻だ」
「悪いな」と言いつつ悪びれる様子もなく、ラルフがサーブの構えに入った。
サービス・ファイト ―― 文字通り、ラリーのないサービスだけの一本勝負。リターナーとして構えてみて、透は初めてこの勝負の難しさを実感した。
現時点で分かっているのは、縦が約6m、横4mの限られたスペースの中に、相手からのサーブが打ち込まれるという事実だけ。
たとえそれがどんな球であろうと、確実に返さなければならない。ラリーで相手の力量を測る機会もなければ、癖や弱点を探る暇もない。瞬時に判断を下し、対応しなくては、サーブを返し損ねた時点で敗者となる。
いつものサービスエリアが、やたらと広く感じる。
待った無しの一本勝負。それは瞬発力や技術もさる事ながら、最も度胸を試される勝負であった。
ラルフの巨体から、滑らかな軌道を描くサーブが放たれた。
てっきり長身を活かした高速サーブを打ってくると思っていたが、彼から繰り出されたのは、外側に大きく逸れるスライス・サーブであった。
持ち前の反射神経を駆使して追いついたものの、不意を突かれた格好での返球は、とてもリターンとは呼べない甘い球だった。通常の試合なら、間違いなくチャンスボールとして叩き返され、得点されている。
だが、サーブを返したことには変わりはない。次は透の番である。
「度肝抜くんじゃねえぞ、おっさん!」
相手にプレッシャーを与えてみるが、東の最強と自負するリーダーには通用しないのか。憎らしいほど平然と構えている。
それに反して、透は思いも寄らない緊張を強いられ、困惑していた。
今までどの試合においても、ファースト・サーブを軽視したことは一度もない。しかし、たった一度のフォルトが即、敗北に繋がるとなると、相手にマッチポイントを握られたかのような緊張が襲い来る。
まずはボールを三回バウンドさせる。ゲン担ぎのようなものだが、この手順が一番タイミング良く打てる気がして、大事な場面では必ずそうしている。
三回のバウンドから、前方へトスを上げ、それと同時にラケットを勢いよく振り下ろす。
いつも通りの手順を踏んで、寸部の狂いもないブレイザー・サーブ ―― つまりは最も威力のあるサーブを放ったはずなのに、ラケットを振り切った直後には、透の足元にボールのバウンドする音が響いていた。
「こんなサーブでいちいち肝を抜かしていたら、ここのリーダーは務まらねえよ」
一ミリたりとも表情を崩さず、ラルフは平然と言ってのけた。
平然として見えるのは、彫りの深い顔立ちのせいではない。何事も無かったかのように。いや、彼の基準では本当に何事も無かったのだ。
渾身の一撃を返され、透は言いようのない焦りを感じた。
ブレイザー・サーブを前にして、まったく動じることのないラルフ。彼がジャンを負かしたと言うのは、嘘ではないらしい。
選択肢の少ない勝負ほど、緊張の度合いも高くなる。正確には緊張の密度が高いと言うべきか。通常の試合では継続して起こる緊張が、このサービス・ファイトでは一本のサーブに凝縮されている。
人よりは度胸があると自負していた透だが、初めて経験する一本勝負のプレッシャーに圧され、背中がじっとりと汗ばんできた。
ラルフがベースラインでスタンバイに入った。
あの長身から繰り出されるスライス・サーブは、見た目以上にキレがある。更なる回転を予想してサイドに寄ろうとした直後に、キナ臭さを感じて踏み止まった。
「違う……。あれは、ボディに来る!」
これまで多くのトリック・プレーを見てきた経験と、ストリートコートで培われた勝負に対する勘が働いた。
案の定、スライス・サーブと見せかけてラルフが放ったボールは、フラット・サーブであった。まさに間一髪のところでラケットを合わせ返したものの、これによって透は崖っぷちへと追い詰められた。
