第27話 水面下の攻防

 自他共に犬猿の仲と認める透と遥希がほぼ同時に互いの顔を見合わせたのは、テニス部のミーティングの最中、インターハイ東京都予選に向けて団体戦の出場メンバーが発表された直後のことである。
 一年生にしてレギュラー争いでは常に上位に食い込み、先の地区予選でもチームの優勝に大きく貢献したにもかかわらず、ルーキー二人の名前はどこにもない。
 「あのう、文句じゃなくて質問なんッスけど……」
 透は、日頃から「文句は副部長に言え」と公言する唐沢の機嫌を損なわぬよう、前置きをしてから切り出した。
 「俺とハルキがメンバーから外されているのは、何か理由があるんですか?」
 これが自分だけなら経験不足を危惧しての采配とも取れるが、遥希まで外されたとなると、やはり理由を聞かずにはいられない。
 透の質問を受けて、唐沢が頷いた。だが自ら答える気はないらしく、含みのある視線を参謀役の滝澤に差し向けた。
 「貴方達、藤ノ森学院って聞いたことあるかしら?」
 中学時代のほとんどをアメリカで過ごした透には、他校に関する知識がまるでない。滝澤の口振りからそれが広く知られた校名であることは察せられたが、透は正直に「いえ」と返した。
 ところが短い返事に覆いかぶせるようにして、遥希が「名前だけは」と言い足した。
 透と違って、遥希はジュニアの頃から都内を中心に数多くのトーナメントに出場しており、上位入賞者の名前と所属はほとんど頭に入っている。また、中学時代は部長として光陵テニス部を率いた経験もある。それだけに、易々と白旗を上げたくないのだろう。
 「良いのよ。一年生の貴方達は知らなくて当然よ」
 二人の反応が見事に予想と一致したのか。滝澤はクスッと小さな笑声を漏らすと、まるで幼子を宥める母親のような穏やかな口調で話し始めた。
 「藤ノ森学院は、毎年、明魁学園と並んで優勝候補と囁かれる強豪校のひとつよ。過去の実績から判断して、今年もこの二校が最有力候補と見て間違いないわ。
 但し、これはあくまでも去年までのデータをもとにした推測であって、実態は蓋を開けてみなければ分からない」
 「それって、どういう……?」
 滝澤は部内随一の情報通であり、コーチはもちろん、歴代の部長からも厚い信頼を得ている。その彼が蓋を開けてみなければ分からぬなどと、疑念の残る物言いをするのは珍しい。
 理解を超えるとばかりに首を傾げる透に向かって、滝澤が優しく笑んでから説明を続けた。
 「あそこは中等部から高等部までの六年間、インハイのみに照準を当てて選手を育成しているチームなの。
 自分達のデータが外部に漏れないよう高二以下の部員には公式戦の出場を禁じているし、他校との練習試合も一切受け付けない。
 そうして五年間秘密のヴェールの中で育てた選手を六年目の最高学年でインハイに登用するの。
 我々から見れば事前に対策を立てようにも情報がほとんどない訳だから、ある意味、明魁よりも厄介な相手と言えるわね」
 「何か、面倒臭そうな奴等ッスね」
 とりあえず「面倒臭い」と評してみたが、透はその一言では言い表せないほどの異様さを感じていた。
 確かにインターハイは高校生なら誰しも憧れる夢の舞台である。そこに目標を定めて活動している学校も少なくない。
 だがしかし、藤ノ森学院のやり方はあまりにも極端だ。インターハイで成果を上げるためとは言え、健全な高校生の育成を掲げる大会趣旨とは真逆の行為に思えてならない。
 ひと通り滝澤が事情を説明し終えたところで、唐沢が口を開いた。
