第36話 最弱の名の下に

 唐沢の説く「実りある賭け」とは、何なのか。具体的な説明もないままに、透は合宿所の部屋の片隅で説教には付きものの正座の苦痛に耐えていた。
 となりには遥希と『闇のバリュエーション』に参加した藤原、千葉、陽一朗といった面々も顔を揃えている。無論、遥希以外は全員正座である。
 「今からお前等には『闇のバリュエーション』の品位を落とした罰として、『闇の光陵杯』に参加してもらう」
 唐沢が五人の前を行ったり来たりしながら厳しい口調で切り出した。
 いかにも罪人に判決を言い渡す公明正大な裁判官の体を装っているが、「闇の」と名のつく限り、それはギャンブルに違いなく、彼が心の中で狂喜乱舞しているのは明らかだ。その証拠に、いつもは変化の乏しい口元が先ほどから緩んでは引き締めてを繰り返している。
 もともと「校内レース」の情報収集のために副部長の任を引き受けるような男である。立場上、今は活動を控えているものの、これまでの所業を悔いて態度を改めたわけではないので、根っこの部分は変わらない。
 合宿初日から羽目を外した不埒な部員に制裁を加える。この大義名分の下、彼は公開処刑ならぬ、公開博打を目論んでいるに違いない。

 「唐沢先輩、その『闇の光陵杯』って、何ッスか?」
 透は我が身に降りかかるであろう厄介事の正体を探るべく、まずは具体的な説明を求めてみたが、唐沢は片手をかざすようにして制すると、携帯電話で誰かと話をし始めた。
 「ああ、俺。いまメンバー決まったから……。良いよ、そっちは五組で。うちは三組で充分だ」
 どうやら『闇の光陵杯』も『闇のバリュエーション』と同様、競技種目はテニスと見て間違いなさそうだ。
 唐沢の十八番であるカードゲームや賭け将棋でないことに安堵を覚える一方で、一抹の不安も感じる。
 電話で打ち合わせをするということは、相手は他校の生徒だろう。組数がどうのと話していたから、試合形式はダブルスの勝ち抜き戦といったところか。
 軍師の異名を持つ唐沢が勝ち目のない勝負を仕掛けるとも思えぬが、果たしてシングルス・プレイヤーの多いこの顔ぶれでまともな布陣が組めるのか。
 その場にいた誰もが透と同じ考え ―― 光陵勢には不利な試合形式のほうに意識が向いていたはずである。唐沢の最後の台詞を聞くまでは。
 「しつこいな。ハンデなんか要らねえよ。兄貴、今年の光陵をナメてかかると痛い目見るぜ」
 五人の視線が一斉に唐沢の手元に集中した。あの携帯電話の向こうで話をする人物は、唐沢の兄・北斗なのか。
 聞き間違いであって欲しいと、全員が周囲の様子を伺い、そのざわつき具合から、今の会話が聞き間違いでないことを各々が認め合う格好となった。
 「唐沢先輩、今の電話はもしかして……?」
 質問の優先順位が変わった。透は『闇の光陵杯』が何であるかの前に、誰と対戦するのかを確かめなければならなかった。
 「ああ、うちの兄貴だ。ちょうど兄貴のサークルも近くで合宿をするというから、事前に声をかけておいた」
 唐沢の兄・北斗は光陵テニス部のOBで、今は大学のテニスサークルに所属している。
 現役時代はコーチの日高と共に成田、唐沢の両名をダブルスの中核を担えるレベルにまで育て上げ、後進の育成に努める傍らで、独自の選手選抜制度 ――今のバリュエーションの礎となるもの―― を考案したという。
 当時のテニス部員の中には急な改革に反発する者も少なからずいたようだが、ここ数年で躍進を遂げた今のテニス部の姿を見れば北斗に先見の明があったことは疑う余地もなく、事実、その恩恵を受けて育った唐沢から下の代では「光陵テニス部の伝統を塗り替えた伝説のカリスマ部長」の名と共に彼の偉業が語り継がれている。
 言わば、唐沢北斗は光陵テニス部員にとって「生けるレジェンド」だ。
 「……ってことは、俺達の対戦相手って大学生ですか?」
 「ああ、あそこはうちのOBも結構いるし、この時期に戦う相手として不足はないはずだ」
 「不足どころか、充分過ぎると思うんですけど?」
 「勝てる試合に時間を割いて、何の得がある?」
 「いや、ま、そうなんですけど……」
 「良いか、よく聞けよ?
