第6話 12歳の挑戦者

 ジャックストリート・コートと聞いて、この街の住民が眉をひそめることはあっても、目を細めることはないだろう。
 「生きていたかったら、絶対に近づくな」というシェフの忠告を無視して、透は危険区域に指定されているストリートコートで五十人のヤンキーを相手に無謀な挑戦を続けていた。
 五十位から始めて、現在、六位との試合を終わらせたところである。
 開始前、嘲笑で沸き上がったコートが、今は不気味なほど静まり返っている。
 たった一度の挑戦で六位まで登り詰めた者はそう多くはないようで、透に敗れたメンバーはもちろん、これから迎え撃つ者たちも固唾を呑んで成り行きを見守っている。
 前代未聞の快進撃。散々「お子様」だとバカにしていた少年が着々と連勝記録を塗り替えていく様は、我流でもそれなりに勝ち星を挙げてきたヤンキー連中に、地味な訓練を経てのみ築かれる土台の強さを知らしめる結果となったのだ。

 まずは第一段階クリアといったところか。透は安堵の溜め息を一度にまとめて吐き出すと、再びラケットを握り直した。
 ここから先は、そう簡単に勝たせてくれる相手ではない。五位から上の「幹部」と呼ばれるメンバーは、時にリーダー代理を任せられる程の実力を持ち、仲間内でも別格扱いされている。
 それに伴い、試合形式も6ゲーム・1セットマッチ、つまり今までの倍のゲーム数で行われる決まりとなっている。
 勝ち進むたびに過酷になる条件の下、すでに四十五試合をこなした体で、どうやってこの難所を切り抜ければ良いのか。正直なところ、勝てる見込みは無に等しい。
 どうにかリーダーまで辿り着こうとペース配分をしたつもりであったが、特殊な環境が計算外の疲労を連れてきた。
 五十人のメンバーから浴びせられる殺意のこもった視線が体をすくませ、精神を圧迫している。
 サービス・エースも、リターン・エースも、通常なら敵・味方関係なく拍手が送られるはずのファインプレーも。ここではヤンキー連中の怒りを買う起爆剤でしかないのである。
 緊張よりも恐怖の方を強く感じる。ラケットを握る手がじっとりと汗ばむのも未体験の試合数を消化しているからではなく、仲間の敗北を知るたびに増幅する殺気が四方八方から押し寄せてくるからだ。

 何度も手のひらをジーンズで拭きながら、透は次の試合に意識を集中させた。
 今度の五位の相手は「ブレッド」という名の黒人プレイヤーだった。
 彼はパワーテニスを得意としており、筋肉の盛り上がり方で各部の名称を指し示せるほど、その肉体は極限まで鍛え上げられている。
 大柄な彼を前にすると、透との身長差は大人と子供というより、巨人と小人に近かった。
 だが、ブレッドはタフな外見とは対照的に紳士的な態度で話しかけてきた。
 「試合をキャンセルする気はないか?」
 「なぜ?」
 「いま試合をキャンセルすれば、勝者と同じ権利がもらえる。あいにく十六歳に満たない者を仲間にすることは出来ないが、六位に勝った後だからお前の宝物は返してやれる。
 だが、俺に敗北した後ではリーダーに没収される。ここで棄権をする方が賢い選択だと思う」
 確かに話の筋は通っている。ここのストリートコートのルールでは、勝者であれば自分の賭けた物を返してもらえる。
 体力の限界を探るような状態で、このまま勝ち進めるとは思えない。それならば試合を放棄して、写真だけでも取り返した方が得策だ。
 敵の助言に迷いを見せる透に、ブレッドが笑顔で言い足した。
 「賞賛すべき小さな挑戦者」
 「えっ?」
 「もう充分戦っただろ?」
 彼の言動には他の連中のような悪意は一切含まれておらず、むしろここまで勝ち抜いてきた透の実力を高く評価しているようだった。
 もう充分に戦った。この一ヶ月半のブランクを埋めてもおつりが来るほどの試合数をこなし、生きたボールも存分に味わった。これで写真を返してもらえるならば、満足な結果と呼べるのではないか。
 「せっかくだけど……」
 普段は気にも留めないが、追い込まれた時ほど後ずさりする踵に引っ掛かりを感じることがある。周りを敵に囲まれ、精神的にも肉体的にも余裕のない中で、自分でも愚かだと思いながら、それでも譲れない一線が鮮明に見えてしまう。
 「まだ充分じゃない。あのリーダーと遣り合うまでは。
 あいつ、最強なんだろ?」 
 「ああ、俺が知る限りでは無敵だ」
 「そうか。楽しみだ」
 理屈とはまったく別の次元で、己の意志を決定づける強烈な力が働いている。それが本能なのか、勝負に対する欲求なのかは定かでないが、一つだけハッキリしていることは、今は最強の男との勝負しか眼中にないということだ。
 汗まみれの顔を崩して精一杯の謝意を傾ける透を、ブレッドはしばらくの間、困惑した様子で眺めていたが、その意志が固いと分かると、幹部のプライドを守るためにコートの中へと入っていった。