 「周到と取るか、異常と取るかは人それぞれだが、藤ノ森が明魁と並ぶ強豪校であることに変わりはない。
 そしてうちは毎年、この二校のうちのどちらか先に当たった方に敗れている」
 手元の対戦表を見てみると、光陵学園が順調に駒を進めた場合、先に対戦するのは藤ノ森学院だ。
 透の視線を追って、唐沢がもう一度、深く頷いた。
 「藤ノ森は情報戦を得意とする連中だ。選手のデータを外部に漏らさず育成するのも、情報を制する者の怖さも強みも熟知しているからこそのガードだろう。
 恐らくお前達二人も地区予選からマークされているはずだ。
 従って、次の予選はダブルスに伊東兄弟、シングルスはシンゴと俺の二、三年レギュラーで突破することにした」
 透の脳裏に地区予選で目にした光景が甦る。
 試合会場の周りを取り囲むように立っていた他校の選手たち。唐沢から「あそこにいる連中の顔をよく覚えておけ」と言われた面々の中に、藤ノ森学院の偵察隊も紛れていたのだろう。
 「だけど、マークされているのは先輩達も同じですよね? どうして俺達だけ?」
 唐沢の説明に納得しかけた透であったが、遥希はそれでは承服しかねると見えて、さらに質問を重ねた。
 自分達が地区予選からマークされていたというのなら、他のレギュラー陣にも当てはまるとの理屈である。
 「お前達二人はまだ個々のプレースタイルを確立しきれていない。
 成長過程だし、これからの可能性を考えれば無理に固めなくて良いと、俺は思う。今は色々な試合を経験して吸収する時期だからな。
 ただ今回の藤ノ森のように情報戦を得意とする相手と対戦する場合、自分のスタイルを持たない選手はペースを崩され易い。下手をすれば、実力を出す前にゲームセットだ。
 よってお前等二人は夏の本番まで温存することにした。分かったな?」
 わずかに語尾を上げはしたが、唐沢がこれ以上の質問を良しとせぬことは一目瞭然だった。
 その証拠に、彼は言い終わると同時に出口に向かい、ファイルを抱えた反対の手で携帯電話に溜まったメールをチェックし始めている。ケース・クローズの合図であった。

 ミーティング終了後、透と遥希はどちらからともなく歩み寄り、久方ぶりに肩を並べて下校した。
 「なあ、ハルキ? 俺達ってさ、秘密兵器みたいじゃね? 
 『本番まで温存する』なんて、要するにアレだろ? 隠し球っつうか、切り札的存在ってことだろ?」
 「温存」の言葉に酔いしれる透とは対照的に、遥希の反応は冷めていた。
 「どこまでもおめでたい奴だな、お前は。
 部長の『温存』は『不要』の意味だ。俺達は戦力外通告を受けたんだ」
 「なんで、ハルキはそうやって卑屈に取るかなぁ? 『これからの可能性を考えて』って、言ったじゃねえか」
 「事実を述べたまでだ。
 そっちこそ、何でもかんでもバカ正直に取るな。いい加減、あの人の言葉の裏を読んだらどうだ?」
 唐沢と共に過ごした時間は遥希のほうが長くとも、それが信頼に繋がるとは限らない。遥希には後輩を思えばこその言葉も性質の悪いギャンブラーのそれとしか聞こえぬようである。
 「唐沢先輩はハルキが思っているような人じゃないぜ。ああ見えて、部員一人ひとりのことを考えてくれているし、第一、俺たち一緒に戦う仲間だろ?」
 「もしかしてさ……」
 これまで淡々と話していた遥希の口調が、急激に熱を帯びていった。
 「『仲間だから信用しろ』とか、言いたいわけ?」
 「悪りいかよ?」
 「なんでだよ!?」
 激しい怒鳴り声と共に、遥希が掴みかかってきた。
 「お前の目標は皆と仲良くインハイへ行くことか? 先輩の後ろをくっついて歩いて、それで満足か?」
