第41話 北斗 VS 海斗 (後編)

 いつの頃からか、気がつけば追いかけていた白い背中。
 卓越したテニスセンスと怜悧な頭脳を武器に、ライバル校の兵どもを涼しい顔して捻じ伏せる先輩の後姿が、兄・北斗と相対すると幼く見える。
 それは二人の体格差や年齢差のみならず、各々が歩んできた道のりにも違いがあるのだろう。
 長男として、また部長として、北斗のほうが多くの修羅場を経験しており、そこで培われた精神力が揺るぎない強さとなって彼の根幹を支えている。
 コートで向き合う二人を見ていると、透は改めてテニスは身体能力や技術だけのスポーツではないことを思い知らされる。
 冷静さを保つためなのか、先程から深呼吸を繰り返す唐沢に対し、北斗はボールの感触を確かめたり、風向きを調べたりと、次のサーブに向けて淡々と準備を進めている。
 現在、ゲームカウントは「6−5」。唐沢はあと1ゲームで決着をつけるつもりのようだが、果たして百戦錬磨の北斗を相手に勝利を手にすることが出来るのか。
 透は唐沢のプレイヤーとしての技量を信じる気持ちとは別のところで、言い知れぬ不安を覚えていた。

 ゲーム開始と同時に、唐沢は第10ゲームと同じやり方で北斗を前へと呼び寄せた。
 一見、北斗が自分の意思でネットについたかに見えるが、藤原の話によれば、唐沢のチップ・リターンに誘い出されたことになる。
 抜群のバランス感覚でネット前を陣取る兄に続き、唐沢もサービスエリアに踏み込んだ。
 「そうか……!」
 チップ・リターンからバックボレーの構えに転ずる姿を認めた透は、ようやく得心した。
 唐沢が繰り出そうとしているとっておきの切り札は、京極との対戦で初めて披露した前衛からのドリルスピンショットに違いない。もしも北斗がその存在に気づいていなければ、試合の流れを引き寄せる強力な一打となるはずだ。
 しなやかなラケットの動きに合わせて、ボールが唐沢の腕の中で回転し始めた。
 「海斗、お前……」
 今まで淡々とゲームを進めていた北斗の表情が、俄かに硬くなる。
 ベースラインからでも充分威力のあるドリルスピンショットが、更なる進化を遂げている。かっと見開かれた眼には、弟の手の内を知り尽くしている兄であるが故の動揺がうかがえる。
 そして、恐らく心の内では見た目以上の混乱が生じているのだろう。バランス感覚に関しては無敵と言われる北斗が、傍目にも“急場しのぎ”と丸わかりのフォームでラケットを突き出した。
 無論、慎重に出番を見定め放たれたドリルスピンショットがそんな間に合わせの包囲網に捕まるはずもなく、前のめりで猛追する北斗を尻目にいつもの蛇行曲線を地面に描いている。
 「最初からこのゲームで決着をつけるつもりだったのか?」
 サイドラインに沿って走り去るボールを見送った後で、北斗が唐沢に向き直り、問いかけた。
 唐沢はろくに返事を返さなかったが、その沈黙が意味するところは明らかだ。
 彼は互いに逃げ場のない第12ゲームを勝負どころと考え、決め球を巧みにかわそうとする北斗を追い込む算段を立てていた。
 第10ゲームの「チップ&チャージ」は、北斗がどれくらいの速さでネットについて攻撃をし始めるか。一連の流れをシミュレーションするための撒き餌だったに違いない。
 「まったく、抜け目がねえっつうか。陰湿っつうか。お前らしいな。
 けどな、海斗? 俺はお前には、もっと……」
 途中まで言いかけて、北斗が思い直したようにふっと笑みを浮かべた。
 「良いだろう。受けて立ってやる。
 お互いネット前の真っ向勝負と行こうぜ」

 ネット前の攻防戦を、これほど緊張して見たことはない。
 土台が安定しているうちに決め球を出させようと煽る北斗と、可能な限りラリーを引き伸ばし、相手の土台を崩してから決め球を放とうとする唐沢と。