 テニクックがパワーに勝る時もある ―― 味方のいないコートの中で、光陵テニス部で学んだ教訓が透の唯一の支えとなっていた。
 「独りじゃない、俺は……」
 序盤から透はブレッドを左右に走らせ、先にゲームの主導権を握る策に打って出た。
 右、左と外側のコースを狙いながら、相手が追いつけなくなるまで振り回す。
 しかし初めのうちは思い通りに打ち分けられても、桁外れのパワーボールが透からすぐにコントロールを奪っていく。
 ブレッドの力強い打球はこれまで対戦したプレイヤーのような“溜め”の時間を必要とせず、腕力だけで充分なパワーをボールに与えられる。これでは相手を左右に振り回すことも、ネットについてボレーで反撃することも容易ではない。
 さすがに幹部ともなれば、己の武器となり得る能力を自覚し、それをどう使えば良いのか。使い方も心得ている。
 重いボールに翻弄されつつも、透はかろうじて自身のサービスゲームを死守したが、1ゲームを取るごとに、向こうも点差を開けずに追い付いてくる。
 残りの試合数を考えると、そろそろこの辺りで仕掛けなければ、体力の消耗が激し過ぎる。頭では分かっていても、打開策が見つからない。

 それぞれがサービスゲームをキープする形で、試合はゲームカウント「4−3」まで進んでいた。
 「あの小僧が本物かどうか、このゲームが勝負だな」
 丸太の上で黙って試合を見ていたリーダー・ジャンが、初めて口を開いた。
 「ガキのテニスなんざに、興味はねえよ。どうせ、じきにくたばるさ」
 となりにいる黒ジャケットの男が、退屈そうに煙草の煙を吐き出した。
 「いや、ゲイル。奴は、ここから仕掛ける気だ」
 「冗談だろ? ジャン、まさかあのガキが俺等のところまで勝ち上がってくるとでも思っているのか?」
 「さあ……ただ、あのガキの拳が……」
 「拳? ああ、さっきの。
 それが、どうかしたか?」
 「歳のわりには、ちいとばかり重てえ気がしてな」
 鋭い視線をとなりの黒ジャケットの男からコートの中へと移したジャンは、手元にあったラケットをくるくると回しながら薄い笑みを浮かべた。

 まるで野獣と戦っているようだ、と透は思った。人間離れしたパワーと、しなやかな動きを見せる強靭な肉体と。逞しい腕に握られたラケットは巨体の一部と化し、そこから繰り出されるボールは鉄球並みの重量感がある。
 あのパワーボールを攻略せぬ限り、こちらに勝機はない。しかし何ひとつ手立てが浮かばなかった。
 「あいつだって完璧じゃない。必ずどこかに弱点があるはずだ」
 一つ一つ相手の特徴を観察していく中で、透はグリップを注視した。何となく握り方に違和感を覚えるのは、なぜだろう。
 その答えを導き出すのに、そう時間はかからなかった。
 透は出来るだけ後ろにポジションを置くと、ブレッドがラケットを振り下ろすと同時に一気に前方へダッシュした。前へ進み出る勢いと体の回転を利用して、相手のサーブを叩き返す。
 これは光陵テニス部で、成田から学んだパワーボールを返す為のテクニックであった。
 だが、今回はこれだけではない。透が狙いをつけたのはブレッドが立つ逆サイド、サービスラインぎりぎりだ。
 いきなり威力が倍増したリターンに驚いたブレッドは慌ててボールを拾い上げたが、その返球はネット前で構える透のチャンスボールとなった。
 甘い球をネット際に沈めると、透は確信をもってブレッドに向かって言い放った。
 「アンタ、バックハンド苦手だろ?」

