第32話 VS 京極 (後編)

 まるで局所麻酔をかけられたような不思議な感覚だった。
 筋肉疲労特有の圧迫感を伴う痛みが消えてなくなり、体が軽い。朦朧としていた意識は冴えわたり、見るべきものを正確に捉えている。
 ただ一つ、麻酔と決定的に異なる点は、苦痛から解放された肉体が持ち主の意思と繋がっていることである。
 全身に張り巡らされた神経が、主の指令に応えるべく、その時を待っている。コートチェンジの短い休息で回復したとは思えぬが、体の各所から得られる爽快感は目覚めたばかりのそれに近い。
 極限状態にありながら、こんな力が残っているとは思いも寄らなかった。あるいは、追い込まれたからこそ引き出された底力のようなものなのか。
 腕や脚の筋肉が、細かい手順を踏まずして最高潮に達している。それでいて頭の中では冷静に戦況を分析し、取るべき最良の策を探している。
 この調子なら、まだやれる。
 透はいま集中力によってのみ迫り上げられる新たな段階に自身が到達したことを本能的に理解した。

 現在、ゲームカウントは「3−4」と明魁学園が1ゲームのリードを保持しているが、この第8ゲームは光陵学園からのサーブである。相手に傾きかけている嫌な流れを断ち切るためにも、ここは自分達のサービスゲームを死守して同点に持ち込まなければならない。
 透はサーブ前の習慣として行なう三回のバウンドを、あえて二回で終わらせた。
 前を見やると、唐沢がいつでもポーチに出られるよう腰を低めに落として構えていた。
 勘の鋭い先輩のことだから、二回のバウンドが何を意味するのか、分かっているのだろう。
 前方に上げたトスから狙いを定めたコースにサーブを叩き込む。
 次の瞬間、鈍い打球音と共に返ってきたのは、およそ京極の球とは思えぬ甘いリターンであった。
 やはり思った通りである。
 今までは相手のフォーメーションを崩そうと外側の厳しいコースばかりを狙っていたのだが、今回は同じフォームでコート中央のセンターサービスラインぎりぎりに的を絞って打ち込んだ。
 無論、京極ほどのプレイヤーがサーブのコースを変えたぐらいで崩れるはずがない。彼の返球が甘くなったのは別の理由によるものだ。
 その昔、透がブレイザー・サーブを完成させた直後、ジャンが「課題以上の出来だ」と褒めてくれたことがある。
 ブレイザー・サーブの特徴の一つであるボールを前方に上げる独特のトス。もともとこれはジャンとの体格差をカバーするために考案したものだが、こうすることにより、レシーバーにコースの予測を立てづらくさせるという利点を生んだ。
 滅多に人を褒めないジャンが褒めてくれたのも、使い手のスキルアップに伴い、いずれこの利点が単なる副産物に留まらず、オリジナルのサーブを凌ぐほどの威力を発揮すると分かっていたからだ。
 京極のあまりに完成度の高いプレーに動揺し、危うく見失うところであった。自分にも王者と互角に渡り合える武器がある。
 ネット上にふわりと浮いた甘いリターンを、唐沢が待っていましたとばかりにボレーで沈めた。光陵学園の反撃開始の合図であった。

 ボールがラケットから離れるまでコースの予測がつかないブレイザー・サーブ。しかも離れたと思った時には、すでにボールはレシーバーの足元だ。これを返すのは至難の業である。
 「悪いな。うちの一年坊主、メッキのわりにはしぶとくて」
 唐沢がここぞとばかりに、明魁学園の二人にプレッシャーをかけている。
 前のゲーム、京極は得意のポジションに回ったところで透を使い物にならなくし、このゲームをブレイクする算段を立てていた。
 ところが戦線離脱と思われた透が厄介なサーブとともに復活し、それによって点差が開くどころか、同点に持ち込まれようとしている。