 お前等も知っての通り、うちのOBはインハイ本戦前の東京都予選で敗れている。そいつ等に勝てないようじゃ、この先は望めない。
 あくまでも俺達が目指すのはインハイ出場じゃない。優勝だ。
 『闇の光陵杯』はそのための最初のハードルだと思え」
 透にも少しずつ唐沢の意図するところが見えてきた。
 「だから実りある賭けなんッスね! 俺達の実力が試せるように、唐沢先輩はセッティングしてくれたんですね?」
 「何を寝ぼけたことを言っている? それとこれとは話が別だ」
 「へっ?」
 仕切り直しとばかりに唐沢は一つ咳払いをすると、『闇の光陵杯』の詳細を順序だてて説明し始めた。
 「今日から五日間、OBチームの精鋭五組をこのメンバーで撃破していく。
 一番手は陽一とケンタの二年生ペア。二番手はトオルとハルキ。そして最後はシンゴと俺だ。
 大将が負けた時点で、そのチームの敗北が確定する。
 戦利品は合宿最終日にやるバーベキューの食材全部と、兄貴は花火もつけろと言ってきたが……」
 「部長、ちょっと良いですか?」
 唐沢の滑らかな説明に割って入ったのは、仏頂面した遥希であった。
 「二番手は他の部員を探してください。俺、部外者なんで」
 遥希の主張はなるほど筋が通っている。
 『闇のバリュエーション』で勝敗を競っていたのは、藤原、千葉、陽一朗、透の四人であって、遥希は単なる助っ人に過ぎない。処罰を受ける義務もなければ、非公式の練習試合に付き合う義理もないのである。
 だが仏頂面で異を唱える遥希に対し、唐沢は冷静且つ、にこやかな対応をしてみせた。
 「確かに、そうだ。お前の意見はもっとだ。
 相手は大学生だし、サークル所属と言ってもうちのOBだし。おまけに試合形式がお前の苦手なダブルスで、元部長が参戦と聞けば怖気づくのも無理はない。
 敵前逃亡、大いに結構。尻尾を巻いて逃げるも自由。ただ……」
 透も最近になって気づいたことだが、遥希のような負けず嫌いを操作するにはコツがある。唐沢はその手順を心得ており、相手を言葉巧みに「思う壺」へと誘導する。
 「ただ、何ですか?」
 「いや、止めておく。俺の口から話すのはコーチに悪いし」
 さらに遥希の場合、父親の名前が好餌となるようだ。
 「途中で止めないでくださいよ。余計、気になるじゃないですか!」
 「そこまで言うなら話すけど……。
 実はコーチがさ、『闇のバリュエーション』でお前が全敗したと聞いて、かなりショックを受けているみたいでさ。
 いくらダブルスが苦手だからって、仮にも日高テニススクールの看板息子が全敗はないだろうって。
 おまけに他の連中までお前等のことを光陵テニス部始まって以来の『最低最弱ペア』なんて言い出して……」
 「何ですか、それ!? 『最低最弱ペア』って……」
 先の都予選で透と陽一朗が連敗した時でさえ『最悪ペア』止まりであったが、今回は「最低」と「最弱」の二つの称号を頂戴したらしい。
 実際、1ゲームも取れずに完敗したのだから文句は言えないが、生まれてこの方、エリート街道を歩んできた遥希には屈辱的な称号だ。
 「そうなんだよ。俺もショックだよ。次期エースとして大事に育ててきた可愛い後輩二人が、まさか最悪……じゃなかった、最低最弱なんて言われてさ。
 だけど、俺以上にショックを受けているのはコーチだから。俺としてはお前等に汚名返上の機会を与えてやろうかと思ったんだが……。
 あっ、この話、コーチには内緒だからな」
 絶対に嘘だ、と透は思った。
 そもそも水面下で数試合しか行われていない『闇のバリュエーション』が、部員の間で噂になること自体が不自然で、仮になったとしても、試合結果がその日のうちにコーチの耳に届くことなどあり得ない。
 第一、いくら親バカとは言え、プロ意識の高い日高が私的な理由で気落ちした姿を部員に見せるとも思えない。名将・日高のウリはどんな苦境に置かれても決して動じない、厚顔と紙一重のふてぶてしさにあるのだから。