 瞬く間にコート内が騒がしくなった。ピンク髪の男のテイクバックと違って、この事実はあまり知られていないらしい。メンバー同士、互いに確認し合っている。
 その中で一人、丸太の上で笑みを深くする者がいた。
 「やはりな……」
 「ジャン? まさかあのガキ、この短時間でブレッドの弱点を見破ったのか?」
 黒ジャケットの男の顔からは退屈の二文字は消え去り、代わりに僅かだが焦りの色が浮かんでいる。
 「ブレッドのグリップから判断したんだろう。あの小僧、形はいびつだが、磨けばそれなりに物になりそうだ」

 先程、透はブレッドの厚めに握るグリップから一つの打開策を見出していた。
 彼の握り方はフォアハンドでトップスピンを強打するには適しているが、バックハンドで打つには厚過ぎる。
 本来、テニスの基本を身につけた者なら、その弱点をカバーしようとグリップチェンジを行なうものだが、我流で育った彼の場合、それを教わる機会もなく、また腕力だけでラケットを振っても重いボールが返せるために、必要性も感じなかったに違いない。
 今まで透はパワーボールを返すことばかりに気を取られて、相手のフォームを細かくチェックしていなかった。
 彼が充分なパワーを出せるのは得意なフォアハンドのみで、バンクハンドでは同等の力を出せないはずである。そう判断した透は、わざとバックハンドを狙って返球したのである。
 パワーボールをダイレクトにボレーで返しては手首を痛めるのが関の山だが、甘い返球を狙ってネットから攻撃を仕掛けていけば、ブレイク・チャンスも生まれてくる。
 同じやり方で相手のバックハンドへボールを集めた透は、球威の欠いた返球をボレーで沈め、ポイントを重ねていった。
 序盤でボールを左右に打ち分けたことにより、彼の足の速さは把握している。相手が追いつくギリギリの地点にボールを落とし、甘くなった返球をボレーで仕留めていく。
 光陵テニス部で学んだテクニックと、持ち前の瞬発力と、鋭い観察力と。己の出せる力を上手く組み合わせた結果、透は相手のサービスゲームをブレイクすることに成功した。
 ゲームカウント「5−3」。残り1ゲームをキープすれば、五位を突破できる。
 透はサーブのポジションで構えると、あえて強気な態度を取ってみせた。
 「そろそろ、トドメ刺して良いか?」
 透が決着をつけるために選んだサーブ。それは今まで温存していたスライス・サーブであった。
 独りで練習を続けていると、どうしてもサーブ練習が多くなる。ラリーの相手がいなくても、それなりの成果が出るからだ。
 孤独な練習の成果として、より磨きのかかったサーブがラケットから放たれた。リターナーの体の真ん中を狙った低くバウンドするサーブは、大柄なブレッドを翻弄するには効果覿面だ。
 前のゲーム同様、甘くなったリターンを難なくボレーで処理して、透は幹部との第一戦目に勝利した。

