第7話 それぞれの想い
午後の授業開始から三度目のチャイムが鳴った。五時限目の開始と終了、そして今が六時限目の始まりを告げるチャイムである。
透は体育倉庫に入る直前の「五限だけなら」の台詞を思い出し、扉のほうを見やったが、その視線を追いかけて、奈緒がこくりと頷いた。
伏し目がちに頷く仕草が、透には心苦しい反面、嬉しくもあった。
真面目な彼女のことだから、集団行動から外れる事自体、抵抗があるのだろう。それでも、ここに留まろうとしてくれている。その気持ちが嬉しかった。
実際、午後の授業を二時間も欠席しなくてはならないような大事な話は一つもなかった。会話の上に会話を重ねていくのが目的で、きっと明日になれば忘れてしまう。
しかし、そうせずにはいられなかった。授業をサボって取り留めのない話をすることが、今の二人にはとても重要なことに思えてならなかった。
「そんで日高のおっさんが、俺にラケットバッグと携帯電話を恵んでくれたってわけ」
「だから電話した時、あんなに慌ててたの?」
「マジでビックリしたって。貰ってすぐだったから、使い方とか、分かんなくてさ。
あっ、そうだ! 奈緒のメールアドレス教えてくれよ。塔子の奴、お前のだけ入れてねえんだ。嫌がらせかな?」
「良いけど、メールの返事、ちゃんとくれる?」
奈緒が大いに疑念の含んだ視線を差し向けた。唇も心なしか、尖って見える。
その雲行き怪しい表情で、透は塔子の意図を理解した。何故、彼女が親友のメールアドレスを入力しなかったのか。まずは三年間の無沙汰を詫びてから直接聞け、ということだ。
塔子の小姑根性丸出しの忠告を余計なお世話としながらも、透は口調が言い訳がましくなるのを自覚した。
「け、携帯のメールなら、大丈夫だって」
「エアメールの返事は、三年もかかるのに?」
「だって、ほら、切手とか要らねえし」
「そういう問題?」
「郵便局に行かなくても済むし」
「そんな遠い所にあったんだ?」
「やっぱ、怒ってんのか?」
「だって、すごく心配したんだもん。向こうで何かあったんじゃないかって」
「悪かった。本当は何度も書きかけたんだけど……」
それ以上は言えなかった。こんなところで気軽に打ち明けられるものなら、とっくに手紙で伝えている。
急に無口になった透を気遣ったのか、奈緒が視線も唇も緩めて、笑いかけてきた。
「もう良いよ。怒ってない。こうして会えたから、全部消えちゃった」
彼女の何気ない一言が胸の奥まで染みてくる。
ボロボロになった写真の中ではなく、じれったい国際電話の向こうでもなく、目の前に奈緒がいる。その事が、何にも代えがたい幸せに思えた。
延々とくだらない話をする時間があって、場所があって、怒って、泣いて、そして笑い合う。当たり前の日常が、ここにある。こうして会えたから。
「アドレスはね……」と言って、奈緒が取り出した携帯電話には、見覚えのあるストラップが付いていた。
「それ、まだ持っていたのか?」
名前は忘れてしまったが、ネコだか虫だか良く分からないマスコットは、三年前、透が奈緒の誕生日プレゼントに贈った品である。ハート型の触角を引っ張ろうとして彼女に怒られたことと、四百五十円の安物にもかかわらず、値段以上に喜んでもらえたことは覚えている。
「うん、だって大事なプレゼントだから。本当はもったいなくて机の上に飾っていたんだけど、弟に『使わなきゃ、意味ない』って、笑われちゃって……」
「物持ち良いよな」
「トオルだって、それ」
奈緒が苦笑に似た笑みを浮かべながら、透のリストバンドを指差した。
「ああ、これは俺の宝物だ。何度もピンチを救ってもらったんだ、これに」
「ずっと、着けていてくれたんだ。こんなに汚れちゃって。白じゃなくて、他の色にすれば良かったね」
そう言って、彼女が申し訳なさそうに肩をすくめて見せた。
不意に透はひどい罪悪感に襲われた。
プレー中の汗や土埃だけなら、ここまで変色したりはしない。洗濯しても落ちない程に汚れた原因は、他にある。
ストリートコートでの血なまぐさい記憶が甦る。一度だけ、自分の意思でリストバンドを外した日のことも。
六時限目のチャイムを無視した時よりも、エアメールの返事がなかったと遠回しに責められた時よりも、今が一番罪の意識を感じる。
このまま黙秘で良いのか。アメリカでの三年間をなかったことにして、彼女の前で知らん顔を通すのか。
