第25話 悲しみの手前で
唐沢の兄・北斗から聞かされた真実は、透の予想をはるかに上回るものだった。
五年前に亡くなった幼馴染みの菜摘という少女。彼女は三兄弟の中でも、とりわけ次男の唐沢と親しくしていたようである。
二人が恋仲であったかどうかは定かでない。
だが、少なくとも彼女のほうは唐沢に対して深い愛情を抱いていたに違いない。儚い命の我が身より、ひとり取り残されるであろう彼のその後を案じるほどに。
そしてまた、唐沢も――。
北斗の話によれば、もともと唐沢は読書が趣味の大人しい性格で、部活動にも積極的ではなかったが、菜摘の希望で仕方なくテニス部に入部したという。
いくら幼馴染みの頼みであっても、まったく毛色の違う体育会系に入るなど、そう簡単に出来ることではない。
察するに、二人は男女の恋愛感情に発展する前の、ただひたすらに相手を思いやる。そうした何の欲にも染まらぬ純粋な愛情を互いに抱いていたのではなかろうか。
それにもかかわらず、いや、今となっては、だからこそと言うべきか。
唐沢は彼女が生まれながらに過酷な運命を背負っていることも、危篤も訃報も知らされず、全国制覇を狙うテニス部のレギュラーとして都大会出場の大任を課せられた。
しかもそう仕向けたのは実の兄で、その事により、親友の成田との間に深い溝を作る結果となった。
今まで唐沢はどんな思いで過ごしてきたのか。
大切な人の死を知らされなかった悔しさも、それに気付けなかった無念もあるだろう。
兄の裏切りに怒りを覚える一方で、自身もまた親友の成田の信頼を裏切った。
二重、三重の後悔が十三歳の少年の心を雁字がらめにしたまま、今も縛りつけている。
多くの後悔に打ちのめされた五年前の都大会当日の朝。そこから一歩も動けず、うずくまっている十三歳の少年。それが唐沢の素顔である。
真実が明らかになるにつれ、透の気持ちに迷いが生じた。
どうにかして唐沢を救いたい。その一心でコーチの日高に掛け合い、北斗にも事情を問いただし、彼がどんな闇を抱えているかも理解した。
理解したからこそ、歯止めがかかったのかもしれない。彼がひた隠しにする領域に安易に踏み込んで良いのかと。
幾重にも折り重なった後悔が傷となり、足枷となって、彼を苦しめている。早く助け出した方が本人の為であることも分かっている。
しかし、唐沢自身がそれを望んでいるかは分からない。
五年もの間、彼は自身の心に鍵をかけ、ひとり静かに過ごしてきた。心が揺り動かされるたびに、湧き上がる感情を暗闇の奥底に澱のように沈ませ、平安を保ってきたのだ。
そんな人間が、今さら心乱される行為を望んでいるとも思えない。
不用意に踏み込んで、万が一、泥濁した澱に足を取られてしまい、二人して傷口を広げるような結果になったとしたら。
そう考えると透の足取りは重くなり、唐沢の自宅である寺の門を前にして完全に停止した。
他人の過去に介入するということは、それを共に背負う覚悟がなくてはならない。
ここ数日、行動を起こそうとするたびに上手くはぐらかされたこともあって、この時の透にはまだ決心がつかなかった。
俯く視線を上げると、辺りは透が予期した色合いと違っていた。
北斗の大学で思いのほか時間を食ったようである。茜色の夕焼けが闇夜に溶かされ、藍色に染められる側から星が瞬き出している。
唐沢の自宅も、薄暗い夕闇の中ではぼんやりとしか分からない。
目を凝らして中の様子をうかがってみるものの、どの部屋の窓からも灯りの類は見当たらず、寺へと通じる正面玄関の光でかろうじて建物の輪郭が認識できる程度であった。
唐沢は無事に帰宅したのか。せめて、それだけは確かめたい。
透は追い返されたらすぐに出て行くつもりで、勝手口へと回った。
北斗から預かった鍵を使って中へ入ると、見覚えのある靴が一足とテーブルの上に投げ置かれた夕刊が目に入った。無事かどうかは不明だが、帰宅はしたようだ。
学校での危うげな姿を思えば、所在が知れただけでも有難い。
これで一番の不安材料は解消された。このまま何も言わずに立ち去ることも可能であった。