 「あと三人……三人倒せば、リーダーまで辿り着ける」
 幹部クラスを撃破したとは言え、ブレッドとの試合でかなりの体力を消耗した。相談するまでもなく限界を訴える体に、透は持ち堪えてくれるよう祈るしかなかった。
 次に対戦するのは「レイ」という、五位のブレッドとは対照的な細身の青年だ。
 「おチビちゃんのプレーはずっと見させてもらったからね。残念だけど、ここで終わりにするよ」
 温厚な話し方とは裏腹に、彼は早速、勝利宣言を突きつけた。ところが、それと同時にコート脇からピンク髪の男の怒声が聞こえた。
 「バカ野郎! 俺様まで回せ、レイ! てめえ、勝ったらタダじゃおかねえぞ!」
 ピンク髪の男が文句をつけた相手は、透ではなく仲間の方である。
 「ビー、悪いけど保証は出来ないよ」
 「保証しろよ! さっきの落とし前、きっちりつけてやる!」
 ピンク髪のビーと呼ばれた男は、試合前に透がテイクバックの不安定さを指摘したヤンキーだ。彼は先の一件を根に持って、透との直接対決を望んでいるようだ。
 つまり先ほど一戦交えそうになった彼が、次に控えるナンバー3ということだ。
 「レイ、こっち向け! 俺様の話を聞きやがれ!」
 尚も騒ぎ続けるビーを、丸太の上からジャンが一喝した。
 「ビー、静かにしろ! たとえガキが相手でも、今は真剣勝負の最中だ」
 驚いたことに、リーダーの一言で彼はピタリと静かになった。よほどジャンが怖いらしい。
 透は丸太の上のリーダーをコートから見上げた。
 「必ず、あそこまで辿り着いてやる」
 そう自分に言い聞かせて、ベースラインへと向かった。

 透がサーブの構えに入った途端、レイが笑いかけてきた。
 「さっきのスライス・サーブ、なかなか良かったね」
 それはどう見てもサーブの妨害を意図する行為だが、誰も注意はしなかった。今しがたビーに「静かにしろ」と怒鳴ったジャンでさえ、黙したままである。
 そもそも危険区域に出入りするヤンキー連中を相手にするのだから、まともな試合は望めやしない。まして審判不在のセルフジャッジ形式となれば、ルールもマナーもあろうはずがない。
 レイの非常識な言動は、透の動揺を誘うには充分であった。
 もしかして、彼は透がサーブを放つ前からスライスが来ると読んでいたのだろうか。そうでなければ、このタイミングでスライス・サーブの話題を出してくるはずがない。
 この二週間で大抵のプレイヤーの癖やフォームを頭に入れたつもりであったが、レイだけはあまり記憶に残っていなかった。ブレッドのようにパワーがある訳でもなく、ビーのようにスピードがある訳でもない。あまり個性のないプレイヤーだと思っていた。
 しかし今までの試合から、透の癖やフォームを見抜かれている可能性は大いにある。
 いずれにせよランクはブレッドより上なのだから、用心するに超したことはない。

 気持ちを落ち着けてから、透は当初の予定通りスライス・サーブを打ち込んだ。
 「さっきよりも回転が良くなったね。でも、ちょっと力の入れ過ぎかなぁ」
 レイの指摘は的確だった。透はたとえ球種が見抜かれたとしても容易に返されないようにと、通常よりも力を入れて打っていた。
 だがしかし、ここで動揺を見せては相手の思う壺である。次の返球に集中しようとした矢先、またしてもレイが声をかけてきた。
 「あれれ? おチビちゃん、自慢の俊足でネットにつかないの?」
 まさに今、ネットダッシュを試みようとしていた。本来ならもう少し早く踏み切れたものを、動揺のあまり出遅れてしまったのだ。そこを鋭く突かれ、透は返す言葉がなかった。
 対戦相手の心理を読んで、プレー中に指摘してくるレイのスタイルは、藤原の『寅さん』の口上よりも始末が悪い。何でもアリのコートではこれも心理作戦として認められるのだろうが、長い間、壁打ちボードしか相手にしなかった身にはかなり応える戦法だ。
 絶妙なタイミングで挟まれるレイのコメントは集中力を切らすだけでなく、手の内を読まれているのではないかとの不安を煽る。
 このレイという青年は、予想以上に厄介な相手である。
 ――まずは、落ち着け。冷静になるんだ。
 心の中の呟きも、すかさずレイに言い当てられる。
 「そうだよ、おチビちゃん。こういう時は落ち着かなきゃね」
 間違いなく彼は透の行動パターンを読んでいる。
 確かに、透がこれまで四十六人のヤンキーと戦っていた間、彼はそれと同じ試合数分のプレーを観察していたのだ。透のちょっとした癖からフォームまで、完璧に記憶する時間は充分にあった。快進撃が裏目に出た格好だ。
 疲労と焦りからペースを崩した透は、ここへ来て初めてサービスゲームをブレイクされた。
 どうにかして厄介なコメントを無視するぐらいの集中力を取り戻さなくてはならない。透は試合に不要な雑念を排除しようと、静かに目を閉じた。
 「だから言ったでしょ? ここで終わりにするって。今更、集中しても無駄だから」
 レイが執拗に追い打ちをかけるが、透は構わず目を閉じていた。
 「どんなに勢いのある川でも、必ず流れを変えられるポイントがある」
 胸に刻んだ唐沢の教えを思い出し、自分の置かれた状況を整理していく。かなり不利な展開だが、必ずどこかに流れを変えるポイントがあるはずだ。
 レイが再び挑発してきた。
 「いくら目を瞑っても無駄なんだけどね。ここまで何試合やったと思ってんの?
 あれだけ目の前で何度も同じプレーを見せられれば、嫌でも焼きつくよ」
 整理のついた頭の中にぽんと放たれた一言は、まるで天からのお告げのようだった。急流に飲まれそうになった透の視界に、流れを変えるポイントがはっきりと映し出された。
 「分かった。終わりにしてやるよ。ピンク髪のお兄さんも待っていることだし」
 「何それ? 最後の悪あがきってヤツ?」
 「悪あがきだと思うなら、試してみろよ」
 「いくらお子様が背伸びしたところで、後で痛い目見るだけよ?」
 「心配すんな。ガキは成長早いから、背伸びしたって簡単に追いつける」
 「やれやれ……」
 自信の現れなのか、レイは余裕の笑みを崩さずにサーブの体勢に入った。