「奈緒、実は……」
ほんのタッチの差であった。透が意を決して口を開きかけたところへ、新たな訪問者が現れた。
「君達、ここで何をしているんですか? 授業中ですよ?」
薄っすらとしか記憶にないが、確か彼は中学時代のクラスメートで、学級委員をしていた宮越だ。制服がブレザーになっても、学ラン同様、規定通りに着こなす几帳面さは昔と変わらない。しいて変化を挙げれば、黒縁眼鏡がメタルフレームに変わったことぐらいか。
「宮越、だよな? 学級委員の? 元気だったか?」
透の挨拶を無視して、宮越は奈緒のほうを向いて話を続けた。
「西村さん、僕は先生から君を探すよう頼まれて来ました。さあ早く教室に戻りましょう」
「でも……」
「皆が心配しています。真面目な君が無断で授業を欠席するはずはないと」
どうやら奈緒がいないことで、クラス中が騒ぎになっているらしい。
「悪りぃ、宮越。こいつに授業をサボらせたの、俺なんだ」
「やはり真嶋君でしたか。まったく君が関わると、昔からロクな事にはならない」
「だから悪かったって。今日のところは元クラスメートのよしみってことで、許してくれよ」
今日はたまたま機嫌が悪いだけだと思った。宮越とは特別仲が良かったわけではないが、いきなり嫌味を言われるほど険悪でもなかったはずである。透の記憶では、彼は世話好きな学級委員で、それ以上でも、それ以下でもない。
ところが次に宮越の口から飛び出した台詞で、己の記憶がいかに曖昧だったかを思い知らされた。
「真嶋君。良い機会だからハッキリ言わせてもらうけど、君の存在はとても迷惑だ。昔から無神経で、クラスの和を乱していた。問題児の君がまた戻って来て、実に不愉快だ」
「宮越……?」
「確かにうちの学校は、生徒の自主性を重んじる自由な校風だ。でも、その中にも秩序というものがある。
最近は余所から入って来た受験組のせいで随分乱されているけどね。それでも君よりはマシさ。彼等には最低限、人としての知性があるからね。
僕は不思議でしょうがないよ。なぜ君みたいな生徒が入学を許可されたのか。
ねえ、どうして今頃になって戻って来たのかな? 光陵学園に?」
「寝耳に水」とは、この事だ。親切な学級委員が、なぜ突然このような態度を取るのか。
あまりに唐突過ぎて冗談かと思ったが、眼鏡の奥から放たれた視線はぞっとするほど冷ややかだ。
「宮越? 俺、何かしたのか? 迷惑かけてんなら謝るから、正直に言ってくれよ」
「だから、いま言ったでしょ。君の存在そのものが迷惑だって。
テニス部の知り合いから聞いたよ。君はアメリカで所属のテニス部を追い出されたと言うじゃないか。天才テニスプレイヤーが聞いて呆れる。
皆は君が海外にいたというだけで勝手な妄想を抱いているようだけど、僕は騙されない。
アメリカにだって野良犬はいるし、治安の悪さは日本とは比べものにならない。野蛮な君がそこでどんな暮らしをしていたかなんて、考えなくても分かることさ。現に今だって……」
宮越が、奈緒と透を露骨に見比べてから、また続けた。
「出来れば、君のような人間には近付いて欲しくないね。彼女まで不良に染まってしまう」
恐らくは嫉妬の類だろう。昔は頓着なかったが、幸か不幸か、アメリカでの三年間で、他人が言葉の裏に忍ばせる本音の部分を少しは察知できるようになった。特に、嫌悪、憎悪、嫉妬など、人の心の闇がもたらす感情に関してはよく分かる。
宮越は奈緒に好意を寄せているに違いない。だから彼女と近しい人間に対し、穏やかならぬ感情を抱くのだ。
「宮越君、そんな言い方って……」
奈緒の制止を無視して、宮越が畳みかけてきた。
「真嶋君、僕は君が周りからどう評価されようと構わない。それが偽りだったとしても。だけど、西村さんを巻き込むのは止めてくれないか?」
「違うよ、宮越君。これは私が自分から……」
彼女の懸命なフォローを、今度は透が遮った。
「宮越の言うとおりだ。奈緒、授業に戻った方が良い」
「でも……」
透は手元にあった本の束から一冊を取り出すと、近寄ろうとする彼女の目の前にわざと突きつけた。
「本当は、授業をサボる口実が欲しかっただけなんだ。この本、今週中に全部読破しろって、先輩から言われている。
俺、こう見えても忙しくてさ。ここへ来たのも、別にお前と話をしたかったわけじゃない。