一本勝負と言われ、透は初めから最も威力のある球種を選んで、この勝負に挑んだ。それに対し、ラルフはスライス、フラットと、徐々にサーブの強度を高めることで、攻撃パターンの選択肢を広げていったのだ。
二種類のサーブを見せられたことにより、受ける側には様々な憶測が生まれる。次はもっと強烈なフラット・サーブが来るかもしれない。あるいは、意表を突くスピン系のサーブかと。
最初から切り札を見せた透には、もう選択の余地がない。今さら回転系の緩いサーブを出したとしても、向こうのサーブ権を増やすだけで、何の意味もなさないからだ。
この勝負を制する為に残された方法はただ一つ。相手の目がスピードに慣れる前に、今までのサーブを超えるような、自分史上、最も完成度の高いブレイザー・サーブを叩き込むしか策はない。
次のサーブが、この勝負の一番の山場となるはずだ。
「悪い。ちょっと、タイム……」
背中に流れる汗がどうにも気になって、透は一旦コートを離れた。
ジャケットを脱ぎ、荷物の上に置こうとしたところへ、入口で待機していたノーラが駆け寄ってきた。
「トオル? そのジャケット、私に預からせて」
「良いのか?」
「遠慮しないで」
「いや、遠慮じゃなくて……」
透が躊躇したのは、遠慮などではない。実際にジャンが愛用していた思い出の品を手にすることで、本人の意思とは関係なく、また洗い流したものが復活するのではないだろうか。数日前のホテルの中庭での光景が頭をかすめた。
ところが、そんな心配をよそに、彼女は強引にジャケットをもぎ取ると、くるりと背を向けた。
「上手くやろうとするから、緊張するんだって……」
両腕にしっかりとジャケットを抱えたままで、ノーラが呟いた。
「あいつが言っていたわ。
『緊張は自分が生み出すものだから、代わりのものに気持ちが向かえば、すぐに消える。緊張する暇があったら、相手をぶちのめすことを考えろ』って。
私、昔はあがり症だったのよ。それで、あいつに相談したら、こんな答えが返ってきたの。
バカでしょ? モデルに闘争心を求めてどうすんの、って話よ。あいつったら、ほんと、テニスのことしか頭になくて。
あんまり馬鹿馬鹿しくて、聞き流していたのよ。それなのに、どうしてこんな話……」
そう言って振り返ったノーラの目尻に薄っすらと光るものが見えた。
亡きリーダーの汚名を返上しようと、強敵に立ち向かう透を思い、彼女は胸の奥にしまった思い出の中から最も相応しい言葉を取り出し、聞かせてくれたのだ。
「サンキュー、ノーラ。おかげで、俺も大事なことを思い出した」
透の口元に自然と笑みが浮かぶ。女性の涙を見せられて、笑顔になるのは初めてだ。思い出が連れてくる切なさよりも、今は偉大な男の言葉を共有できる誇らしさの方が勝っている。
「今の俺は何をやってもジャンには適わない。だけど、一つだけ……負けず嫌いに関しては、俺の方が上なんだ」
再びコートに戻った透は、ボールを三回バウンドさせた。
一球入魂 ―― この言葉は、こういう時の為にあるのだろう。
己が生み出した緊張を打ち砕くだけの強い気持ちを捻り出す。頭で念じ、体で念じ、緊張に取って代わった念の塊を目の前のボールに込める。
汗が引いた。音が消えた。余計なものが視界に入らなくなった。
密度の高い緊張が清らかな流れとなって体の中を満たしていく。トスを行なう左手に神経が集中し、ボールがイメージ通りに上がる。その軌道を追いながら、右腕が「ここぞ」の瞬間を捉えた。
全てのタイミングを寸部違わず兼ね備えたサーブは、透がラケットを振り切るのと同時進行で、相手の足元をすり抜けていく。
サーブに集中し過ぎて、ほんの一瞬、その後のボールの行方を見失った。
「すげ……あのラルフが一歩も動けなかった……」
自身の放ったボールがフェンスを激しく揺らす音。周りのヤンキー達が、驚きと共に漏らした溜め息。