 レイの細い体から放たれたサーブを、透は出来るだけゆったりとしたフォームで返球した。一瞬、レイが怪訝な顔を見せたが、余裕の笑みはすぐに戻った。
 勿体つけるように、ゆっくりと、ゆったりと。透はある人物を思い浮かべながら打ち返していった。
 ラリーを続けるうちに、レイの表情が徐々に曇り始めた。
 今まで読めていた打球が読めなくなった。その不安から来るものだ。
 また一向に攻撃を仕掛けて来ない単調なラリーに関しても、不安を覚えているに違いない。
 今のレイには、透がわざとラリーを引き伸ばしているように見えるはず。疲労を抱えた体であり得ない話だと思いながらも、ひたすらボールを打ち返されるだけのラリーの意図が分からず、戸惑っているのだろう。
 彼の表情に明らかな困惑の色が浮かんだ、その時だ。レイの放ったボールがネットにかかった。
 「しまった! こんなところで……」
 「そうだよなぁ。何でもお見通しのお兄さんが、あり得ねえミスだよなぁ?」
 透は大げさに驚いてみせると、相手が言い返す前に畳み掛けた。
 「こういう時は、落ち着かなくっちゃ……って、お兄さんが教えてくれたんだっけ?」

 相手の意のままに進められた第1ゲームと打って変わって、第2ゲーム以降は透の独擅場となった。但し、その事実を把握している人間は数少ない。何故なら、レイがミスショットを重ねて自滅しているとしか見えないからである。
 「何度も同じプレーを見せられれば、目に焼付いてしまう」
 第1ゲーム終了時にレイの放ったこの一言が大きなヒントとなった。
 彼は透のフォームを細部に至るまで記憶し、その上で次の打球を判断し、対応している。そうだとすると、まったく別人のフォームでプレーをすれば、彼はどんな反応を見せるのか。
 第2ゲームからレイが予測を立てられなくなったのは、透が唐沢のフォームを真似てラリーを始めたからだった。
 少しでも目標とする先輩に追いつきたくて、何度も繰り返し覚えたフォームがここに来て役に立った。そして先輩の緻密な戦術も。
 透は唐沢のフォームでプレーを続けると共に、チェンジペース作戦も秘かに実行していた。
 順調に進むラリーの中で、突然、球種を変えて相手のペースを崩す。打球の強さや回転、あるいは打つタイミング。これらを変えることにより、相手のペースを乱す作戦だ。
 フォームが変わったことに気を取られたレイは、透のゆったりとした動作にばかり目を奪われて、ペースを崩されていることに気付かなかった。
 しかもミスショットで失点が続く中、自分が放ったのと同じコメントをそっくり返されれば、焦りと怒りでパニック状態に陥るのは目に見えている。
 相手プレイヤーの自滅という形でポイントと余裕を奪った透は、ゲームカウント「4−1」と3ゲーム差にまで引き離した。
 だが唐沢のフォームで混乱させられたのは、ここまでだった。
 異なるフォームも見切り始めたレイは、透がテイクバックをするのと同時に、次の打球を言い当てた。彼は人一倍、記憶力が良いらしい。
 「その構えは、クロスのスライスかな?」
 笑顔の戻ったレイが反撃しようと、再びコメントを送り込む。
 「ビンゴ!」
 言い当てられても構わず笑顔で答える透。その手元から繰り出されたのは、ドロップショットであった。
 レイがベースラインまで伸びると予測したスライスは、ネットのすぐ際で落下した。