 普段はクールな遥希だが、突然、怒りを露にすることがたまにある。
 最近になって、それがテニスの話題に限って起こる現象で、矛先が他の誰でもなく同学年のライバルである自分にのみ向けられていることに気がついた。
 他のチームメイトには決して見せない心の内に秘めたもの ―― テニス対する情熱や、偉大な父親を持つが故の苦悩や葛藤を、透にだけは見せるのだ。
 「お前、どこ見てんだよ!? 頂点目指すとほざいた奴が、光陵のナンバー3なんかで満足してんなよ!」
 しばらくの間、透は遥希の問いかけに答えられなかった。
 たとえ先輩であっても、同じ目的を持ったチームメイトであっても、テニスプレイヤーと名のつく限り、彼等は「いずれ戦う相手」である。一時的に共同戦線を張ったとしても、それはあくまで個々の技術向上のための手段であって、深く関わることはない。
 子供の頃から多くのトーナメントに出場し、同じスクール生とも敵味方関係なく相対してきた遥希には、この考え方が染みついている。
 部長である唐沢の言動にいちいち疑問を呈するのも、己の考えに基づき行動している遥希にとっては当たり前のことなのだ。
 そんなライバルに対して、唐沢の言葉を二百パーセントの信頼と共に無条件に受け入れている自分は――。
 「今はインハイのことしか考えてねえから」
 そう答えるのが精一杯だった。
 いつの間にか、唐沢の後を追うことが当たり前になっていた。
 帰国した直後は「次は唐沢を倒したい」と密かな野望を抱いていたにもかかわらず、今の透に彼を超えようとする意志はない。
 ただ共に戦い、進めれば良い。唐沢だけでなく、遥希に対しても同じ感情を持っていた。
 昔は事あるごとに火花を散らした相手だというのに。
 口ごもる透の胸倉を掴んだままで、遥希が詰め寄った。
 「今から俺と勝負しろ」
 「バリュエーションでもないのに、なんでお前と?」
 「そのバリュエーションでなかなか当たらないから言っている。四月に負けた時の借りをまだ返していない」
 「本気なのか?」
 「俺が倒したいと思っているのは、何も部長だけじゃない。目の前の砂糖漬けのバカも、残念なことに対象に入っている」
 バリュエーション以外で部員同士の試合は禁止されている。自由な校風の光陵学園の中でも、特にやりたい放題のテニス部であるが、この一点だけはコーチからきつく言い渡されている。
 試合をするなら必ずコーチか部長の立会いのもとに行わなければならない。だが、予選を間近に控えたこの時期では無理な話である。
 遥希が珍しく透の提案を素直に受け入れたのも、これらの事情を考慮してのことだろう。
 「俺がよく行く区営コートで良いか?」
 「ああ、バレずに出来るなら、どこでも構わない」

 平日の夕方の区営コートには、部活動では充分に打たせてもらえぬ初心者がラリーの相手を求めてやって来る。ここなら試合をやったとしてもバレる心配はない。
 少なくとも、大事な予選を前にして「今日は体を休めろ」とお達しのあった光陵テニス部員と遭遇する危険性は万に一つもないはずだ。
 ところが二人が目的の場所に着くや否や、世の中そんなに甘くはないと思い知らされた。
 すっかり忘れていたが、遥希は「日高プロの一粒種」として地元でも広く顔が知られており、地区予選優勝校の栄誉も手伝って、今や芸能人並みに注目を集める存在となっていた。
 おまけに、顔なじみであるはずの透も遥希とセットでいると存在価値が上がるらしく、空きコートを探して歩く二人の周りには早くも人だかりが出来ていた。