正直なところ、気持ちの半分以上は出口に向いていた。いくら家人の一人から許しを得たとは言え、当の唐沢にとっては「招かざる客」に相違ない。
だが生活音のまるでない、もぬけの殻のような静けさがどうにも気にかかり、透はさらに奥へと入っていった。
唐沢家は特殊な造りで、確か住居スペースは二階に集中していたはずだ。子供部屋もそこにある。
玄関を上がって、階段の下まで来て、またも足取りが重くなる。
しかし今度は構わず歩を進めた。あの夜の出来事が、気弱に傾く透の背中を押していた。
ジャンの悪夢にうなされた夜。無意識のうちに求めていたのは人の温もりだった。
誰でも良いから側にいて欲しい。命あるものに触れていなければ、途方もない暗闇に取り込まれてしまいそうで。
そんな常人では理解しがたい願いを叶えてくれたのが、唐沢だった。多くを語らずとも、彼は透の必要とするものを与えてくれた。
あの時は人のことまで頭が回らなかったが、唐沢がそれをなし得た理由はただ一つ。彼も同じ夜を過ごしているからだ。
そうだとしたら、多少なりとも望みはある。
本当は唐沢も求めているのかもしれない。独りではないと感じられる温もりを。
そして、北斗から託された伝言も。
「今夜ぐらい好きにしろ」
きっと、あれは今の唐沢が最も必要とする言葉に違いない。
透は一歩ずつ、踏みしめるようにして階段を上がっていった。
後先を考えていては、今までの二の舞になる。うまく手を差し伸べることが出来なくても、その手を払いのけられたとしても、やれることからやるしかない。自分を暗闇の中から救い出してくれた先輩のために。
二階へ上がり、唐沢の部屋の前まで来て声をかけたが、中からの返事はなかった。
疲れて眠っているのだろうか。あるいは、考え事でもしているのか。
彼がどういう状態でいるのか気にはなったが、透は無理に中へは入らずに、部屋の外から「お邪魔しています」とひと声かけて、前の廊下で大人しく待つことにした。
ひょっとしたら、唐沢が出て来ることはないかもしれない。それでも待とうと思った。この扉が向こう側から開くまで。
どのくらい時間が経ったか。二時間、いや三時間。灯りのない廊下では確認のしようもなかったが、腹の空き具合からして九時を過ぎたところか。
じっとするのが苦手な人間にとって、待つという行為は多くの苦痛を強いられる。
立ったり座ったり、時おり寝転がったりもしながら、さらに時間が過ぎた頃、ようやく扉の開く音がした。
「トオル? どうして?」
最初に声をかけたはずだが、唐沢の耳には届かなかったようで、彼は思わぬ後輩の出現に困惑の色を露にしている。
まさに困惑という表現がピッタリだった。
学校で別れたはずの後輩が自宅に勝手に上がり込み、退屈そうに部屋の前で寝転がっているというのに、唐沢は大して驚きもせず、虚ろな目でどうしたものかと見下ろしているのである。
「えっと、実は……」
ここに至るまでの経緯を全て話すつもりはなかった。勘の鋭い先輩のことだから、大方の察しはついている。
それ故、透がとっさに口にした一言は、察しの良い先輩の心に響く名言となるはずだった。
「寒いかなって」
「えっ?」
「その、今夜は独りじゃ寒いかと思って」
暗闇に長くいると人の温もりが欲しくなる。その気持ちを上手く言い当てたつもりだが、どうやら見事に外れたらしく、唐沢はますます困惑の色を深めている。
ここで「先輩の心を温めに来ました」などど下手な解釈を加えても、恥の上塗りをするだけだ。だからと言って、今さら訪問の目的を打ち明けるのも滑稽で。
透はごにょごにょと「今のは忘れてください」と返すのが精一杯だった。
何とも気まずい沈黙が漂い始めた。とても本題に入れる雰囲気ではない。
「ずっと、ここに?」
様子を見兼ねた唐沢が、場を取り繕うように尋ねた。
「いえ、来たばかりです」
「そう?」
困惑顔の先輩の視線が透の片側の頬に注がれた。板張りの廊下と同じ筋目のついた、たぶん赤くもなっているであろう頬に。
そのことに気づいた透は、慌てて「あ、いや……少し前かな?」と訂正を加えつつ、手の甲で顔面をゴシゴシとしごいた。
間が悪いと言おうか。要領が悪いと言おうか。