 そして、もっとも疑わしいのが、唐沢がショックを受けたという件。
 対藤ノ森戦では味方までも欺き、「可愛い後輩」を使って相手チームに偽の情報を流させた男が、そんな噂ごときでショックを受けるわけがない。これは明らかに遥希を陥れるための罠である。
 心にある疑惑の念を読まれたのか。唐沢がこっちを睨みつけている。
 あれは「お前は余計な口を挟むな」の合図だろう。口では拒否権があると言いながら、遥希をメンバーから外す気など微塵もないのである。
 「分かりました。もう一度、俺にチャンスをください。必ず汚名返上してみせます。
 但し、パートナーは他の奴にしてください」
 遥希の反応は、三年前、ギャンブルのカモにされた時の自分を見ているようだった。
 本人は自らの意思だと思っているが、最終的には唐沢の思い通りに事が運ぶ。透もああやって「校内レース」に引きずり込まれていったのだ。
 「ハルキがどうしてもと言うなら止めはしないけど、俺が思うに最悪……じゃなかった、『最低最弱ペア』で勝たなきゃ汚名返上にはならないんじゃないのか?」
 「理屈はそうかもしれないですけど、こいつとは……」
 遥希の蔑むような視線を痛いほど感じたが、透は知らん顔を通した。下手に唐沢の意向に逆らえば、あとでどんな仕打ちが待っているか知れやしない。
 唐沢が最後の仕上げに入った。
 「なあ、ハルキ? 確かに今回はトオルのリードミスにも問題があったと思う。
 だけど、本当に敗因はそれだけか? シングルス・プレイヤーがダブルスは苦手でも良いという理屈は、和食の料理人がフレンチは不味くても仕方がないと言っているように聞こえるが?
 まあ、そこそこの二流選手で終わるつもりなら、話は別だけど」
 案の定、遥希の目つきが変わり、それを認めた唐沢がしたり顔で透のほうを見やった。
 「分かりました。二番手は俺とこいつとで行かせてください」
 ライバルが罠に落ちた瞬間だった。

 「それじゃあ、話を元に戻そう」
 唐沢の説明をよそに、透はいまの会話を頭の中で反芻していた。
 試合直後に受けた印象では、『闇のバリュエーション』の敗因はダブルス経験の浅い遥希ではなく、司令塔の役割を果たせなかった自分にあると思っていた。
 しかし唐沢の指摘によれば、まだ何か見落としている点があるらしい。
 あの口振りでは、遥希にはポジショニングの拙さもさることながら、シングルス・プレイヤーとしても超えなければならないハードルがあって、それが何であるかを見つけることが二人に与えられた課題だと言われたような気がする。
 そうでなければコンビネーション最悪の二人をわざわざ組ませはしないし、今のしたり顔もギャンブラーのそれとは違う。
 後輩を思い通りに操縦できたからと言って、唐沢は露骨に顔に出して喜んだりはしない。したり顔に見えたあの表情は、後輩二人の更なる成長を期待するが故のものである。
 もう一度、ダブルスの敗因を見直す必要があるのかもしれない。
 透の意識が過去の試合へ傾きかけたところへ、千葉の素っ頓狂な叫び声が部屋じゅうに響きわたった。
 「マジっすか!?」
 「当たり前だ。うちの兄貴がバーベキューの食材と花火程度の戦利品で満足すると思うか?」
 「だけど、いくら何でも『体でご奉仕』っていうのは……」
 「何ッスか、それ!?」
 突如として耳に飛び込んできたフレーズは、今さっき滝澤に貞操を奪われかけた透にとっても聞き捨てならないものだった。
 「安心しろ。兄貴の『体でご奉仕』は肉体労働がメインだから。さしあたって宿舎のトイレ掃除と風呂掃除、あとは夜食の買出しとコート整備もあったか」
 「そっちも、あんまり安心できないんですけど」
 自分達の宿舎の風呂掃除だけでもキツいのに、これ以上ノルマが増えては堪らない。千葉に続いて不満を露にする透に対し、唐沢はにこやかな笑みから一変して、キッパリと言い切った。