 「おい、ハルキ? あんま意識したことなかったけど、お前も親父も、やっぱ有名人なんだな」
 「ああ、俺もこんな騒ぎになるとは思わなかった」
 「今更だけど、お前ん家じゃ駄目か?」
 遅ればせながら透は遥希の実家がテニススクールであることを思い出し、軽い気持ちで問いかけてみたのだが、聞かれた本人は気分を害したようで、すかさず刺々しい返事が返ってきた。
 「うちでやったら一発でバレるだろ? 誰がオーナーだと思ってんだ」
 「この時間なら、まだ帰ってねえよ。中等部にも顔出ししなきゃなんねえし」
 「他にもコーチはいるんだ。すぐに報告されるに決まっている。
 バッカじゃないの?」
 遥希の前で父親や実家の話は極力しないほうが良い。これも後から気づいたことだが、時すでに遅く、向こうはすっかり戦闘モードに入っている。
 そして遥希から発せられた刺のある言葉は、透の導火線にも火をつけた。
 「なんだ、親父より人望ねえのかよ。だっせぇな」
 「当たり前だ。うちのコーチ陣は、全員、父さんが一から指導者として育ててきたんだ。息子の俺より付き合いの長いコーチもいる」
 「けど、俺がお前ん家でバイトした時は、皆、黙っていてくれたぜ?」
 「それはバカと関わりたくなかっただけだ」
 以前、透は唐沢に背負わされた借金を返済するために、遥希の家でアルバイトをさせてもらったことがある。
 思えば、あの頃から遥希とはそりが合わぬ、といおうか。水と油よりも激しく反発し合う仲だった。
 「ハルキさぁ、この際試合は諦めて、コートの外で決着つけてみねえか? そのムカつく減らず口、一度で良いから殴らせてくれ」
 「ふ〜ん、コートの中だと自信がないんだ?」
 「だから、その減らず口……!」
 いつにも増して快濶な毒舌に、透が本気で拳をねじ込もうとした時である。

 「なるほど。噂通り、光陵のダブル・ルーキーは仲が良いんだね?」
 「誰だ、おっさん?」
 昔から透は自分より年上で名前を知らない相手には「おっさん」と呼びかける癖がある。
 付き合いの長い遥希にはその困った口癖も聞き流せる程度に免疫力があるのだが、今回ばかりは冷や汗ものの焦りを覚えた。
 何故なら二人に話しかけてきた人物は、学生服を着ているにもかかわらず、一体、何年留年したのか聞きたくなるほど老けて見えたのだ。
 「アハハ! 『おっさん』は酷いなぁ。その口の悪い彼のほうが真嶋君だね?」
 「だから、おっさん誰だよ?」
 「う〜んと、僕はそうだな。君達のファンってところかな?」
 がっしりとした体格に不釣合いな腰の低さ。どこか野暮ったさの残る黒縁眼鏡が顔の上半分の印象を決めており、下半分は青黒い髭剃り跡で占められている為に、自ずと生活に疲れたオヤジを連想してしまう。
 実に不気味な男であった。見た目だけなく、全身から醸し出される雰囲気が。
 「そっちの賢そうな彼が日高君?」
 警戒心を強める遥希の胸の内を見透かしたかのように、オヤジ顔の男が話しかけてきた。
 先程から彼はこちらの質問を飄々と交わし、巧みに話を引き出そうとしている。
 ここは様子を見るのが得策と踏んで、遥希が返事をせずに黙っていると、となりから透が警戒心の欠片もない膨れっ面で噛みついた。
 「おい、おっさん! 『賢そうな』って、どういうことだよッ!? それじゃあ、俺だけバカみてえじゃん!」
 「ああ、ゴメン、ゴメン。君の場合は……」
 「って、考え込むなよ!」
 「そうだな。唐沢君の思いどおりに動く従順な後輩、ってところかな」
 「従順? それって、褒め言葉なのか? 