てんで頼りにならない自分自身に嫌気が差すが、落ち込んでいる場合ではない。どうにかして会話を繋げなければ。本格的な沈黙が居座る前に。
ところが話を続けようと口を開きかけたところへ、謝罪の言葉が覆いかぶさった。
「ごめん。せっかく来てくれたのに」
明らかに謝罪という名の拒絶であった。要するに「帰れ」と言われているのである。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
「独りで?」
「独りが良い」
「でも……」
「本当にごめん。明日になれば、大丈夫だから」
「分かりました。じゃあ……帰ります。
だけど、俺で良ければ、いつでも呼んでくださいね。夜中でも駆けつけますから」
己の非力を思い知らされた。唐沢の救いとなるには、まだ役不足ということだ。
昔ジャンのジャケット中で感じた温もりや、唐沢が隣にいてくれた時の安らぎや。一人でいるようで、二人でいる。そんな上質な空間は彼等だからこそ与えることが出来るのだ。
呼ばれもしないのに勝手に人の家に上がり込み、必要な言葉どころか、的外れな台詞で空回りした挙句、気まずい沈黙を自ら呼び込むような愚か者が、間違っても頼りにされるはずがない。
来た時と別の意味で足取り重く、透が階段を下りかけた時である。
「もう遅いし……」
いつものようにバタバタと足音を立てて帰っていたら、聞き取れない程のか細い声だった。
「奥の客間が空いている。もし泊まっていくなら使って良いよ」
長い前髪の隙間から、たどたどしい視線が透と客間の間を行き来した。
それは手のかかる後輩に対する同情と取れなくもないが、他人を近づけることを許した自分自身に戸惑っているようにも見えた。
唐沢の部屋と客間との間には弟・疾斗の部屋があり、廊下にいるよりも中の様子が分かりづらい。それでも透はやっとの思いで与えられた居場所で、もう一度待つことにした。
今度こそ、何か役に立つことがあるかもしれない。いつ呼ばれても良いよう灯りもつけず。今も独りで暗闇の中にいる先輩のために、暗さに慣れておこうと思った。
静か過ぎる時間が流れた。時間の流れる音が聞こえてきそうなほどの静寂が。
「痛てッ!」
激しい衝撃音と共に、頭部に強烈な痛みを感じた透は、慌てて体を起こした。
「あれ? 俺、何やっているんだっけ?」
独り暮らしが長いと、自分では気づかぬうちに独り言を発してしまう。
だが周りの景色からして、今はひとりではない。丹念に磨かれた板張りの廊下と、そこに整然と並ぶ部屋の扉が、現状を映し出している。
「泊まっていけ」と言われて客間に入った後、やはり唐沢のことが気にかかり、どうせ待つなら部屋の前で待とうと思い立ち、懲りずに廊下に出てきた。
本当は眠るつもりなどなかったが、あまりに静か過ぎて、つい転寝をしたらしい。
つまりは最初に唐沢家を訪れた時と変わらず、透は廊下で待機というスタート地点に立っている。廊下の筋目の跡は頬から額に変わったが、それ以外の変化も進歩もない。
「トオル、そこにいるのか?」
物音に気づいた唐沢から声がかかった。
必要とされるまで大人しく待つ予定だったのに、これでは救いの手を差し伸べるどころか、邪魔になっている。
「すみません。ちょっと、眠れなくて……」
たった今寝入って頭をぶつけたばかりの人間が、この台詞を吐くべきではなかった。顔を見ずとも、寝ぼけ声で悟られる。
「実は、俺もなんだ」
丸分かりの嘘に合わせて、部屋の扉が半分だけ開かれた。
「お前のいう通り、今夜は独りじゃ寒いのかな?」
躊躇いがちに開かれた扉の隙間から、暗闇と同化しそうな影が現れた。
「中に入っても?」
答えを聞く前に、透は扉の隙間に片肘を捻じ込んだ。そうでもしなければ、彼の姿が消えてなくなりそうで。直感的に、この一瞬だけは逃してはならないと判断したのである。
ほんの少し、驚きと戸惑いを見せた後で、唐沢が部屋の奥へと入っていった。
背中を向けているものの拒絶ではない。今までの彼なら困った顔を見せるなり、「ごめん」と言って追い返すなり、何らかの予防線を張っている。彼の領域に立ち入ろうとする時は、特に。