 両者の一騎打ちは見る側に息つく暇を与えない。
 コートを囲む金網フェンスの周辺はまるで時間が止まったようだった。
 勝敗が決する瞬間を見逃すまいと、誰もが一言も発することなくネット前に意識を集中させている。
 激しい攻防が続く中、唐沢のラケットがふたたび独自の“しなり”を見せた。
 それは憧れの先輩の技を習得したいと願う者には短すぎる一瞬でありながら、その価値を知る者には非常に満ち足りたひと時でもあった。
 まず両手バックボレーの構えから、やや後ろにインパクトを取る。
 後ろと言っても僅か数センチの幅である。それ以上後ろに下げては、相手のボールの勢いに圧されてコントロールが利かなくなるからだ。
 制御可能なぎりぎりのところにインパクトを定めて、ボールの回転を殺さぬよう柔らかく受け止めた後は、素早くラケットを滑らせながら更なる回転を加えつつ、その一方でグリップを細かく調節してボールの向きを変えていく。
 そうすることで、スライスのかかったボールはガットの上であの独特のドリル回転へと変化する。
 これら一連の作業を、唐沢はインパクトを後ろへずらした数センチの幅の間、つまりは一瞬で成し遂げる。
 生みの親ならではの鮮やかな早業は、何度見ても見惚れてしまう。
 充分な回転が施されたボールが唐沢のラケットに背中を押されるようにして飛び出した。
 ネット前で急降下する角度に合わせて北斗がラケットを構えていたが、鋭い刃先にガットを弾かれ、行く手を阻むことは出来なかった。
 打たれると分かっていても容易に返せない。各校のライバルたちが唐沢のドリルスピンショットを警戒する理由もそこにある。
 これまで均衡を保っていたカウントが「0−30」に傾いた。
 しかし、まだ油断ならない状況だ。返球には至らなかったが、少しずつ北斗もタイミングを掴み始めている。
 一発逆転のチャンスを探ろうとする北斗に対し、唐沢は、今度は早い段階でドリルスピンショットを繰り出した。前の長いラリーを踏まえて、じっくり腰を据えて仕留めるつもりでいた北斗の裏をかいた格好だ。
 「お前、ほんと良い性格してんな? 親の顔が見てみたいぜ」
 冗談めかしているが、北斗なりに自分を出し抜くまでに成長した弟を称えているのだろう。
 しかし唐沢は兄の賛辞にも耳を貸さず、黙って元のポジションに戻っていく。
 大人気ないと映る行動は、「草トー育ち」の兄を用心してのことなのか。それとも単に集中しているだけなのか。
 試合は唐沢の優勢だというのに、透は前にも増して胸騒ぎを覚えた。
 あの目を細めて唇を噛む表情は唐沢がキレる直前に出すもので、冷静さを欠いたもっとも危険な状態であることを示している。
 「勝負事は冷静な者が勝つ」と教えてくれた先輩がまさかとは思うが、頑なに会話を拒む様子からも、不安は強くなる一方だ。

 いよいよ唐沢のマッチポイントという段になって、北斗がゲームセットを阻止すべく、サーブと同時にダッシュした。
 続いて、唐沢もネット前へと躍り出た。
 初めは崖っぷちに立たされた北斗が最後の勝負に出たかに思えたが、実際に取られた策は透の予想を大きく裏切るものだった。
 恐らく、この場にいる誰もが呆気にとられたはずである。
 ネット前の白熱した攻防戦に水を差すかのような緩やかなロブ。
 北斗はこともあろうに、自ら言い出した「ネット前の真っ向勝負」を避けて、兄の言葉を信じて前進してきた弟の頭上をロブで抜いたのだ。
 言うまでもなく、これはルール違反ではない。
 ただ確執を抱える兄弟により深刻なダメージを与えたのは明らかだ。
 透の脳裏に昨日のダブルス戦で「俺と真剣勝負したかったら、なりふり構わず挑んで来い」とけしかけた、鼻持ちならない笑顔がよぎった。
 これが北斗の戦い方なのだ。
