第50話 最終走者

 〈残心とは、打突のあとも油断せず、敵の反撃に備える心構えをいう。
 即ち、残心なき攻撃は攻撃にあらず。愚者の無駄打ちなり〉

 インターハイ二日目の終了後、透は唐沢たちとは行動を別にして、ひとり光陵テニス部の部室へと向かった。
 父・龍之介が書き残したという資料を、どうしても読みたくなったのだ。
 唐沢から教えられた通り、部室のロッカー脇に積み上げられたダンボール箱を開けると、中にはビデオテープやファイルとともに数冊のノートが入っていた。
 黒い背クロスのいかにも昭和なデザインからして、それらが目当てのものに間違いないのだが、透は俄かには信じられなかった。
 表紙の文字が思いのほか上手くて、別人が書いたとしか思えない。
 身内の欲目を引いたとしても、達筆と言えるだろう。ハネや止めにも注意を払った、力強い文字である。
 十八歳の父の思いがここにある。
 日本一への夢破れ、選手生命をも失った父が、何を思い、何を残そうとしたのか。
 透は部室の床に直に腰を下ろすと、「覚書」と書かれたノートの表紙を開いた。

 龍之介が書き残したそれは、資料というより戦術書に近かった。
 勝利のために何をすべきか。日々の練習方法や、試合における心構えなどが、分かりやすく説かれている。
 唐沢の話に出てきた「残心」も、勝負事の基本として始めのほうに書かれていた。
 何人もの部員が目を通してきたのだろう。ページのところどころに形の異なる土色の指紋がついており、滴が落ちて滲んだ跡もある。
 うっかり飲み物をこぼしたか。あるいは、練習後の汗か、涙か。
 ここに至った過去の先輩たちに思いを馳せながら、透は先を読み進めた。
 「残心」の他にも、父の基本理念は剣道の理を柱としているようで、難しい専門用語があちらこちらで使われている。
 「いちがん、にそく、さん……?」
 透が読み方に苦戦していると、ページの余白の部分にふり仮名が添えてあった。
 一眼二足三胆四力(いちがん、にそく、さんたん、しりき)。
 達筆な本文に反して、ふり仮名はミミズが這うような乱筆で、あとから無理やり加えた観がある。
 おそらく途中で剣道用語に不慣れな者もいると気づいた父が、慌てて仮名を振ったに違いない。
 その細やかな気遣いを意外に思う反面、いかにも面倒臭いと言いたげな筆跡に、透はなぜか安堵を覚えた。
 〈一眼二足三胆四力とは、剣の修行において重要な事柄を順に挙げたものである。
 一の眼は、相手の思考動作を見抜く洞察力。これがもっとも重要視される。
 二の足は足捌きのことで、技を支える土台は足の使い方にあると考える。
 三の胆は胆力。何事にも動じない度胸と冷静な判断力。
 四の力は体力ではなく、技を繰り出す能力。つまり技術力と解釈すること〉
 通常はもっとも重視しがちな技術をあえて最後に据えたところに、この教えの真の狙いがあるのだろう。
 透の場合、一の洞察力は、特殊な環境に身を置くことで自然と培われたように思う。
 人里離れた山奥での生活。光陵テニス部での個性豊かな面々との出会い。アメリカのストリートコートで過ごした日々も。
 いずれも洞察力を磨くにはもってこいの環境で、いまにして思えば、それらは父が意図して与えたものだった。
 二と三についても、やはり幼少期の環境が大きい。山奥での生活が足腰を鍛え、不測の事態にも冷静に対処する度胸と判断力を養った。
 そして四の技術力を求めて、今度は自らの意思で光陵学園に戻った。多くのライバルと切磋琢磨しながら、さらなるレベルアップを図るつもりであった。
 その決断が間違っていたとは思わぬが、今日の結果を振り返るに、己が信じる道のどこかに慢心があったことは否めない。
 ドリルスピンショットは無敵ではない。ジャンから教わったアングルボレーも、いつかは破られる。
 それを踏まえた上で、腕を磨き、己を鍛えていかなければならない。
 高度なテクニックを追求するあまり、一から三の修練を怠ってはいけない。
 「一眼二足三胆四力」には、そんな父の教えが込められているように思えた。

 「畜生……」
 龍之介も目にしたであろう部室の天井を見つめ、透は溜め息を吐いた。
 その昔、中等部に入って間もない頃、龍之介と大喧嘩をしたことがある。