この段階で何も言われなかったということは、中に入ることを許されたと解釈して良いのだろう。
そこは本当に真っ暗な、何の色味もない部屋だった。
照明を落としていることも原因の一つだが、中の家具が全て黒で統一されており、余計な飾り物は一つもない。
それだけに、机の上の白い写真立てと出窓に置かれた鉢植えがやけに異質な存在として目を引いた。
たぶん、菜摘という少女の写真だろう。天使が描かれた陶器製のフレームの中には、学ラン姿の唐沢の隣で一人の少女がおどけ顔で寄りかかっていた。
明らかに趣味の異なる写真立ては、彼女からの贈り物か。そして、出窓にある鉢植えも。
「それは預かり物なんだ」
透の視線を追って、唐沢が答えた。
「ランタナと言って、幼馴染みの……菜摘の好きな花で、退院するまで預かると約束したんだ」
花の知識の乏しい人間には紫陽花の縮小版にしか見えないが、ランタナという正式名称があるらしい。
可愛らしいピンクの手毬を思わせるその花は、黒一色の部屋の中に置かれているせいか、そこだけ異なる彩を放ち、中央の白や黄色の花弁と相まって、陽だまりに佇んでいるような印象を受ける。
先に部屋に入った唐沢が、ベッドに腰を下ろすと同時に、虚ろな瞳をランタナに合わせて言った。
「分かっている。もう返すことはないと。
だけど、いつか彼女が帰って来るような気がして。
特に学校の行き帰りなんかは、そんな気がしてならない。あいつとは家が近所で、よく一緒に登下校したんだ。
曲がり角とか、上り坂に差し掛かると、その向こうで会えるような気がして、つい遠くまで足を伸ばしてしまう。
自分でもバカだと思う。でも、止められない。時間が無くても確かめたくなる。
バカだと思いながら遠回りして、やっぱりバカだと後悔して。いつもその繰り返し」
普段は要点だけを明確に伝える先輩が、頭に浮かんだ情景の断片を繋ぎ合わせるようにして話すのは、心の奥底に沈めた澱と向き合おうとするからなのか。
もしもそうだとしたら、邪魔をしてはならない。
透は彼の話の妨げにならぬよう、黙って隣に腰を下ろした。
「夢の中だけでも会えれば良いって。子供みたいに。
だけど、会えたら会えたで二度と戻れない。いつもの自分に。
それが怖くて……眠れなくなる」
夢の中でしか会えない彼女。しかし一度でも会ってしまったら、二度と現実に戻れないことも彼は知っている。
たとえ幻影だとしても故人といる方が、孤独な現実と向き合うよりも救われる。夜な夜な彼はこの危険な誘惑と戦い、かろうじて境界線で踏み止まっていたのだろう。
「子供の頃から、菜摘とはいつも一緒だった。
そこにいるだけで周りを明るくするような活発な子で、俺とは正反対の性格なのに、どういうわけか気が合った。というより、一緒にいることの方が自然に思えた。
それなのに、俺は肝心な時に……彼女が一番苦しい時に、何も出来なかった」
「でも彼女の病気のこと、知らされていなかったんですよね?」
唐沢が心の内をすべて吐き出すまでは黙っていようと思ったが、透は口出しせずにはいられなかった。
放っておけば、彼はどこまでも自身を追い詰めて、壊してしまう。むしろ、それを望んでいるかに見えた。
だが、この問いかけも無駄だった。
「ちゃんと彼女の言動を注意して見ていれば、気付いたはずなんだ。でも、あの頃の俺はテニスのことばかり考えて……。
コートに立つのが楽しくて、面白くて仕方がなかった。成田という恵まれたパートナーにも出会えて、浮かれていたんだ。
あいつと組めば負ける気がしなかったし、本気で全国制覇も夢見ていた」
少しずつ暗闇に目が慣れてきたらしく、最初に部屋に入った時よりも中の物がはっきりと見えるようになった。
黒一色の空間には机と二本の書棚が置かれており、そのうちの一つはテニスシューズ、テニスボール、グリップテープなどのテニス用品と、同じくテニスに関する本やDVD、雑誌などで埋め尽くされている。
しかも、その棚の一番下には過去に使ったラケットが几帳面にもガットを外した状態で並べられている。
唐沢の視線がそこに注がれると同時に、途切れがちだった口調が加速した。
「俺の記憶には彼女の笑顔しかない。どういう意味だか、分かる?