遮断されていた音や視覚が元に戻ることで、ようやく理解した。今の一球が、リーダー対決の決着をつけるサービス・エースとなったのだ。
「参った。あいつが乗り移ったようなサーブだ」
ラルフが両手を広げ、勝者を称える仕草を見せた。対戦前とは打って変わって、何故かその表情は晴れやかだ。
最強と自負していた男の豹変ぶりにうろたえながらも、透は先程からかわされ続けた疑問を今一度、投げかけた。
「おっさん、いや……ラルフは、ジャンとはどういう関係なんだ?」
「ジャンとはプロ時代からのライバルだ」
「何だって!?」
二重の驚きが、素っ頓狂な叫び声となって、コート中に響き渡った。
会った時から只者ではないと思っていたが、まさか勝負の相手が元プロの選手だったとは。しかもライバル関係にあったということは、少なくともジャンと同等の力があるということだ。
「ライバルと言ってもな。俺達は互いに切磋琢磨するとか、二人で未来のテニス界を牽引しようとか。そういう志の高けえ付き合いじゃねえんだ」
「どういうことだ?」
「生理的に気に入らねえんだ。あいつが俺より上にいることが」
「そんな、小学生じゃあるまいし……」
「嘘じゃねえよ。たぶん、あいつも同じだ。
プロ時代は試合数で競い、勝利数でも競い、もちろん、ランキングや稼いだ賞金の額でも競ったし、オフの時は酒の量でも、女の数でも、何かにつけて勝負した。
それも、これも、あいつには負けたくねえから。理由はそれだけだ。
だから、ジャンがプロを辞めたと聞いた時、迷わず俺も辞めた。あいつのいない世界で上を目指したところで、俺には意味がねえからな」
何でもない事のように過去を語るラルフを、透は凝視した。
プロになる道のりを考えただけでも大変な努力を要したはずなのに、それをライバルがいないという理由で簡単に見切りをつけられるものなのか。凡人には理解しがたい理屈である。
「ストリートコートのリーダーになってからも、俺達の勝負は続いた。サービス・ファイトもその一つだった」
ライバル、勝負、競う。この類の言葉を口にするたびに、ラルフの彫りの深い顔がくしゃくしゃと崩れ、子供染みた笑顔が現れる。ジャンが夢を語る時に見せた笑顔によく似ていた。
「一昨年のクリスマス・ホリデーにジャンと勝負をした時、俺は久しぶりの勝利に酔いしれた。俺に『下手クソ』と呼ばれて、のたうちまわって悔しがる奴を見て、最高の気分だった。
ところが去年、野郎が逝ったと聞かされて、目の前が真っ暗になった。俺達の歴史があいつの敗北で終わったことが、無性に腹立たしくてな。
なあ、トオル? ガキのおめえには、ちいっと難しいかもしれんがな。気に入らねえことが何にもねえってのは、そりゃあ、虚しいもんよ。
せめて、あいつが勝ち逃げしてくれれば、まだ救われたんだが。永遠にいなくなるなら、尚更な」
ラルフは、今しがたサービス・ファイトで戦ったコートを愛おしげに見つめた後、今度はその視線を透に投げかけた。
「お前は昔のジャンにそっくりだ」
「俺が?」
「技術的には未熟な部分が目立つが、度胸と言い、勘の良さと言い、野郎と同じセンスを持っている。
特にすぐ熱くなるところが、そっくりだ。それも、他人の為に熱くなれるところがな」
「そんな事……あるか?」
否定しかけた言葉が、故人の汚名返上の為に戦った経緯を思い出し、妙な疑問形として宙に浮いた。
「本当は、お前とは初対面じゃない。初めて会ったのは一年前だ」
「一年前? どこで?」
「ジャンがチャンフィーにやられたと聞いて、俺は敵を討つつもりでジャックストリート・コートへ向かった。場合によっては刺し違える覚悟で」
殺気を抑えたラルフの語気から、その行動が本気だったと分かる。