 勝利を意識した途端に追いつかれる。プレイヤーにとって、これほど嫌なゲーム展開はない。
 心なしか、毅然としていた京極の表情が歪んで見える。
 試合の流れが変わる ―― 透は王者を後押ししていた追い風が無風となるのを肌で感じながら、ふたたびサーブの構えに入った。
 比べるまでもなく、京極と自分との間には大きな隔たりがある。力の差、技量の差、経験値の差、実績の差。数え上げたらきりがない。
 だが一つだけ、彼よりも誇れるものがある。遠回りしてきた道のりだ。
 岐阜の山奥での不自由な生活。ストリートコートに居場所を求めた中学時代。無事に帰国した今も、当時の爪痕に悩まされ、ひとり膝を抱えて過ごすこともしばしばだ。
 これらの経験が糧となるのか、足枷となるかは、まだ分からない。
 それでも高速道路を走っていては見られぬ景色があるように、回り道をしたからこそ得られるものがあると信じたい。
 挫折も、苦悩も、数多の敗北さえも、不器用な自分には京極と同じ土俵に立つために必要な下地だったと思いたい。
 今、ネットの向こうに目線を同じくした彼がいる。
 その事実を胸に刻んで、サーブを叩き込む。今度こそ己が敵と逃げずに向き合い、この手で勝利を掴み取るために。

 ゲームカウント「4−4」。
 引き離されると覚悟した第8ゲームを同点に抑えて、喜んだのも束の間、透はその身に異変を感じた。
 どうやら限界を迎えた体を強引にフル稼働させたツケが回ってきたようだ。
 「唐沢先輩、すいません」
 透が現状を口にする前に、唐沢が分かっているという風に頷いた。
 「あとは俺に任せてくれるよな?」
 「はい。でも岬さんが、まだ……」
 透の気がかりは、自分のほうが岬よりも先に戦線離脱することだ。
 今から唐沢は二対一の厳しい戦いを強いられる。限界に達した体では任せるしかないのだが、先輩に何か策はあるのだろうか。
 「心配するな。お前は後ろでゆっくり見物していろ。たまには俺も本気出しておかないと」
 労いの言葉をかける唐沢の背後から、敵方の窮状を嗅ぎつけた京極が悠々とした足取りで歩み寄ってきた。その口元には薄ら笑いが浮かんでいる。
 「ついにメッキの限界か?」
 「真打登場と言ってくれないか?」
 「その強がりがいつまで持つか楽しみだ」
 「ああ、これでようやくお前と差しで勝負できると思うと、楽しくて仕方がない」
 「何だと?」
 初めは余裕を見せていた京極だが、唐沢の態度から何事かを察したらしく、慌ててパートナーに目を向けた。
 「岬……?」
 ネット前の岬が三秒ほど遅れてから京極の呼びかけに応じた。すでに目の焦点は定まらず、構えも棒立ちに近かった。
 序盤から低めのショットとロブで前後に走らされた上に、先の第8ゲームで透の強打を浴びたのが最大の原因だが、さらにもう一つ。京極のサービスゲームでも、岬は知らず知らずのうちに体力を奪われていた。
 唐沢が返し続けた緩めのリターン。一見、京極の強烈なサーブに対して打ち負けた結果に見えたが、あれは岬を陥れるための罠だった。
 前衛の頭上を抜くようにして返されるリターンは、通常、「ロブ・リターン」と呼ばれるものだが、これを処理するには、スマッシュにせよ、ストロークにせよ、移動が伴う。
 スマッシュで返すにしても一旦下がらなければならないし、ストロークの場合には、ネット際からベースライン後方まで大きく回り込むことになる。
 唐沢は京極のサーブに押されている振りをしながら、脚力自慢の岬が食いつきそうな緩めのショットを送り込み、着々と彼の体を下半身から弱らせていたのである。
 薄ら笑いを浮かべていた京極の顔つきが俄かに険しくなり、目つきも鋭くなった。
 「なるほど。相打ちというわけか。