 もうちょっとさ、頭の回転が速いとか、切れるとか。そういうのが良いんだけどなぁ」
 能天気に文句をつける透を傍らに押しやると、遥希は男を睨めつけた。
 「自分は名乗りもせずに、一方的に俺達のことを探るのはフェアじゃないと思うけど?」
 やはり、この男は怪し過ぎる。今の発言にしても、よほど光陵テニス部の内部事情に詳しくなければ出てこない。
 多くの者が透の実力を高く評価しているが、それは全て唐沢の指示によってもたらされた結果である。
 テニス部内でもごく一部の者しか気づいていないであろう事実を、この男はさらりと言ってのけた。
 唐沢の思い通りに動く従順な後輩 ―― これは遥希も常々感じていたことである。
 今の透は唐沢の指示がなければ動けないロボットのようなもので、自らの意思でプレーしているわけではない。
 それ故、彼の持ち味である型破りなゲーム展開も、ここ一番で発揮される勝負強さも、帰国直後の試合以降、日々廃れていくように感じられる。
 ネットを挟んで相対した時の透の怖さを誰よりも知っているからこそ、遥希にはここ数ヶ月の変わり様が腹立たしく映っていた。
 誰彼構わず向かっていく闘争心。それが今の透には欠けている。
 今日、試合を申し込んだのも、以前の彼に戻って欲しいとの願いもあった。理屈抜きで倒したいと思わせてくれる、あの頃のムカつくライバルに。
 「新田。こう名乗れば良かったかな? ダブルスに苦手意識があるせいで、なかなか唐沢君の信頼を得られない日高君?」
 「どうして……」
 「どうして知っている」と言いかけて、遥希は続きを飲み込んだ。
 この新田と名乗る男は、透のことだけでなく、自分のことも調べ上げている。
 「おっさん、バカにすんなよ! ハルキはな、唐沢先輩から一人前だと認められたからシングルスを任されているんだ。ダブルスが苦手だからじゃねえよ。
 今度、妙なことを言ったら、ぶっ飛ばすぞ!」
 新田に対して真っ向から反論する透を横目に、遥希はただ押し黙ることしか出来なかった。
 ダブルスに苦手意識があるのは事実であり、「唐沢の信頼を得られない」との見解も、実は遥希が密かに下した結論と同じであった。
 成田も唐沢も入部当初は光陵テニス部のダブルス要員として育てられ、そこでゲームメークの仕方や戦術のいろはを叩き込まれている。透も多少順序は違うが、その過程を辿っている。
 ところが遥希の場合は、伊東兄弟がすでにダブルスで不動の地位を築いていたこともあって、最初からシングルス一本だ。
 中学時代は大して気に留めることもなく、むしろ好都合だと思っていたが、透が帰国してからは徐々にその差を感じるようになっていった。
 自分はダブルスに苦手意識がある上に、先輩の言葉に従う素直さもない。そのため、透と同じように育ててもらえない。つまりは見放されているのだと。
 「だったら妙なことかどうか、試してみない? 今からダブルスの試合をやろうよ。
 僕はこの野次馬の中にいる誰かとペアを組むから、君達は二人で組めば良い。
 どうだい、面白そうだろ?」
 新田の見え透いた挑発に、正反対の返事が示し合わせたように重なった。
 「上等だ」
 「断る」
 無論、挑発に乗ったのは透であり、拒絶したのは遥希である。
 互いに予想外の反応に驚き、二人して顔を見合わせたのも同時だが、次の手を打つのは透のほうが早かった。
 「おい、ハルキ! これだけ馬鹿にされて悔しくねえのかよ!?」
 「バ〜カ! 悔しがらせて試合に持ちこもうって魂胆だろが。少しは頭を使えよ」
 「頭使ったって、腹立つモンは腹立つんだよ。このおっさんぶっ倒して、お前がどんだけ強えか見せてやろうぜ」
 「お前さ、理屈って分かる? 理性ってある? 左脳だけ死滅してんじゃないの?」
 「馬鹿にすんな! 左脳だって、右脳だって、前葉頭だってバッチリ揃ってら」
 「それをいうなら、“前葉頭”じゃなくて“前頭葉”」
 「マジ!? 俺、ずっと前葉頭だと思っていた! 
 なあ、いつから変わった?」
 「お前が生まれるずっと前。少なくとも十九世紀には“前頭葉”だ。
 恥ずかしいから、これ以上喋るな。うちの部全員、バカだと思われる」

 「もう遅いと思うよ」
 思わぬ方向から声をかけられ、慌てて振り返ってみると、遥希の背後、わざと死角になる場所を選んだと思われるところに見覚えのある人物が立っていた。
 明魁学園の副部長・越智である。
 「『京極の懐刀』ともあろう越智君が人の会話を盗み聞きするとは、随分と趣味が悪いね」
 第三者の介入に、新田があからさまに嫌な顔をして見せた。
 「それはお互い様でしょ。自分の面が割れていないルーキーを標的にして、対戦相手の情報を得ようとしていたんだからね。藤ノ森学院テニス部部長の新田君?」
 「アンタ、藤ノ森学院の部長だったのか。どうりで……」
 遥希の頭にミーティングでの会話が甦る。
 「お前達二人は地区予選からマークされている」
 今まで意識したことはなかったが、地区予選終了後も自分達はずっとマークされていたらしい。部活動から離れた日常生活においても、それは継続して行われていたのである。
 遥希の言葉尻を捉えて、新田が不気味な笑みを見せた。
 「どうりで、何? 『どうりで俺達のことをよく分かっている』と言いたかった?
