第18話 相棒

 再びコートに現れた透の姿を認め、安堵したのも束の間、奈緒はその横顔に更なる不安を覚えた。
 先程の海南高校との試合で負傷者が出るというアクシデントが発生し、混乱の最中、透がコートから出て行った。
 なかなか戻らないので心配したのだが、遥希と共に管理棟から出て来た時の様子を見る限り、単なる取り越し苦労に思えた。ところが――。
 遠目には普段通りの彼だった。
 遥希とじゃれ合う姿も、頭を掻きながら仲間達に謝る仕草も、ラケットバッグをファスナー全開でベンチの上に放置するルーズさも。
 しかし、試合前、ペアの唐沢と会話を交わす横顔を近くで捉えた奈緒は言葉を失った。とても正常とは言い難い顔色に絶句したのである。
 「姉ちゃん、大丈夫か? 真嶋先輩の顔、青いっつうより真っ白だぞ。
 あんなんで試合に出るのかよ? つか、出すのかよ?」
 不安に傾く姉の心の内を知ってか、知らずか、弟の和紀が見たままの感想を口にした。
 初めは透に対して否定的な見方をしていた和紀だが、直接会って話をするうちに彼の表裏のない人柄を理解したようで、四回戦が始まる頃には光陵学園の応援席で身内の顔をして座っていた。
 「うちのサッカー部も無茶やらせる方だけど、テニス部はもっとヤベエな?」
 和紀が視線をコートから一旦離して同意を求めてきたが、奈緒は周りのテニス部員の手前、一緒になって騒ぎ立てるわけにもいかず、仕方なく曖昧な笑みを返した。
 無論、我の強い弟がそれで納得するはずもない。その証拠に、眉根の片側だけが不本意そうに下へと下がり、唇はつんと前へ突き出している。彼が理不尽な現実に直面した時によくする“すね顔”だ。
 「なあ、姉ちゃん?」
 「なに?」
 「そのさ……」
 さぞかし盛大な不平不満が飛び出してくるかと思いきや、率直な物言いが自慢の弟が珍しく言いよどんでいる。
 「よくあるんだろ? こういう事って」
 「こういう事?」
 「だからサッカーもそうだけど、テニスだって、さっきみたいな事は珍しくねえんだろ?」
 和紀の言わんとすることが、奈緒にも分かりかけてきた。
 スポーツにケガのアクシデントは付き物だ。それなのに、なぜ透はあそこまで過剰な反応を示すのか。
 弟はそのことを非難ではなく、一人のアスリートとして疑問に感じているのだろう。不運な事故と割り切るしかないものを、一目で吐いたと分かるほど自分を責める必要があるのかと。

 出会った頃の透は、他人の喧嘩も自ら買って出るようなヤンチャな少年だった。決して好んで人を傷つけるタイプではなかったが、暴力沙汰には慣れている風だった。
 持って生まれた性格なのか。はたまた一風変わった生育環境のせいなのか。
 ともかく彼は多くを語るより拳に物を言わせる方が得意な性質で、それはアメリカに留学しようが、高校生になろうが、少しも変わらず、先日の学園祭でも、体育倉庫に監禁された奈緒を救出するために、分厚い木製の扉を蹴破るという荒業をやってのけ、野生児の健在ぶりを証明したばかりである。
 表面上は昔と変わらない。ただ内面のある一部分において、透は三年前にはなかった“何か”を抱えている。
 それがふとした拍子に頭をもたげると、途端に奈緒の知らない別の顔が現れる。二重人格というほど確立されたものではなくて、むしろ非常に移ろいやすい不安定な一面が垣間見えるのだ。
 体育倉庫で宮越がナイフを振り回した時も、運動能力に秀でた彼なら容易に避けられたはずなのに、まるで刺されることを望んでいるかのように無防備のまま立っていた。
 恐らく彼が抱える“何か”は、恩人の死と深い関わりがあるのだろう。先程の事故に関しても、それを思い起こさせる原因がどこかにあったのだ。
 どんなに近しい相手であっても、その人が抱える痛みを理解するのは難しい。頭では理解したつもりでも、あくまでそれは“つもり”であって、想像の域を超えることは出来ない。
 現に奈緒は、透と同じように事故の現場に居合わせながら、今も平然と立っている。負傷した村主を気の毒には思う。だが、顔から血の気が引くほど心が乱されることはない。
 経験した者にしか理解し得ない痛み。それを中学二年生になったばかりの弟に説いて聞かせるのは至難の業である。まして人の生死が関わっているとなると、尚更だ。