今は部活に集中したい。今日はそれを伝えに来たんだ。だから、もう行ってくれ」
初めて奈緒に嘘を吐いた。
嘘だけは吐きたくなくて、約束のエアメールの返事も出さずにいたのに。どんなに声が聞きたくなっても、連絡を取らずに我慢したのに。
ひと度偽りの言葉を口にすれば、彼女に対する想いまで偽りになるようで。だから、嘘だけは絶対に吐きたくなかった。
彼女の戸惑う視線を背中に感じたが、透は本を読み進める振りをした。意味もなくページをめくり、頭に入らぬ文章を見つめ、全身で嘘を吐き通した。彼女の足音が聞こえなくなるまで、ずっと。
二人分の足音が遠ざかり、校舎へ入ったと思われる辺りでパタリと消えた。それと同時に、先程とは異なる種類の罪悪感が押し寄せた。
無事に日本へ帰れたら彼女に告白すると、心に決めていた。それなのに、宮越にアメリカの話をされただけで怖くなった。
奈緒に「授業に戻れ」と言ったのも、彼女の為ではない。彼女の前で事実を明らかにされるのが怖くて、反射的に遠ざけた。
単に宮越は想像で話をしたに過ぎない。野良犬であるとか、不良であるとか。彼女に近付くべき人間ではないと言ったのも、テニス部を追い出されたという話からイメージを膨らませただけで、実態など知る由もないだろう。
自分のかつての居場所は、ジャックストリート・コートは、そんな言葉で済まされるようなお気楽な場所ではない。
「どうして今頃になって戻って来たのかな? 光陵学園に?」
嫉妬から漏れ出た言葉だと分かっていても、胸が痛かった。
自分は一体、何のために戻って来たのか。向こうでの出来事を全て打ち明け、彼女への想いを伝えるために戻って来たのではなかったか。
いや、違う。宮越の言葉で気がついた。
本当は彼女に告白することで、後ろ暗い過去を清算しようとしたのだ。エアメールの返事のように「全部消えちゃった」と言われたくて。
消せるはずもない過去に怯えた挙句、告白どころか、嘘を吐いて彼女を遠ざけた。自分の弱さに嫌気が差した。
「バカだよな……」
溜め息と共に仰いだ天窓には、桜の花びらが数枚貼りついていた。薄紅色に見えていた花びらは、思いのほか白かった。限りなく透明に近い、清らかな白だった。
はらはらと空を舞い、ゆらゆらと窓に落ちては、風に吹かれて飛んでいく。触れれば潰れてしまう花たちを優しく運んでいけるのは、同じような清らさを持つ風だけに許された特権なのかもしれない。
積み上げられた跳び箱に寄りかかり、透はいつまでも天窓を眺めていた。どんなに手を伸ばそうとしても届かない四角い青空を。
アメリカで透が荒れた生活をしていたことは、奈緒も薄々気づいていた。なかなか来ないエアメールの返事や、国際電話での会話から、何となく察せられた。
ただ心配はしても、問い詰めるような真似はしなかった。以前、幼馴染みの岬から透の向こうでの生活ぶりを聞かされたこともあり、彼が元気ならそれで良い。話したければ話すだろうし、そうでなければ触れずにおこう、と決めていた。
だが、宮越からアメリカの話をされた時の、あの悲しげな表情は――。
よほど辛い経験をしたのだろう。そして、それが心の傷としてまだ残っている。
言葉は時として暴力となる。宮越の心無い発言が、透をさらに傷つけた。
奈緒は、このまま透が心を閉ざしてしまうような、嫌な予感がした。
彼はあんな暗い顔をする人ではない。させておいてはいけない。やっと会えたというのに。
「ごめんね、諒ちゃん。部活の途中なのに」
放課後、奈緒は明魁学園近くのコーヒーショップに岬を呼び出した。
「構わねえよ。たぶん真嶋のことだから、こうなるんじゃないかと思っていた」
「どうして?」
「実はさ、向こうにいる時からお前に負い目があるっつうか。腰が引けてる感じがした」
「私に負い目?」
「健全とは言えねえ場所だった。あいつのいたストリートコートは。要するに、不良の溜まり場ってヤツ? いや、それよか、もっと物騒だ。
俺だって、あいつの知り合いじゃなきゃ、無事に帰れたか分かんねえよ」
「それで、どうして負い目なの?」
「まったく、相変わらず鈍臭せえな。
良いか? 例えば、自分が前科だらけの極悪人で、相手が婦警とか尼さんだったら、どんなポジティブな人間だって引くだろ、普通?」
岬は運ばれてきたオレンジジュースを一気に飲み干すと、出番のなかったストローを奈緒の目の前で「チッ、チッ、チッ」と振ってみせた。これは彼が兄貴風を吹かせたい時に出る癖で、手近なものが教師の指し棒のように使われる。