 「勘違いするな。ハルキと違って、お前等四人に拒否権はない」
 「ハルキだって、逃す気なかったくせに」
 「何か言ったか?」
 「あ、いえ……」
 無事に合宿を終えたければ、これ以上の反論は慎むべきである。
 「敗北したペアはチームの勝敗に関係なく、その直後から奉仕活動に入ることになっている」
 次々と課せられる過酷な条件を聞いて、今度は陽一朗が悲鳴を上げた。
 「それじゃトップバッターの俺ッチは、メチャメチャ不利じゃないッスか!」
 しかし、依然として罪人に対する唐沢の冷やかな態度は変わらない。
 「拒否権はないと言っただろ。要するに、勝てば良いだけだ。
 それに、お前とケンタには一番手になってやる義務があるんじゃないか?」
 「いや、普通は下っ端から先に行くでしょ?」
 「品位を落としたという点で、お前達に心当たりはないか? いくらチームのためとは言え、窃盗は立派な犯罪だ」
 陽一朗には大いに心当たりがあると見えて、尖った口先が苦笑いへと変化した。
 「伊東陽一朗、喜んで行かせていただきます!」
 やはり唐沢は侮れない。彼には水面下で進めたはずの『闇のバリュエーション』のみならず、『怪盗ツパン』の犯行までもお見通しのようである。
 弱みを握られ、すっかり大人しくなった二年生二人と、勝負パンツの恨みを晴らしてもらい、上機嫌になった遥希との間に挟まれて、透は「唐沢だけは何があっても敵に回してはならない」と固く心に誓うのだった。
 「良いか、全員よく聞けよ? 弟の俺から見ても、兄貴は勝負事に関して容赦のない男だ。
 この『闇の光陵杯』はバーベキューの食材だけじゃない。俺達の今後も懸かっている。
 もう一度、言う。ここでOBに勝てないようじゃ、優勝は望めない。
 光陵テニス部の伝統を塗り替えた男を相手にするんだ。こっちは歴史ごと引っくり返すつもりで心してかかれ。分かったな?」

 試合に関する細かい打ち合わせが終わり、部屋の中は透と遥希の二人だけになった。
 お騒がせな先輩たちのおかげで喧嘩のあとの気まずさはいくらか緩和されたとは言え、ぎこちなさは否めない。
 透は窓側、遥希は廊下側と、逆方向を向きながら、互いが互いを気にしているのが気配で分かる。
 向こうから話しかけてくれば返事をする準備はあるのに、自分からは切り出せない。何となく負けた気がするからだ。
 こんな意地っ張りな二人の間を通れるのは何物にも縛られない自由な風ぐらいだろうが、今日に限って窓辺の訪問者は現れず、部屋の中には昼間の熱気とそれに感化された湿気が居座り続けている。
 「暑いな……。雨、降らねえかなぁ」
 透が思わず漏らした一言に、遥希がすぐさま応えた。
 「降ったら練習できないじゃん」
 「そんなの、どこでも出来るだろ? 廊下だって、風呂場だって」
 「お前、やっぱ原始人だよな」
 「知能低いって言いてえのかよ?」
 「いや」
 遥希は短く言ってから、雲行き怪しい空を眺める振りをして窓の外へと目を向けた。
 時折、遥希は不安げな表情を見せることがある。透と二人でいる時は、特に。
 子供の頃から常に正しい道を正しい順序で歩んできた遥希。しかしそれを正しいと信じられるのは与えた側の人間であって、与えられた側ではない。
 透は自分も龍之介に深い愛情をもって育てられたと気づいてから、対照的な育てられ方をした遥希のことが前よりもよく理解できるようになった。
 遥希が透といる時に見せる不安は、育てられた環境の違いから来るものだ。
 自分で行く道を決めて進んできた透と、親が用意した道を進むしかなかった遥希と。
 どちらが良いとか、悪いとか。一概に言うことは出来ないが、少なくとも透には己が残した足跡についての不安はない。後悔や反省はあったとしても――。
 「あのさ、ハルキ? 俺のこと、強えと思うか?」