 奈緒が答えに窮していると、応援席の背後、斜め上の方から声がした。
 「彼ね、お父さんが肩の故障でテニスを止めたから、それでケガに対して人より神経質になるんじゃないかしら」
 奈緒よりも頭一つ大きいその人物は、確かテニス部の先輩の一人で滝澤といったか。
 彼は幼い弟に目線を合わせた説明を施すと、奈緒に向かって軽くウィンクをしてみせた。
 透の話によれば、滝澤は「軍師・唐沢の知恵袋」と称されるほどの知識人で、おまけによく気がついて、世話好きでもあるために、何かと問題の多いテニス部内においては母親のような存在だと聞いている。
 なるほど、今の誰も傷つけずに丸く収めるフォローの仕方は、まさしく母親のそれである。
 「ふうん、そうなんだ」
 滝澤から説明を受けた和紀が、ケガの程度を想像するように自身の肩を押さえ、それから妙に大人びた口調で、
 「真嶋先輩、ああ見えて、色々修羅場くぐってんだな」と呟いた。
 姉の奈緒には生意気盛りの弟が背伸びをした恥ずかしい台詞に聞こえたが、滝澤は別段気に留める風でもなく、
 「ええ、意外性のある男って素敵でしょ?」と言ってにこやかに微笑んでいる。
 さすがテニス部の母である。
 滝澤の大人の対応に会釈で応えた奈緒は、皆と一緒にコートの中に視線を戻した。
 正直、あまり見たくないと言うのが本音であった。青白い顔をした透もさることながら、これから対戦する相手を思うと気が滅入る。
 何の因果か、次のダブルスの相手は唐沢の実弟、疾斗であった。
 中学時代、不良グループの仲間と暴れ回っていた疾斗を更生させたのが透である。
 以来、疾斗は透に対して恩義を感じているらしく、奈緒のことまで気にかけ、面倒を見てくれる。透が渡米する際も、空港まで連れて行ってくれたのも彼なら、アメリカでの様子を小まめに知らせてくれたのも彼である。
 真っ直ぐであるが故に壁にぶつかり易く、純粋であるが故に傷つき易い。疾斗と透はよく似ている。
 ただ一つだけ、疾斗の方が三兄弟の中で揉まれて育ったせいか、より現実的に物事を捉えられるよう仕込まれている。要するに、割り切りが良いのである。
 それは試合前の挨拶からも感じ取ることが出来た。

 「病人をいたぶる趣味はねえけど、この場に出て来た限りは遠慮なくやらせてもらう」
 青白い顔の親友に対し、最初に疾斗がかけた言葉はこれだった。
 その言葉通り、彼は同情どころか戸惑いすら見せず、得意げにラケットをクルクルと回しながら、尚も続けた。
 「相手が誰であろうと容赦はしねえ。敵は敵として全力で叩き潰す。
 お互いブロック優勝がかかっているんだし、それが礼儀ってもんだよな。なあ、海斗?」
 二人の兄を持つ疾斗は、長男の北斗を「兄貴」と呼び、次男の一つしか違わぬ兄の方を「海斗」と呼び捨てにする。
 年下でありながら唐沢と対等に話ができるのは弟ならではの特権だろうが、その恵まれた立場を差し引いても余りある、気概のようなものが今の疾斗からは感じられる。
 そしてまた、彼とダブルスを組むもう一人の選手からも。
 ちょうど疾斗がテニス部に入部した頃と時を同じくして、松林高校は優秀なコーチを招き入れ、全国制覇に向けて体制を整えたところであった。
 「勝つテニス」を信条とする新コーチの指導のもと、即戦力になるべく鍛えられた彼等は、今大会で自チームが勝ち進むにつれ、ますます自信を深めているようだ。
 そんな彼等とは対照的に、光陵サイドの二人は試合前から覇気がない。かろうじて唐沢が「ご自由に」と一言返したが、心なしか遠慮が見える。
 さすがに実弟が対戦相手となると、いくら百戦錬磨の部長でも心穏やかなはずがない。まして不調のパートナーと共に乗り切らなければならないのだから、いま最も苦しい立場に立たされているのは唐沢かもしれない。
 この試合、光陵学園にとって最悪の結果になるのでは ―― 奈緒の漠然とした不安は中盤に差し掛かる頃にはハッキリとした数字となって現れた。

 互いにサービスゲームをキープする形で迎えた第4ゲーム。本来ならサーブ権を有する光陵学園が積極的に攻めに行かねばならない場面で、サーバーである透が初歩的なミスを犯した。