「トオルは極悪人じゃないもん」
「例えば、の話だ」
「私だって、悪いこと、いっぱいしているし」
「無理するな。お前の悪さなんか、せいぜい和紀のおやつを横取りしたとか、そんな程度だろ?」
「トオルは全然変わっていなかったよ? さっきも、私がケガしないように守ってくれて。
ちょっと乱暴なところがあるから誤解されるけど、本当はすごく優しくて、思いやりがあって……」
「あのなぁ」
岬が手にしたストローを片手でクシャッとへし折った。幼い頃から一緒にいるだけに、仕草一つで互いの胸の内は理解できる。
彼は今、部活動の最中に呼び出され、助ける義理のない男のために相談に乗ってやっている。それだけでも感謝されるべきなのに、くだらないのろけ話で腰を折るな ―― と言おうとしている。
自分とは正反対の幼馴染みの気性を察して、奈緒は慌てて話を先へ進めた。
「あのね、アメリカで何があったか、知りたいの。トオルの心の傷になるようなことがあったと思うんだけど」
「そう言われても、俺が知っていることは、前に話しただろ?」
「他に思い当たることない?」
「まあ、あんな場所ならヘビーな過去の一つや二つ、漏れなく付いてくるだろうよ。
だけど、中途半端な気持ちであそこにいた訳じゃないと思うぜ。中にいた連中も真面目に練習していたし、なりはヤンキーだけど、テニスに対しては真剣だった。
ああ、そうだ! 俺より詳しい奴を呼んでやる。ちょっと待ってろ」
しばらくしてコーヒーショップに現れたのは、目つきの鋭いイノシシのような形相の男。京極だった。
「ストリートコートのことは、こいつの方が知っているから。じゃ、京極。頼んだぜ!」
無情にも岬は奈緒の前にイノシシを置き去りにして、自分はさっさと学校へ戻っていった。
「す、す、すみません……ぶ、部活の……お邪魔して……」
初対面の人間とは上手く話が出来ない上に、お世辞にも愛想が良いとは言い難い京極を前にして、奈緒の思考も動きも停止した。
「で、何を聞きたい?」
ぶっきら棒な言い方は、決して悪意からではないと分かっているが、小心者を怯えさせるには充分な迫力がある。しかし、ここは勇気を振り絞り、透のために情報を引き出さなければならない。
奈緒は制服のポケットから携帯電話を取り出すと、透からもらったストラップをお守り代わりに握り締めた。
ストラップに付いているマスコット人形は、恋の願い叶えてくれるという触れ込みのネコ型キューピットの『メロリン』だ。イノシシの迫力には劣るかもしれないが、恋愛パワーを充電すれば、何とかなるかもしれない。
「あの……アメリカで何があったか、教えてください」
「聞いてどうする?」
「探したいんです。私に出来ることを」
「ない」
「でも、せめて事情が分かれば……」
「無駄だ」
「そんな……」
やはりネコごときのパワーでイノシシと対峙するには無理がある。女の涙を武器にするつもりはないが、極度の緊張と無力感とで瞼に熱いものが込み上げてくる。
「彼はあんな暗い顔をする人じゃないんです。私じゃ役に立たないかもしれないけど、何か出来ることがあればと思って……」
愚痴のような、本音のような。初対面の相手に思わず漏らした泣き言に、初めて京極が興味を示した。
「まったくゼロとは言ってねえよ」
「私に出来ることがあるんですか?」
「その『メロリン』の服、どこで手に入れた?」
「えっ、あの……?」
昔から鈍臭いと言われ続けた奈緒だが、今ほどそれを自覚したことはない。多くの疑問が一度に押し寄せ、何から考えて良いのか、分からない。
なぜ京極が『メロリン』の服に興味があるのか。それ以前に、透でさえ知らなかった『メロリン』を、イノシシ顔の怖い人がどうして知っているのか。
そもそも何の脈絡もないではないか。アメリカでの出来事を聞いているのに、その質問はどこへ飛ばされたのか。
頭の中で次々と疑問符が浮かんでくるが、思うように口が動かない。迫力に圧されたのもあるし、何を聞いたとしても却下されそうな気もする。
じっと答えを待つ京極との間に、長い沈黙が流れた。
「トオルと話す時も、こんなに間が空くのか?」
先に沈黙を破ったのは京極だった。
「いえ、そんなことないです。あっ、服……『メロリン』の服ですよね?