 良いだろう。唐沢、お前の望みどおり、差しで勝負してやるよ」
 両校の命運をかけた部長同士の一騎打ちが始まった。

 後衛のポジションから二人の激しい攻防を見ていた透だが、ぼんやりとした意識の中で一つの疑問が浮かんだ。
 ボレーに自信のある京極がサーブ&ボレーで攻撃を仕掛けるのは納得できるが、どういう訳か、唐沢までもが前に詰めて応戦している。
 カウンターパンチャーの唐沢にとって、ネット前での攻防戦は敵地で戦うのと同様、得策とは言い難い。それでも留まるからには理由があるはずだ。
 「ゆっくり見物していろ」と言われたが、無駄を嫌う先輩の行動を、その一つ一つの意味を考えなければならない気がした。
 「きっと何かある。考えろ、考えろ……」
 透の疑問はさほど時間をおかずして明らかとなった。
 互いに「5−5」と引き分けた後の第11ゲームは、岬のサーブから始まった。
 疲れきった肉体から放たれるサーブは、レシーバーにとってチャンスボール以外の何ものでもない。唐沢は失速気味のボールをスライスで返すと、その足で前方へ突っ込んでいった。
 当然のことながら、前衛に位置する京極が返り討ちにしようと待ち構えている。
 いくら甘いサーブを足掛かりに攻めたとしても、ネット前での真っ向勝負は唐沢には分が悪い。
 構わず突っ込む唐沢を阻止すべく、京極がラケットを立てて構えた。あれはジャンのアングルボレーの構えである。
 両者ともこのゲームが正念場だと分かっている。
 ここから2ゲームを連取して早々に決着をつけなければ、使い物にならないパートナーを抱えてのタイブレークでは不確定要素が多すぎて、どこで足をすくわれるか知れやしない。
 是が非でも押さえておきたい勝負どころのゲームで、一体、唐沢は何をしようというのか。
 京極のラケットからアングルボレーが放たれる。コートを斜めに横切るように鮮やかなボレーが駆け抜ける。
 透の目から見ても完璧なボレーであった。
 「勝負あった」と覚悟した。その直後、唐沢がバックボレーの体勢からそれを捕らえた。
 「まさか!?」
 透は我が目を疑った。そして疑いながらも目を離すことが出来なかった。
 唐沢のラケットに吸い寄せられたアングルボレーがガットの上で転がされ、別の球種に生まれ変わろうとしている。
 光陵テニス部員なら一度は見たことのある光景だが、それでもまだ信じられない。
 確か唐沢は藤ノ森学院との対戦で、「そう簡単にバージョンアップできたら苦労はない」と話していた。
 第一、あの立ち位置からでは物理的に不可能だ。
 唐沢は前衛のポジションにいながらにして打とうというのか。彼の決め球、ドリルスピンショットを。
 本来、ドリルスピンショットはベースラインから緩やかに上昇し、ちょうどネットを超えた辺りで急激な下降線を辿る。それを前方から繰り出せば、充分に上がりきる前にネットに阻まれてしまう。
 ピクリともしなかった手足が激しい衝動に突き動かされる。
 何としても、この目で確かめたい。ネット前からのドリルスピンショットが可能か、否か。
 八割の疑念と二割の期待を抱きつつ、透が一歩踏み出した矢先、見覚えのある回転を含んだボールが唐沢と京極の間に姿を現した。
 トップスピンとも、スライスとも、ましてサイドスピンとも違う。空間を切り裂いて突き進む様は、まさにドリルスピンとしか言いようがない。
 「なんで?」
 透の心配をよそに唐沢のラケットから繰り出されたボールは軽々とネットを超えて、ベースラインから放つそれと同じ軌道を描いてコートから出ていった。
 唖然とする透に向かって、唐沢が「目が覚めたか?」と言いながら口の端をわずかに持ち上げた。身内だけが知る“してやったり”の笑みである。