 透の放つサーブが制球力を失い、ことごとくフォルトになっている。
 奈緒の記憶では、透はテニスを始める前からフラット・サーブの打ち方だけは習得していたはずである。
 岐阜の山奥で育った彼はラケットを使い勝手の良い得物だと思い込んでいた時期があり、サーブの打ち方も果物や動物を仕留めていく過程で自然と身についたと話していた。
 ところが、村主の事故の動揺がまだ残っているのだろうか。どの場所からでもピンポイントで的を狙えると自負していた彼が、先程から一度もサービスエリアの広い枠を捉えることが出来ずにダブルフォルトを連発している。
 自らボールを放つサーブには集中力が必要不可欠だ。心の乱れが集中力を奪い、それがコントロールにも影響を及ぼし、失点の事態を招いている。
 相次ぐダブルフォルトに場内には白けたムードが漂い、それが新たな重圧となってサーバーに圧し掛かる。
 気持ちを切り替えようと、透は肩を回したり、深呼吸をしてみたりと、あらゆる方法を試しているが、やればやる程、その行為が無駄な足掻きに見えてくる。
 パートナーの唐沢もサーブが入らなければ対処のしようがなく、ポイントを失う度に黙って左右のポジションを行き来している。
 初心者の域を脱し切れない奈緒でさえ、こんなに「フォルト」のコールを連続して聞いたのは初めてだ。
 結局、第4ゲームはボールが一度もコートを往復せぬまま、光陵学園は大事なサービスゲームを落とした。
 ゲームカウント「1−3」。形式上はブレイクと言うのだろうが、実際には透のサーブ・ミスによる自滅である。

 早くもピンチを迎えた二人を見て、最初に矛盾を口にしたのは弟の和紀であった。
 「何かおかしいな。素っ気ないっつうか、冷てえっつうか」
 「トオルのこと?」
 「いいや。もう一人の先輩の方だよ。普通、パートナーの調子が悪かったら、その分フォローとかするだろ?」
 サッカー部でチームワークの大切さを嫌というほど叩き込まれた弟ならではの意見である。
 「でもサーブが入らないと、いくら唐沢先輩だってどうにも出来ないし」
 「違げえよ。俺が言いたいのは、他のゲーム。
 真嶋先輩が絶不調だって分かってんのに、あの先輩、何もしねえじゃん」
 「フォローしたくても出来ないんだよ、きっと。疾斗君もドロップショットとか、上手く使って攻めているし」
 今の第4ゲームを除き、奈緒には光陵学園が苦戦する原因は疾斗から放たれるドロップショットにあるように思えた。
 後衛の正面にあたるネット際で急降下するドロップショットは、前衛、後衛、どちらからも遠い位置に落とされる為に、拾いに行くには相応の瞬発力を要する。それを疾斗は巧みに利用して、得点を重ねていた。
 「確かに、あのドロップショットは厄介ね。だけど、問題点はそこじゃないのよ」
 素人二人が「ああでもない」、「こうでもない」と気を揉む姿は世話好きの母には不憫に映ると見えて、滝澤が苦笑いと共に今の戦況を詳しく解説してくれた。
 「仮に海斗が強引にネット前まで拾いに行ったとしても、今度はコートの半面ががら空きになるでしょ? だからと言って、今の坊やじゃ機転を利かせてカバーに回る余裕はない。
 つまり、海斗が拾っても、拾わなくても、結果は同じなの」
 「でも、あいつ、さっきは二対一で戦ってたじゃん! すっげえ強えくせに、力の出し惜しみしている気がする」
 初戦の杏美紗好学院との対戦から見ていた弟は、まだ納得し切れぬ様子であった。唐沢の実力をもってすれば、一人でも充分に応戦できるとの主張である。
 話を聞いているうちに、奈緒も弟と同じ矛盾を感じ始めた。
 唐沢は成田と並んで光陵テニス部の二枚エースとして中等部の頃から部を率いてきた兵だ。その彼が何の策も講じずにいるというのは確かに妙である。
 「なかなか頭の良いボクね?」
 「ボ、ボク?」
 滝澤は、和紀の苛立ちが身内ならではのものだと分かっているようで、先輩への無礼な態度を咎めもせずに、にこやかに説明を続けた。
 「ドロップショットもそうだけど、海斗が動けない理由はもう一つ。松林がドリルスピンショットを警戒して、回転をかけないフラットで返球しているからなのよ」