 光陵テニス部のOBであるにもかかわらず、息子にテニスを教えるどころか、部活動そのものに無関心な龍之介。
 日高の息子に対する溺愛ぶりを見るにつけ、龍之介との温度差を感じずにはいられなかった。学校でも、自宅でも、父親からテニスの指導を受けられる遥希が、羨ましくて仕方がなかった。
 ところが「なんで、ハルキの親父みたいにテニスを教えてくれねえんだ」と不満をぶつける息子に対し、龍之介はこう言い放った。
 「てめえに教えてやる義理はない。どうしてもと言うなら、俺と同じ土俵まで上がってくるんだな」
 その土俵がどこなのか、ずっと探していた。
 光陵学園高等部。ここで父は選手生命を絶たれ、日本一への夢も閉ざされた。
 そして、いま、自分はその夢の続きを進もうとしている。
 同じ土俵とまでは言えないが、手を伸ばせば届く場所には着けた、と思っていた。
 ところが実際にその足跡に触れてみて、思い知らされた。
 やはり父は大きい。選手としても、男としても。
 数冊にわたるノートの最後は、こんな文章で締められていた。
 〈勝って驕らず。負けて腐らず。
 己の身の丈を知り、日々精進することこそ、もっとも優れた戦術と心得るべし〉
 ついさっき大敗を喫したばかりの透には、その一文がずしりと胸に応えた。

 鷹の台東高校、加曾利大輔。インターハイの大舞台で出会った新たなライバル。
 父を越える前に、まだまだやらねばならないことがある。
 今日の試合で思い知らされた。
 上には上がいることも。決め球など存在しないということも。
 何より、己の未熟さを。
 明日の準決勝、決勝では、もっと手強い連中と渡り合うことになるだろう。果たして勝利することが出来るのか。
 決め球を失くしたあとでは、不安のほうが大きい。
 厳しい現実を思い出し、気弱になりかけた時だった。
 部室の扉の隙間から、遥希が顔を覗かせた
 「部長が呼んでる。屋上に来いって」
 「よく分かったな。俺がここにいるって」
 遥希がダンボール箱をちらりと見やってから、「まあね」と素っ気なく答えた。
 「お前も読んだのか?」
 「そりゃ、テニス部の内部事情はお前より詳しいさ」
 「そっか。その成果がインハイにも現れたってことか。
 いまのところ無敗だもんな、ハルキは」
 「なに、それ? 嫌味?」
 「違うって。俺は純粋にお前のことを評価して……」
 「バッカじゃないの?」
 遥希の「バッカじゃないの?」には二通りの意味がある。照れ隠しでいう時と、相手をバカにしていうと時と。
 「てめえ、どういうことだよ!?」
 「なにが?」
 「いまのは照れ隠しじゃねえな。本気で俺をバカにしてんだろ?」
 「はあ? 意味分かんないんだけど?」
 「だから、なんで『バカ』なんだ?」
 「べつに。ありのままを言っただけ」
 「だったら、バカにも分かるよう説明しろよ。俺のどこがどうバカなんだ?」
 遥希が煩わしそうにこっちを睨むが、透も負けじと睨み返した。人が珍しく素直にライバルの功績を認めてやろうというのに、バカ呼ばわりするとは何事か。
 「だから……」
 バカはバカとしか言いようがない ―― 苛立ちを含んだ声音から、こんな容赦のない答えが返ってくるものと思っていた。
 ところが遥希は苛立ちを抑えるように一旦目を瞑り、深呼吸で息を整えると、落ち着いた口調でこう言った。
 「たしかに俺は前からこのノートの存在を知ってたし、何度も読み返して、空で言えるほど頭に叩きこんだ。
 だけど、お前は違うだろ?」
 「しょうがねえじゃん。うちの親父はなんも言わねえし、お前みたいにテニス部の内部事情ってヤツにも詳しくねえからさ」
 「そうじゃない。俺が『違う』と言ったのは、そういう意味じゃない」
 「じゃあ、どういう意味だよ?」
 「お前は直に接してきてるだろ? 子供の頃からずっと、親父さんの生の声を聞いて、背中を見て育った。
 お前の体には染みついているんだよ。そこに書いてある教えが。
 お前に自覚がなくても、俺には分かる。最初から分かっていた」
 「最初から?」
 「俺ん家ではじめて会った時」
 「そんな前からか?」
 「ああ、あの時はマジで焦った。一眼二足三胆四力の『四力』以外の全部を持っている奴が現れたって。
