第15話 狙われた司令塔
試合用のユニフォームには、学校指定の体操着とは異なる何か特殊な仕掛けが施されているのだろうか。ユニフォーム姿の選手達が揃って強そうに見える。
大会によっては服装に関する規定がやたらと細かいところもある為に、無難な白を基調としたものがほとんどだが、それ故に、赤、紫、黒といったアクセントカラーがよく映える。
透は場内に散らばる色とりどりのユニフォームを前にして、自分の口元から伝わる温度差に焦りを感じていた。
手が冷たい。指先の感覚がまるでない。
せめてラケットを握れるほどには温めておかねばと、先程から両手を口元にあてて何度も息を吐きかけているのだが、緊張で固まった手指はじっとりと嫌な湿り方をするだけで、温まるどころか冷えていく一方だ。
おまけに動きの鈍い上半身に反して、下半身はすっかり落ち着きを失い、膝を中心にガタガタと震えが来ている。
初めてジャックストリート・コートに乗り込んだ時でも、ここまでの緊張はなかった。
団体戦とは、チームの命運を背負って戦うとは、こんなにも重圧を感じるものなのか。
もう予選会場まで来ているというのに、体が思うように動かない。自分の肉体なのに、違和感を覚える。まるで魔物にでも取りつかれたかのような感覚だ。
目の前では各校の選手達がそれぞれのやり方で着々と準備を進めている。
ストレッチやランニングで体を解す者。音楽を聴いてリラックスする者。頭からタオルをかぶって集中する者。
いずれも大きな舞台に慣れていて、プレッシャーとの付き合い方を心得ている。会場に到着してから慌てる者など一人もいはしない。
落ち着け、落ち着け、とにかく落ち着け。
透は緊張に深入りし過ぎて身動きできなくなる前に、この焦りと硬直の悪循環から抜け出そうと、強引にウォーミング・アップを開始した。
「真嶋、もしかして緊張しているのか?」
透のぎこちないストレッチを覗き込むようにして、唐沢が声をかけてきた。
部長である唐沢は朝一番に会場入りして、各選手のコンディションを来た順に確認しながら試合に向けての細かな指示を出した後、ようやく今、自身の準備に取り掛かろうとしているところであった。
「い、いや……あっ、はい。実は……すみません」
これ以上迷惑をかけまいと強がるつもりが、結局、余裕がなくて取り繕えなかった。
「別に謝る必要はない。俺には何でも正直に話せ、と言ってあるだろ?」
「だけど、自分でも情けなくて。ここへは前にも来ているのに、こういう大会に出るのは初めてだからテンパっちゃって。
やっぱり応援で来るのと、実際に出場するのとでは、全然違いますね」
「真嶋……今、何て……?」
突如として、唐沢が透を指差したまま静止した。普段は動きの速い唇も半開きになっている。
絶句しているようにも見えるが、これと言って思い当たる節がない。真相を解明するには指示通り会話を再現するしかなさそうだ。
「えっと、この会場へは前にも来ているって……」
「その次だ」
「こういう大会は初めてでテンパった?」
「それだ! もしかしてお前、試合に出るのは初めてか? つまり、その……中学時代に目立った戦績がないのは、そもそも公式戦の出場自体なかったと……?」
「ええ。アメリカでも出ようと思えば出られたんですけど、その前にコーチと喧嘩してテニス部を追い出されたんで、結局、一度もないッスね。
あ、でも試合の経験は結構ありますよ。ストリートコートでは毎日のように挑戦者が来てたし、集団で来られた時なんかは団体戦も……」
「真嶋、お前の将来のために忠告しておく。今後はそれを試合数としてカウントするな」
「はあ……」
透はひどく後ろめたい気分になった。
大会の出場経験のないことが今日の試合にどう影響するかは分からぬが、かなり深刻な問題であることは先輩の態度からも見て取れる。
軍師の異名を持つ切れ者が、先程から両目を見開いたまま眼球だけを忙しくなく動かしている。あれは動揺を押し殺して、必死で対処法を思案している顔である。
帰国してから今までを振り返るに、アメリカでの出来事を大まかに伝えはしたが、どれくらいの期間テニス部に籍を置いていたとか、具体的な話をした覚えはない。