 「それって、真嶋先輩が初戦で出した決め球のことだよな?」
 「そうよ。ドリルスピンショットはトップスピンの返し技だから、フラットでの返球が続く限り、封じられたのも同じなの。
 二人の切り札を出せないようにしておいて、調子の悪い坊やの方を重点的にドロップショットで攻めているってわけ」
 「他に打つ手はねえのかよ?」
 「海斗一人が拾いに行っても、体力を削られるのがオチでしょうね」
 「そんなぁ……」
 自分が応援するチームの絶望的な状況を知って、和紀が例の“すね顔”を復活させた。
 弟は透を姉の彼氏というよりも、同じアスリートの目線で見ているのかもしれない。自分のミスや不調が原因でチームが窮地に追い込まれる辛さは、彼にも覚えがあるのだろう。
 「でも心配しないで。ボクの言う通り、うちの部長は『すっげえ強え』から」
 滝澤が人差し指を弟のつんと突き出た唇に押し当てる真似をした。
 「見てらっしゃい。彼は待っているはずよ」
 「何を?」
 「もう一人の『すっげえ強え』パートナーの復活を」


 第8ゲームが始まろうとしていた。これまでの7ゲーム中、まともに得点したのは唐沢がサーバーを務めた2ゲームだけで、他は全て相手に主導権を握られ、奪われた。
 ゲームカウントは「2−5」。
 あと1ゲームでも落とせば光陵学園の勝利はないという崖っぷちの状況で、サーブ権を手にしたのは透であった。
 正直なところ、第4ゲームの失態がいまだ尾を引き、自分達のサービスゲームでありながら死守する自信はまったくなかった。
 それどころか、頭に浮かぶのはまたもダブルフォルトを連発し、敗北を決定的なものとする自分の姿である。
 だが、こんな形で試合を終わらせるわけにはいかない。透は自身を奮い立たせるべく、強い決意を唐沢に伝えた。
 「唐沢先輩、同じミスは二度としません。今度は必ずサービスキープしますから」
 「分かっている。気にするな」
 「先輩、あの……?」
 先程から薄々感じていたことだが、どうも唐沢の様子がおかしい。いつもなら、ここで脅し文句の一つも飛び出すはずなのに。
 試合前、「海南の敗北を背負う覚悟がないなら戻って来るな」と厳しい伝言を遥希に託したにもかかわらず、初歩的なミスを叱責することもない。
 今にして思えば、ダブルフォルトで大事なサービスゲームを落とした後も「気にするな」の一言で済ませ、それ以上、踏み込もうとはしなかった。
 不甲斐ない後輩に腹を立てることもなく、策を講じることもなく、淡々とポイントが奪われていく様を見送る唐沢。もしかして彼はとうにこの試合に見切りをつけて、残りのシングルス二戦に望みを託しているのではあるまいか。
 「唐沢先輩? もしかして……」
 「もう勝負を捨てたんですか?」と聞こうとして、透は先を続けることが出来なかった。
 仮にそうだとしても、自分に彼を責める資格はない。その原因を作ったのは、他でもない透自身である。
 そろそろ次のゲームが始まる。唐沢の真意を確かめたくても時間がない。コートチェンジに与えられた時間は九十秒と決められている。
 すでに透以外の選手はコートの中に入り、それぞれのポジションについていた。前衛の唐沢もネット前で構えている。
 本当は、こんなみっともない試合は早く終わらせて欲しい、と願っているのかもしれない。単なる事故で集中力を失くし、ダブルフォルトを量産する後輩とは恥ずかしくてペアを組むのも嫌だ、と思われているのかもしれない。
 光陵学園の白いユニフォームを着た先輩の背中がやけに遠くに感じる。二百パーセントの信頼のもと、迷うことなく勝利を目指せた午前の二試合が遥か昔の出来事に思えた。
 だがしかし、透には勝負を捨ててはならない理由があった。たとえこれが最後のゲームになったとしても、唐沢に恥だと思われていたとしても、海南高校の敗北を背負うと決めたのだ。自ら敗北を受け入れるような真似は出来ない。
 透が気を取り直してコートに入ろうとした、その時だ。
 ネット前の唐沢が背を向けた格好で静かに問いかけた。
 「真嶋? この予選が始まる前に聞いたこと。覚えているか?」
 「えっと……『俺のこと、信用しているか』って聞かれました」