あいつは、菜摘は、一度も俺の前で苦しい表情を見せなかった。病状が悪化して入院する時も、ただの検査入院だからメンテナンスみたいなものだと言って、ケロッとしていた。
そんな彼女の言葉を鵜呑みにして、俺は部活に没頭していった。
信じられないだろ? 楽しかったんだよ、毎日が。コートに立つことが、楽しくて、面白くて、仕方がなかった。
胸騒ぎも不吉な予感も全然しなくて、どうやって都大会を勝ち抜いて全国まで行くか。そればかり考えていた。
彼女が息を引き取る瞬間も、俺は次の日の試合に備えてぐっすり寝ていたし、朝、起きて下に降りるまで夢にも思わなかった。彼女が……菜摘が死ぬなんて。
偶然、出掛けに見たんだ。親父が戒名を考えていてさ。
『童女』って書いてあった。十五歳以下の女の子が亡くなった時にしか使わない。
あの時のおぞましい感覚は今でも覚えている。
自己嫌悪なんて生易しいものじゃない。心の底から憎んだ。
事実を隠して試合に出そうとした兄貴より、大切な人を見失うほどテニスに夢中になった自分自身が許せなかった」
これが唐沢の心を縛りつけている後悔の中核をなすものに違いない。
あの成田が脅威を感じるほどの才能に恵まれながら、唐沢は自責の念から大好きなテニスを遠ざけていったのだ。
「本当は彼女の方なんだ。テニス部に入りたかったのは。
俺の場合は、子供の頃に練習相手がいないからって、兄貴に無理矢理ラケットを握らされたのが切っ掛けで、テニス部も菜摘に言われて入っただけで。
俺が代わりに病気になれば良かったと思った。代わりに死ねば良かったと、何度も思った。
繰り返し思っているうちに、本当にそうしたら彼女が戻ってくるような気がして」
話の中の唐沢と、いつかの自分が重なった。
自責の念に捕らわれ、死者と入れ替わることを願う。理屈では割り切れない感情を持て余し、自身を傷つけることでしか存在価値を認められなくなる、少し前の自分と。
「毎日、色んな奴に喧嘩ふっかけてさ。でも、誰も殺してくれなくて。
仕方がないから、ナイフを持って学校の近くの河原へ行った。
親父の睡眠薬をくすねて飲んで、それから二、三か所ナイフで刺して、最後に橋の上からでも身を投げれば確実に死ねると思った。
だけど、死のうとしてナイフを手にした瞬間、とっさに手首を避けたんだ。テニスが出来なくなるって。
バカだよな? 死ぬつもりの人間がケガの心配をするなんて、自分でも呆れた。
きっと死ぬって事がどういうことか、分かっていなかったんだ。今でも分かっていないのかもしれないけど、あの頃はもっとガキで。
だから、教えてもらえなかったんだ。大切な人が死ぬって時に……誰も……」
後悔、怒り、憎しみ。唐沢から様々な感情が溢れ出している。相変わらず表情の変化は乏しいが、徐々にその時が近づいている。もう少しで辿り着く、きっと。
自分に対する恨み言を言い連ねていた唐沢が、今度は薄っすらと笑みを浮かべた。
「何となく勢いが削がれたって言うか。まあ、自分で削いだようなものだけど。
ナイフを握ったまま、しばらく河原の夕日を眺めていた。
睡眠薬も飲んでいたし、思考力が落ちていたんだろうな。
この世で一番おぞましい奴を消せると思ったら、妙にテンション上がってさ。そのわりには、どこを刺すかで迷ったりして、色んな方向へ意識が飛んだのを覚えている。
ナイフを持ってぼうっとしているところを、菜摘の母親に見つかった。彼女は偶然を装っていたけど、たぶん、ずっと気にかけてくれていたんだと思う。
泣きながら俺のところへ駆け寄ってきて、何度も頭を下げるんだ。『生きてくれ』って。