 「ドロップショットだと?」
 「なんだ、そこまでお見通しじゃなかったか」
 唐沢の戦術の怖いところは、こうして二重三重の罠が仕掛けられる点である。
 単調なラリーの中でじわじわとペースを狂わされるチェンジペース作戦。これにはもう一つのトリックを仕込むことが出来るのだ。
 第2ゲームから第5ゲームまでの間、透はわざとゆったりとした動作でフォームを見せつけ、相手にスライスが放たれる条件を覚えさせた上で、それと全く同じフォームでドロップショットを決めた。終盤で相手がこちらのフォームを見切ることまで計算に入れた作戦だ。

 二重に仕掛けられた罠に気付いたレイが、初めて暴言を吐いた。
 「このガキ、なめた真似しやがって!」
 「だからガキは成長早いって、教えてやっただろ?」
 「上等だ。全部見切ってやる!」
 「相手の打球を予測して先回りするのが、アンタのスタイルか? それってさ、想定外のプレーに弱いだけじゃねえの?」
 透の核心を突いた発言に、レイの唇がピクピクと震え出した。
 これは怒りが頂点に達した事実を悟られたくなくて、必死になって堪えている顔だ。光陵学園にいた頃に、何度か担任の教師が同じ症状を見せたことがある。
 我を忘れたナンバー4に、逆転のチャンスは残されていなかった。
 ゲームカウント「1−5」で迎えた透のサービスゲーム。最後の仕掛けを披露する時が来た。
 低いバウンドに備えて、レイが真ん中よりに構えを取っている。
 ところが実際に透が放ったのは、急激なカーブを伴うスライス・サーブであった。
 鋭い切れ味のそのサーブは、サービスエリア内で大きな弧を描くと、瞬く間に外へ出ていった。
 「今のは、まさか……?」
 唖然とするレイに向かって、透が挑発的な目を向けた。
 「あと三本しかないけど、俺のサーブ、予想できる?」
 前の試合で透がブレッドに対して「トドメ」と宣言してから放ったサーブは、低いバウンドが特徴のスライス・サーブであった。そして今のサーブは、外側に大きく逸れるタイプのスライス・サーブである。
 この二種類のスライス・サーブの打ち分けも、以前、唐沢から学んだものだが、その技術が習得できたのも、テニス部を退部してからずっと孤独なサーブ練習を重ねていたからである。
 透は五位のブレッドと試合をしながら、その先で控えている対戦相手に向かって、あたかも低いバウンドのスライス・サーブがたった一つの決め球であるかのように思わせておいた。
 そうすることで、大事な局面で相手は自動的に「トドメ」のサーブが来ると思い込む。そこへ違う軌道を描くサーブ打ち込めば、間違いなくそれは二つ目の「トドメ」となるのである。
 最後の仕掛けは、この同じフォームから放たれる二種類のスライス・サーブであった。
 相手の予測の裏をかき、続いて裏の裏を突く。判別の不能な二種のサーブは、レイの先を読むセオリーを完全に崩壊させた。
 ゲームカウント「6−1」。
 透は光陵テニス部の先輩達の知恵を借りて、ナンバー4を撃破した。しかし、その代償として、体力、気力、教わった戦術も、全て使い果たした。
 試合終了と同時に、汗だくの透を嬉々とした笑顔で見つめる男がいた。それは仲間内でも最も危険視されるナンバー3のビーだった。






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