 日高君も意外と単純なんだね。本当は不確定要素の多い真嶋君のデータが取れればラッキーと思って来たんだけど、今日はそれ以上の収穫があって嬉しいよ」
 新田の前で下手に喋ってはいけない。不用意に話せば、チームの内部情報まで明かしてしまう恐れがある。
 ところが唇を固く引き結んだ側から、透がとんでもない事を言い出した。
 「なんだ、おっさん。藤ノ森のスパイだったのか!
 でも、せっかく調査しに来たのに残念だったな。俺達、次の予選に出ねえんだよ」
 「バカ! お前……!」
 自覚なく内部事情を暴露する透と、慌てて止めに入る遥希。それが先の発言が真実であることの何よりの証拠になると悟った時には遅かった。
 新田の青黒い髭剃り跡に満足げな笑みが浮かぶ。
 「ふうん、そうなんだ。つまり光陵のオーダーは、ダブルスが二年の伊東兄弟で、残りは藤原と唐沢のベストメンバーで来るんだね?
 ま、探るまでもなく予想はしていたけど。
 部長の唐沢君が羨ましいよ。光陵の次期エースと期待されているルーキー二人が、こんなに分かりやすい性格で」
 薄ら笑いを浮かべる新田に向かって、越智がやんわりと釘を刺す。
 「ずいぶん浮かれているようだけど、この二人はともかく、あまり唐沢を甘く見ないほうが良い。後で痛い目見るよ」
 「ご忠告ありがとう。でも僕は誰かさんのように自意識過剰じゃないから。
 『策士、策に溺れる』の典型だったからね。あの試合……」
 三年前の都大会で、越智は唐沢に罠をかけたつもりが返り討ちに遭い、手痛い一敗を喫している。
 一瞬、越智の動きが止まり、こめかみにも青筋が立ったように見えたが、すぐに彼は理性を取り戻し、透のほうへと向きを変えた。
 「実は京極から唐沢あてに伝言を預かってきた。時期的に直接学校へ出向くのはマズいから、君に伝えようと思ってね。
 頼まれてくれるかい?」
 「京極さんから唐沢先輩に?」
 「ああ。S1で待っている。そう伝えてくれと」
 「S1って、唐沢先輩とシングルスで直接対決したいってことですか?」
 「さあね。俺は伝言を預かっただけだから」
 「それって、罠とも考えられますよね? うちの部長をS1に誘い出しておいて、最初の二戦で片をつけるという手もあるし」
 透に託された伝言だと知っての上で、遥希は強引に話に割り込んだ。
 腹に一物ありそうな越智の反応を探ろうとしての行為であったが、長年、京極のもとで参謀役を務める彼は顔色一つ変えることなく切り返した。
 「この伝言をどう解釈するかは君達の部長次第だ。下手な勘繰りなどせずに、言葉通りに伝えた方が身のためだ」
 不穏な空気が流れる中、ふたたび新田が不気味な笑みを見せた。
 「どうせ無駄になると思うけど。光陵が明魁と当たる可能性はゼロに等しい」
 「おっさん、すげえ自信だな?」
 ここにいるメンバーの中で、今や物怖じせずに新田と口を利けるのは透だけである。
 「自信? それ以前の問題だよ」
 「どういうことだ?」
 「光陵のナンバー3がこの程度なら、結果は見えたも同然だ」
 「てめえ……!」
 「真嶋君、ひとつ良いことを教えてあげよう。
 君は『唐沢の秘蔵っ子』と呼ばれているそうだけど、本来『秘蔵っ子』というのは大切に育てられて成長を遂げた人間のことを指すんだよ。
 君の場合は『腰巾着』ってところかな? 唐沢君にくっついてばかりで少しも成長しない。
 いや、成長どころか、現にこうして彼の足を引っ張っている訳だから、『腰巾着』より始末が悪い」
 普段の透ならとうに拳が出ているはずだが、今は黙って新田の暴言を許している。
 ようやく透も理解したのだろう。新田という男の怖さが。
 人は誰しも弱点を持っている。ただ自覚のあるものと、自覚のないものとがあって、この無自覚の弱点は大抵本人が最も触れられたくない影の部分に潜んでいる。