あの親子、そっくりなんだ。顔も、性格も。
彼女に泣かれると菜摘を泣かせているみたいで、結局、死ねなかった。
そのあと家に帰ったら、うちの母親も泣いていて。
菜摘の一件で俺と兄貴の仲は険悪だったし、それを見て育った疾斗も荒れ出して、家の中がメチャメチャだった。
俺が皆を泣かせていると思うと、いつもの自分に戻るしかなかった。
菜摘の死を乗り越えた振りをして、忘れたような顔して、何も起こらなかったと言い聞かせて……。
消そうとした。俺じゃなくて、彼女の存在を」
この時から唐沢の仮面は作られていったに違いない。悲しみに暮れる時間を与えられず、怒りや憎しみをぶつけることも許されず、大切な人の存在そのものを己の感情と共に葬った。
「俺が他人のちょっとした仕草で考えが分かるのは、それだけ人の顔色を気にしているからなんだ。自分の本心を周りに悟られないよう、いつもいつも注意しているから。
これでも彼女の命日は、何とか普通に過ごせるようになったんだ。命日に沈んでいたら、また皆を不安にさせるから。
だけど誕生日だけは……彼女が生まれたこの日だけは、どうしても耐えられなくて。
本当なら一番嬉しいはずの……生まれてきてくれて『ありがとう』って、言いたかったのに。菜摘に伝えたいこと、たくさんあったのに……」
それまで言葉の力を借りて心情を吐露していた彼の瞳が、頬が、唇が。次第に意思を持って動き出した。
五年もの間、溜め続けた涙を解放するのに、もう言葉は必要なかった。
透は最後に北斗からの伝言を残して立ち去ることにした。隣に座る唐沢が少しずつ体をずらし始めたからである。
泣き顔だけは誰にも見られたくないのだろう。ベッドの上で膝を立ててうずくまる後ろ姿が、彼にしては分かりやすい。
「北斗先輩が『今夜ぐらい好きにしろ』って。俺も、そう思います。
今夜は家の人もいないし、誰にも心配かけないから、好きなだけ……泣いて……良いって」
透が早々と部屋を出て行こうとした理由は、もう一つあった。
「なんで、お前が泣くんだよ?」
たとえ顔を背けていようと、五年前の悲しみに暮れる直前であろうと、察しの良い先輩には声の掠れ具合で分かるのか。救いに来たはずの人間が救いを求める側の話を聞いて貰い泣きしたという、不測の事態ならぬ、“不覚の事態”が。
「すみません。先輩はずっと辛い思いをしてきて。それを考えたら、泣け……泣けてきて……」
思えば、透がアメリカへ転校すると言ってテニス部を退部した、あの日。いや、もっと前から、唐沢はこんな重い荷物を背負い続けていたのだ。
高等部のFコートで対決を申し込んだ時も、「必ず帰って来い」と言って送り出されたあの時も。透がジャンの死に直面する前から、ずっと。
唐沢のほうが多くの痛みを抱えていたにもかかわらず、彼はたった三ヶ月しか関わりのなかった後輩に出来る限りの愛情を注いでくれた。
自分に向けられた優しさが人知れず耐えてきた痛みから出されたものかと思うと、涙が止まらない。
「お前、何しに来たんだよ?」
「だって……涙が勝手に……」
「今夜は面倒見ないからな」
「すみません。す、す、すぐ消えますから」
これ以上、先輩の邪魔をしてはならない。羞恥と罪悪感から慌てて腰を浮かせた透だが、その直後にぐいっと引き戻された。
振り返ると、背中を向けたままの格好で、唐沢が透の袖口を後ろ手に握り締めている。
「消えんなよ……って言うか、まだ寒いんだけど?」
拗ねているような、困っているような。声のトーンから察するに、きっとこれは彼の本心だ。
透はあえて唐沢と背中合わせに座った。