 「先輩、今のはドリルスピンショットですよね? ネット前から、どうやって?」
 「知りたかったら、残りの2ゲームは起きていろ。それぐらいの体力は戻ったんじゃないのか?」
 確かに丸々2ゲームの間休ませてもらったおかげで、軽いとまでは行かずとも、足手まといにならない程度には戦える。おまけにあんなスーパーショットを見せられれば、どれだけ疲れていても目が覚める。
 疲労困憊の岬とは対照的に、透は息を吹き返した。
 「唐沢先輩? もしかして俺の目を覚ますために隠していたんですか?」
 唐沢は無言で一瞥をくれただけで透の問いには答えず、身を翻すようにしてネットの向こうの京極に向き直ると、
 「悪いな、京極。こっちは真打が二人になった」と、さほど悪びれた様子もなく微笑んだ。
 「唐沢? お前さ……最初から俺と差しで勝負する気なんか無かっただろう?」
 一度は緩んだ口元がつと引き結ばれる。だが、それは真実を言い当てられた時のばつの悪さから来るものではなかった。
 唐沢がさも当然とばかりに言い放つ。
 「ああ。だって、これ。ダブルスだから」
 この瞬間、透は悟った。ここにいる選手全員、敵味方に関係なく、彼の意のままに動かされていたのだと。

 長きにわたり、頂点に君臨し続けた王者の居城が陥落の時を迎えようとしていた。
 京極のアングルボレーを唐沢がバックボレーの体勢で受け止めた。
 先の2ゲームで唐沢があえてネット前の不利な攻防に挑んだ理由は、アングルボレーの性質を正確に見極めるためである。
 相棒の復活を信じて休ませながら、唐沢自身はアングルボレーを攻略すべく、細部に至るまでじっくりと観察していたに違いない。
 角度のきついボレーがまたも唐沢のラケットに吸い込まれていった。
 「ダブルハンド……。そうか!」
 唐沢のフォームを間近で捉えた透は、ようやくそのからくりに気づいた。
 基本的に唐沢はバックボレーを片手で放つが、今は両手で打っている。前衛の位置からでもボールがネットを超えたのは、あの両手打ちが原因だ。
 片手打ちから両手打ちに変えることで肩幅分だけインパクトを後ろにずらし、そこで稼いだ時間を使って不足分の回転を与えていたのである。
 両手打ちの上に、アングルボレー独自の鋭い回転が加われば、距離がなくともネットを超えられるだけの高さは出せる。
 唐沢のラケットから放たれた打球は急斜面を駆け上がる勢いで上昇し、頂点に達したところで力尽きると、いつもの軌道を描きながらコートの外へと出ていった。
 パートナーを失い、アングルボレーを破られた京極にゲームを立て直す術はなく、最後は復活を遂げた透がふたたびサービスゲームをキープして、因縁のリーダー対決の幕は閉じた。
 ゲームカウント「7−5」。注目の大一番を制したのは光陵学園だった。

 「唐沢先輩?」
 勝つには勝ったが、透には一つ不満があった。
 「昨日の藤ノ森との試合で、ドリルスピンショットの進化説を全面否定していましたよね? 『簡単にバージョンアップできたら苦労はない』とか言って?
 あれは嘘だったんですか?」
 「当たり前だ。あの京極を相手に丸腰でケンカを売るほどバカじゃない。
 予選が始まる前から、いくつか策は用意しておいた」
 「だけど、せめてパートナーの俺には教えてくれても良かったんじゃないッスか?」
 「途中でバテるような奴に策を明かすほど甘くもないからな」
 「バテるって、あれは限界まで頑張ったって言ってくださいよ! それに、さっきは『上出来だ』って……」
 これも戦術のうちだと分かっていても、やはり裏切られた感は否めない。
 ところが唐沢は口を尖らせ抗議する透を頭から押さえつけると、強引にコートの中へ目を向けさせた。
 「夢でも見ていたんじゃないか?