 「何だよ、急に?」
 唐突な質問に、遥希が訝しげな顔を向けた。
 「良いから正直に答えろよ」
 「だから、何で?」
 「大事なことだから。俺にとっても、ハルキにとっても」
 遥希の性格からして多くの葛藤を要する質問だと承知の上で、透は返事を促した。
 案の定、ライバルの視線が上下する。
 床に落ちていた視線が躊躇いがちに上向きになったかと思えば、透と目が合いかけてまた落ちる。それを何度かくり返したあとで、遥希が観念したように呟いた。
 「最初から……出会った時から強いと思っていた。
 テニスのルールも知らなくて、俺より下手だと分かっているのに、直感で強いと感じた。いや、感じさせられた」
 固く閉ざされた唇から解放された言葉は、透の予想を遥かに上回るものだった。
 「バカみたいに前向きで。どんなに悲惨な負け方をしてもへこたれない。
 俺はそんなお前が気になって、いつも隣ばかり見ていた。
 お前がアメリカへ旅立った後も、いつか再戦する日のために、ひとりで頑張って、頑張って。試合で結果も残して。
 やっと自信が持てたと思った時には、お前はもっと遠くを走っていた。
 何なんだよ、この差は? 俺だって努力しているのに。どこが違うんだよって、いつも思っていた」
 「いや、あの……ハルキ? そこまでぶっちゃけなくても……」
 「何だよ? 大事な質問だって言うから!」
 「悪い。単純に今の気持ちを知りたかっただけで、そんなマジな答えが返ってくるとは思わなくて」
 「で、正直に話したんだけど?」
 半分は照れ隠しだろうが、本音を吐露した遥希はムッとしたまま透を見据えている。
 自分で話を振っておきながら、透はすぐには答えられなかった。
 素直に心の内を語ってくれたライバルに対し、それに見合うだけの返事をしなければならない。反目するより向き合うことのほうが遥かに難儀だと、思い知らされる。
 「俺もハルキのこと、強えと思っていた。
 プレーの一つひとつが洗練されててさ。同い年なのに何でこんなに違うんだよって、悔しくて、羨ましくて、仕方がなかった」
 「思い出話でもしようって言うのか?」
 「そうじゃなくて、俺達は運命共同体なんだ」
 「運命共同体?」
 「そう。初めて唐沢先輩とダブルスを組んだ時に言われた。『これから俺達は運命共同体だ。お前が潰れれば、俺も潰れることになる』って。
 だけど俺はハルキを強えと思うから、絶対に潰れることはない」
 「随分、遠回しな慰め方だな」
 先ほど唐沢から受けた指摘を気にしているのか。遥希の返事は妙に冷めていた。
 「慰めなんかじゃねえよ。
 お前になら勝負を預けられる。そう思っている」
 「ダブルスの足、引っ張ってんだぜ?」
 「それは俺のリードミスもあるし、今から二人で問題点を見つけりゃ良い。
 大事なのは、お前が俺を信頼できるか、どうか。そこなんだけど?」
 「そんな風に考えられない。俺にとってお前はライバルで、それ以上でも以下でもない。
 この合宿だって団体戦の選考会を兼ねてんだから、全員がライバルだ。
 お前は部長に目をかけてもらっているから、他の連中より有利な立場にいると思ってんだろうけど……」
 「そんな、有利だなんて思ってねえよ。けど、インハイもOBとの練習試合も、俺にとっては同じだ。
 また知能低いって笑われるかもしんねえけど、俺には目の前の試合に全力投球するしか考えらんねえよ」
 「俺は自分の勝負を預けられるほど誰かを信用したことはない。何でも疑うことから答えを見つけてきた。部長も、そのスタイルが俺には合っているって。
 だから、急に信頼とか言われても……」
 「なに?」
 「でも、『例外を作っておけ』とも言われた」
 遥希が大事なことを思い出した時のようにハッと両目を見開いて、透を真っ直ぐ見つめた。
 「そいつにだけは強がるなって……」