 勝つためには手段を選ばない。たとえ律儀な弟から侮蔑の目を向けられようと、周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買おうとも、最後のポイントを手中に収めることのみに全力を傾ける。
 それが彼の流儀であり、特別な才能にも身体能力にも恵まれなかった彼が拠り所とする、たった一つの必勝法なのだ。
 ところが、コート上では皆の予想をさらに上回る事態が起きていた。
 頭上を越えて遥か後方へ落ちていくロブを、唐沢が必死になって追いかけている。
 常に相手の打つコースを先読みし、思い通りのボールが来るのを優雅に待っている彼が、想定外の打球に喰らいつこうと、脇目も振らずに走っている。
 透の目から見ても、追いつくのは難しいと思われた次の瞬間。ベースライン際に落とされた絶妙なロブを、唐沢がダイビング・キャッチの要領で受け止めた。
 まともに走っていては埋まらぬ距離をその身を投げ打つことで一気に縮め、地面に突っ伏した体勢から強引に腕を伸ばしてボールの落下地点にラケットを滑り込ませると、唯一自由の利く手首を器用に使って角度を合わせ、相手コートへと返球したのである。
 この執念で返した一打が勝敗を決した。
 フォームも何もあったものではない。単にラケット面を合わせただけの緩いボールが、呆け顔で弟を見つめる兄の背後でストンと落ちた。
 最後まで諦めずに追いかけた唐沢の粘り勝ちだった。

 「唐沢先輩!?」
 唐沢の勝利に安堵したのも束の間、透の背中が凍りついた。
 ボールに飛びついた際に、空いているほうの腕で体を庇おうとしたのだろう。唐沢が左肘を押さえながらベースラインでうずくまっている。
 先ほどの胸騒ぎはこのことだったのか。
 予期せぬ事態に騒然となる中で、いち早く弟のもとへ駆けつけた北斗が冷静に指示を飛ばしていく。
 「おい、日高! お前の親父に連絡だ。確か近くの病院に知り合いの整形外科医がいるはずだから、急患扱いで受診できるよう段取りをつけろ。
 海斗の搬送は俺がやる。疾斗と真嶋は、俺が車を取りに行く間に患部のアイシングと固定を頼む。
 それから副部長は……ああ、今年は二年坊主か。よし、シンゴも一緒にサポートに入って、他の部員を速やかに宿舎へ戻せ。
 こういう時がもっともケガを誘発し易い。くれぐれも二人目出さねえよう気をつけろ」
 光陵テニス部を離れて二年が経つというのに、北斗の指示はどれも的確で、適材適所、然るべき人物を指名して動かしている。
 透は、北斗が今なお『カリスマ部長』として語り継がれる理由を、遅ればせながらこの時初めて理解した。

 病院へは運転手の北斗に加え、応急処置を施した透と疾斗が付き添うことになった。
 助手席には疾斗が、後部座席には透が唐沢と共に乗り込んだ。
 唐沢は一言も口をきかなかった。
 素人目にもそこまでの重傷には見えないが、彼は負傷した左肘を三角巾 ――と言っても、急遽、ジャージの上着で代用したものだが―― の上から抱えたまま、ぼんやりと窓の外を眺めている。
 試合の緊張から解き放たれた安堵なのか。真っ向勝負を裏切った兄に対して拗ねているのか。あるいは、こんな事態を招いたことを悔いているのか。
 様々な憶測が立つものの、表情の乏しい横顔から正解を読み取るのは難しい。
 ただ一つ確かなことは、唐沢は自身の勝利に納得していない。これだけは透にもハッキリと見て取れる。
 重苦しい沈黙を破って、運転中の北斗が話しかけてきた。
 「さすがだな、真嶋。応急処置のやり方は、親父さんに仕込まれたのか?」
 「いいえ。ガキの頃、無理やり親父の仕事を手伝わされて、何となく覚えたというか……」
 「それを仕込まれたというんだ。
 考えてもみろ。親父さんは海外で活躍するトップアスリートを相手に商売してんだぞ。読み書きもまともに出来ねえガキが、何の役に立つ?