 あの頃の俺には小手先のテクニックしかなかったから、すぐに抜かれると思って、気が気じゃなかった」
 「でも、実際は違っただろ?」
 「いいや。違わない」
 「気休めいうなよ」
 「気休めじゃない。今日の試合だって、悪くはなかった。
 元ジュニア選手権のチャンピオン相手に『6−4』まで喰らいついたんだ。
 お前が中学からテニスを始めたって知ったら、たぶん、向こうのほうが悔しがる」
 「そ、そうか?」
 「まあ、2セット目は見られたもんじゃなかったけどね」
 「てめえ、人の古傷をえぐるんじゃねえよ!」
 「へえ、もう古傷になったんだ? 普通、あんな負け方したら、もっとヘコむよね」
 悪態をつきながらも、遥希は透の傍らに立ち、当たり前のように資料の片づけを手伝ってくれる。
 「ほんと、お前は中学の頃から変わんねえよな」
 「は? 10センチ伸びたし」
 「バ〜カ! 違げえよ」
 北斗の話によると、龍之介はテニス部を引退してからも、三年生でただ一人、部室に通い続けたという。
 父にもいたのだろうか。辛い時、苦しい時、こうして支えとなってくれる仲間が。
 訝しげな顔を向ける遥希に、透は笑顔で応えた。
 「けど、サンキューな」


 透と遥希が片づけを終えて屋上に上がると、そこには誰もいなかった。
 時間の無駄を嫌がる唐沢のことだ。しびれを切らして帰ったとも考えられる。
 人気のない屋上を、透は右から、遥希は左からぐるりと見回した。
 すると出入り口とは反対側の、ちょうど二人の視線が重なるあたりに、それらしき人影が見えた。
 給水タンクの柱の陰に隠れていたので気づかなかったが、あの線の細い後ろ姿は唐沢に違いない。
 二人はほぼ同時に駆けだした。
 先輩を待たせたうえに、能天気に歩いて来ようものなら、どんな大目玉を喰らうか知れやしない。
 ところが慌てて駆け寄る二人が目にしたものは、思いもよらない光景だった。
 あの唐沢が居眠りをしている。給水タンクの柱に背中を預け、器用にも立ったまま眠っているのである。
 切れ者の部長で知られる彼が人前で無防備な寝顔をさらすなど、合宿中でもなかったことである。
 「よっぽど疲れてんだろうな」
 透の問いかけに、遥希も頷いた。
 「少し寝かせてやろうよ。俺、飲みもの買ってくる」
 「ああ、甘くないヤツな」
 「分かってる」
 みんなの前では気丈に振舞っているが、さすがの唐沢もバテたと見える。
 部長の重責に加え、選手としてもダブルスで無敗を貫き、チームの勝利に貢献している。
 おまけに、ここ数日は最高気温が三十五度を超える猛暑が続いている。体力自慢の透でさえ応えているのだから、細身の彼には、尚更、きついだろう。
 ちょうど昼間の暑さも引けて、夕暮れ時の涼やかな風が吹き出した頃である。
 ほんの一時でも休息になればと、透も出口に向かいかけたところへ、人の気配を感じたのか、唐沢が目を開けた。
 「あ、起こしちゃいましたか?」
 「ひょっとして、眠っていたのか?」
 「ええ、まあ」
 「悪かったな。ちょっと考えごとするつもりが……。何やってんだか」
 唐沢が乱暴に前髪を掻き上げてから、外の景色に目を向けた。
 自嘲の言葉とは裏腹に、意識の半分はまだ夢の中にあるようで、彼は遠くをぼんやりと眺めたままで、もう一度、同じ台詞を呟いた。
 「ほんと、何やってんだろうな」
 夕方の少し湿った風が、屋上を吹きぬける。唐沢の長い前髪も風に煽られ、色白の横顔が露になった。
 「唐沢先輩……?」
 オレンジ色の夕日のせいなのか。唐沢の唇がやけに赤い。
 不思議に思って、透が覗きこもうとしたところへ、遥希が小さな紙袋を片手に戻ってきた。
 「眠気覚ましにコーヒー買ってきたんですけど、ホットで良かったですか?」
 「ああ、悪いな。助かる」
 唐沢はそう言いながらプラスティックのカップを口元まで運びはするが、実際に口をつけることはしなかった。
 透はいま一度、唐沢の口元を盗み見た。
 コーヒーカップに覆われハッキリとは見えないが、唇の左側を中心に腫れている気がする。
 あれは殴られて出来た傷に違いない。
 ふと、透の頭に良からぬ想像が湧き起こる。
 昨日、対戦した磯貝高校の湊。もしかして、彼とまた一悶着あったのか。