唐沢とて千里眼の持ち主ではないのだから、まさか百戦錬磨の遥希を打ち負かした選手が公式戦での戦歴ゼロとは思うまい。しかも、それが地区予選当日に発覚しようとは。
悪気がなかったとは言え、味方のくせして切れ者の部長を絶句させた罪は重い。
「すみません、先輩。別に隠していた訳じゃないんですけど、そんなに重要なことだとは思わなくて……」
ついでに言えば、試合前から味方に懺悔するとも思わなかった。
「やっぱ、ストリートコートとは全然違いますよね? プログラムに大会規定とか書かれているし、審判だっているし、細かいルールも頭に入れておかなきゃマズいッスね」
返事が戻らないところをみると、そんなレベルの話でもなさそうだ。
「一応、トーナメントの経験はあるんですよ。何て言うか、負けたらコートから追い出されるみたいな?」
どうにかして解決の糸口を探ろうと話しかけてみるものの、どれも的外れのようで、唐沢は黙したままだった。
「あの……本当にすみません」
あとはもう、ひたすら謝罪するしかない。謝って済む問題でもないのだろうが、無言の先輩とどう接して良いのか分からず、透はうなだれるように頭を下げた。
長い沈黙の後、唐沢が唐突に噴き出した。彼にしては珍しく声を立てて笑っている。
「唐沢先輩?」
「今日はここにいる他校の連中全員の度肝を抜いてやろうと思って来たんだが、俺が最初に驚かされるとはな。
真嶋? お前は本当に良い意味で俺の予想を裏切るな?」
まるでアクシデントを楽しんでいるかのような台詞に、ますます不安が募る。
「あのう、今更なんですけど、俺みたいな経験のない素人が出場しても良いんでしょうか?」
「経験がないからと言って出場しなければ、お前は永遠に素人のままだぞ。良いのか?」
「でも……」
「不安か?」
「はい、かなり」
正直に答えるしかなかった。
試合当日に論ずることでは断じてないが、経験の浅い自分が他の選手と肩を並べて、こんな大きな舞台に立って良いのか。チームの命運を背負って良いのか。唐沢の足を引っ張るだけではないのか。頭の中は不安でいっぱいだ。
透の言葉にならない想いを察したらしく、唐沢は一旦咳払いをして笑いを取り払うと、落ち着いた口調で語りかけた。
「真嶋は俺を信用できるか?」
「はい」
「どれくらいだ?」
「どれくらいって……百パーセント。いや、先輩なら二百パーセント信じられます」
「だったら、これから言うことをよく聞けよ。
良いか? 適度な緊張は人間の能力を最大限に発揮させる。
いつもより神経が過敏になるのは、いつもより素早く反応できる証拠だ。プレーに集中しさえすれば、緊張はお前にとって強い味方になる。
緊張を恐れずに、味方につけるんだ」
さすが中等部の頃からずっと、光陵テニス部のレギュラーとして活躍し続けてきただけの事はある。彼の言葉には実践で培われた重みが感じられる。
「真嶋が俺を信じてくれるなら、その俺に選ばれた自分自身も信じられるはずだ。お前がここにいるのは偶然じゃない。
今まで重ねてきた練習は、お前の中に確実に浸透している。あとは、それを信じてコートに立てば良い」
真っすぐに透を見つめる真剣な眼差しが、その言葉が嘘ではないと伝えている。
未知の舞台に上がる勇気も、そこで力を出し切れるかどうかも。全ては信じることから始まる。ここに至るまでの道のりが間違いではなかったと信じて、今は前進あるのみだ。
悶々と渦巻いていた不安が静まり、これから始まる戦いに意識が向いた。
「唐沢先輩……何だか、やれそうな気がしてきました。今だけでも、自分を信じてみようと思います」
「それで良い。今日は勝ちに行くぞ。良いな?」
「はい!」
シード校である光陵学園は、一回戦の勝者を待つ立場にある。
透と唐沢がひと通り準備をし終えて、他のレギュラー陣と合流しようとした矢先、マネージャーから杏美紗好学院が大差で勝利したとの連絡が入った。相手チームには負傷者もなく、目立った変更もないとのことである。