 さしずめ、てめえの息子が将来困らねえよう、手伝いと称して一通りの応急処置は仕込んでおいたってところだろうよ」
 「もしかして、うちの親父を知っているんですか?」
 「直接の面識はないが、俺にとっちゃバイブルだ」
 「バ、バイブル?」
 恐らく手本であるとか、師と仰ぐとか。そういった意味合いで発せられた言葉だろうが、聖書の教えとは正反対の生き方を貫く龍之介を形容するには罰当たりな気がしてならない。
 戸惑う透を無視して、北斗が珍しく上ずった声で同じ言葉を繰り返した。
 「真嶋先輩は俺のバイブルだ。あの人の考え方には共感する部分が多い。
 お前、先輩の試合を見たことあるか? ないなら、貸してやる。
 ほら、昨日話しただろ? 俺の秘蔵V。 
 俺はあの試合を見て、真嶋先輩と同じ頂点を目指そうと決めたんだ。だから……」
 「兄貴!」
 それまで口を閉ざしていた唐沢が、いきなり強い口調で北斗を制した。
 「こいつの前で、その話はするな」
 忠告というよりも、脅しに近かった。
 兄弟対決の最中でさえ、あからさまに敵意を見せないよう努めていた唐沢が、話題が龍之介の試合に及んだ途端、兄に対して怒りを露にした。
 後部座席から負傷した左腕とは反対の腕で北斗の肩を掴み、凄んで見せる様は、ケガ人とは思えぬ迫力がある。
 「海斗、落ち着けよ。兄貴は運転中だ」
 助手席にいた疾斗が、二人の間に割って入った。
 「兄貴も、あんまり悔斗を興奮させんなよ。傷に障んだろ?」
 疾斗はこうした一触即発の状況に慣れているらしく、手際よく二人の兄を諌めると、透にも「悪りィ」と短く謝罪を述べた。
 先程よりももっと重苦しい空気が車内に広がった。
 バイブルと崇める龍之介の話を中断されて不機嫌になった北斗は、急カーブに差しかかるたびに面倒臭そうに舌打ちを連発し、運転が荒くなる兄を助手席の疾斗がなだめすかして、その不穏な空気を目の当たりにしながらも、唐沢は丸っきり無視を決め込んでいる。
 透は、疾斗が漏らしていた「末っ子の苦労」とやらを垣間見た気がした。
 良くも悪くも自分の気持ちに正直に行動する長男と、その子供染みた生き方に反発する次男と、二人の間に立って調和を保とうとする三男と。
 もしかして唐沢家の三兄弟は生きている年数とは反対に、三男、次男、長男の順で成熟しているのかもしれない。

 日高の口利きで向かった先は、スポーツ障害専門の整形外科医が常駐する総合病院だった。
 唐沢の受診に北斗が付き添い、透と疾斗は待合室で待機することになった。
 「なあ、疾斗? さっきの話……」
 透は車内で確かめられなかった疑問を、早速、切り出した。
 北斗の口振りからして、彼は龍之介が現役時代の試合を見たことがあるようだ。
 龍之介が高校生の頃と言えば、二十年以上も前になる。そんな昔の記録が存在するのか。
 もしも存在するのであれば、自分も一人のテニスプレイヤーとして大いに興味がある。
 「疾斗も見たのか? 親父の試合?」
 「いや、俺は学校が違うから。けど、兄貴がビデオテープを持っているのは確かだ。
 部室の段ボールに仕舞い込んであったのを、勝手に持ち帰ったんだって」
 いかにも北斗らしい所業である。
 「じゃあ、唐沢先輩も見てんだな?」
 「たぶん……俺の推測だけど、そのビデオに親父さんの最後の試合が映っているんじゃねえか」
 「最後の試合?」
 「お前、息子のくせに知らねえのか? 確かインハイ出場のかかった試合で無理をして、それでテニスを止めたって聞いたぜ」
 龍之介が現役の頃の話はコーチの日高を通して大まかに知っている程度だが、疾斗の推理はあながち的外れではないと思った。テニス部をインターハイへ行かせるために無理を重ねた結果、肩を壊してテニスの出来ない体になったという日高の話と合致する点が多い。
 肩に故障を抱える龍之介に致命傷を与えたのがインターハイの東京都予選で、その試合の一部始終が記録されているであろうビデオテープを北斗が持っている。
 唐沢が血相を変えて話を中断させたのも、ケガに対して過敏に反応する透を案じてのことだと考えれば、合点がいく。
 さすがに今はトラウマもだいぶ薄れているが、父がケガを負う場面を目の当たりにすれば冷静でいられる自信はない。
 せっかくビデオテープの内容が明らかになったというのに、透の父の試合に対する興味は失せていた。

 しばらくすると、診察を終えた唐沢が北斗を連れ立って待合室に戻ってきた。
 幸いケガは大事に至らず、軽い打撲と診断されたようだが、それを安堵した様子で話す北斗に反して、当の唐沢は一段と不機嫌さが増している。
 「レントゲンで充分だって、言ったのに……」
 「万が一ってことがあるだろ。
 インハイを控えた大事な体だ。あれぐらい用心しても罰は当らねえよ」
 「だからって、MRIはやり過ぎだ」
 「良いじゃねえか。どうせテニス部でスポーツ傷害保険、入ってんだろ?」
 「金の問題じゃない! 