 そんなことより、今の試合で満足しているようじゃ、あいつに先を越されるぞ?」
 唐沢のいう「あいつ」とは遥希のことである。
 ライバルの力戦奮闘ぶりに触発されたのか。続くシングルスに出場した遥希が今までに見たこともない形相で敵を圧している。
 「相乗効果だな。おかげで麓までは辿り着けそうだ」
 唐沢が安堵したように呟いた十五分後に光陵学園の決勝進出が確定した。
 王者・明解学園を破った光陵学園の勢いは衰えることなく、決勝戦でもその実力を存分に発揮して、光陵テニス部史上二度目のインターハイ出場の切符と共に東京都予選優勝の栄誉も手に入れた。

 予選の全工程が終了し、透が他の部員達と共に帰路に就こうと試合会場の前を通り過ぎた時である。片付けを終えたコートの中に出場選手の一人と思しき人影が見えた。
 背格好からして、あれは京極に違いない。
 透はとっさに声をかけようとして躊躇った。勝者が敗者にかける言葉はない。
 だがベースラインにひとり佇む寂しげな後ろ姿を放ってはおけず、いまだ優勝の興奮冷めやらぬテニス部の一団から離れて、コートの中へと入っていった。
 「京極さん……」
 京極は透の声かけに振り向きもせずに、ぼんやりと空を見上げていた。
 「あの、色々ありがとうございました。京極さんがいなければ日本に帰って来られなかったし、きっとまだストリートコートでひどい生活を送っていたと思います」
 透は出来るだけ試合の結果には触れないよう慎重に話を進めた。
 勝者としてではなく、一人のプレイヤーとして。そして京極に何度も窮地を救ってもらった者として。この機にきちんと礼を述べておくべきだと思った。
 「昔から京極さんには世話になってばかりで、俺がこんな大きな大会に出られたのも全部……」
 「唐沢……あいつ、強かったな」
 途中で遮られたというよりも、透の声かけそのものが京極の耳には届いていない。夕風の吹き抜けたあとを見送る横顔は、とうに覚めたはずの夢の余韻を追い求めているようだ。
 透は触れずにおいた話題から彼の気持ちに寄り添えそうな言葉を選んで言った。
 「京極さんも強かったッスよ。
 今日の試合は紙一重の差でした。俺と岬さんのダウンしたタイミングが少しでもズレていたら、違う結果になっていたと思います」
 「そのタイミングを上手く操作したのが唐沢だ。
 最後まで澄ました顔しやがって。ほんと、食えねえ野郎だぜ」
 「でも、京極さんも同じぐらい強かったッスよ」
 「ああ、分かったら何度も言うな。却ってわざとらしく聞こえる」
 不快感を露に睨みを利かせた京極だったが、本心ではなかったようで、すぐにまたぼんやりとした視線を遠くの空に投げかけた。
 「俺さ、アメリカへ行こうと思う」
 突然の告白に、透は答えに詰まった。
 高校三年生の京極が話題に上げるとすれば引退後の進路に決まっているのだが、深呼吸するような言い方が胸に秘めたるものを感じさせる。
 「もともと大学を卒業したら親父の会社を手伝う約束になっていた。ほら、サンフランシスコにうちのテニスクラブがあっただろ?」
 「じゃあ、大学を卒業したらアメリカへ?」
 「そのつもりでいたんだが、今日、お前等と戦ってみて……。いや、トオル。お前と戦ってみて、できるだけ早い方が良いと思ってさ。
 断っておくが、個人戦の優勝まで譲る気はないからな。
 ただそれとは別に、向こうの大学も視野に入れて準備を進めるつもりだ」
 最初は唐沢の間違いではないかと思った。京極の口から彼の名前を聞くまでは。
 「ジャンの夢を叶えようと思う」
 「ジャンの夢……?」
 まだジャンが生きていた頃、透も彼の夢については聞かされたことがある。どんな権力にも屈しない、実力だけで勝ち上がれるプロのチームを作りたいと話していた。
 京極はそれを父親のテニスクラブを基盤に叶えようというのだろう。
 「なるべく早く実現させる。だから、その時は声をかけて良いか?」
 「俺、ですか?」
 「今すぐの話じゃない。俺もマネージメントの勉強をしなきゃならないし、理想郷を作るにはそれなりの準備が要るからな」