 「で、お前は何て答えた?」
 「先輩なら二百パーセント信じられる、と答えました」
 「そうか。覚えているなら、それで良い」
 透の目の前で、白いユニフォームがふわりと揺れた。
 自分に向けられた真っすぐな視線。ココア色した前髪の隙間から覗く眼差しはお世辞にも温かなものとは言えないが、だからこそ偽りのない真実が映っていた。
 「俺もだ、真嶋。俺もお前を二百パーセント信じている」
 「唐沢先輩……」

 今まで自分はこの先輩の何を見てきたのか。ダブルスのペアを組んだ時に、最初に言われたではないか。
 「これから俺達は運命共同体だ。お前が潰れれば、俺も潰れることになる」
 その言葉通り、唐沢は透と運命を共にしようとしている。
 透がミスを連発しても動じなかったのは、すでに彼の中では覚悟があったから。だからこそ、叱ることも励ますこともせずに、自分の運命をパートナーに委ねていた。
 二百パーセントの信頼は一人だけのものではなく、透がその言葉を口にした時点で、彼も誓ってくれていたのだ。何があっても、パートナーのお前を信じると。
 ようやく己がなすべきことが見えてきた。
 いま本当に目を向けなければならないのは、恐怖心でもなければ、悔いを残した過去でもない。
 ひたすら透の復活を信じて待つ白い背中。そしてネットの向こうの真剣勝負を挑んでいる対戦相手の二人であった。
 頭の中が水を打ったように静かになった。いつもの感覚が甦る。
 一つ、二つ、三つ。サーブ前の三回のバウンドが目覚めの儀式となった。
 左手が力みのないトスを上げる。低く落とした重心から生まれた力が、下半身から上半身へと波打つようにして迫り上がる。
 上空に放たれたボールが伸びやかなラインを描き、ラケットに集約された力の波が覆い被さる。
 直線と波とが交差する。その一点を正しく捉えた時の、えも言われぬ解放感が全身に広がった。
 いつもの手順。いつもの打感。そこから生み出されたサーブが、透の狙い通りのコースを辿って相手コートを駆け抜けた。
 「15―0」とサービス・エースを告げる審判のアナウンスが響くと同時に、透はネット前の白い背中に笑いかけた。
 「唐沢先輩、こんな感じで良いッスか? さっき『容赦しねえのが礼儀』だって、ほざいていた奴がいたかと思うんですけど」
 「いいや、もう少し加減した方が良いんじゃないか? あまりペースを上げると、残り5ゲームも持たないぞ」
 そう言って振り向いた唐沢の口元にも笑みが浮かんでいた。いつもの賭けに勝利した時の、あの不敵な笑みが。
 ゲームカウント「2−5」の崖っぷちから自分達が勝利するには、今から続けて5ゲームを連取しなければならない。
 今の唐沢の台詞は反撃開始の合図であった。

 透の復活によりサービスゲームをキープした光陵学園は、「3−5」と2ゲーム差に詰め寄った。そのスコアを見届けてから、唐沢が小声で指示を出す。
 この試合に入って初めて出された指示は、ダブルバック ―― 二人ともが後方へ退き、守りを固めるフォーメーションだ。
 二人が後ろへ下がるということは、必然的にネット前はがら空きになる。ドロップショットを多用する相手に対し最も敬遠すべきフォーメーションで勝負すると聞かされ、透は少しばかり驚きはしたが、疑念はなかった。
 「一応、こっちも『礼儀』を通さなきゃいけないかと思ってさ」
 短い指示の後、唐沢が言い添えた一言で透は確信を得ていた。これは守りではなく、攻めの陣型であることを。
 コート後方で構える光陵ペアに対し、疾斗が勝負あったとばかりに、
 「ついに守りに入ったか?」と言いながら、ドロップショットを放った。
 次の瞬間、透は躊躇うことなく前へと走り出た。
 一見、防戦一方に見えるダブルバックだが、これは敵のドロップショットを誘い出すための罠である。
 本来ドロップショットは不意を突くからこそ効力を発揮するのであって、最初から落とされると分かっていれば、それはチャンスボールに他ならない。
 特に透の俊足をもってすれば、相手のラケットからボールが離れたと同時にダッシュをかけても充分間に合う距離であり、そこから反撃することも可能である。