 開け放した窓から冷たい空気が入ってきたかと思えば、瞬く間に滝のような雨が降り出した。
 蒸し暑さを静める夕立を白雨という。
 高層ビルが乱立する都会ではとうに死語かもしれないが、透の子供の頃の記憶では、山間に住む年寄り達がそんな風に呼んでいた。
 空から水しぶきを上げながら真っ直ぐ降り落ちる雨の色。
 そして透を見つめる遥希の肌の色も透けるように白かった。
 気高さを象徴する色でありながら、はかなくもあり。だからこそ、憧れもある。白――。
 ただ願わくは、心から認めたライバルには白雨のように我が身をもって穢れを洗い流せるような強靭な白でいて欲しい。
 激しい雨音を聞きながら、遥希がとつとつと話し始めた。
 「俺、いつも父さんのせいにしていた。
 子供の頃から友達の家へ遊びにいくにも、ひとりでゲームするにしても、全部、父さんに予定を聞かなきゃ駄目だった。
 練習ばかりで友達が出来ないのも、部活で孤立しているのも、試合に勝っても、負けても、全部、父さんのせいだと思っていた。
 だから初めてトオルと会った時、驚いた。自分の父親のことを『クソ親父』って呼んで、部活なんかも自分で決めて……。
 父さんの顔色ばかり見ている俺がバカみたいに思えたし、自由にやれるお前が羨ましいとも思っていた」
 「俺だってハルキのこと、メチャメチャ羨ましかったぜ。テニスを教えてくれる親父がいてさ。
 うちの親父と入れ替わってくれたら、どんなに良いかって思っていた」
 「あんな過保護な親なのに?」
 「うちの親父にマジギレしたこともある。なんでハルキん家みたいにテニスを教えてくれないんだって」
 「そうなのか? 俺はお前の親父さんが父親なら良いのにって、いつも思っていたけどな」
 雨脚がますます強くなっていく。よどんだ空気を、地上の汚れを、有無を言わさず洗い流す白い雨。
 「なあ、ハルキ? 俺達さ、そろそろ親父から卒業しても良いんじゃねえか?」
 「卒業?」
 「どっちも極端な親父で、お互い苦労したかもしんねえけど、ちゃんと受け取った物もあるだろ?
 それをベースにあとは自分で……何つうか、ここからが俺達のオリジナルってヤツ?」
 「俺にオリジナルなんてあると思う? 全部、父さんから教わったことばかりで、自分で出した答えなんて一つもない」
 「ハルキは充分オリジナルだ。あのおっさんは、ここまで負けず嫌いじゃねえよ」
 「俺のはただの強がりだ。自分で分かっている。自信の無さの裏返しだって」
 「最初から自信のある奴なんていねえよ。
 まずはダブルスで一勝。ここからだ」
 「『最低最弱ペア』って言われてんのに?」
 「そう、『最低最弱ペア』だから。こんだけクソミソに言われりゃ、失うものは何もねえ。あとは強くなるだけだ」
 「お前って、ほんと前しか向かないな」
 久しぶりに遥希の少年らしい笑顔を見た。こんなに屈託のない笑顔を見るのは、付き合いの長い透でも初めてかもしれない。
 滝のような雨をもたらした雨雲は実にマイペースで、周辺の山々を充分に潤したと見るや、茜色した空の向こうへ去っていった。
 洗い立ての瑞々しい風が二人の間を駆け抜ける。
 「よっしゃ、雨も上がったことだし……」
 透が言い終わるのを待たずして、遥希がラケットを取り出した。
 「敗者復活戦と行きますか」
 三年前、合宿を境に道が分かれた二人。出会った当初から反目し合い、互いの存在を素直に認められたのは、透がアメリカへ旅立とうという日の別れ際の一瞬だった。
 本当はあの時の一瞬を取り戻したくて、ずっと頑張ってきたのかもしれない。アメリカでも、帰国してからも。
 「ハルキ? どうせなら俺等で全部片付けて、『最強ペア』の称号もいただくか?」
 「俺も今、それ言おうとしたところ」
 透と遥希。対極にいた二人が三年の時を経て、いま同じ目的に向かって駆け出した。






 BACK  NEXT