「だが駆けつけてみたら、赤いジャケットを着たお前が丸太の上で消火器を片手に暴れまわっていた。
俺とジャンはどっちが先にプロの選手を育てるかでも競っていたから、一目見てすぐに分かった。ああ、こいつがジャンの自慢していた原石だってな」
ラルフは、透がビー達と共にコートを奪回しようと乗り込んだ時の話をしているのだろう。騒ぎを聞きつけ集まった野次馬の中に、ラルフも紛れていたらしい。
「トオル、お前は先を行け。俺達が到達出来なかった世界を見て来い。お前はそれが出来る数少ないプレイヤーの一人だ」
常にライバルとの戦いの中に身を投じてきたラルフ。コートの上での『伝説のプレイヤー』を最もよく知る男。本当は彼もジャンと共にその世界で再び戦うことを夢見ていたのではなかろうか。
ラルフが自らを「東で最強」と名乗った言葉の裏には、もう一度、自身と肩を並べ、競い合える者の存在を欲していたのかもしれない。そんな事が出来るのは、たった一人しかいないと分かっていても。
サービス・ファイトで敗北した後、彼が晴れやかな顔をしていたのも、かつて自身を奮い立たせた男の影が一瞬でも見えた。その事によって、彼の中で不本意だった結末に何らかの形で折り合いが付けられたのかもしれない。あるいは、最初からそれが目的だったのか。
愛おしげに見つめるラルフの視線をふいっとかわすと、透はあえて憎々しげに言った。
「余計なお世話だ。アンタに言われなくても、俺はいつかジャンを越えると決めてんだ。
それより自分のことを心配した方が良いぜ? 今の調子で金が貯まれば、来年の夏か秋には日本へ帰れる予定だ。
早めにリベンジしに来ねえと、俺に永遠に『下手クソ』って呼ばれるぞ。良いのか?」
「なにッ!?」
「だって、そういう約束だろ? 負けたんだから、今度はアンタが俺等のコートに来いよ。歓迎してやるぜ、『下手クソ』なおっさん!」
見事な悪態ぶりに、しばらく唖然としていたラルフであったが、それがジャンと同じく相手を気遣うための憎まれ口だと分かると、急にいやらしい目つきに変わった。
「まったく性悪なところまで、そっくりだ。その調子じゃ、女癖の悪さも相当なものだろ?」
ラルフの視線が真っ直ぐ入口のノーラに向かった。
「ち、違うって。彼女はジャンの……」
否定しようとした透よりも早く、ノーラがつかつかと歩み寄ってきた。
「あら、貴方のライバルはそんなに酷かった?」
「ああ、ありゃ癖というより、病気だな。
朝っぱらから俺とここで対戦した後、夕方まで飲み比べた体で、『一晩で何人の女を口説けるか、これから勝負しよう』なんて言える野郎は、他にはいねえよ。
一昨年は特に酷かったな。あいつ、本命の彼女に予定より早く追い出されたとかで、機嫌悪くてよ。おまけに俺にはサービス・ファイトで負けるわで、やけになって口説き落とした女の数が一晩で十五人だ。あの記録は、さすがの俺も破れねえな」
楽しげに語るラルフの傍らで、透は気が気ではなかった。ノーラの眉間が徐々に狭められ、皺がくっきり浮かんでいる。
「それじゃあ、ラルフ? 東西のリーダー対決も決着がついたことだし、今度は私とお手合わせ願おうかしら? 貴方達の武勇伝に、とっても興味があるのだけど」
じりじりと詰め寄る彼女の態度から、ようやくラルフもこの危機的状況を察したようだ。
「おい、トオル? もしかして、彼女は……?」
最強と恐れられている東のリーダーも、彼氏の浮気を知った恋人の剣幕には適わないと見えて、巨体が縮み上がっている。
ライバルの、しかも故人の浮気にもかかわらず、気の毒なことに、ラルフは夜通し締め上げられるに違いない。
「どうぞ、ごゆっくり。ここから先は、大人の時間ってことで……」
ラルフを強制連行する逞しい後姿を目で追いながら、透は「最強」の称号はノーラにこそ相応しいと確信するのだった。