 そこで一旦区切ると、京極は深い溜め息を吐いた。
 「俺が頼んだんだ。最初にアメリカでジャンと出会った時、お前を頼むと。だから……」
 「京極さん、まさか!?」
 「心配するな。ジャンが死んだのは事故であって、お前を託したことに責任を感じちゃいない。
 実を言うと、俺とジャンで密かに計画を立てていたんだ。
 いつか俺がテニスクラブを継いだらジャンをチームに迎えて、一緒にトオルを世界に打って出られる選手に育てようと言って」
 「そうだったんですか」
 自らの経験上、つい声を荒らげた透だが、京極のやろうとしていることが二人共通の夢だと分かり、安堵の胸を撫で下ろした。
 それと同時に、自分の知らないところでジャンが大切に思っていてくれた。そのことに喜びと、幸せと、少しばかりの誇らしさも感じていた。
 ジャンの死を受け入れ、徐々に罪悪感との折り合いがつけられるようになった今でも、やはり『伝説のプレイヤー』と呼ばれた男の存在は大きく、その足跡を知るたびに強く惹きつけられる。
 彼が何を考え、どんな言葉を残したのか。些細な昔話であっても、彼に関するものなら無条件で耳を傾けてしまう。
 話をしていくうちに京極も昔を思い出したのか、口調にも普段の横柄さが出始めた。
 「お前がアメリカにいる間はジャンに指導を任せて、帰国したら俺が余所から引き抜かれねえよう見張っておいてだな。時期が来たらスカウトしようと思っていた。俺達が作った理想のチームに。
 今日、戦ってみて、やっぱりお前しかいないと思った。
 どんな相手にも怯まず向かっていく精神力。お前にはそれがある。
 これも親父さんのおかげだろうな。感謝しろよ?」
 「親父って、うちの……?」
 「前にジャンが話していた。トオルがストリートコートに出入りするようになってから、定期的に新しいテニスボールを届けてくれる謎の人物が現れたとな。
 あそこは治安の悪さを除けば、元プロの指導も受けられたし、毎日が試合みたいなもんだから、精神的にも肉体的にも鍛えられた。あの頃のお前には理想的な環境だった。
 ただコートはどんなにボロでも構わねえが、ボールだけは新しいもので慣れとかねえと、公式戦に出るようになってからお前が困る。
 親父さん、きっと可愛い息子が日本に帰国して、こういう大会で活躍する日のことまで考えてくれていたんだろうな。
 まあ、光陵なら定期的にボールの入れ替えもするし、試合前はそれも含めて調整してんだろうけど、ヘタレたボールで妙な癖がついても後々故障の原因になりかねない。
 俺が思うに、ニューボールはジャンへの謝礼が半分、息子への必要最低限の配慮が半分ってとこじゃねえか?
 お前は大事に育てられていたんだよ。ジャンや唐沢だけじゃなくて、親父さんにもな」
 透は京極との対戦で、ほんの束の間、眠りに落ちていたことを思い出した。
 あの時、コートチェンジで見た夢は偶然ではない。
 きっと限界に追い込まれなければ辿り着けない意識の奥のほうで、自分は父に見守られていることを知っていた。だからこそ限界を感じたあの場面で思い出し、父に見せられないような情けない試合はしたくないと踏ん張れた。
 「お前の人生を縛りつけるつもりはない。
 いずれ正式に誘いにいくから、その時に改めて考えて欲しい。俺のもとでプロを目指すかどうか」
 「分かりました」
 あえて約束はしなかった。互いにまだ何かを背負う時期ではないと分かっている。
 ストリートコートで過ごした中学時代の思い出が透の頭をよぎる。
 「お前の将来の夢はここのリーダーか? 思ったより地味な夢だな」
 確かグラデュエーションの後だった。コートの中の沈んだ空気と、丸太の上のキラキラと輝いていた夜景と、自分の胸に突きつけられた大きな拳を覚えている。
 あの時、白紙で提出しなければならなかった答えが、透の中で少しずつ色づき始めている。
 「個人戦では必ずレベンジしてやるから、首洗って待っていろ」
 別れ際に彼らしい好戦的な言葉を残して、京極はコートを後にした。
 インターハイ優勝を目指す光陵テニス部の長く熱い夏が始まろうとしていた。






 BACK  NEXT