 あの医者、ドン引きしてたぞ。日高コーチの知り合いなのに、どうしてくれんだよ?」
 どうやら唐沢の機嫌が悪くなった原因は、北斗が精密検査を要求したことにあるらしい。
 通常の打撲なら、レントゲンを撮って、骨に異常がなければ湿布を貼って帰される。問診の時点で軽度と診断されれば、レントゲンを省かれる場合もある。
 用心深い唐沢のことだ。とっさに最小限の被害で済むよう注意を払ったに違いない。
 そして予想通りの軽い打撲。つまり「ちょっと転んで打っただけ」の軽傷で、付き添いで来た家族が重症患者のごとくMRIまで要求したのだから、唐沢が機嫌を損ねるのも無理はない。
 「まったく、昔から兄貴といると恥かいてばかりだ。少しは周りの迷惑も考えろよな」
 「考えたって、どうなるモンでもねえだろが。所詮、他人事だ。俺が取って代われるわけでもねえし」
 「だから、そういう事をあからさまに言うなって!」
 「本音を言って何が悪い。
 お前こそ、周りに気ぃ遣いすぎなんだよ。もっと自分を大事にしろよ。
 そんなんだから、俺が黙っていられなくなるんだろ」
 ほんの五秒ほどのことだろうか。切れ者と恐れられる先輩にしては長い間があった。
 心なしか、頬の辺りも色づいて見える。
 「おっ、海斗? お兄様の愛情を知って感激したか?」
 「ち、違う! 兄貴が可笑しなこと言うから!」
 「どこがだよ?
 俺は自分が一番大事。お前ら家族はそこそこ大事。他の奴等は眼中にねえ。
 昔から一貫してんだろ」
 「だったら、どうして! 本当に自分が一番大事なら、どうしてあの時、返さなかった?」
 透は、唐沢のいう「あの時」とは、兄弟対決の勝敗を決したマッチポイントのことだと思った。ネット前の真っ向勝負を避けて、ロブで抜いたセコい戦法を責めているのだと。
 しかし北斗の返事を聞いて、唐沢が問題にしているのはロブを拾ったあとの話だと気がついた。
 「あれを無理して返していたら、俺だって危なかった」
 「運転手がいなくなるからか?」
 「バ〜カ! 考え過ぎだ」
 「あんな緩い球、兄貴の足なら楽に追いつけたはずだ。
 だけど、そうしなかったのは、自分の勝利よりも俺を病院へ搬送するほうを優先したからじゃないのか?」
 「俺はお前ほど勝ちに執着しちゃあいねえんだよ。
 ケガのリスクを背負ってまで弟に勝ちたいとは思わなかった。それだけだ」
 「嘘吐け! 兄貴はいつもそうやって汚れ役を引き受けて。自分だけ格好つけんなよ!」
 何とも不思議な光景だった。
 唐沢が感情を露にするなど滅多にない。以前、幼馴染みの一件で心の内を明かしたことがあったが、その時でさえ、泣き顔を見られまいと背を向けた。
 そんな彼が子供のように、照れたり、拗ねたり、怒ったりしている。
 しかも突如として感情的になった弟を、あのわがままな北斗がたどたどしくも気遣っている。
 「海斗、怒んなよ。傷に障るぞ」
 「怒ってない!」
 「せっかくのイケメンが台無しだ」
 「うるさい!」
 「ああ、そうだ。ジュースでも買ってやろうか?」
 「何だよ、それ? 子供扱いすんな!」
 透は的外れな対応しか出来ない北斗がだんだん気の毒になってきた。
 彼は相手の気持ちを汲み取るとか、その人の立場に立って物事を考えるとか。自分以外の人間の感情とまともに向き合ったことがないのだろう。
 オロオロと弟の顔を覗き込んでは噛みつかれる北斗に、日頃の傲慢さは欠片も見られない。
 「なあ、海斗? 機嫌直せよ。俺が目障りなら、とっとと送って消えるから。
 な、それなら良いだろ?」
 いつになく低姿勢の兄に、さすがの唐沢も気が咎めてきたのか。口調がトーンダウンしていった。
 「違う。兄貴は悪くない。俺が八つ当たりしているだけなんだ。
 兄貴はちゃんと周りのことも考えて行動している。菜摘のことだって……。
 本当はずっと前に彼女の母親から聞いていた。菜摘が亡くなったことを黙っていたのも、俺を試合に出させようとしたのも、全部、あいつが頼んだことで、兄貴は悪くないって」
 「ま、俺の場合は渡りに船ってヤツだがな」
 「そうやって茶化すなよ。
 俺、ずっと謝りたいと思っていた。何か切っ掛けがあれば、って。
 でも、兄貴はいつも自分から率先して悪者になるから……いや、そうじゃない。