 仮にそうだとしても、唐沢が簡単にやられるとは思えぬが――。
 透の心配をよそに、唐沢は時間が惜しいとばかりに切り出した。
 「陽一が帰宅途中で倒れた。
 医者には軽い熱中症だから一晩休めば問題ないと言われたが、俺の独断であいつを外すことにした。
 明日はトオルをダブルスに、残りはそのままで行こうと思う。
 但し、このオーダーだと、決勝に進めば二人とも連戦になる。
 急な変更で、体力的にもキツいと思うが、どうだ? 頼めるか?」
 陽一朗が熱中症で倒れた。唐沢の様子がいつもと違うのは、これが原因だ。
 太一朗の膝の故障が発覚した時も、唐沢は「太一をそこまで追い込んだ責任は自分にある」と、自らを責めていた。
 「先輩のせいじゃないですよ。ダブルスはどうしたって連戦になるし、陽一先輩が倒れたのだって、不可抗力だと思います」
 聞かれた問いの答えではなかった。
 しかし、透は口にせずにはいられなかった。
 明らかに唐沢は責任を感じている。
 遥希も透の意図を察してか、
 「他の学校の連中も、この暑さで結構やられたみたいだし」と、フォローを入れた。
 ほんの一瞬、唐沢は眉根を寄せて、思案する素振りを見せたが、すぐに何事もなかったかのように話を進めた。
 「明日は、いままででもっともタフな試合になる。首尾よく勝てたとしても、ファイナルセットまでもつれるのは覚悟しなきゃならない。
 だから、体調に不安があるなら正直に言ってくれ。どうだ、二人とも?」
 透は言葉に詰まった。
 いま唐沢が望んでいるのは、オーダー変更の返事であって、下手な慰めなどではない。
 だがしかし、唐沢の望み通りの答えを返して、果たしてそれで良いのか。
 となりを見やると、遥希もいつもの仏頂面に拍車がかかっている。
 唐沢が速めの試合運びをしていたのは事実である。
 そのことはチームの誰もが感じていたが、意見する者はいなかった。
 インターハイ初参加同然の弱小チームが強豪校と渡りあうには、データの少ない立場を逆手にとって、手の内を知られる前に先手必勝で逃げきるしかない。
 唐沢のことだから、そういう算段で進めていると分かっていたし、彼に任せておけば間違いないと、高をくくっていた。
 実際、チームがベスト4まで残っていられるのも、ダブルス勢の活躍によるところが大きい。
 誰も唐沢を責められない。むしろ、唐沢一人に重荷を背負わせているチームの体制に問題があるのだ。
 それなのに、唐沢はひとりで全ての責任を背負い込もうとしている。太一朗の膝の故障も、陽一朗の熱中症も、自分のせいだと思っている。
 こんな時、改めて思い知らされる。
 三年生と一年生。部長と部員。積み重ねてきたキャリアの差。
 唐沢と自分たちの間には、いくつもの隔たりがある。想いを込めた言葉さえも届かぬほどに。
 しばしの沈黙を、唐沢は躊躇と捉えたようで、もう一度、問いかけた。
 「本当に正直に言ってくれて構わない。
 最悪の場合、ダブルスを捨てて、俺とシンゴでシングルスを固めても良いんだ。
 どうだ、二人とも?」
 「タ〜コ! こいつ等が心配してんのは、自分の体じゃねえよ。お前のそのシケた面ァ、心配してんだよ!」
 「シンゴ先輩!」
 透の胸のうちを代弁してくれたのは、今日の準々決勝の立役者である藤原だった。
 「お前等、ハッキリ言ってやれ。てめえひとりでテニス部背負っているような面してんじゃねえってな!」
 「いや、何もそこまでは……」
 「ハルキも、そう思うだろ? でなきゃ、このクソ暑い中、たかがコーヒー一杯のために駅前までパシらねえよな?」
 藤原に言われるまで気づかなかったが、唐沢が手にしているのは自動販売機のコーヒーではなく、駅前のコーヒーショップからテイクアウトしたものだ。
 その証拠に、カップの容器には店のロゴが印字されている。
 校内には無糖のコーヒーが飲める自動販売機が一箇所だけあるが、この時期は夏仕様で5℃以下に設定されている。
 遥希は唐沢の好みを考えて、わざわざ駅前まで買いに走ったに違いない。
 「シンゴ、打ち合わせの邪魔をするなら帰ってくれ」
 唐沢が不快感を露に睨みつけるが、藤原は少しも怯まず、それどころか、噛みつかんばかりの勢いで怒鳴りつけた。
 「だからぁ、お前が一番心配だっつってんの!