一回戦を観戦していた部員達の話では、杏美紗好学院のダブルスに出場しているのは司令塔の宮本とエースの季崎の二人であった。
変更がないということは、透と唐沢のペアは彼等と対戦することになる。まさしく予想通りの展開だ。
二回戦の会場へと向かう道すがら、唐沢から透に細かな注意事項が言い渡された。
まずは相手の勢いに飲まれない。
試合の勝敗は選手の能力だけでなく、気勢も大きく左右する。
俗に「シードの落とし穴」と呼ばれるそうだが、一見シード校の方が体力的に有利に見えても、必ずしもそうとは限らない。自分達よりも先に試合を始め、気分よく勝った直後の相手と対戦した場合、彼等の勢いに飲まれて、あっさり敗北することもあるという。
話を聞きながら、透は先程なぜ唐沢が大会経験の有無を問題視したのか、理解していった。
経験の浅い自分では、こういった付加的要素を先読み出来ない。シードの話のように、有利に思えた条件が予期せぬ形で落とし穴となったり、逆にどう見ても不利な条件が逆転を生むケースもある。
大会という緊迫した状況ならではの“どんでん返し”が、この会場のあちらこちらに潜んでおり、こればかりは経験を積んだ者でなければ事前に察知するのは難しい。
透が足を向けた前方にテニスコートの列が見えてきた。中では未だ一回戦の決着がつかずに接戦を繰り広げているコートもあれば、ちょうど勝敗が決したばかりのコートもある。
三年前、先輩達の応援に没頭していれば良かった頃には気にも留めなかった光景が、妙に生々しく感じられる。
チームメイトに抱きかかえられながらコートを後にする選手や、敗北に打ちひしがれて地面に膝をついている選手。あれは、この後の自分の姿だろうか。
またも頭をもたげる不安を払いのけようとしたところへ、反対方向から杏美紗好学院の一団がやって来た。
唐沢のいう通り、彼等は初戦で清々しい一勝を挙げたと見えて、緊張とはかけ離れた揚々たる空気を放っている。
特に宮本と共に集団を率いるエースの季崎はご満悦の様子で、透と唐沢の姿を認めるなり、嫌味なまでの笑顔で話しかけてきた。
「やあ、エース不在の光陵学園の諸君。今年は勝負を捨てて、後輩の育成に専念するつもりかな、このオーダーは?」
良くも悪くも地区予選では、地元の強みで互いの内情は筒抜けだ。成田の渡米も、ために光陵学園が戦力不足であることも、近隣校には「朗報」として知れ渡っている。
各校の出場選手が明記されたプログラムを片手に、季崎が嬉々として続ける。
「どうせ対戦するなら、日高君が良かったなぁ。光陵の新キャプテンと期待のルーキーをまとめて潰せるチャンスなのに。
今回は一人潰せば充分だからね。楽勝と言えば楽勝なんだけど、物足りないよ。
ああ、そうそう、真嶋君だっけ? 奈緒ちゃん、元気かな?」
よほど気分の良い勝ち方をしたのか、季崎は上機嫌でペラペラと喋り続けている。
端から勝つことを前提にした物言いだけでも腹立つ上に、性懲りもなく奈緒の話題を持ち出されたことで、今朝から透の体にしつこく取りついていた不安や緊張は吹っ飛び、途端に血の巡りが良くなった。
人の印象は三年経ったとしても、そう簡単に変わるものではない。とりわけ第一印象が最悪の相手に対しては、「やっぱりムカつく野郎だ」という揺るぎない事実を、そこに至るまでの経緯と共に思い出す。
中学時代、地区大会の帰りに透が奈緒と一緒にテニスをしようと待ち合わせをしていたところを、この季崎が現れ、せっかくのデート ――当時の自分にその自覚があったか、どうかは別として―― を台無しにされたのだ。
「おい、キザ野郎! 『ハルキを潰す』なんて戯言は、俺との勝負に勝ってからにしろよ」
「もしかして君、日高君より強いって言いたいの? それこそ戯言じゃなくて?」
「戯言かどうか、てめえの目で確かめたらどうだ? 今度はこむら返りを起こす前に、キッチリ片をつけてやる」
適度な緊張は人間の能力を最大限に発揮させると聞いたが、怒りの炎はそれを無限に引き出す効果があるようだ。
試合前から火花を散らす二人を横目に、唐沢が残るもう一人に柔らかな笑みを傾けた。
「お互い程よく温まったようだし、そろそろコートに入ろうか。ね、宮本君?」