 本当は分かっていた。それが兄貴の優しさだって。だから、菜摘も兄貴を頼りにしたんだって。
 俺はずっと甘えていた。度量の大きい兄貴の優しさに甘えて、その一方で嫉妬して。だけど全然敵わなくて……」
 唐沢が北斗の二の腕をしかと捕らえ、けれど面と向かって口にするのは照れ臭いのか、俯き加減で呟いた。
 「兄貴、ゴメン。今までずっと兄貴を悪者にしたままで、本当にゴメン」
 「だから、お前は気ぃ遣いすぎなんだって」
 弟の告白を前にして、北斗がばつの悪そうに頭を掻いた。
 「さっきも言った通り、菜摘の一件は俺にとっても渡りに船だった。
 俺は菜摘の願いとお前の才能を、自分の夢の実現のために利用したんだ。お前が気に病む必要はどこにもない。
 だが、それでも俺に対して負い目があるというなら、詫びの代わりにもっと自分の気持ちに素直になれ。
 お前は頭が良い。人の痛みも分かるし、気配りも出来る。
 けどな、海斗? そういう出来すぎな奴は周りを委縮させちまう。
 部長にしても、弟にしても、少しぐらいわがままなほうが可愛げがあって良いんだよ」
 「だったら、一つ、聞いて良いか?」
 唐沢は背後にいる透と疾斗をチラリと見やってから、北斗に耳打ちをした。
 その仕草から察するに、他人には聞かれたくない内緒の話だと思ったが、北斗が無神経にも大声で笑い飛ばしたために、大方の内容は露呈する結果となった。
 「お前、そんなこと気にしてたのかよ? 俺と菜摘が何かあるわけねえだろ!?」
 「だって、あいつと最後に話したの兄貴だけだし、俺よりいろいろ喋ってたみたいだから、もしかしてって……」
 「お前、頭良いくせに分かってねえな。良い機会だから教えてやる」
 「何を?」
 「あいつの最期の言葉」
 「菜摘の?」
 「ああ。菜摘が亡くなってから、お前とはろくに口をきいてねえからな。
 今わの際に残したっつうよりも、たぶん、夢でも見ていたんだろう。
 意識が混濁していて家族の呼びかけにも応じなかったが、あいつ、息を引き取る直前に『海斗、ナイスゲーム』と、楽しそうに笑って逝ったんだ」
 「そうか。そうだったんだ……」

 そこにはごく普通の兄弟がいた。普通に恋をして、嫉妬もして、泣いたり、笑ったりを繰り返し、抑えきれない感情を照れながら打ち明ける弟と、そんな感性豊かな年頃の弟を優しく見守る兄がいた。
 「海斗、すっげえアホ面してる」
 「分かっている。でも、どんな顔して良いのか、分からない。
 たぶん、これが素かも」
 「ああ、そうかもな。それも超ド級のな。
 成田が抜けた時点で、賢い奴ならインハイなんて無茶な夢は諦める。
 それが今年はどういう訳か、そんな阿呆に喜んでついていく筋金入りのバカばかりが集まってやがる。
 頂点目指すには楽しみなチームだな?」
 弟を優しく包み込んでいた眼差しが、真っ直ぐ透に向けられた。
 ひょっとしたら、北斗は自分たちの代でインターハイへ行けるとは思っていなかったのかもしれない。昨日から唐沢北斗という人間と直に接してみて、透はふとそんな気がした。
 一見、自己中心的な言動が目立つ北斗だが、常に何を最優先にすべきかを心得ている。ここまで判断力のある人間が、その道のりの厳しさを考えない訳がない。
 地区大会の優勝さえ怪しかったチームが一代でインターハイまで辿り着くのは無理がある。だが、時間をかければ決して叶わぬ夢ではない。
 しかも二つ下には秀でた才能に恵まれた選手が二人。十年に一人、出るか出ないかの逸材が二人もいたのだ。
 もしも北斗が弟たちをインターハイへ行かせるために、茨の道を切り開いてくれたのだとしたら。
 そして北斗と同様、龍之介もまた息子に同じ夢を託していたとしたら――。
 透の頭に、先ほど片隅に追いやったビデオテープの存在が浮かび上がる。
 あの中には父の記録がある。北斗がインターハイを目指すようになった理由もそこにあるという。
 自分にも禊の儀式が必要なのかもしれない。
 透は深呼吸を一つしてから、北斗のところへ進み出た。
 「北斗先輩? さっき話していた親父のビデオテープ、俺にも見せてもらえませんか?」






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