 ネットの上を滑るように伝ってから相手のコートに落ちる、いかにも際どいドロップボレー。それを初めて見せられた人間は、たまたまそうなったと思うはず。
 疾斗の目にも偶然の産物と映ったに違いない。まさか狙ってやったとは、これが透の第二の決め球であるとは、気付きもしないだろう。
 その後、何度か同じ手順でポイントを奪われ、遂には自分達のサービスゲームをブレイクされるという屈辱的な結果を目の当たりにするまでは。

 ゲームカウント「4−5」まで追い上げたスコアボードの表示を、唐沢が満足げに眺めている。
 「そろそろ俺もエンジンかけるとするか……」
 癖のない前髪を一度だけ掻き上げる。これは唐沢がサーブを打つ際に、集中し直すための独自の癖である。
 新聞の斜め読みという変わったやり方ですでに集中力を高めている彼にとって、サーブ前の儀式はこれで充分だった。
 そして彼のラケットから繰り出されたサーブには、部長を引き継いで尚、軍師の名が健在であることを知らしめる仕掛けが施されていた。
 「なんで……?」
 足元をすり抜けてフェンス脇まで転がっていくボールを、疾斗が信じられないという目付きで追っている。リターンの構えのままで、目だけは通り過ぎていったボールを凝視する様は、身に起きた現実をまだ理解し切れていないようである。
 今の彼には「ボールに細工があるのでは」と疑うより他に、自身を納得させる術はないだろう。
 「全力で叩き潰す」と息巻く弟を敵に回し、調子の悪いパートナーを抱えながらの苦境の中で、まさか唐沢が力をセーブして戦っているとは思わない。
 ペアを組んでいる透でさえ、あの言葉を聞くまでは全力で戦っていると思っていた。
 「俺もだ、真嶋。俺もお前を二百パーセント信じている」
 唐沢は待っていたのだ。パートナーがアクシデントを乗り越え、完全復活を遂げるその時を。
 彼にはこの試合が長期戦になることも分かっていたに違いない。そうなるように仕向けたと言うべきか。
 だからこそ前半は必要なゲームだけを押さえて凌ぎ、後半に力を集中させた。
 10ゲームにも及ぶ長い試合では、どんなにボールの威力があったとしても次第に目が慣れてくる。それが顕著に出るのがサーブである。
 お互い手の内も分かり、スピードにも慣れた頃に、同じサーブを打ち込めばどうなるか。最悪の場合、リターン・エースを取られ、一気に形勢逆転されることもある。
 試合経験豊富な唐沢はこの事態を避けるために、初めは球威を抑えたサーブしか打たなかった。そして透が復活するのを見届けてから、百パーセントの力でサーブを打ったのだ。
 今のサーブこそが、彼の全力のスライス・サーブである。
 厄介なことにスライス・サーブの場合、サーバーが力を加えることにより、スピードのみならず、回転数も、軌道も変わる。疾斗が「ボールに細工があるのでは」と疑ってかかるのも無理からぬことだった。
 本気を出した唐沢のスライス・サーブは、まさにスライス(=切れる)の言葉がぴたりとくる程の鋭さがあった。
 バウンド直前に低く沈み、着地と同時にサイドへ逸れていくサーブを松林高校の二人がフラットで返せるはずもなく、甘い返球はネット前で構える透にボレーで叩き落とされ、止むなくかけたスピンボールは唐沢のドリルスピンショットの餌食となった。
 前半の苦戦が嘘のように光陵ペアが次々とゲームを奪い取り、最後はもう一度、透のブレイザー・サーブの威力を見せつけ、12ゲームにも及ぶ長い試合の幕は閉じられた。
 ゲームカウント「7−5」。ブロック優勝のかかった五回戦の初戦を制したのは、分が悪いと思われた唐沢・真嶋ペアであった。

 「完敗だ、海斗。トオルの復活を信じて体力を温存していたのか?」
 試合後、潔く握手を求める弟に対して、唐沢は試合前とまったく変わらぬ涼しい顔で応じた。
 「別に温存していた訳じゃないよ、唐沢君」
 「か、唐沢君!?」
 「前半は力を出す必要がなかっただけさ。後半で逆転を狙うのに、最初から全力で突っ走るバカはいない」
 「じゃあ、最初から長期戦になることを読んでいたのか?」
 「君は興奮するとラケットのグリップをやたらと回す癖がある。もう一人の彼も、意味もなくリストバンドを触る変わった癖があるよね?