試合開始の合図と共に、コート周辺からどよどよと不快な囁き声が漏れてきた。いずれもベースラインで構える透に対して発せられた中傷の類である。
コートと応援席の仕切りが金網のフェンスのみという風通しの良すぎる会場では仕方のないことで、無視する以外に策がないのも分かっているが、この試合がデビュー戦となる透にとっては、どうにも耳につく。
「噂通り、光陵のダブルスは捨て駒らしいな。アンビの宮本と季崎の二人に出張って来られちゃ、無理もないけど」
「所詮、シングルス頼みの光陵だからな」
ランダムに流れてくる話し声が、相手チームの勝利を確信しているかのように聞こえる。実際、そう思われているのだろう。
かつて成田と共に「光陵最強ペア」と謳われた唐沢が、無名の新人と共にダブルスに復帰した。この事実は様々な憶測と共に近隣校周辺を駆け回り、この会場でも多くの観客を呼び寄せている。
成田の抜けた光陵学園に勝ち目はないと笑う者や、唐沢が目をつけた新人を値踏みする者。しかし最も多いのは、唐沢が新人とのダブルスで苦戦する姿を一目見ようと待ち構えている者達だ。
地区予選と言えど、新人をフォローしながら勝ち抜けるほど甘くない。特に試合巧者の宮本を相手にするとなると、どんなに息の合ったペアでも苦戦を強いられる。
強豪の名は過去の遺物と化したにせよ、「陣型崩しの天才」はいまだ健在だ。
長きにわたり王座に君臨し続けた光陵学園のリーダーが、彼の原点とも言うべきダブルスで失墜する瞬間を、今か今かと待ち受けているのである。
透は奥歯を噛み締め、耳障りな囁き声に耐えていた。
これも大会ならではの特異な現象か。事前に唐沢からの指示がなければ、透はこの無礼な観客達を黙らせるためにブレイザー・サーブを叩き込んでいるところである。
だが、ここは彼の指示通り、力を抑えたフラット・サーブで勝負しなければならない。
実はこの試合が始まる前に、透は「シードの落とし穴」の他にも注意を受けていた。
ブレイザー・サーブとドリルスピンショットは、唐沢からの合図があるまで使わない。
得意なショットを封印したままエンジン全開の季崎・宮本ペアを相手にするなど、どう考えても無理な話だが、透に迷いはなかった。パートナーである唐沢に対する信頼が無理を道理に変えていた。
「ふぅん……こんなサーブで日高君より上だって言い張るの?」
案の定、透のサーブは季崎の侮蔑の言葉と共にすんなりと返された。いくら鼻持ちならない相手でも、エースとしての実力は認めざるを得ない。
しかし透が本当に気を付けなければならない相手は、宮本の方だった。
相手ペアからの返球が全て唐沢一人に集中している。唐沢が前衛にいる時はそれほど目立たなかったが、第3ゲームに入って、彼がベースラインに下がってからも返される方向はただ一人。
「陣型崩しの天才」がターゲットに選んだのは、無名の新人ではなく、唐沢だった。
ダブルスではより多くのポイントを奪えそうな選手から崩していくのが通常のセオリーだが、宮本はあえて逆の方法を取ったのだ。
たとえ新人一人を狙い撃ちにしたとしても、唐沢がいる限り勝負が決したことにはならない。唐沢は二対一でも充分対応できる実力の持ち主だ。
それならば自分達の体力のあるうちに彼を潰しておけば、勝利は確実だ。試合巧者の宮本はそう踏んだに違いない。
縦型雁行陣というフォーメーションがある。前衛の前に前衛、後衛の正面に後衛が立つ陣型で、ちょうど台形をコート上に広げた格好だ。
その陣型を保ちながら、宮本と季崎の二人が唐沢に集中攻撃をかけてきた。
この状況では後衛同士がストレートで打ち合わなければならず、必然的にクロスで打ち合うよりもラリーのテンポが速くなる。
つまりは後衛に位置する唐沢を潰すのに適したフォーメーションで、これを破るには前衛がボレーで阻止するしかないのだが、今の透のレベルではとてもラリーに割って入れる腕はない。
無理にでも突破口を開くことも可能だが、そうしなかった理由は、厳しい練習の中で唐沢から教え込まれたポジショニングが体に染みついていたからだ。