 太一から聞いたぜ。陽一に『試合に出させてくれ』って、泣きつかれたんだって?
 その様子じゃ、泣きつかれたどころじゃなそうだな。
 お前のことだ。わざとあいつを怒らせるようなことを言って、気が済むまでぶん殴らせた、ってところだろ?
 なんで、そうやって自分を痛めつける方向に走るかねぇ」
 「べつに、痛めつけてなんか。ただ、あの場はああするしか……」
 「それが痛めつけてる、っつうの! お前が一緒に傷ついたって、どうにもなんねえだろうが。
 まったくお前は、普段は腹立つぐらい強気なくせして、身内になんかあると、思くそヘタレになるからな。ほんと、性質悪りぃわ」
 透も遥希も、驚きのあまり、言葉が出なかった。
 口論で言い負かされている唐沢もそうだが、藤原のこんな姿を見るのは初めてだ。
 もともと藤原は、この手のごたごたに好んで立ち入ろうとはしない。
 相談されればそれなりに受け答えもするし、皆でふざけている時には率先してノリの良さも見せるが、それらは付き合いとしてやるだけで、感情をむき出しにしてまで人と深く関わることはない。
 勝負師の性なのか。他人からとやかく言われたくない代わりに、他人のすることにも口出さない。そういう一匹狼のスタイルを取っている。
 そして唐沢も、プライベートはあまり話したがらないタイプである。
 それゆえ、二人は気が合うのだと思っていた。つかず離れずの関係が、双方にとって心地良いのだと。
 「あいつの脇目も振らず、ただ真っすぐゴールを目指して走る姿に惚れた」
 あの時の、唐沢の言葉は嘘ではない。
 普段は強気な部長を演じているが、近しい人間に何かあると、自分のことのように傷つく唐沢。そんな彼を陰で支えていたのは、他ならぬ藤原だ。
 試合以外では見たことのない真剣な面持ちで、藤原が続けた。
 「なあ、海斗? 同じ立場に立たされなきゃ、分かんねえこともあると思う。
 とくに伊東兄弟は、お前と成田が中学の頃から手塩にかけた育てた大事なダブルス要員だ。
 それが肝心な時に二人揃って欠場となりゃぁ、誰だってヘコむわな。
 けど、長いトーナメントに病気やケガはつきものだ。お前が負い目を感じる必要はない。
 それでもまだ責任がどうのと言うなら、俺たちの全員の責任だ。あいつが太一の分まで頑張ろうとしていたのは、俺たちだって知っている」
 「気持ちは嬉しいが、どんなに言い繕っても事実は変わらない。あの二人を追い込んだのは俺だ」
 「分かんねえ奴だな! 追い込んだとか、追い込まれたとか、そーゆーことじゃねえんだよ」
 「お前の言いたいことは分かっている。だけど、これは……」
 「いいや、少しも分かってねえ。
 良いか? インハイはリレーと同じだ。
 北斗先輩から始まって、成田や、太一や陽一。他の試合に出られなかった奴等だって。みんなが走れるところまで走って、俺たちにバトンを渡した。
 俺たちは最後のバトンを託されたアンカーに過ぎない。
 だけど俺たちがゴールを切ることで、みんなが犠牲じゃなくて、走者になれる。長い長いリレーの勝者になれるんだ」
 唐沢が何かを言いかけたが、すぐに思い直したように視線を逸らすと、ふたたび外の景色に目を向けた。
 赤く腫れた唇を引き結び、顔を背ける仕草は拒絶の意思表示に見えるが、藤原はそうとは捉えなかったようで、「もう一押しだ」とばかりに、透と遥希に向かって顎をしゃくってみせた。
 「あのう、唐沢先輩?」
 透は促されるままに口を開いた。
 「さっき、部室で親父のノートを見たんです。
 正直、悔しかったです。同じ高校生なのに、俺よかずっと大人で、達観していて。逆立ちしたって、親父には敵わねえなって。