これは私の手作りなんです。『メロリン』の体に合うように細いレース糸を使って」
「見ても良いか?」
「は、はい、どうぞ」
「アンタ、見かけによらず器用だな。ボタンまで付いている」
「そこに注目してくださって、ありがとうございます!
ボタンに気づいてくれる人、あんまりいないんですけど、実はそこが一番苦労したんです。このサイズのボタンがなくて、ビーズを繋ぎ合わせて作ったんですよ」
「他の『メロリン』の服も作れるか?」
「出来ますよ。妹さんのですか?」
「いや、俺の」
服の話に熱が入って気づくのが遅くなったが、よくよく考えてみると、京極と手芸の話で盛り上がるのはどう考えてもおかしい。しかも彼は『メロリン』を持っているかのような口振りだ。
ここは突っ込んだ方が良いのだろうか。それとも触れずにおくべきか。
しばらく思案した後で、奈緒は恐る恐る切り出した。
「京極さん、もしかして『メロリン』をお持ちなんですか?」
「悪いか?」
「いえ、悪くはないですけど……」
悪くはないが、変である。強面の人ほど可愛いものを愛でる傾向にあるというが、それにしても可笑しすぎる。
「俺はこう見えても『メロリン』コレクターだ」
確かにそうは見えない。
今年のインターハイ出場最有力候補と噂される明魁学園テニス部を率いる強面の部長が、ネコ型キューピットの『メロリン』愛好家だと、誰が想像するだろう。しかも服に着目する程のこだわりようだ。
これまでの素っ気ない態度から一転して、京極の口調が滑らかになった。
「知っていたか? 『メロリン』の触角は、ハート型だけじゃなくてダイヤ型もあるんだぜ」
「そうなんですか?」
「最初は誰かに貰ったのが切っ掛けで、集め出したら止まらなくなってさ。微妙に違う所がコレクター心をくすぐられるんだよ、これが」
「は、はぁ……」
「この前も北海道の空港で富良野バージョンを見つけてさ。土産話のつもりで調べてみたら、夕張メロンと、まりもバージョンもあって、全部で三体買ってきた。今度見せてやる」
「あのう、お話し中、申し訳ないんですが……その最初に『メロリン』をくれた人って、女の人じゃないですか?」
「それが、どうした?」
京極は土産物屋のマスコットの類だと勘違いしているようだが、あくまでも『メロリン』の基本設定は恋の願いを叶えてくれるキューピットであり、女子高生の間でそれを男子に渡すという行為は、今やバレンタインの本命チョコと同じ意味を持つ。
「その人は、たぶん京極さんのことが好きなんだと思いますけど?」
「なんで?」
「だって『メロリン』は恋のキューピットですから」
「そうなのか?」
「お節介かもしれないですけど、せめて彼女に返事だけでもしてあげた方が……」
「そう言われてもなぁ」
「どうしたんですか?」
「覚えてねえよ。どんな奴に貰ったか」
失礼だと分かっていても、奈緒は京極の顔を凝視せずにはいられなかった。眼光鋭い形相から何でもそつなくこなすタイプに見えたが、こと恋愛に関しては恐ろしく抜けている。
大胆な間抜けっぷりを純粋と解釈すべきか。あるいは、興味のないことに労力を微塵も注ぎ込みたくない、合理性重視の人間か。
いずれにせよ、さっきまで彼の周りを覆っていた威圧感が、今の一言であっさり取り払われたのは事実である。
「アンタが俺なら、どうする?」
「その人を探します。返事、待っていると思うし」
「わざわざ『興味がない』と言うために?」
京極の口元が理不尽だと言わんばかりにへの字に曲がった。
その後、京極は三十分ほど自慢のコレクションの話をし、集めた『メロリン』のうち一体の服を奈緒が作ると約束すると、満足げな笑みを浮かべて帰っていった。
岬の話では、京極は透がアメリカへ転校してからも様子を気にかけ、機会あるごとに父親の出張に同行し、ストリートコートまで足をのばしていたという。きっと京極も透と同じで、口や態度は乱暴でも心根は優しい人だ、と奈緒は思った。
そして、彼が去り際に残した言葉がその確信をより一層深めた。
「あいつは、何でも白黒つけなきゃ気が済まねえ性分だ。それも自分がしんどい方につけちまう。
そういう男に惚れたんなら、黙って待っててやれよ。アンタ、勝利の女神だろ?」
「勝利の女神」がどういう意味合いで使われたのかは分からない。だが、彼が言わんとすることは伝わった。
照れ隠しもあったのか。京極は振り向きもせずに、しかし悠然と去っていった。その同じ高校生とは思えぬ後ろ姿が消えるまで、奈緒は頭を下げて見送った。