二人分の嗚咽が、交互だったり、同時だったりしながら、何度も繰り返される。
小刻みにぶつかり合う背中から感じる慌しい温もりは、透が理想としたものではないけれど、嗚咽に混じって聞こえてくる擦れ声が、それでも良いと教えてくれた。
「慰めに来たくせに、俺よりデカい声で泣くな。バカ……」
もう泣いて良い。好きなだけ想いの丈をぶつければ良い。
不恰好でも、情けなくても側にいる。今夜はずっと後ろで支えているから――。
真っ暗な部屋の中に、朝の光が一筋差し込んでいる。
昨夜は気づかなかったが、朝一番でこの部屋を訪れる眩い光はいつも出窓に置かれた鉢植えと最初に挨拶を交わしてから主のところへ立ち寄るらしく、透が寝ぼけ眼で見上げた時には、すでにランタナは上空から降り注がれる陽光に包まれ彩り豊かに輝いていた。
このランタナには菜摘という少女の魂が宿っているのかもしれない。暗闇よりも陽の当たる方が、この花には似つかわしい。
「支える」と言いつつ寝入ってしまった透の背後で、昨夜と同様、背中合わせにうずくまっていた唐沢がつと顔を上げた。
「トオル、もう少しだけ付き合ってくれないか?」
そう言って彼は窓辺の鉢植えを抱えると、部屋を出て裏庭へ回った。
「これ、植え替えてやろうと思うんだ。ここの方が日当たりも良いし、何より自然だ」
「きっと喜ぶと思いますよ。彼女も、花も」
朝の光の中で、腕まくりをして土と格闘する唐沢がやけに幼く見える。だが、その幼さは決して不自然なものではなく、今の彼には必要なもののように思えた。
ようやく動き出したのだ。悲しみの手前で立ち止まっていた彼の時間が。
「先輩、今日は休んで良いッスよ。皆には、俺から言っておきますから」
単なる恩返しのつもりであった。自分が受けた優しさを返すことで、同じように喜んでもらえるものと信じて。
ところが時間の無駄を誰よりも嫌う先輩は、予想を上回るスピードで五年の歳月を取り戻したようで、透がその台詞を口にする頃には完全復帰を遂げていた。
「タ〜コ! これ以上、休んでいられるか。昨日のリベンジしなきゃならないし」
「へっ? リベンジって?」
「伊東兄弟にやられっ放しだっただろ? 今日は倍にして返してやる。
だいたいお前も俺が不調だからって、ボヤっとするんじゃない! そういうところが甘いんだよ」
「か、唐沢先輩? あの……もう大丈夫なんッスか?」
この絶好調の説教を聞けば、確かめなくても「大丈夫」であることは明らかだ。
「パートナーのフォローも出来ないようじゃ、まだまだ一人前とは呼べないな。でも……」
ランタナの植え替えを終えた唐沢が、パタパタと土の汚れを払いながら微笑んだ。
「ありがとう、トオル。おかげで生き返った。
本当はお前がアングルボレーを完成させた時から、覚悟はしていたんだ。反吐が出るほど嫌いな自分でも、そろそろ受け入れなきゃって。
やっぱり俺はテニスが好きなんだと思う。たぶん、この先も葛藤はあるだろうけど。それも含めて、認めてやろうと思う」
ギャンブルのカモを見つけた時とは異なる、少年らしい屈託のない笑み。これが等身大の彼なのだ。
「じゃあ、今日は唐沢先輩の復帰第一戦ってことで、まずは伊東兄弟に倍返しッスね!」
百パーセント好きになれなくても、テニスを好きな自分だけは認めてやろう。道に迷い、見失い、進むべき方向の選択肢を間違えたとしても。
これだけは揺るがない自分の中の真実だから。そこから始めれば良いのだから。
時間が惜しいとばかりに先を急ぐ先輩の背中を追って、透も駆け出した。いつかコートの上で彼を支えられる日が来ることを願って。