唐沢は敵の攻撃を受けながら反撃のチャンスをうかがっているはずである。ここで透が下手に動けば、そのチャンスを無駄にする。
「どんなに勢いのある川でも、必ず流れを変えられるポイントがある。そこを冷静に見極められるかが勝負の分かれ目だ」
そう教えてくれた先輩が無策のはずがない。
透は自分からは何も行動を起こさず、合図を待った。すぐ側でパートナーが集中攻撃を受けているというのに、ただひたすら先輩の言葉を信じて、その時を待っていた。
ゲームカウント「4−4」と引き分けたところで、さすがの唐沢にも疲労の色が出始めた。
トップクラスの選手二人を相手にしているのだから無理もない。8ゲームを持ち堪えただけでも奇跡である。
透の胸に不安がよぎった。果たして自分の判断は正しかったのか。
宮本は唐沢が潰れる頃合を見計らって、一気に畳み掛けてくるに違いない。パートナーの季崎はすでに勝ち誇ったような顔をしている。
対する唐沢は限界が近いのか、コート内を移動するのにも足元がふらついて億劫そうだ。
やはり待つべきではなかった。ダブルスは二人で戦うものである。自分だけが指示待ちと称して、何もしなくて良いはずがない。
透が後悔の念に駆られた、次の瞬間。ネット前でよろける唐沢の姿が目に入った。
「唐沢先輩!」
予想以上に体力を消耗したのだろう。経験の浅い後輩をパートナーにして、トッププレイヤー二人と渡り合うなど、いくら唐沢でも無理がある。
力なく崩れ落ちる先輩に駆け寄り、透が抱き止めた、その時だ。
「真嶋、出番だ」
「へっ……? あの、唐沢先輩? 大丈夫なんですか?」
「ああ、待たせたな。せっかくのデビュー戦だ。派手に暴れて良いぞ」
いつもの唐沢が、そこにいた。
俯き加減でもたれているが、声には張りがあり、汗もかかず、息も上がらず、よろけて見せたのも、透を自分のところへ呼び寄せて合図を出すための演技のようである。
「先輩、驚かさないでくださいよ。俺、本当に駄目かと思ったじゃないですか!」
「へぇ、お前の二百パーセントの信頼は、その程度なんだ?」
「あ……いや……」
「ま、ちょっと引っ張りすぎたからな。
周りを見てみろよ。俺達の無様な敗北を楽しみにしている奴等が、試合前の倍はいる」
確かに試合開始直後でも多いと思った観客が、終盤に来て倍以上に膨れ上がっている。
「これだけ集まれば充分だ。真嶋、俺がパートナーに選んだお前の実力をしっかり見せてやれ」
軽く片目を瞑ってから、唐沢は再びよろよろとした足取りで前衛のポジションに戻っていった。
いかにも限界というふらつき方が今となっては空々しく見えて、その臭い芝居に自分も加担しているかと思うと罪悪感もなくはないが、おかげで透の迷いは綺麗さっぱり吹っ切れた。
一回、二回、三回。このサーブを放つ際には、必ずボールを三回バウンドさせる。一種の儀式のようなものである。
「それじゃ遠慮なく……」
少し前にトスを上げると、透はラケットを勢いよく振り抜いた。
「15−0」
透の手元を離れたボールが相手のラケットに触れることなく、ベースラインから出ていった。ノータッチ・エースである。
審判のアナウンスがエースを決めた喜びをさらに盛り上げる。これもセルフジャッジの試合では味わえない、大会ならではの快感だ。
エースを決めたことにより、透のサーブはますます調子が上がっていった。
「30−0」、「40−0」とサービス・エースでポイントを積み重ねていく中で、いまだ臭い芝居を続ける唐沢の肩が小刻みに震えている。ブレイザー・サーブに翻弄される二人を特等席で拝める彼は、笑いを堪えるのに必死のようである。
ベースラインに立つ透からも宮本と季崎の狐につままれたような呆け顔が見て取れた。あの遥希をも苦しめたサーブを最終局面で突きつけられては、唖然とするしかないのだろう。
第9ゲームを全て透のサービス・エースで押さえ、ゲームカウント「5−4」になったところで、唐沢から最後の指示が下された。
「俺は適当に動くから、好きなように決めて良いぞ」
ドリルスピンショット解禁の合図である。