 新田はそこを鋭く突くことで、相手に抗いがたい恐怖心を植えつけているのである。
 それは遥希とて例外ではない。
 「ダブルスに苦手意識があるせいで、なかなか唐沢君の信頼を得られない日高君」
 あの台詞がいまだに尾を引いている。
 完全に新田のペースに飲まれた二人は、後から加えられた越智のフォローにも耳を傾ける余裕はなかった。
 「俺達は相手が誰であろうと優勝あるのみだ。
 でも、個人的には君達ともう一度勝負したいと思っている。きっと京極もそう願っているはずだ。
 くれぐれも俺達をがっかりさせないでくれよ」


 「報告は以上か?」
 区営コートでの一件を聞き終えた唐沢が、念押しの意味で一瞥を加え、透と遥希の二人もそれに応える意味で短く頷いた。
 区営コートを訪れた理由については、この際、黙っておくことにした。大事な予選を前にして禁忌を犯したとなると、どんな大目玉を喰らうか知れやしない。
 但し、二人が返事を短くしたのは隠し事のせいではない。もっと重大な問題に直面していたからだ。
 インターハイ東京都予選の控え室。もうすぐ受付の締め切りだというのに、ダブルスに出場予定の双子の兄・太一朗の姿がない。
 唐沢が前髪に向かって息を吹きかけた。
 真剣に考え事をする時のお決まりのポーズだが、さすがに今回は困り果てているのか。長い前髪が舞い上がったところでその行為を中断し、露になった視線をとなりで腕組みをする日高に傾けた。
 「どうします、コーチ?」
 「太一は、もう間に合いそうにないな?」
 心なしか、ふてぶてしさが売りの日高の表情にも困惑の色がうかがえる。
 「はい。全く別方向の駅から連絡がありましたから」
 「普段真面目な奴に限って、やらかすとデカいと言うが、太一はその典型だな」
 「シングルス、動かしますか?」
 「いや、そのままで行こう」
 コーチと唐沢の意図するところを百パーセント理解した訳ではないが、透も遥希も中学時代の悪夢がふたたび始まろうとしていることは分かっていた。
 超がつくほどの方向音痴であるにもかかわらず、太一朗には自覚がない。前にもそれが原因で試合に遅刻した前科があるために、常に弟の陽一朗と行動を共にするよう言い渡されている。
 しかし今回の予選会場は、中学時代から何度も訪れている場所だという油断があったのか。結果は三年前と同じであった。
 いや、間に合いそうにないというのだから、もっと性質が悪い。
 太一朗の不在により、レギュラー陣からもう一人、出場選手を出さなければならない。
 控え室に呼び出されたのは、透と遥希の二人。状況からして、どちらかが太一朗の代役を任される可能性が高い。
 シングルスを動かさずに行くということは、藤原と唐沢はそのままにして、ダブルスの欠けた穴を補欠で埋めるということだ。
 そう言えば、ミーティングでも補欠の名前はなぜか伏せられており、部員達に公表されることはなかった。残りの一枠は誰なのか。
 唐沢がもう一度、前髪に息を吹きかけた。その仕草から、二人にも事の重大さが伝わってくる。
 ここで指名されれば、あの藤ノ森学院と戦うことになる。毎年、当たれば必ず負けるという強豪校で、自分達のことを本人よりも熟知している連中と。
 彼等と付け焼刃のコンビで戦わなければならない不運な人間は――。
 ふわりと落ちた前髪の隙間から、唐沢の視線が真っすぐ向けられた。角度的に見て、遥希ではない。
 ルーキー二人の口から、またも同時に、そして正反対の溜め息が漏れた。
 「太一の穴埋めはトオル、お前だ」






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