 でも、それと同じぐらい嬉しかったです。
 あんな親父にも人並みの青春っていうか、熱くなれるものがあったんだなぁって。それを、この光陵学園で見つけたんだなぁって。
 あのノートはたぶん、親父と同じように必死でやっている人たちの助けになればって。何かのヒントになればって。そんな想いで書いたんだと思います。
 だから、もし俺たちが背負うものがあるとしたら、責任とかじゃなくて、みんなの想いじゃないかって。
 歴代のテニス部みんなの。インハイの表舞台に上がれなかった人たち全員の。
 陽一先輩もいまは混乱しているだけで、絶対に分かってくれると思います。俺はそう信じたいです」
 透が言い終えたあとに、少しの間、沈黙が流れた。
 順番からして、つぎは遥希の番だと思うが、彼は目を泳がすばかりで、一向に口を開く気配がない。
 憎まれ口は得意でも、こうした場面は苦手と見える。
 見兼ねた藤原が、ふたたび唐沢に語りかけた。
 「なあ、海斗? ひとりで悪者になるなよ。
 陽一を外すのだって、日高コーチと散々話し合った結果だろ?
 それをお前の独断とか、自分ひとりの責任とか、そんなのは……。そんなのはよぉ……」
 藤原が声を詰まらせ、込み上げるものを堪えるためか、一呼吸おいてから叫んだ。
 「寂しいじゃねえか!
 俺等、一年の時から先輩達には生意気だって目つけられて。それでもインハイ目指すんだって、遅くまで残って練習して。
 成田の留学話が持ち上がった時も、太一の足がヤベエかなって時も、頑張って、踏ん張って、危ねえ橋を何度も渡って。
 俺等はさ、なんつうか……縛りもねえけど、温くもねえ。そういう、同じ釜の飯以上の仲間だと思ってやってきたのに。
 それなのに、そんな寂しいこと、言うんじゃねえよ! なあ、海斗ぉ」
 「まったく……。
 お前は手づまりになると、すぐそうやって情に訴えかける。そっちの方が、よっぽど性質が悪い」
 そう言って振り向いた唐沢は、うんざりした表情を見せてはいるが、口の端だけは上がっている。
 「へへ! バレたか」
 「当たり前だ。何年の付き合いだと思ってる?
 だいたい、何だよ。『同じ釜の飯以上の仲間』って?」
 「細けえこと、いうなよ。それこそ長い付き合いなんだから、ノリで分かんだろ?」
 「ああ、お前のセンスのなさは知っている。ほんと、昔から運動以外のセンスはゼロだよな」
 「海斗〜。それを言っちゃあ、おしめえよ」
 藤原が『寅さん』の名台詞を言いながらニッと笑い、唐沢が「やれ、やれ」と首を振る。
 どうやら、この二人の間には特別な“間合い”があるようだ。
 いつもは喧嘩の絶えない透と遥希が、ふとした拍子に気持ちが通じ合い、その時だけは莫逆の友と呼べるほど強い一体感を覚えることがあるように。
 二人の先輩の間にも、彼等にしか分からぬ間があって、時に正面からぶつかったり、傍らで寄り添ったり、背中合わせになったりしながら、ともに幾多の苦難を乗り越えてきたのだろう。
 部長の顔に戻った唐沢が、明日の対戦相手の情報を早口で伝えた。
 ――みんなに礼を言うのは優勝したあとで。
 あえて口にしなくとも、唐沢のこの願掛けのようなフレーズは、いつでもみんなの心に灯っている。
 夕方の湿った風が、夜気をはらんで凪いでいく。
 オレンジ色の夕日も、いつの間にか、淡い乳白色の光を残して、街並みのシルエットの向こうに姿を消した。
 決戦は明日。最後のバトンは託された。






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