―― 試合前、一回戦で快勝した季崎は、ほんのわずかだが油断を見せた。
「今回は一人潰せば充分だからね」
パートナーの宮本は、この発言を快く思わなかった。自分達の作戦を勘付かれるのではないかと、ヒヤリとしたのだろう。
季崎の一言で急に険しくなった宮本の表情を目ざとく捉えた唐沢は、彼等が透に関してはノーマークで、自分一人に集中攻撃をかけてくると判断し、透と季崎が小競り合いをしている数分の間に今の作戦を練り上げた。
敵の策に捕まった振りをして、ゲームカウント「4−4」まで試合を引っ張り、残りの2ゲームを透のブレイザー・サーブとドリルスピンショットで一気に突き放す作戦だ。
相手の攻撃をしのげるギリギリの限界と、透の実力を最も派手にアピールできるタイミングを考慮した結果、“どんでん返し”の舞台を第9ゲームに設定したのである。
一見、有利に思えた条件が、予期せぬ形で落とし穴となる。確かに「シードの落とし穴」が存在するのは事実だが、勢いに乗り過ぎた選手に油断が生じるのも、また事実。
成田が部長を務めていた頃から軍師としてチームを支えてきた唐沢が、敵の油断がもたらす好機を見逃すはずはない。真に優れた智将というのは、勝利を手中に収める瞬間まで己が狙いを敵に悟らせないようにするものだ ――
最終ゲーム、前衛の唐沢がベースラインまで退いた。
ドリルスピンショットを警戒した季崎が唐沢の正面に立ちはだかるのを見届けてから、透は素早くラケットを引いた。
その寸分と違わぬフォームを見せられても、まだ季崎は無名の新人からドリルスピンショットが繰り出されるとは気付いていなかった。彼の注意は、あくまでも唐沢に向いたままである。
透は充分にボールを引きつけた上で、相手コートのど真ん中を目がけてラケットを滑らせた。
季崎と宮本の間を、ドリル回転を携えたショットがすり抜けていく。
「まさか……!」
コート周辺が俄かに騒がしくなった。
捨て駒と見下していた新人が、宮本と季崎の二人をノータッチ・エースで沈めるほどの強力なサーブを放ち、唐沢と同じ決め球を習得している。
この事実に慌てふためく者達が、さらに騒ぎを大きくした。
ずっと不快だと思っていた観客達の声が、今は小気味よく聞こえる。その群衆の中には、見慣れた顔が何人か交じっていた。
海南高校の村主と明魁学園の京極だ。他にも数名、光陵学園のライバル校と思しき選手達が、鋭い視線をコートに向けている。
唐沢の真の狙いも、ここにある。
彼は最初から季崎や宮本を相手にしていたのではない。自分達が注目されるのを承知の上で、いずれ戦うであろうライバル校の連中に、透の実力を見せつけることが今回の目的だ。
成田がチームを抜けて、強みであるはずのシングルスが手薄になった今、光陵テニス部を勝たせる為には、相手校のエース格の選手をダブルスに引きずり出し、部長自らの手で捌いていくのが最善の策である。
このデビュー戦は、いわば唐沢から他校に対しての挑戦状の役割も果たしている。
わざと自分が潰れるようなパフォーマンスをして見せたのも、対戦相手を油断させる為ではなく、透が一人でも宮本達を捻じ伏せる力があることを、周囲に知らしめる為のものだった。
ゲームセットを告げる審判のアナウンスが心地よく響いた。
「唐沢先輩、ありがとうございました。一時はどうなることかと思ったけど」
「それは俺の台詞だ。試合前にお前から戦歴ゼロだと聞かされた時には、成田への言い訳まで考えた」
「アハハ! お騒がせしちゃって、すみません」
「まあ、良い。それより真嶋? あそこにいる連中の顔をよく覚えておけよ」
フェンス越しに明魁学園の京極を中心として数名の選手が集まっているのが見えた。各々が透の噂を聞きつけ、偵察にやって来た他校のテニス部員だろう。
「いずれ、奴等とは戦うことになる。必ず……」
じっとフェンスの外を見据える唐沢の眼差しは、味方の透をも圧する程の迫力があった。
今の試合でもここまでの気を感じなかったということは、この先で待つ選手達のレベルの高さは宮本たちの比ではないということだ。
ただ一つの頂点を制する熾烈な戦いは、いま始まったばかりである。