 これじゃあ冷静に戦局を見極めることも出来ないし、もちろんペース配分なんて考えられない。わざわざ『全力で叩き潰す』と言われなくても、最初から全力で来るって読めるでしょ?
 おかげでゲームプランは立てやすかった。全力で仕掛けた後には、下り坂しか残っていないから。弱体化していく相手から点を取るのは、そんなに難しいことじゃない」
 文字通り、容赦ナシの厳しい指摘に、さすがの疾斗も返す言葉がない。ようやく同じ舞台に立てたと思い全力で挑んだ勝負だが、兄の方が一枚も二枚も上手であった。
 なかなか超えられない壁に、弟が悔しげな表情を浮かべた矢先。
 「唐沢君、もう君と対戦することもないと思うから、俺から一つアドバイス。
 目立つ癖は早目に直した方が良い。特に優勝候補として皆から注目される立場にある選手は」
 単に兄と弟の年齢差だけでなく、これが常勝を支えてきたエースと新米レギュラーとの格の差でもあるのだろう。唐沢の言葉には、破竹の勢いをも退ける重みがあった。
 「さすがだな、海斗。やっぱ、すげえや」
 素直に兄の洞察力の鋭さに敬意を表した弟に、唐沢は更に追い討ちをかけた。
 「それからもう一つ。礼儀を語るなら他校の先輩には『さん』付けすること。『兄弟だろうが敵は敵』と宣言したくせに、そんな線引きも出来ないようじゃ、底が知れる。
 ついでに言わせてもらえば、兄弟だろうが何であろうが、敵として見なすのは当たり前。俺はネットの向こう側に立った時点で、誰であろうと容赦はしない」
 「ブハハッ! 一本とられたな、疾斗!」
 それまで唐沢兄弟のやり取りを黙って聞いていた透だが、とうとう堪えきれなくなって噴出した。
 いつも唐沢から厳しい指摘を受けてばかりの透には、他の人間が自分と同じように説教を喰らう姿が珍しくもあり、嬉しくもあり、つい余計な一言を発していた。
 「笑いごとじゃない。底が浅いのはお前も同じだ」
 一瞬にして、厳しい指摘の矛先が変わった。
 「えっ? でも、さっき二百パーセント信じてくれているって言ったじゃないッスか?」
 「あれは鈍臭いお前のエンジンをかける為の方便であって、本心じゃない」
 「じゃあ、本心は?」
 「良くて70パーセントってところだな」
 「そんなぁ。俺、マジで感動したのに」
 二百パーセントの信頼は試合終了と同時に崩れ去り、未熟者の烙印だけが残された。
 項垂れる透を置き去りにして、唐沢が「まだシングルスが残っているぞ」と言って出口へ向かった。そして試合会場から出て行く直前、相変わらずの抑揚のない声でこう告げた。
 「改善しなきゃならない点は多々あるが、70パーセントは俺の中ではぎりぎり合格ラインだ。よく頑張ったな、トオル」
 「へっ? 先輩、いま何て……?」
 時間の無駄を嫌う先輩の体のほとんどは会場の金網フェンスから出ていたが、この問いかけには一旦足を止めて、答えてくれた。
 「相棒の名前を呼び捨てにしちゃ悪いのか?」
 「唐沢先輩、待ってください!
 俺も! 俺も先輩のこと、これから海斗先輩って呼んで良いッスか?」
 「調子に乗るな。俺を名前で呼ぼうなんざ二万年早い」
 唐沢が歩調を緩めることなく、先へ先へと進んでいく。
 二百パーセントの信頼を呼び名で示してくれた白い背中。二度とあの背中を見失わないように、透も後を追いかけ出て行った。
 三十分後、遥希の活躍によりシングルス戦も制した光陵学園は、見事ブロック優勝を果たし、インターハイ東京都予選の切符を手に入れた。






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